All Chapters of 佐倉さん、もうやめて!月島さんはリセット人生を始めた: Chapter 661 - Chapter 670

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第661話

仕立てのよいスーツを纏い、全身から気品と威圧を漂わせながら遼一がゆっくりと歩み寄ってくる。その姿を目にした瞬間、明日香の身体は硬直し、無意識のうちに一歩後ずさった。その拍子に、肩に掛けていたショールが滑り落ちる。「あなた……全部、聞こえてたの?遼一、私、狂ってなんかない。本当に母さんに会ったのよ」遼一は無言のまま屈み、床に落ちたショールを拾い上げた。軽く埃を払うと、それをソファの背にかけ、代わりに自分の上着を脱いで彼女の肩にそっと掛けた。指先で明日香の耳元にかかる髪を整え、次の瞬間、彼女を腕の中に引き寄せる。「……帰りたいなら、帰ろう。明日にも帝都へ帰れるよう、中村に手配をさせるから」遼一の胸に頬を寄せると、規則正しく刻まれる心臓の鼓動が、肌越しに伝わってきた。だが、なぜ彼が突然心変わりしたのか、明日香にはわからなかった。夜空を見上げたとき、不意に鼻先をかすめたのは、自分のものではない香水の匂い。胸の奥から拒絶の感情がこみ上げたが、彼を突き放す力は残っていなかった。言葉だけの慰めだと思っていた。だが、彼は本気だった。翌朝八時、まだ眠りの淵にいた明日香を遼一は抱き上げ、そのままプライベートジェットへと乗り込んだ。夢と現実の境目にいる明日香が、彼の膝に寄りかかると、男は穏やかに微笑み、長い髪を指先で梳いた。「最高の心理カウンセラーを手配いたしました。本日中に帝都へ到着します」傍らの中村が報告すると、遼一は小さく頷いた。「わかった」その声は低く、艶を帯び、機内の静けさに溶けていった。ふと、耳元をくすぐるような感覚に、明日香は身をよじった。次の瞬間、はっと目を見開く。窓の外に広がるのは、どこまでも続く白い雲海。自分が飛行機の中にいる。「出発したばかりだ。夜の六時には着く。急ぐことはない、先に何か食べろ」遼一がトレイを差し出す。明日香はシートにもたれ、膝から滑り落ちたブランケットを直しながら、かすかに笑った。「ありがとう。でも、あまりお腹が空いてないの」彼の視線を避け、ただ窓の外を見つめる。「言うことを聞かないなら、今すぐこの飛行機を着陸させることもできる」遼一の声には、有無を言わせぬ響きがあった。「……わかったわ」明日香は小さくため息をつき、食欲のないままスプーンを手に取り、無理やり口に
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第662話

母の存在は、明日香にわずかながらも生きる希望を与えてくれたようだった。それが幻であり、偽物だとわかっていながらも――明日香はその非現実の温もりに、身を委ねてしまいたいとさえ思っていた。母の顔ははっきりとは見えなかったが、耳の奥ではいつも、あの懐かしい声が柔らかく響いていた。「それに、あの牛乳も……何も入ってないってわかってたのに……」明日香の瞳にはまだ涙の名残があり、赤く腫れた目元は痛々しいほど脆く見えた。「だけど、それが私に残したトラウマはあまりにも残酷で、向き合うことも、割り切ることもできなかった。だから全部、胸の奥にしまい込んで、その代償を黙って受け入れるしかなかったの。昔起こったこと、全部覚えてる……遼一、私、あんたを殺したい!毎回そう思うのよ……」心に沈めていた憎しみを、明日香は隠すことなく吐き出した。だが遼一は眉ひとつ動かさず、ただ静かに彼女を見下ろしていた。その姿には、明日香の怒りなど脅威とも感じていない余裕が滲んでいた。彼は無言で明日香を抱き上げ、休憩用のベッドへと運び、「しっかり眠れ」と短く言った。明日香が眠りに落ちると、遼一は隣室へ移り、立て続けに煙草を吸い続けた。灰皿には吸い殻が山をなし、室内は息が詰まるほどの煙に包まれていた。中村が彼を見つけたとき、部屋には焦げたような匂いが立ちこめていた。中村は息を潜めて近づき、慎重に報告した。「遥さんが社長のご帰国を知り、お嬢様にお部屋を手配いたしました。家具の配置は以前と同じように整えております」「明日香を桜庭家に戻す必要はない。俺が手配する」遼一はその言葉を遮るように低く言い放った。「遥に伝えろ。当面、桜庭家には戻らないと」中村は恭しく頷いた。「かしこまりました」帝都に到着したとき、夜はまだ浅かった。何年も帰らなかったその街はすっかり姿を変え、空港は改装され、明日香が去ったあの日の面影はどこにもなかった。二人は専用通路を抜ける。すでに秋も深まり、夜風には冷たさが混じっていたが、車内は暖かく保たれ、空調の音が静かに響いていた。遼一がどこへ向かうのか、明日香には見当もつかなかった。窓の外に広がる帝都の街並みを見つめる。かつて低く並んでいた建物は高層ビルへと変わり、車は滑るように走り続けた。三十分ほど経ったころ――こ
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第663話

遼一が当時、低価格で会社を買収した資金――その出どころは、実のところ桜庭家であった。あの年、株式市場はかつてない激動の渦に巻き込まれ、帝都随一の名門・藤崎家すらも崩壊の危機に瀕していた。ましてや、藤崎家に遠く及ばぬ桜庭家がその波を免れるはずもない。市場の狭間で生き残りを賭けた中小企業の多くは、最終的に破産を宣告するしかなく、桜庭家もまた、かつてないほどの危機に立たされていた。物語は、二年前へと遡る。遼一は桜庭家を訪れ、静乃と対面した。静乃は、遼一という男がビジネスの場では決して前に出ず、しかしその裏で確かな野心と能力を隠し持つことをよく理解していた。藤崎家がスカイブルーを支援する以前から、彼は既に頭角を現しており、その名は帝都中に知られていた。引き抜きを試みる者は後を絶たなかったが、彼は表向きには月島康生に忠実な「飼い犬」であり続けた。だが、その従順さの裏に潜むものが何であるか――狼のような野心を、静乃は見抜いていた。彼が狙うのは、月島家という「王国」そのもの。そんな男を傍に置けば、誰であれ、警戒せずにはいられないだろう。「口を開けば三百億だなんて、ずいぶんと欲の深いことね」静乃は、わずかに唇を歪めて言った。「遼一、あなたが月島康生の養子であることはさておき、正直に言うと、私はあなたを評価しているわ。桜庭グループにも、あなたのように血筋に恵まれず、己の力で上り詰めた者は少なくない。今の地位まで辿り着いたのだから、それだけの才覚はあるのでしょう」彼女は一拍置き、声を鋭くした。「今日あなたに会ってあげたのは、ただ遥の顔を立ててのこと。それ以上でも以下でもないわ」そう言うと、ドアの方を指さした。「今すぐ、この家から出て行きなさい」そして隣に控えていた遥を、射抜くように睨みつけた。「あなたも部屋に戻りなさい。今日のことは、後でしっかり話をするわ」遥は慌てて一歩前に出た。「お母さん……どうして彼を一度でも信じてあげられないの?三百億は確かに大金だけど、桜庭家なら、かき集めればなんとかなるはずよ!」バシッ。鋭い音が室内に響いた。静乃の手が、反射的に娘の頬を打っていた。幼い頃から大切に育ててきた娘に、手を上げることなどほとんどなかった。これが数えるほどの一度だった。「どうかしてるの?あ
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第664話

遼一はポケットからタバコの箱を取り出し、一本を唇に挟んで火をつけた。白い煙が静かに立ち上り、空気の中でゆらめく。「過程なんてどうでもいい」彼はもともと喫煙者ではなかった。だが明日香が去って以来、タバコを手放せなくなった。ニコチンの苦味に溺れ、やめようとしてもやめられない。もはや完全な中毒だった。「あなたが……片岡達哉を殺したの?」静乃の声が震えた瞬間、遥も息を呑み、驚愕の眼差しを遼一へ向けた。遥は遼一と関わるうちに、彼の体の奥に無数の秘密が潜んでいることを感じ取っていた。その不可解な深淵こそが、彼女を抗えぬほど惹きつけていたのだ。一度その魅惑に囚われたら、もう抜け出すことなどできない。「桜庭夫人、殺人の告発に必要なのは証拠です。根拠のない言葉は慎まれた方がよろしい」遼一は静かに、しかし揺るぎない口調で言った。「俺が今日ここに来たのは、金の話をするためです」その油田開発権こそ、彼の手にある最大の切り札だった。桜庭家の事業は多岐にわたっていたが、唯一の弱点が石油関連だった。当時、桜庭家は片岡家との提携を目前にしていたが、達哉の収監により計画は頓挫した。もし今日、遼一がこの契約書を提示していなければ、静乃は彼の手腕が自らの想像をはるかに超えるものだと気づくことはなかっただろう。この男、底知れない。もし帝都の支配者となれば、その未来は想像を絶する。この油田は十億ドルを優に超える価値を持ち、長年にわたり片岡家が狙い続けてきた案件だった。だが、その甘美な利権がまさか外部の男の手に渡るとは、誰が想像できただろう。静乃の心が大きく揺らぐ。商人は利益に忠実だ。彼女もまた、その例外ではなかった。「桜庭夫人、よくお考えください」遼一の声音には、どこか人を導くような響きがあった。静乃は細めた目で彼を見据え、なおも警戒を解かずに問う。「これほどの大口取引を、なぜ桜庭家に?銀行にでも担保を差し入れれば、三百億どころではないでしょう」「俺がそうしないのは……当然、俺自身の欲があるからです」遼一は挑発的に微笑み、軽く顎を上げた。「それとも、奥様には、俺と賭ける勇気がおありでない?」「この取引がどれほどの危険を孕んでいるか、あなたは理解しているの?失敗すれば、あなたはすべてを失うのよ!」「俺は、確信のないこと
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第665話

遼一と遥の婚約パーティーは、意外なほど控えめなものだった。新聞の社会面に小さく掲載されたものの、すぐに他社の倒産報道にかき消され、人々の記憶にはほとんど残らなかった。資金を手にすると、遼一は冷徹な計算のもと、最低コストで不動産、金融証券、さらには各種産業の倒産寸前の企業を次々と買収していった。嵐が過ぎ去るやいなや、彼は迅速にリソースを統合し、新たに「セイグランツ社」を設立する。わずか三年――セイグランツ社は資金調達と上場に成功し、その時価総額と株価はうなぎ登りに上昇。かつて帝都で隆盛を誇った藤崎グループをも凌駕した。三百億という元手は、彼の手で十倍以上に膨れ上がり、遼一自身もまた、一躍帝都の新興富豪として名を轟かせることとなった。遥がF国に現れた瞬間、明日香の胸には微かな違和感が走った。どこかが、決定的におかしい。滑稽だ。遼一はすでに遥と婚約している。それなのに、なぜ自分に手を伸ばす?自分は何者なのだ。前世の葵と、いったい何が違う?今の自分は、人の家庭を壊す泥棒猫なのか?そして遥は、あの時の自分と同じ、哀れな立場に堕ちるのか。明日香は二人の視線を避けるように会場を離れ、部屋へ戻ると、糸が切れたように床へ崩れ落ちた。体の震えが止まらない。手足に力が入らず、息をすることさえ苦しかった。遼一は結局、変わらない。あの人の浮気癖は、永遠に治らない。階下から激しい口論の声が響いてきた。明日香は半ば錯乱状態で耳を塞ぎ、何も聞きたくなかった。この汚らわしい関係、この吐き気を催す現実。思わず喉の奥が熱くなった。どれほど時間が経ったのだろう。静まり返った廊下に、靴音が響く。明日香はとうにドアの内側から鍵をかけていた。遼一が入ってこられるはずがない。そう信じていた。だが、突然、「ドンドンドン」という激しいノック音が鳴り響く。明日香はベッドの端に手をつき、立ち上がると、怒りに任せてテーブルの上の置物を掴み、ドアめがけて投げつけた。「出ていけ!うるさい!消えて!」鈍い音とともに、ドアの表面にへこみができた。ノックはやんだ。しかし、遼一が去った気配はない。「ここにはもう誰もいない。俺たちだけだ」低く冷たい声が、ドア越しに響いた。明日香の胸が激しく波打つ。「あなたの話なんか聞きたくない!本当に吐き気が
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第666話

使用人はためらいがちに口を開いた。「それは奥様が一生懸命にご用意なさったお食事です。すべて捨ててしまうのは、あまりにももったいないのではないでしょうか……」遼一の視線が鋭く細まり、空気が一瞬で凍りついた。使用人はその冷たい眼差しに怯え、それ以上は何も言えず、おとなしく階下へ降りていった。やがて、元の料理をすべて廃棄した。その後、四人の家政婦たちが慌ただしく動き回り、一から料理を作り直した。テーブルには再び、手の込んだ皿が並べられていった。遼一が明日香に砂糖湯を半分ほど飲ませると、彼女はようやくゆっくりと目を開け、見慣れた天井をぼんやりと見上げた。「まだどこか、具合が悪いのか?」遼一が静かに尋ねる。明日香は三十秒ほど沈黙したあと、かすれた声で言った。「……あなたが私をどう思っていようと、もう終わりにしましょう。明日には引っ越すわ」遼一は目を細め、その瞳の奥に底知れぬ漆黒が広がった。「俺が許さないことくらい、分かっているだろう。現実を受け入れるのが嫌なのか?もう誰にも邪魔はさせない。俺以外、誰一人としてお前に近づけさせない」「私を死に追いやりたいなら、やってみなさいよ!私を狂わせたら、遼一、何でもしてやる!殺してやる!本当に殺してやる!」明日香は叫び、感情が爆発したように震えていた。だが遼一は、何事もないように手を伸ばし、明日香の額を撫で、髪をそっと撫でつける。「お前が元気になったら、好きなことをすればいい。絵を描きたいならアトリエを用意してやる。な?何をしてもいい」今夜の遼一は、現実離れしたほど穏やかで優しかった。「まだ分からないの?一生、あなたなんて受け入れない!」明日香はきっぱりと言い放つ。「他の人と結婚する方がましよ。あなたと一緒になんて、絶対に嫌。もし少しでも責任を感じるなら、遥のところに戻って、彼女を大切にしてあげて。彼女の気持ちを裏切らないで」そう言い終えると、明日香は顔を背け、目を閉じた。もう彼とは一言も交わしたくなかった。遼一は、すでにどうするかを決めていた。誰が何を言おうと、その意志が変わることはない。明日香もまた悟っていた。自分には、もはや定められた運命を受け入れるしかないのだと。遼一の薄情さ、冷酷さ、そして裏切り。それらはすでに彼女の心の奥に棘として深く刺さっ
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第667話

ネット上には、藤崎家に関する最新の情報が一切なかった。それどころか、彼らの動向は四年前の記事を最後に止まったままだった。その静寂こそが、明日香の胸にざわつきを生んだ。携帯を握る手に、無意識に力がこもる。どうか、ただの思い過ごしであってほしい。明日香はそう祈るしかなかった。あれから幾年も経ち、明日香と藤崎家は、もはや赤の他人も同然の存在になっていた。たとえ街中で偶然すれ違っても、ただの見知らぬ人として通り過ぎるだけだろう。それでも明日香が胸を締めつけられるような不安を覚えるのは、遼一が藤崎家に何らかの報復を仕掛けるのではないかという予感のせいだった。あの男は、どんな些細な恨みも決して忘れない。かつて樹にスカイブルーを奪われ、社長の座を追われた。遼一の性格からすれば、復讐は時間の問題だ。明日香は、そんな報いの瞬間を見たくなかった。なぜなら、樹は無実だったからだ。ましてや、生まれ変わった葵が遼一と手を組んでいるとしたら。手段を選ばない二人のこと、かつての帝都の秩序を根底から塗り替え、すべての権力をその掌の中に収めるのも、そう遠い話ではないだろう。遼一の野心は、あらゆるものを呑み込む巨大な蛇のようだった。一方その頃、遼一は手元のタブレットから、部屋の明日香の一挙手一投足を監視していた。彼は無表情のまま電話を取り、使用人に命じる。「夕食の準備ができたら、二階へ運べ」しかし、明日香はほとんど口をつけなかった。食欲がなく、数口だけ無理に食べただけだった。屋敷の使用人たちは皆、明日香の機嫌を損ねるのを恐れ、遠巻きに見守るしかなかった。明日香が入浴を終え、休もうとしていたとき、廊下の外から小声の会話が聞こえてきた。「ねぇ、中の女って誰?奥様、あんなに優しかったのに、あんな怒るなんて」「さあね。旦那様の愛人なんじゃない?じゃなきゃ奥様だって、あそこまで怒らないでしょ」「ほんと。普段この屋敷は奥様が全部仕切ってたのに。家具も心を込めて選んで、家事までご自分でなさってたのに……今じゃ、ぽっと出の女に全部持ってかれてるわ」「しっ、声が大きい。中の人、まだ起きてるかもしれないよ」「じゃあ早く行こう」足音が遠ざかっていく。明日香は呆然とベッドに腰を下ろした。髪の先から滴り落ちる水滴が、シーツに
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第668話

遥という「奥様」でさえ、書斎に自由に出入りすることは許されていなかった。その言葉を聞いた明日香は、胸の奥でそっと安堵の息をついた。絵が処分されていないのなら、それだけで十分だった。あの絵の多くは、母が遺してくれた何よりも大切な思い出のかけらなのだから。考えるよりも先に体が動き、明日香は急いで階段を駆け下りた。まず二階の主寝室の扉を開けてみたが、中はがらんどうで、何一つ残されていなかった。次に遼一の部屋へ向かうと、ようやくそこに目当ての絵を見つけた。白い布をかけられ、埃一つなく、完璧な状態で保存されていた。明日香は震える指先でその布をなぞった。そこに触れた瞬間、胸の奥に温かいものがこみ上げてくる。これらは彼女にとって、かけがえのない宝物だった。彼女は絵を一枚ずつ丁寧に自室へと運び戻した。もともと自分のものなのだから。だが部屋を出た途端、二人の使用人が慌てて彼女を呼び止めた。「お嬢様、申し上げましたでしょう?これらには触れないでくださいと!」明日香は冷ややかに言い返した。「私も言いましたよね。これらは元々私のものです。持ち帰るのは当然でしょう」その言葉に、片方の使用人が堪え切れずに鼻で笑った。「何を言ってるんだか!どうせ妄想に取り憑かれて、頭がおかしくなってるんだろ!」「言い争ってる暇なんてないわ、先に絵を取り上げましょう!」二人が一歩踏み出したその瞬間、黒いスーツに身を包み、Bluetoothイヤホンをつけた二人のボディガードが大股で階段を上がってきた。彼らは無言で使用人たちの腕を掴み、そのまま階下へ引きずり下ろす。ひとりが明日香に向き直り、恭しく頭を下げた。「社長のご命令です。こちらの品々はすべて、お嬢様のご自由に処分なさって構いません」階下へ連れて行かれた使用人たちは、呆然と立ち尽くしていた。弁明の言葉を口にしようとしたが、その前に淡々と「解雇です」と言い渡された。「な、なんでですか!私たちは何もしていません!どうして理由もなくクビに――!」ボディガードの一人が冷たい眼差しで言い放つ。「ご主人のご決定です。それから、忠告しておきます。主従の分をわきまえなさい。この屋敷は月島家の所有物。そして、二階のお方は月島家の御令嬢です。今後、もし御令嬢に対して無礼な言動や不敬な態度を取った場合
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第669話

静乃は、アシスタントが運んできた紅茶をゆるやかに口へ運びながら、上品な微笑を浮かべていた。「明日香が戻ってきたそうね。それで、遥を南苑の別荘から追い出したとか?私があの子をあなたに託したというのに、これがあなたの彼女に対する仕打ち?その地位に就けたのが誰のおかげだったか、まさか忘れたとは言わないでしょうね」遼一はまっすぐ執務机へと歩み寄り、手にしていた書類をデスクの上に無造作に放り出した。「桜庭夫人のお言葉、肝に銘じております。恩を仇で返すような真似は致しません。ですが、奥様がここにお越しになったのは、そのような話をされるためではないはずでしょう」椅子に腰を下ろした遼一は、節くれ立った指先でネクタイをゆるめ、落ち着き払った表情で静乃を見上げた。「いつまでも『桜庭夫人』『桜庭夫人』と他人行儀な呼び方はやめなさい」静乃は冷ややかに笑った。「桜庭家の婿養子のくせに、目上の者に対する敬意も知らないのかしら。そろそろ私のことを『お義母様』と呼んだらどう?」そう言って彼女はティーカップを置き、静かに立ち上がると、遼一の目の前に歩み寄り、赤地に金箔をあしらった一冊の小冊子を差し出した。「これは私が作成した、一か月後の披露宴の招待客リストよ」遼一の口元に、皮肉を含んだ鋭い笑みが浮かぶ。彼は片手でそのリストを開き、ページをめくる。視線の先、最初に記された名前は「月島明日香」だった。遼一はゆっくりと手を引き、小冊子をパタンと閉じた。「桜庭夫人は、もっと賢明な方だと思っておりましたが……」静乃の顔から血の気が引き、代わりに冷たい光が宿る。「あなた、四年も引き延ばしてきたのだから、そろそろ昔の約束を果たしてもらうわ。私たちが契約書を交わしたことを、お忘れではないでしょうね」「もはや昔とは状況が違う。その契約書とやらが、今の俺にまだ通用すると思っておられるのですか」静乃の手が机を打った。「遥との結婚を反故にするつもりなのね、遼一!あの子が七年もあなたを想い続けてきたことを知っているの?七年も飼えば、犬だって主人に忠実になる。あの子はあなたを愛していたのよ!ただの他人に七年もの時間を費やすわけがない!あの子は、私のたった一人の、大切な娘なのよ!それをよくも平然と!」遼一は静かに足を組み、煙草を取り出して火をつけた。
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第670話

そう言った途端、明日香の携帯が鳴った。着信画面に表示された名前を見て、明日香は一瞬ためらいながらも応答ボタンを押し、やや刺々しい声で言った。「三日の猶予って言ったじゃない。まだ時間だって経ってないのに」「彼女に会いに行きたいなら、まず会社に来て会議が終わるのを待っててくれ。午後、俺が一緒に行く」「付き添ってもらう必要なんてないわ。私一人で行ける」「行くのをやめるか、俺と一緒に行くか。どっちか選べ」遼一の声は一瞬で冷え切った。他に選択肢など、初めからなかった。明日香は唇をかみ、静かに折れた。「……会社の階下で待ってるわ」余計な摩擦を生みたくなかった。朝のうちは青空が広がっていたが、午後になると急に雲が厚く垂れ込め、空気は重く湿ってきた。霧を含んだような空模様に、夜には激しい雨が降る気配が漂っている。念のため、明日香は傘を一本バッグに入れた。ボディガードが運転する車の後部座席に座り、彼女は静かに車窓を見つめた。およそ一時間ほど走ったのち、セイグランツ社のビルディング前に到着する。明日香の手には、一束の桔梗の花。その花言葉は「永遠の愛」。昔からの言い伝えによれば、桔梗が咲くことは「幸福の再来」を意味するという。幸福が再び訪れたとき、それを掴める者もいれば、指の隙間からこぼしてしまう者もいる。子供の頃、実家の庭一面に桔梗が咲き誇っていた。ウメによれば、それは母が生前に植えたものだという。だが、ある晩のうちに、あの花々は不思議なほど一斉に枯れてしまった。明日香は窓の外を眺め、ため息まじりに時間をやり過ごした。見上げても、ビルの最上階は霞に隠れてほとんど見えない。三十分ほど経ったころ、ようやく人の姿が玄関口に現れた。明日香は視線を戻し、落ち着いた表情を作った。この三日間、もう会うことはないと思っていたのだ。遼一は車に乗り込むと、無言のまま彼女の腰を抱き寄せた。何年も嗅いでいなかった懐かしい匂いが胸の奥を刺す。まるで過去に戻ったかのような口調で、彼は言った。「今夜、レストランを予約した」明日香は表情を変えず、返事もしなかった。「出発しましょう。……すぐにでも雨が降りそうだから」車が静かに発進した。遼一は彼女の黒いロングドレスに目を留め、その姿に重なるよう
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