All Chapters of 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて: Chapter 1011 - Chapter 1020

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第1011話

数人が島を出て、船に乗り込んだ。 船はすぐに島を離れていく。 ムアンはようやく安堵の息をつき、母親を座席に座らせ、軟膏を手にして傷口の手当てをした。 母親の体に残る傷跡を見た瞬間、ムアンの目にはうっすら涙がにじんだ。 声をしぼり出すように言う。 「母さん、この仇は必ず俺が討つ」母親は彼の頭を撫で、微笑んで言った。 「あなたと麗美さえ無事でいてくれれば、私はどんな苦しみだってかまわないわ。国に戻ったら、私は隠居するから。もう二度と会いに来なくていい……あなたの身分が暴かれないために」 「母さん、心配しないでください。俺には考えがある。母さんを放っておくことはできない」母一人で自分を苦労して育ててくれた。その恩を思えば、自分だけ幸せになって彼女を放置するなんて絶対にできない。 必ずや両立できる道を探し出すと、彼は固く心に決めていた。 二人が言葉を交わしていると、母親は突然、舵を握る船頭がポケットへ手を伸ばすのを見た。 その男の目には、冷たく陰惨な光が宿っていた。嫌な予感が走り、船頭が銃を抜いてムアンに向けた瞬間、母親は咄嗟に体を張って彼を庇った。 ドン、と銃声が響き、母親の背中から血が溢れ出る。 ムアンは即座に銃を構え、船頭を撃った。そして倒れかけた母を抱きしめる。 動揺で目をいっぱいに見開きながら叫んだ。 「母さん!大丈夫?お願いだから俺を驚かさないで!」 母親は息も絶え絶えだったが、唇にはかすかな笑みを浮かべている。 「これでよかった……これで私はあなたの弱点にならずにすむ。母さんはもうあなたを守ってあげられない。これからはどうか、強く生きて……」そう言い終えると、彼の手を撫でながらそっと力を失っていった。 あまりに突然の出来事に、ムアンは現実を受け入れられなかった。 彼は母の亡骸を抱き締め、全身を震わせる。 その瞬間、胸に渦巻く憎悪が限界を突き抜けた。 荒れ狂う波音でさえ、彼の慟哭を掻き消すことはできなかった。 すべてを処理し終えたのは二日後のことだった。 彼は別荘の中で一人座り込む。灰皿には吸い殻が山盛りで、体はすっかり痩せこけ、目の下は深く落ち窪み、頬の骨も鋭く浮き出ている。 秘書が食事を運び込み、沈痛な声で言った。 「坊ちゃん、もう何日もまともに
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第1012話

彼女の声を耳にした瞬間、ムアンの胸に渦巻いていた痛みはまるで一瞬で癒やされたかのようだった。 かすれた低い声で呟く。 「麗美」 麗美はその声に違和感を覚えた。疲労の奥に、しゃがれた調子が混じっている。彼女は眉を寄せた。 「どうしたの?具合でも悪いの?」 ムアンは低く唸るように応じた。 「ちょっと島に用事で行ってたんだ。あそこは電波がなかったから、君の電話に出られなくて……心配かけた?」 「あなたが無事ならいいの。いつ戻ってくるの?」 「もう戻ってきた。用事を済ませたらすぐに帰るから、待っていてくれ」電話を切ると、ここ数日部屋に閉じこもっていたムアンはついに立ち上がった。冷ややかな光がその瞳に宿る。 「昼食を用意してくれ」秘書はすぐに返事した。 「はい、すぐにご用意します。お好きな料理を」 ムアンはシャワーを浴び、服を着替えた。 食卓で昼食を取っていると、秘書が報告にやって来る。 「坊ちゃん、ウィリアム様が乗り込んで来られています」 ムアンの鋭い眼差しが淡く動く。声は氷のように冷たかった。 「通せ」 数分後、ウィリアム・ジョウが怒りに燃えて突進してきた。 分厚い書類を目の前に叩きつけ、怒鳴り散らす。 「このプロジェクト、お前が仕組んだんだろ!60億円の損失だぞ、わかってるのか!」 ムアンは無造作に書類を手に取り、視線を流しただけでジョウを見据える。 「60億円程度じゃ足りないな。母の命はそんなものじゃ償えない。ウィリアム家には俺と一緒に墓場まで付き合ってもらう」 ジョウは怒りで跳ね上がった。 「お前が勝手に助けに行ったからだ!俺は少し拘束するだけのつもりだったんだ、殺す気なんかなかった!自分で突っ走って自滅したくせに、今さら俺を責めるのか!」 ムアンの瞳に炎が燃え上がり、眼前のジョウを焼き尽くそうとするかのようだった。 両拳を握りしめ、声は地の底から響くように凄絶だ。 「言ったはずだ。俺の母さんの命は、俺自身の命だ。もし彼女に手を出したら、俺はお前を許さない。だから、これから自分の手下をしっかり管理しろ。さもないと、俺が我を忘れて誰かを噛みついたら、それはその奴の運がなかっただけだ」「俺の息子に手を出してみろ。お前を生きながら地獄を見せてやる!」「ああ、
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第1013話

彼は皿に残っていた料理をすべて平らげた。 それからいくつか厄介な事を片付け、夜になってようやく車を走らせて帰ってきた。 麗美は雪ちゃんを連れて庭を散歩していた。 彼の姿を見つけると、雪ちゃんが一番に駆け寄り、走りながら声をあげた。 ムアンは腰をかがめて頭を撫で、笑みを浮かべながら尋ねた。 「ちゃんとママの言うことを聞いてたか?」 雪ちゃんは数声鳴き、彼の足元をぐるぐる回りながら鼻を鳴らし、顔をくっつけてきた。 ムアンは笑いながらそれを横へ退けた。 「よしよし、俺はまず嫁さんの顔を見に行かないとな」 そう言って立ち上がり、麗美のもとへ歩み寄った。 その深い瞳が彼女を数秒間じっと見つめ、大きな手で頬をそっと撫でると、掠れた声で囁いた。 「麗美……会いたかった。抱きしめさせてくれないか?」 言うが早いか、麗美の返事を待たずにそのまま彼女を強く抱きしめた。 彼女の体温と吐息を感じるだけで、ムアンの胸の奥に広がっていた不安がすっと和らいだ。 大きな手が麗美の髪を繰り返し優しく撫で、耳元で彼女の名を呼び続けた。 「麗美……麗美……」 まるで何年も会えなかったかのような必死さが込められていた。 彼の様子がおかしいことと、そのやつれた姿が重なり、麗美は不安げに声を潜めた。 「ムアン、あなた……どうしたの?」 ムアンはゆっくり彼女を解き放ち、潤んだ視線で見つめ返した。 「俺のことを心配してくれてるのか?」 「何日も連絡が取れなかったうえに、こんなに痩せて……これで平気なわけある?」 「大丈夫だ。島に行ったときに胃をやられて、ろくに食べられなかったからちょっと痩せただけだ。だけど君を抱き上げるくらいなら余裕だぞ。試してみるか?」 その軽口に、麗美はじろりと睨んだ。 「ふざけないでよ!いい大人が、病気なのに薬も飲まず医者にも行かず……自分を限界まで追い込んでどうするの!」 彼女が怒りを見せた瞬間、ムアンは笑みを浮かべ、そっと顎を指で挟んだ。 身を少し屈め、切なげに視線を注ぎながら囁く。 「ごめん……嫁さんを心配させちまった。俺が悪かった」 「別に心配なんかしてないわ。ただ……新婚早々未亡人になるのはごめんだから」 ムアンはくすりと笑い、彼女の唇に軽く口づけた。 「そんな
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第1014話

その言葉を聞いた瞬間、麗美は思わずぱちぱちと瞬きをした。 胸の奥に鋭い痛みが再び込み上げてくる。 過去の情景が波のように押し寄せ、全身の神経を襲った。 夢の中で繰り返し見る光景は、いつも彼女を涙で濡らしていた。 彼女はかつて小さな命を諦めたことがある。同じようなことを二度と繰り返したくはなかった。 彼女の心を見透かしたように、ムアンは少し切なげに彼女の唇へそっと口づけを落とした。 「ちょっと口にしただけだ。無理しなくていい。君が欲しいと思った時で十分だ。でも伝えておきたい。この人生で俺は絶対君を裏切らない。子供ができたら、君たちを必ず愛し抜くよ。麗美、俺の気持ち……分かってくれるか?」 彼の真っ直ぐな言葉に、麗美の心が動かないはずがなかった。 数秒考え込んでから、彼女は答えた。 「分かってる……私自身の問題だから。欲しいって思ったら、その時はちゃんと伝えるね」 ムアンは微笑みながら彼女の頭をくしゃりと撫でた。 「なるほどな。まだ俺に不満があるってことか。じゃあ、もっと頑張らないと。別の場所で試してみようか?」 そう言い、麗美を抱き上げて浴室へと連れて行った。 闇の中でシャワーをつけた。温かい水が頭上から降り注ぎ、彼女は驚いてムアンの胸に身を寄せた。彼女は小さな声で囁いた。 「な、何するの……電気点けてよ」 ムアンは彼女の耳たぶを軽く噛み、低い声で囁く。 「ただ、ちょっと違う体験をさせてやりたいだけだ」 そう言うなり、彼は彼女の唇を塞いだ。 熱い水流と、燃え上がるような口づけ。 それに加えて、ムアンの大きな手が遠慮なく彼女の全身を這う。 麗美はすぐに抵抗をやめ、彼に導かれるまま深みに沈んでいった。 浴室には思わず顔が熱くなるような音が響いた。 どれほどの時間が経ったのか、ようやくムアンはぐったりした麗美を抱え出した。 バスタオルに身を包み、髪はまだ濡れたまま。 麗美はすでに力が抜け、彼の胸に身を預けたまま眠りに落ちていた。 髪を乾かしてやっても、彼女は微動だにしない。 その寝顔を眺めながら、ムアンの胸はもはや痛みで締めつけられることなく、甘く満たされていた。 彼はそっと唇を重ね、かすれた声で呟いた。 「麗美……真実を知るその時、俺を恨まないでくれよ」
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第1015話

彼女は心の中では腹立たしく思っていたが、表情には一切出さなかった。 前回の失敗で十分に痛い目を見ていたからだ。 彼女は扉を軽くノックし、笑みを浮かべながら言った。 。「女王様、罰として書き写したものが終わりました。どうぞご覧ください」彼女は歩み寄って麗美のそばに行き、花束をムアンの隣に置いた。 卑屈に目線を落とし、二人を見上げた。 麗美は駒を置き、イヴァからそれを受け取り、軽く目を通してから言った。 「分かったわ。今後は気をつけなさい。もう下がっていいわよ」 イヴァはすぐに頭を下げた。 「ありがとうございます女王様。花がお好きだと伺いましたので、庭で私が摘んだものをお贈りします。どうかお詫びとして受け取ってください」 麗美は花束を一瞥し、淡々と告げた。 「謝罪は受け取ったわ。私はまだ用があるの。下がりなさい」 イヴァはちらりとムアンを見たが、表情を変えずに退出した。 それから数日間、彼女は毎日麗美に花を摘んできて届けた。必ずその中には百合が入っていた。 しかも、わざとムアンが居る時を狙って渡していた。 けれどムアンに、彼女の期待したような反応はまったく見られなかった。 イヴァは困惑していた。 その時、部屋の中から医師が出てくるのを見つけ、すぐに駆け寄って尋ねた。 「女王様のお身体に何かあったのですか?」 医師は答えた。 「いいえ、親王様です」 その言葉に、イヴァの胸が一瞬固くなり、さらに問いただした。 「親王様がどうされたのですか?」 「陛下のために山へ花を摘みに行かれ、足をくじかれただけです」 「それ以外に症状はありませんか?」 医師は怪訝そうに彼女を見た。 「第三王女様は、何を気にされているのですか?」 イヴァは指を強く握りしめて緊張したが、首を振った。 「いえ、何でもありません。ただ風邪でもひかれたのかと思っただけです」 立ち去る医師の背中を見送りながら、イヴァの瞳は暗く沈んだ。 彼女が麗美へ渡していた花には毎回百合があった。ムアンは百合に重度のアレルギーを持っていて、香りを嗅いだだけでも全身に発疹が出る。 酷い時には呼吸困難に陥るほどだ。 なのに今のムアンには、まるで反応がない。 イヴァは毎回、花を持っていく度に麗美に言葉をかけ
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第1016話

次の週末は、麗美の誕生日だった。 それは彼女が女王になってから迎える最初の誕生日でもあり、当然ながら盛大に祝う必要があった。 彼女が目を開けた瞬間、ほんのりとした花の香りが鼻先をくすぐった。 ベッドサイドには、朝露のついた小さなデイジーの花束が静かに置かれている。 外側は美しい包装紙で包まれていて、色とりどりの花は一層鮮やかさを引き立てられていた。 それを見た瞬間、麗美の胸の奥から甘い感情がふわりと溢れ出す。 毎朝目覚めるたび、この小さなデイジーの花が枕元にある。雨の日も風の日も、ムアンが家にいる限り必ず摘んできてくれるのだ。 その変わらない優しさとロマンチックさに、麗美は少しずつ心を奪われていった。 まだ起き上がろうとした時、部屋のドアが押し開けられた。 黒いシャツにスラックス姿のムアンが現れ、シャツの袖をまくり上げたその腕はしなやかに引き締まっている。 彼は彼女が目覚めているのを確認すると、ゆっくりとベッドに近づいた。 身をかがめて麗美の額に口づけを落とし、優しい声で囁く。 「麗美、誕生日おめでとう」 その祝福に、麗美は口元を少し緩めて、しゃがれた声で言った。 「今日は仕事、休んでもいい?」 「もちろん。今日は誕生日なんだから、何もせずに楽しめばいい」 「夜の宴会、行かなくてもいい?あの人たちと一緒に誕生日祝いなんて嫌」 ムアンはくすりと笑った。 「つまり俺と二人きりで過ごしたいわけだな?」 麗美は眉を挑むように上げて彼を見た。 「ダメ?」 「もちろんいいさ。俺だって二人だけの誕生日を過ごしたい。でも、女王様の誕生日宴は出席しなくちゃいけない。外国の要人たちも来るからな。宴が終わったら、俺たちだけの誕生日を過ごそう、いいだろ?」 その言葉に麗美は興味深げに見つめた。 「どこで過ごすの?」 ムアンは笑って彼女の唇に軽くキスを落とした。 「それはまだ秘密だ、俺の女王様。さあ、起きろ。長寿麺を作ってあるんだ。早く食べないと伸びちまうぞ」 そう言うと彼は彼女を抱き上げ、そのまま浴室へと運んでいった。 こうした行動にも麗美はもう慣れてしまっている。むしろ、その愛情を存分に楽しんでいた。 彼女は彼の首に腕を回し、胸に頬をすり寄せる。 その仕草にムアンの背筋は
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第1017話

突然の問いかけに、麗美は言葉を詰まらせた。 彼を愛しているのだろうか? ムアンに対して多少の依存はある。彼がいなければ、無意識に会いたくなる。 けれど、それは愛ではないと、彼女は自覚していた。 正確に言えば、まだそこまで深くは愛していないのだ。 玲央を愛した時のような、情熱的で骨の髄まで染み込むような愛とは違う。 ムアンはとても良い夫で、思いやりのある男だということは認めている。 麗美自身も、最初の警戒から、いまは彼を頼るようになっている。 黙り込む麗美を見て、ムアンはふっと微笑んだ。 「急がなくていい。麗美が俺を好きになるまで、ちゃんと待つよ。俺が君を愛しているように」 麗美は少し申し訳なさそうに言った。 「ムアン……私には、もう少し時間が必要だわ」 ムアンは彼女の唇に軽く口づけた。 「わかってる。今の関係でもう十分満足してる。たとえこのままでも幸せだよ。妻と親密になれて、妻を甘やかすことができれば、それだけで十分だ」彼の表情はいつもと変わらず、怒った様子もなかった。 麗美は胸がちくりと痛み、彼の顎をそっとつまんで軽くキスを落とした。 そして、その深い瞳を凝視して言った。 「ゆっくりと前へ進んで、あなたに答えを出すわ」「うん、待ってる」 二人は話すことに夢中で、コンロの上の鍋が吹きこぼれるのを忘れていた。 ムアンはすぐに麗美を床に下ろし、鍋に向かって麺を煮始めた。 間もなく、香り豊かな鶏ガラスープの麺が出来上がった。麺は色鮮やかで、見た目も華やかだ。 鶏の濃厚な香りが、一瞬で麗美の舌を刺激する。 半熟の煮卵を見て、麗美はごくりと唾を飲み込んだ。 「すごい……まさに色も香りも味も完璧」 ムアンは箸を差し出しながら言った。 「俺の麗美の人生も、こんなふうに色とりどりであってほしい。さ、味見して?」 麗美は胸が熱くなり、すぐに麺をひと口すくって口に入れた。思わず涙があふれそうになる。 こんなに美味しい麺を食べたのは久しぶりだった。 王宮のキッチンもよく彼女に故郷の料理を作ってくれるが、どうしても少し違っていた。 まさかムアンが、その懐かしさを埋めてくれるとは思わなかった。 夢中で食べる彼女を見て、ムアンは笑みを浮かべる。 「気に入ったなら、こ
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第1018話

麗美は思わず心の中で自分を罵った。自分はいつからこんなに堕落したのか。これじゃあ昔の女色に溺れた皇帝と何が違うのだろう。二人が熱烈なキスを交わしていると、麗美の携帯が突然鳴り響いた。着信画面を見て、彼女はすぐにムアンを押し退けた。声を震わせながら言った。「佑くんだわ」ムアンは彼女の手から携帯を奪い、ソファに放り投げた。再び頭を下げて彼女の唇に噛みついた。そんなふうにしている間に、佑くんは何度も電話をかけたが、おばちゃんは出なかった。彼はがっかりした様子で智哉を見て言った。「パパ、どうしておばちゃんは電話に出てくれないの?」智哉は笑顔で彼の頭を撫でた。「たぶん忙しいんだよ。後でまたかけてみよう。先にシャワーを浴びて寝よう」佑くんは残念そうに口を尖らせた。「僕、本当は一番におばちゃんに誕生日のお祝いを言いたかったのに……一人で向こうにいて、きっとホームシックになってると思うんだ。それに誰も長寿麺を作ってあげないかもしれないし」息子が心配しているのを見て、智哉は身をかがめて彼を抱きしめた。小さな頬にキスをして言った。「そんなに心配しなくていいんだ。おじさんもいるじゃないか。彼が長寿麺を作ってくれるはずさ」その言葉を聞いて、佑くんは素直に頷いた。あの時、おじちゃんの顔を見た。この人なら、きっとおばちゃんに長寿麺を作ってくれるだろう。ああ、家の大人たちは本当に心配事が尽きない。二人は一緒に浴室へ入った。智哉は佑くんの服を脱がせて浴槽に入れ、黄色いアヒルのおもちゃを渡した。「一人で遊んでいてね。先にママの様子を見てくるから」佑くんは顔を上げて彼を見た。「パパ、前みたいにママとイチャイチャして、僕を忘れたりしないでね」智哉は笑って彼の小さな頭を軽く叩いた。「そんなに昔のことなのに、まだ覚えているのかい?」「うん、ちゃんと覚えているよ。パパとママがイチャイチャして、僕を忘れたこと、何回もあったんだから」彼は一度、パパとママとスーパーへ行った時のことを思い出した。二人は車を運転しながらもイチャイチャしていた。そして、車を降りる時、なんと眠っている彼を忘れてしまったのだ。幸い、彼はスマートウォッチを持っていた。目が覚めてから二人に電話をかけなかったら、車の中で窒息するところだ
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第1019話

その言葉を聞いた瞬間、さっきまで微笑んでいた智哉の瞳が、一気に緊張に染まった。 すぐに身をかがめて佳奈を抱き上げる。 「佑くん、おばあちゃんを呼んで、荷物を取ってきてもらって。俺たちはママを病院に送るぞ」 その時、佑くんは何も身に着けていなかったが、恥ずかしがっている暇なんてなかった。 ベッドから飛び降り、裸のお尻をぷりぷり揺らしながら、小さな足で外に駆け出していく。 「おじいちゃん、おばあちゃん!ママが産まれるよ!早く荷物持って病院行こう!」 騒ぎを聞いた奈津子と征爾が寝室から飛び出し、裸の佑くんの姿を目にした。 奈津子は佳奈を見て、落ち着いた声で言った。 「佳奈、心配しなくていいわ。そう簡単にすぐ産まれないから。征爾、私が出産バッグを取ってくるから、あなたは佑くんに服を着せて」 一家は大慌てで病院へと向かった。 佳奈はすぐに分娩室に運び込まれ、智哉は彼女の手をぎゅっと握りしめて離さなかった。 以前、佑くんを出産した時は大きな怪我を負った影響で早産となり、佳奈の身体に大きな負担を残してしまった。 あの時の苦しみを、もう二度と味わわせたくない――智哉の胸にはその思いしかなかった。 彼は佳奈を強く抱きしめ、優しく囁く。 「佳奈、痛かったら我慢しないで叫んでいいんだぞ」 佳奈の額にはびっしり汗が浮かんでいたが、それでも小さく首を振り、息を整えながら答える。 「まだ大丈夫……心配しないで」 智哉は彼女の汗をていねいに拭い、目にいっぱいの優しさを含ませて微笑む。 「怖がらなくていい。ずっとそばにいるから。前みたいに一人きりにはさせない」 佳奈の唇がふっと柔らかく弧を描いた。 佑くんを出産した頃抱えた苦しみは、この幸せな日々の中で少しずつ薄れていた。 あの時、死んだと思わされた赤ん坊を見た瞬間、心臓がえぐられるように痛んだ。 本当に自分の子どもだと信じていたから、魂ごと奪われた気さえした。 その絶望の中で、智哉は彼女の身を守るために離婚を切り出した。 当時の彼女は、この生き地獄を乗り越えられるとはとても思えなかった。 けれど年月が経ち、少しずつ立ち直ることができた。 とりわけ、息子が生きていたと知った時――その一事で全ての痛みは覆い隠された。 子どもが無事ならそれでいい
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第1020話

佑くんは小さな手をパチパチ叩きながら興奮していた。 「妹が出てきた!弟と妹、無事に生まれたよ!ママ、すごい!」 佳奈が分娩室から出てくると、佑くんは一番に駆け寄った。彼は佳奈の手を握りしめ、心配そうにいっぱいの瞳で言った。 「ママ、痛くない?僕、本当に心配したんだよ」 その優しい言葉を聞いた瞬間、佳奈の痛みは一気に吹き飛んだ。 彼女は唇を少し上げて笑い「ママは大丈夫。早く弟と妹を見てきなさい、とても可愛い子たちなのよ」と言った。 佑くんはベッドのそばに寄り、頭を下げて佳奈の頬にキスをし、言った。「ママ、お疲れ様。僕に弟と妹を産んでくれてありがとう。これからは僕とパパが二人の面倒を見るから」智哉は笑いながら、彼のお尻をポンと叩いた。 「もうお兄ちゃんなんだから、お兄ちゃんらしくしないとダメだぞ。ママのベッドにしょっちゅう上がったりしないように。分かったか?」佑くんは素直にコクリとうなずいた。 「わかったよ、パパ。しばらくはパパとママを弟と妹に貸してあげる。二人が大きくなったら、また僕も甘えに行っていい?」 そんなに健気な姿を見て、智哉は胸が締めつけられる気持ちになった。 彼は少しかがんで、佑くんの頬にキスをして言った。 「君もパパとママの大事な宝物だよ。これからもずっと愛してる。ただ、その時間を少しだけ弟と妹に分けてあげるだけだ。寂しがるなよ、いいな?」 「わかってる!僕、弟と妹を見てくる!」 そう言って、彼は短い足をバタバタさせて小さなベッドのほうへ駆けていった。 中に寝かされている小さな二人を見た瞬間、佑くんは眉をひそめた。 そして驚いたように奈津子に尋ねた。 「おばあちゃん、なんであんなに小さいの?僕のロボットよりも小さいよ」 奈津子は笑いながら答えた。 「双子はね、一人で生まれる子より小さく生まれるものなのよ。しばらくしたら大きくなるわ。あなたも生まれた時はこの子たちより小さかったのよ。でも今じゃこんなに元気に大きくなってるでしょ?」 佑くんは弟と妹をじっと見て、ぽつりと聞いた。 「僕も生まれた時、こんなにブサイクだった?」 智哉は笑って彼の頭をグリグリ撫でた。 「ブサイクなんて言うな。大きくなったら君みたいにカッコよくなるんだからな」 そのまま家族みん
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