Tous les chapitres de : Chapitre 601 - Chapitre 610

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第601話

「たとえ離れても、君は永遠に未来の藤崎家の奥様という立場から逃れることはできないのよ」「まだわからないの?あなたが果たすべきものは、私たちの婚約なんかじゃない。男として背負うべき責任よ。多分……私たちは本当に一緒にいることに向いていないのかもしれない。どうかお幸せに」明日香は彼の手を振り払い、冷ややかに告げた。「婚約指輪、なくしてしまったわ。このお金は少しずつ返すから」「ごめんね……私、本当に行かなくちゃ」「ダメだ、明日香!」樹が一歩踏み出そうとしたその瞬間、両脚に激痛が走り、堪えきれずその場に膝をついた。「若様……」「樹……」南緒が駆け寄る。「パパ!」皆が一斉に樹へ手を伸ばした中、ただ一人、明日香だけは断固とした背中を見せ、振り返ることなく歩き去った。誰も知る由はなかった――この別れが、遥か長い再会までの旅立ちとなることを。そしてその頃、藤崎家もまた大きく変貌を遂げつつあった。明日香はすでにパリへ向かう途上にあった。いつ帰国できるのか、自分自身さえもわからない。おそらく……二度と戻ることはないだろう。珠子の交通事故は幸いにも命に別状はなく、内臓の損傷も見られなかった。ただ軽い脚の骨折で、一ヶ月以上の静養を経れば再び歩けるようになる見込みだった。遼一が、明日香が南苑の別邸を去ったと知ったのは、朝の九時。黒いアウディは道路を疾走し、アクセルを踏み込んで帝都国際空港へ最短時間で到達した。遼一は同じ番号に何度も電話をかけ続けた。しかし最初は呼び出し音ののち切断され、やがて応答もなく、最後には電源すら切られていた。「パリ行きの最速便は何時だ」空港の係員に詰め寄ると、淡々と返事が返ってきた。「たった今、二分前に離陸したばかりです。次の便は午後一時三十分になります」もし最初から、彼女が樹を選んだこと自体が誤りで、遼一との腐れ縁から逃れられぬ運命だったのなら――今回はいっそ、最初からやり直すべきなのかもしれない。誰も予想していなかった。明日香の今回の失踪が、誰一人としてその痕跡を見いだせぬものとなることを。夏休みが終わり、大学入試の結果が発表された。明日香は文理両科で最高得点を記録し、二位は成彦だった。各メディアがこぞって彼女の取材を試みたが、人々が耳にしたのはただ一つの芳しくない
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第602話

池のほとり、マリア像の下には、卒業を間近に控えた学生たちがスケッチのため集まっていた。「明日香ちゃん、この絵をコンクールに出したら絶対入賞するわ!」秋風が頬を撫で、明日香の肩にかかるショートヘアを揺らした。金色の陽光が白く透き通った横顔に降り注ぎ、白鳥のように細い首には銀色のネックレスがきらめいている。スケッチ鉛筆を握った手で耳もとの髪をそっと払うと、彼女は静かに答えた。「……ありがとう」二十二歳となった明日香は、四年の歳月を経て十八歳の少女の青さを脱ぎ捨て、成熟した落ち着きを纏うようになっていた。その一挙手一投足には、女性ならではの柔らかな趣が漂っている。そばで金色のロングヘアを揺らす女生徒が、悩ましげに首を振りながら焦りを帯びた声を上げた。「卒業制作の画集、絶対に完成できないよ。これで卒業が延びたら本当に泣いちゃう」「田崎教授も、あなたみたいに努力する学生がいて嬉しいと思ってるはずよ」明日香はやさしく言葉を添える。「でも……明日香ちゃんはここ数年でたくさん賞を取ったのに、私は……」女生徒の声は次第にしぼんでいった。「エイシャ、もう少し頑張れば、きっと仕上がるわ」明日香は根気強く励ます。午後、大学へ戻った明日香は、自身が最も気に入っている五点の絵を選び、卒業課題として提出した。今回は選ばれた作品に賞が授与されるだけでなく、最優秀賞には多額の賞金とともに、将来有望な就職先への道も開かれていた。卒業式と記念写真の撮影を終えると、明日香は就職活動を急がず、いつものカフェでのアルバイトへと向かった。ユニフォームに着替えると、同僚のライラが新聞を抱えて駆け寄ってきた。普段の彼女がこんなに嬉しそうな笑顔を見せるのは、客から多めにチップをもらった時ぐらいだ。「明日香ちゃん、見て!この男性よ!F国の『ル・ユニヴェル』に掲載された初めての東洋人なんだって!」ライラが有名な「顔フェチ」であることを知っている明日香は、思わず好奇心を抑えきれなかった。一体どれほどの美男子なら、彼女の瞳をここまで輝かせられるのだろう?実際、この数年、明日香は国内のニュースをほとんど追っていなかった。人づてに断片的な噂を耳にする程度にすぎない。「そう?じゃあ、私からもお祝い言っといて」彼女は淡々と答えた。「明日香ちゃん、冷た
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第603話

全国の無数の企業が次々と倒産していく中、遼一は果敢に数多くの海外企業を買収し、さらに数万人に新たな起業の機会を与え始めた。その動きは瞬く間に国際ニュースで取り上げられ、テレビでも大きく報道された。一夜にして「佐倉遼一」という名は国際的な脚光を浴び、世界中が彼の独自のビジネス手腕を目の当たりにすることとなった。それを目にした明日香の胸には、抑えきれない疑念が芽生えざるを得なかった。果たしてこれらは偶然の積み重ねなのだろうか。彼女の知る限り、倒産寸前で遼一に買収された企業の多くは、今後五年のうちに世界トップ五百に名を連ねるほどの大企業へと成長するはずだったのだ。当初は誰一人、遼一の買収劇を高く評価しようとはしなかった。だが、彼が富豪ランキングにその名を連ねたことで、人々はようやく悟る――この男は決して表面に見えるほど単純な存在ではない、と。「佐倉遼一」――その四文字は、まるで払いのけても消えぬ呪詛のように彼女の耳の奥で繰り返し響き続けた。たとえ遠い異国へ逃れたとしても、彼にまつわるニュースからは逃れられない。ここ数年にわたり彼の変貌を目にして、明日香は考えずにはいられなかった。前世の遼一もまた、生まれ変わってきたのだろうか。もし、それが事実だとしたら……突如、秋風が吹き込み、ズボンの裾から衣服の内へと忍び込み、明日香の手足を瞬く間に冷やした。全身に震えが走り、彼女は強く頭を振った。どうか、これはただの杞憂であってほしい――そう願わずにはいられなかった。午後のサービス研修。カフェのマネージャーが前に立ち、声を張り上げた。「来週の夜八時、ガーセル号豪華客船にて盛大なパーティーが開かれます。本社の人員が足りないため、明日香さん、ライラさん……あなたたち五人にはサービス業務を担当していただきます。パーティー終了後の給料は三倍計算、それに加えて特別報酬も支給されます。運が良ければ、多額のチップも期待できるでしょう」明日香は困ったように一歩前へ出て、頭を下げた。「すみません。来週は時間を取れそうにありません。師匠の個展があるので、遅れるわけにはいかないんです」マネージャーは既に知っていた。明日香の師が国際的に名高い芸術家であることを。そして彼自身、その画家のファンであることも。スーツ姿のマネージャーは快く頷き、明日香の欠席を了
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第604話

「正午十二時、桜庭家の遥様がランチをご予約されています。夜六時からは慈善晩餐会にご出席いただく必要がございます。また、五日後にP市で開催される重要なレセプションの招待状も、すでに社長室に届いております」エレベーターが九十九階に到着すると、三人はキャビンを出た。中村はそこで足を止め、隣の社長補佐オフィスへと向かう。遼一に付き従い、社長室に入ったのは葵だけだった。この四年間、葵は自らの手でこの男をピラミッドの頂点へと押し上げてきた。その間に藤崎グループは衰退し、今や遼一こそが帝都を支配する存在となっていた。彼女はコーヒーを淹れ、テーブルを回って遼一の前に置くと、机下のボタンを押して社長室のドアをゆっくり閉める。そしてためらいもなく、その膝に腰を下ろした。「……あなたが望んでいたものは、全部手に入れてあげたわ。こんなに長い年月が経ったんだから、そろそろ私への約束を果たしてくれてもいいんじゃない?」葵の指先が曖昧に遼一の胸をなぞる。その接近にも、遼一は眉ひとつ動かさず、冷ややかに言い放った。「どうやら最近の仕事は、お前を忙しくさせるにはまだ足りないらしいな」一瞬だけ不機嫌さが瞳にかすめたが、それ以上は表に出さず、彼女を突き放すこともしなかった。「今のセイグランツ社はまさに成長期。私の提示した方案に沿って進めば、あなたが得るものはもっと増えるわ」葵は食い下がる。「この四年間、まだ信じ足りないの?私だけが……あなたの隣に立つ資格を持っているのよ」その言葉を、遼一は否定できなかった。彼がいまの地位を築けたのは、葵の存在が大きい。まるで彼の心の奥まで見透かすかのように現れ、あらかじめ用意されたシナリオを手にしているかのごとく、彼の歩むべき道を指し示し、望むものを次々と現実にしていった。「葵。そこまで計算高く俺を支えておきながら、ただ『佐倉遼一の妻』という肩書きが欲しいだけだと?」遼一はふと俯き、指先で彼女の顎を持ち上げる。その赤い唇を見つめる眼差しは深淵のように暗く、容易に測り知れぬ光を宿していた。「他に何も企んでいないと、本気で俺が思うとでも?」「もちろん、それだけじゃないわ……」葵は両腕で彼の首に絡みつき、わざとらしく甘える声で囁く。「私は前世での遺恨を埋め合わせるために来たの。この世では、あなたの救世主であり、唯
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第605話

映像は鮮明とは言い難かった。だが、遼一の視線は何度も明日香の横顔に吸い寄せられ、しばらくのあいだ離れることができなかった。十数秒後、ようやく彼は目を逸らし、手にしていたタブレットを中村へ返した。「フレイテス氏に伝えろ。P市での宴には、予定どおり出席すると」遼一の声は、波ひとつ立たぬ静けさを湛えていた。「はい、社長」中村は恭しく頷いた。彼が去った後、遼一は隣にいる葵へと視線を移し、唇の端に含みのある笑みを浮かべて問いかけた。「どうした?俺があいつを連れ戻すのが、不満か」「やっぱり……あなたは彼女を忘れられないのね」葵は拗ねたように胸の前で腕を組み、恨みがましい声音で続けた。「私が言ったこと、もう忘れたの?前世で私たちを引き裂いたのは明日香なのよ。あの頃、私たちには息子だっていた。あの子さえいなければ、私たちが別れることもなかったのに」遼一は深く葵を見つめた。その瞳に映る感情は、偽りには見えなかった。しかし、葵が語る「前世」の話についてだけは、彼はいまだ半信半疑のままだった。生まれ変わりに前世の記憶を持ち越すなど、常識では荒唐無稽としか言いようがない。誰かが耳にすれば、葵を狂人と呼ぶだろう。だが、この数年の彼女の振る舞い、その一挙手一投足に込められた策略は、むしろ彼女の言葉を真実かもしれないと疑わせるに十分だった。遼一は漆黒の瞳を伏せ、無意識に指先で机の表面をなぞりながら、沈黙のうちに思案を巡らせていた。そしてやがて、重く口を開いた。「自分が生まれ変わったと言うなら、教えてもらおう。前世の俺はどうやって死んだ」その問いに、葵の瞳の奥に一瞬の動揺が閃いた。しかし彼女はすぐにそれを押し殺し、遼一を見つめ返す。その目には、悲哀の色がにじんでいた。彼女はゆっくりと掃き出し窓へ歩み寄り、声を詰まらせながら告げた。「毒殺されたの。あなたは五十五歳までしか生きられなかった……私たちが結婚したあと、明日香がひそかに毒を盛ったのよ。それから数年も経たないうちに、あなたは逝ってしまった。最後は、私ひとりで子を育て上げたわ。今世で私が戻って来られたのは、神様が私を憐れんでくださったから。若くして夫を失った私を哀れに思い、もう一度あなたのそばに戻してくれたの。私たちが再び巡り会えたのは運命の采配――天の思し召しだと
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第606話

今となっては、遼一の心の中ではすでに答えは出ていた。だが、葵が口にした「前世」の話は、四年前に明日香が病に伏していたとき語った内容とはまるで食い違っていた。あの時、もし明日香が自ら葵の名を口にすることがなければ、彼がわざわざこの人物について調べることもなかっただろう。明日香が前世で葵と知り合いだったというのなら――では、子供はどうなる。彼と明日香の子供だという、あの子は一体……遼一はそのことについて、ほとんど何も知らなかった。すべての糸が複雑に絡み合い、濃霧のように立ち込めて真実を覆い隠し、彼の視界を閉ざしていた。葵が語る真偽の定かでない話よりも、到底信じがたい言葉よりも、彼は明日香自身の口から、すべてをはっきりと聞きたかった。いまやセイグランツ社は半ば商業帝国と化していた。ここ数年でグループの規模は数百倍に膨れ上がり、証券、金融、不動産、エンターテインメント、医療など、あらゆる業界を網羅する多角的事業を展開し、その版図を広げ続けている。昼の十二時。予約通り、遼一は遥を昼食に迎えに行くことになっていた。彼が選んだのは、わざと控えめなアウディだった。それは四年前、頻繁に乗り回していた車であり、今ではほとんど使うこともなくなっていた。車のバックミラーには、銀色の懐中時計がひとつ掛けられている。裏返すと、背面には一枚の写真が収められていた。高校時代の明日香が黒い制服を着て撮った証明写真だった。写真の縁は少し擦り切れ、長年大切に保管されてきたことが伺える。信号で車が止まる。遼一はそっと手を伸ばし、写真の少女を指先で撫でた。その眼差しは深く、決して晴れることのない憂いを帯びている。四年だ。明日香、そろそろ帰ってきてもいい頃だろう。ガタン、と音がして、明日香は手にしていたスケッチブックを落としてしまった。彼女は慌てて身を屈め、それを拾おうとする。顔にははっきりと動揺の色が浮かんでいた。泰明が鋭い眼差しを向ける。その口調にはどこか咎める響きがあった。「どうしたんだ。最近ずっと上の空じゃないか。そんな調子でどうするつもりだ」明日香は画用紙についた水滴を慎重に拭った。先ほどスケッチブックを拾おうとした拍子に、手にしていた絵筆から水が跳ねたのだ。彼女は慌てて立ち上がり、俯いたまま謝る。「すみません、先生。昨夜あ
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第607話

明日の個展に備え、明日香は荷物をまとめて、借りている六十平米の2LDKのアパートへ戻った。いまの経済状況では、ルームシェアをするほか選択肢はなかった。ルームメイトのライラは、まだカフェで翌日のパーティー準備に追われており、帰宅はかなり遅くなるはずだ。昼食を簡単に済ませると、明日香は掃除を始め、午後六時までひたすら手を動かしていた。悩みがあるとき、彼女はこうして体を忙しくすることで思考を麻痺させ、抑えきれない想念に囚われるのを避ける癖があった。広くはないリビングは、やがて整然と片付けられ、まるで別の空間のように整えられた。午後六時ごろ、階下に下りた彼女はスーパーと市場へ夕食の買い出しに出かけた。料理はわざと多めに作り、食べきれない分は冷蔵庫に入れる。ライラは明日香の手料理が好きで、夜中に小腹を満たす癖があるため、残り物は格好の夜食となるのだ。一日はあっという間に過ぎ、気づけば窓の外は闇に包まれていた。身支度を終え、白湯を一杯口にし、睡眠薬を二錠飲んで、彼女は深い眠りへと沈んでいった。その頃、あるプライベートジェットの機内。中村はF国側から届いた報告を細かく読み上げ、遼一に伝えていた。「F国現地の私立探偵事務所に依頼し、調査を通じて動画の撮影者を突き止めました。撮影者の証言によれば、あの日、ムードン公園で確かに美術大学の学生が写生をしていたとのことです。数分前、P市美術大学から卒業予定者の名簿が届きましたが、その中にお嬢様のお名前がございました。また、お嬢様はこの四年間、奨学金と『ノーマン』というカフェでのアルバイトで学費と生活費を賄っていたことも判明しました」彼は書類の一部を差し出した。「こちらがP市でのお嬢様の住所と連絡先になります……」遼一は中村からファイルを受け取った。そこにはここ数年の学業記録や生活の詳細が記されており、受賞歴の欄には大小さまざまな賞が並んでいた。公的資料に混じって、探偵が密かに撮影した写真も数枚挟まれている。一枚目はアトリエでの姿だった。白いタートルネックのセーターを着て、肩にかかるほどの黒髪を揺らしながら、窓から差し込む光に照らされている。その整った顔立ちには穏やかな陰影が落ち、満ち足りた日常を思わせる柔らかさが漂っていた。二枚目は帰路を歩く後ろ姿。薄手のトレン
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第608話

中村には、どうしても理解できなかった。遼一は今や、紛れもなくすべてを手にしている。それなのに、なぜそこまでして明日香を探し出そうとするのか。彼はすでに月島家から完全に独立しており、明日香の存在があろうとなかろうと、大きな意味を持つとは思えない。仮に彼女がこの世から消え去ったとしても、遼一の人生に何の支障もないはずだ。願わくば、この件で余計な火種を抱え込むことがないように。さもなければ、明日香の出現はただの懸念材料にしかならないだろう。八時間のフライトを終え、プライベートジェットはP市に到着し、ソフィール七つ星ホテルの専用駐機場に滑り込んだ。彼らを待ち受けていたのは、ホテル最高級の歓待だった――無論、遼一がこのホテルの筆頭株主の一人だからにほかならない。チェックインを済ませた後、ホテルのマネージャーが恭しく一枚のチケットを差し出した。「遼一様、こちらがご所望の絵画展のチケットでございます。展覧会は正午より開幕いたしますので、あと三時間ほどございます。朝食のご用意も整っておりますが……」「遼一様、どうぞこちらへ」傍らの中村が、この機に乗じて今後の予定を報告した。「今回の美術展が終わりましたら、当初のご予定通り半月ほどご滞在いただきます。その間、海外の著名テクノロジー企業数社が提携協議を希望しており、明後日にはお目通りいただく手筈になっております。さらに、大規模なチャリティーオークションにもご出席を……」だが遼一は、グラスの水を口に含んだまま、無造作に遮った。「滞在期間を半年に延長しろ」思わぬ指示に中村は目を見張った。「半年、ですか?さすがに長すぎるのでは……国内の会社にも、社長のご決裁を仰ぐ案件がまだ山ほど残っております」「俺の言う通りにしろ」その声音に、交渉の余地は微塵もなかった。中村は口をつぐみ、わずかに眉を曇らせながらも「……承知しました」と答えるしかなかった。まさか、これも明日香のためなのか。そう直感したが、表情に出すことなく、それ以上は一言も口を挟まなかった。一方その頃、美術展の会場。「くしゅん――」明日香は額縁を丁寧に拭いていたが、唐突にくしゃみを連発した。まぶたの痙攣はさらに頻発し、胸の奥に得体の知れない不安がじわじわと広がっていく。その様子を見て、良平が白湯の入ったカップを差
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第609話

泰明と美術館の館長が会議室から姿を現した。館長の傍らには、黒のスーツに身を包み、ソフト帽を目深にかぶった紳士が寄り添っている。手には黒檀のステッキを携え、洗練された立ち居振る舞いには、どこか優雅な気配が漂っていた。泰明が明日香を自分のそばへと呼び寄せ、紹介すると、ルイス館長はすぐに彼女の手を取り、その甲に軽やかに口づけた。「明日香さん――あなたのお名前は、田崎教授からよく伺っております。きわめて才能豊かな画家だとお聞きしました。こちら、私の名刺です。将来アトリエを開くご予定で、もし資金面でのご支援が必要でしたら、どうぞ遠慮なくお訪ねください」明日香はまず田崎教授に視線を送り、彼が穏やかにうなずくのを確かめてから名刺を受け取り、柔らかな微笑みで応じた。「ルイスさん、褒めすぎです。私に才能なんてありません。ただ、人より少しだけ努力を重ねてきただけです」「ご謙遜を」ルイスは愉快そうに笑い、首を振った。「あなたの作品は拝見しましたが、確かに水準は非常に高い」「……ありがとうございます」明日香は小さな声で礼を述べた。その後、泰明は会場の運営をすべて明日香に任せ、自らは参加予定のインタビューへと向かうため、席を外した。ルイス館長と共に去っていく二人を見送り、明日香はようやく小さく息をついた。階下には当面対応すべき来客も少なかったので、彼女はコーヒーを三つ盆に載せ、二階の展示ホールへと足を運んだ。そこに並ぶのはすべて西洋風の作品で、千奈、良平、俊明の三人によるものだった。一方、かつて明日香が受賞した作品は、一階の最も目立つ場所に飾られている。階段の踊り場に差しかかったとき、三人の声が耳に届き、彼女は思わず足を止めた。俊明の苛立った声が響く。「二階なんて人っ子ひとり来やしねえ。俺たちがまだここに残ってる意味あるのか?さっさとホテルに帰ってゲームでもしてた方がマシだろ。下のエリートどもは、明日香ひとりで相手できるさ。下手すりゃ運よくどっかの金持ちに気に入られて、そのまま玉の輿にでも乗るんじゃねえのか?あんな美人に生まれたんだ、教授だって俺たちの見た目が冴えねえから、連れ歩くと恥をかくと思ってんだろ!」「俊明、それが人間の言葉か!」良平の声は、すぐさま怒気を帯びた。「その台詞を明日香が耳にしたら、どれだけ落胆するか考えたこ
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第610話

俊明は廊下の人影にちらりと目をやると、まるでやましいことでもあるかのように椅子から飛び上がり、足早に明日香のもとへ駆け寄った。彼は甲斐甲斐しく彼女の手からコーヒーを受け取り、笑顔を向けた。「明日香さん、こんな雑用を君に任せるわけにはいかないよ。教授からは下でお客様の対応をするように言われていたはずだ。どうして上がってきたんだ?」明日香は微かな笑みを口元に浮かべ、平然と三人に告げた。「先生はもう行かれました。国際ニュースの記者の取材を受けにね。どなたか、下で私の代わりをお願いできないかしら。もしかしたら、たくさんの名士と知り合えるかもしれないわ。この後、私用事があるので、受付はあなたたちにお願いすることになるかもしれません」俊明は不思議そうに眉をひそめた。「明日香さん、まさかまたカフェでバイトするんじゃないだろうな。ここ数年でたくさん賞を取ったんだろう?賞金だってかなりの額のはずだ。どうしてわざわざそんなことを?」明日香はさらりと言った。「お金は、全部寄付したわ」その言葉に、三人の視線は一斉に驚愕で彼女へと注がれた。「正気か……」俊明は思わず漏らした。明日香はそれ以上説明せず、淡々と微笑みながら告げた。「私は荷物をまとめに行くわ。あなたたちは早く下へ行きなさい。下にはまだお客様がたくさんいるから、大物と知り合うチャンスを逃さないで。先輩方、しっかり掴んでね」突然、千奈が立ち上がり、敵意のこもった目で明日香を睨みつけ、鋭い口調で吐き捨てた。「ここでいい子ぶるのはやめてちょうだい!何を自慢したいのよ。どんな手を使って教授に弟子入りさせてもらったのか、知れたもんじゃないわ」明日香は何も言わず、その場の張り詰めた空気が解けぬまま、美術館下の階から突然響く得体の知れないどよめきに耳を向けた。心身ともに疲れ果てていた彼女は、これ以上の言い争いに関わる気力もなく、背を向けてまっすぐ休憩室へと向かった。良平の視線は、明日香の後ろ姿を追い続けていた。俊明の「彼女のことが好きなんだろ」というからかいの言葉が頭をよぎり、まだ完全には我に返れていない。彼は千奈の方へ向き直り、眉をひそめて言った。「千奈、さっきのは少し言い過ぎだ」そう告げると、良平は俊明とともに階下へ降りていった。美術館のホールでは、どこの
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