All Chapters of 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて: Chapter 381 - Chapter 390

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第381話

奈津子が目を覚ましたとき、最初に目に入ったのは征爾の姿だった。彼はベッドのそばの椅子に座り、書類に目を通しながらペンを走らせていた。眉間に寄せた深い皺と、署名をするときの力強い筆跡――その様子に、奈津子の脳裏にふと、奇妙な映像が浮かんだ。――ひとりの女性が、頬杖をついて微笑みながら男性を見つめている。男性の表情は今の征爾とまったく同じ。書いている文字の癖も同じ。そして、ふと男性が目を上げると、そのまま女性をやわらかく見つめる。眉の間に、優しい光が滲んだ。彼は大きな手で、女性の鼻をそっとつまみながら微笑む。「こっちにおいで」女性はうれしそうに椅子から立ち上がり、そのまま征爾の胸の中へ飛び込んだ。白くしなやかな指先が、彼の喉仏にある小さな黒子を撫でながら、甘えるように囁いた。「征爾、赤ちゃん……作ろう?」征爾は彼女の瞼に口づけを落とし、低く響く声で答えた。「何人欲しい?今夜、全部叶えてやる」そう言うと、彼は彼女の唇をやさしく、けれど迷いなく塞いだ。――思い出したその一連の記憶に、奈津子の頬は一瞬で熱を帯びた。どうして、こんな記憶があるの?記憶の中の女性の顔は、自分ではないのに、まるで自分の体験のように鮮明だった。もしかして……自分は、玲子と征爾のそういう場面を、どこかで見てしまったのだろうか?本当に、玲子の言う通り、自分はふたりの関係を壊した「第三者」なの?そんな思いが胸をよぎり、奈津子は震える手で布団を握りしめた。だが、次の瞬間、否定の思いが胸に湧き上がる。――違う。私は、そんな女じゃない。晴臣だって、征爾の子どもなはずがない!混乱する思考のなかで、征爾が顔を上げた。彼は奈津子の涙に気づき、慌てて書類を放り出し、駆け寄った。「奈津子、どこか痛むのか?すぐに医者を呼ぶ」立ち上がろうとした瞬間、奈津子の手が彼の手首を掴んだ。その声はかすれていたが、はっきりと聞こえた。「高橋さん、私は大丈夫」征爾はその目をじっと見つめ、声を落とした。「なぜあんな無茶を。防具も用意してあったのに、自ら危険に身を投じて……。もしものことがあったら、晴臣はどうするんだ。あなたにまで失われたら、あいつは……」奈津子の目から涙がこぼれた。「玲子のやり方は知ってる。あの時
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第382話

征爾の言葉は、まるで鋭い針のように、奈津子の胸の奥深くに突き刺さった。もし晴臣が本当に征爾の子どもだったとしたら、彼女と征爾は、玲子の存在を知りながらも、背徳の関係に踏み込んでいたことになる。その想像に、奈津子は苦しげに手を引き抜き、かぶりを振った。「あり得ない……晴臣があなたの子どもなんて、絶対にあり得ない!」その激しい拒絶に、征爾はすぐさま優しい声で宥めた。「分かった、落ち着いて。俺はただの可能性として言っただけだ。真相はちゃんと調べてる。必ず、お前と晴臣に事実を伝えるから」けれど、奈津子の感情はもう抑えきれなかった。パニック寸前の様子に、征爾はすぐ医師を呼び、安定剤の注射を打ってもらった。薬が効き始め、静かに眠りについた彼女の目尻には、まだ涙が残っていた。それを見た征爾の胸に、鋭い痛みが走る。彼女は、一体どれほど傷ついてきたのだろうか。そっと手を伸ばし、その涙をぬぐってやる。その時、ポケットの中の携帯が震えた。病室を出て応答すると、電話の向こうから男の声が聞こえた。「征爾さん、先日お預かりしたサンプルの結果が出ました」その言葉に、征爾の呼吸が止まりそうになった。「結果は?」「二つのDNAサンプル、一致しました。親子関係に間違いありません」その瞬間、征爾は壁に背中をぶつけるようにして、ずるずるとその場に立ち尽くした。やはりそうだった。晴臣は、奈津子との間に生まれた、自分の実の子だった。征爾は、何とも言えない感情に飲み込まれた。驚き、罪悪感、そして深い後悔と苦しみ。なぜ、どうして自分はその記憶がないのか。なぜ、彼女にそんな思いをさせたのか。電話を切ると、彼はしばらく廊下に一人立ち尽くしていた。震える指でポケットからタバコを取り出し、火をつける。深く吸い込むと、ニコチンが喉を焼き、咳が止まらなくなった。奈津子。晴臣。ようやく全てが繋がった。なぜ晴臣が、初めて会ったときから自分を憎んでいたのか。なぜ、あの目に憤りが宿っていたのか。それは――彼が母を捨てた男だと知っていたから。征爾の胸が、ギュッと締め付けられるように痛んだ。どれだけタバコを吸っても、この痛みは紛れない。そのとき、不意に背後から低く澄んだ声が聞こえた。「病院で
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第383話

征爾は、普段は穏やかで理知的な晴臣の額に、怒りで浮かび上がった青筋を見つめた。 その目には、決して消えることのない憎しみが宿っていた。 その姿を見て、征爾の胸は鋭く締めつけられるような痛みに襲われた。 いったいどれほどのことを経験すれば、あの晴臣がここまで取り乱すのか。 目の奥が熱くなり、喉が詰まりそうになる。 言葉にしようとしても、父親として認めてほしいなんて、とても言えなかった。 長い沈黙のあと、ようやく征爾は低く、静かに口を開いた。 「正直、俺には当時のことがまったく思い出せない。だが、たとえ記憶がなくても、お前たちに苦しみを与えたのが俺であることは確かだ。 だから父親として認めてもらおうなんて思ってない。ただ……せめて償わせてくれ。奈津子を支えたい。記憶を取り戻すためにも、そばにいさせてくれ」 晴臣はしばらく、征爾の瞳をじっと見つめ続けていた。 やがて、その手がゆっくりと征爾の胸元から離れる。 目は、赤く潤んでいた。 「もし、すべてが明らかになって、お前が本当に母さんを裏切った張本人だって分かったら、絶対に許さない」 そう言い残し、晴臣はくるりと背を向け、病室の中へ入っていった。 征爾は、その背中が消えていくのを黙って見送り、小さくため息をついた。 そして、ポケットからスマートフォンを取り出し、どこかに電話をかける。 「24年前、俺と関わった女性の記録をすべて洗ってくれ」 同じ頃、別の病室では。 佳奈はちょうど産科検診を終え、携帯を手に智哉に赤ちゃんの心音を何度も聞かせていた。 眉のあたりには、幸福と興奮が滲み出ていた。 「聞こえた?これが赤ちゃんの心臓の音なんだって。先生が言うにはね、もう頭の形も分かるし、体の器官もはっきりしてるんだって。 ねえ、この子、智哉に似てると思う?それとも私に?」 そう言いながら、彼女はお腹に優しく手を添える。 数ヶ月後には、ここから新しい命が生まれてくる――その未来を、彼女ははっきりと描いていた。 智哉はそんな彼女を愛おしそうに見つめながら、唇にそっとキスを落とした。 低く、掠れた声で囁く。 「どっちに似てても、誠治の娘なんかより、絶対何倍も可愛くなる。あいつの娘なんて、色
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第384話

久しぶりに肌を重ねた二人は、抑えようのない本能に身を任せていた。一通り情熱を交わしたあと、智哉は満ち足りたように佳奈にキスを落とした。その瞳には、まだ情欲の余韻が残っている。「高橋夫人、気持ちよかった?」頬を赤らめた佳奈が睨みつける。「智哉、最低……あんなにお願いしたのに、なんで止まってくれなかったの?」智哉は彼女の耳元でくすっと笑った。「あれはお願いじゃなくて誘惑だろ?止まれるわけないじゃん。ていうか、さっき君も……」その言葉を言い終える前に、佳奈がその唇を塞いだ。「変なこと言うなら、もう口きいてあげないから!」智哉は笑いながら、彼女の手にキスを落とした。「はいはい、もう言わないよ。これからは全部奥さんの言う通りにする。早くって言われたら早くするし、止めてって言われたらちゃんと止める。それでいい?」「うるさい!」佳奈は彼を押しのけ、服を整えてベッドから降りた。ちょうどその時、病室のドアがノックされた。清司が手に食事の入った箱を持って立っていた。乱れた二人の服装と、赤く染まった頬を見て、何があったかすぐに察した。佳奈が赤面したままバスルームへ入っていくと、清司は智哉をじっと見据え、少し警告めいた眼差しを向けた。「若いからって元気なのはいいけどな、佳奈はまだ安静が必要な時期だ。あの子、やっと授かった命なんだ、無茶はするなよ」智哉はにっこり笑って答えた。「分かってますよ、お父さん」「よし、じゃあ手を洗ってご飯にしよう。今日は焼きスペアリブと、他にもちょっとしたおかず作ってきた」「ありがとうございます。お疲れ様さまでした」清司は彼の背中を見ながら、笑みを浮かべて首を振った。二人が仲睦まじいのは嬉しいことだが、若さゆえの勢いで何かあってからでは遅い。食事をテーブルに置いたあと、清司は何気なくテレビをつけた。画面ではニュースが流れていた。【あ高橋グループの社長・智哉氏が火災で重傷を負い、植物状態になる可能性が高いとのこと。父・征爾氏はショックで会社の経営どころではなく、高橋グループは今、完全な混乱状態に陥っています。港湾輸送は他者に掌握され、銀行からの融資は停止。大型プロジェクトは次々と問題を起こし、たった数日で株価は連続ストップ安。損失は数十億円に上ると見られます。
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第385話

その名を聞いた瞬間、智哉と清司は思わず顔を見合わせた。まさか聖人が、美桜の仇を討つために、高橋家との長年の付き合いを裏切ってまで、他人の手先になるとは。まったく、二人はお似合いだ。 智哉には命知らずの母親がいて、佳奈には分別のないろくでなしの父親がいる。智哉の目が静かに鋭さを増した。玲子から受けた傷は、もう取り返しがつかない。 だからこそ、聖人が再び自分たちの間に割って入ることだけは、絶対に許せない。彼はスマホを手に取り、結翔へと電話をかけた。――数日後。郊外の別荘、その広いリビング。黒いスーツに身を包んだ男が車椅子に座り、満足げな顔で部下の報告を聞いていた。「旦那様、高橋家はすでに百億以上の損失を出しています。この打撃で高橋グループは致命的なダメージを受けました。麗美小姐は焦って記者と口論になるほどで、もはや高橋家を飲み込むのは時間の問題かと」男は口元に冷笑を浮かべる。「もうすぐ高橋家の身内が牙をむいてくる。代理社長の麗美じゃ、その混乱を抑えきれないだろう。その時こそ、我々の人間がトップの座に就き、高橋家を奪い返す絶好の機会だ」そう言いながら、車椅子のアームレストを両手で力強く握りしめた。まさに勝ち誇っていたその時、入口から慌ただしい足音が響いた。警備の者が慌てて駆け込んでくる。「旦那様、大変です!外に黒ずくめの連中が大勢現れて、武器を持って別荘を包囲しています!」男の目が一瞬で鋭くなり、手の甲には青筋が浮き上がる。同時に、彼のスマホがけたたましく鳴り始めた。すぐに応答すると、電話の相手は四大家族の一人だった。「旦那様、大変です!我々四大家族の全ての資産が壊滅的な打撃を受けています。今まで手に入れた高橋グループのプロジェクトや株も、誰かに激安で買い叩かれました。倒産寸前です!」「旦那様、地下カジノが摘発されました!関係者全員が連行されました!」「旦那様、例のヨーロッパの黒幕宛の荷が警察に押収されました!あれは我々の命綱だったのに……!」立て続けに鳴る電話、そして次々と報告される悪報――。男の目の奥には、次第に凶暴な光が宿っていく。そして、ついに手にしていたスマホを地面に叩きつけた。「役立たずばかりだ!」怒鳴る彼に、側近がすぐさま声をかける。「旦那
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第386話

智哉の目がさらに鋭く光った。このバッジを持つ者は、黒風会の各堂主だけだ。 つまり、ずっと高橋家を狙っていたのは、黒風会の関係者――。黒風会はヨーロッパを拠点とする地下組織で、各国の経済の要を握るほどの影響力を持つ巨大勢力だ。 噂では、彼らの堂主は全員、ヨーロッパ名門家系の実力者たちであり、手を組んでヨーロッパ全体の産業チェーンを牛耳っているという。そして近年、国内の経済発展が加速する中、黒風会の触手は国内企業にも伸びてきた。 智哉のもとにも、組織に加わるようにという打診があった。 ヨーロッパ市場を与える、という魅力的な誘い付きで。だが、智哉はその背後に本当に黒風会の意志があるとは思っていなかった。あの黒風会が本気で企業を潰したければ、二十年もかける必要などない。 つまり、これは黒風会の堂主の一人による動きであり、しかもその男は高橋家への復讐者だ。その時、高木がポケットから一枚の写真を取り出し、智哉に手渡した。「高橋社長、別荘の主寝室のベッド下からこの白黒写真が見つかりました。写っている少年……もしかすると、これが黒幕かもしれません」智哉は写真を受け取り、静かに目を伏せた。写っていたのは一組の母子。女は妖艶で色気があり、男の子は整った顔立ちをしているが、どこか怯えたような表情を浮かべている。そして、女の肩には一つの男の手が置かれていたが、その男の部分だけが写真から切り取られていた。智哉はじっと写真を見つめ続けた。おそらく切り取られた男は、高橋家に関係する人物。 正確に言えば、「高橋家の男」――。その晩、智哉は部下を動かし、残党を尋問させた。口を割った者の証言によれば、黒幕は足の不自由な男だという。 だが、本名は誰も知らない。顔を見たことがある者もほとんどいない。ここまで巧妙に身を隠し、これほどの網を張っても尻尾すら掴めない―― 智哉の中で、その男への興味がどんどん膨らんでいく。その時、病室のドアがゆっくり開いた。高橋お婆さんが執事を伴って入ってきた。 その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。「智哉、もう全部片付いたわよ。悪党どもも捕まったし、そろそろ佳奈と結婚したらどうなの?ぐずぐずしてたら、曾孫が生まれちゃうじゃない」佳奈のそばに歩み寄り、その
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第387話

智哉はお婆様の問いかけに少し驚きながら尋ねた。「お婆ちゃん、この写真の人たちをご存知なんですか」高橋お婆さんは写真の中の女に目を留め、静かに口を開いた。「この女の人は江原英子(えはら えいこ)って言ってね、あんたの祖父と幼馴染だったのよ。家同士の因縁で結ばれることはできなかったけど、昔ふたりの間には子どもがいたって聞いてるの。あんたのお父さんよりも一歳年上だったはず……まさか、写真のこの男の子がその子なのかね」その言葉を聞いた瞬間、智哉の頭の中で全ての点が線になった。「そのあと、その女の人はどうなったんですか」「子どもと一緒に国外に出たそうよ。だけど、空港へ向かう途中で事故にあって亡くなったって話だったわ」智哉は眉をひそめ、お婆様に向かって問いかけた。「それって……祖父がやったんですか」「なにバカなこと言ってるのさ!」お婆様は目を見開いて彼を睨んだ。「あの人がそんなことするわけないでしょう。やったのは、あの人の弟だよ。兄に罪を着せて、江原家の人間に恨みを抱かせるためさ。それが、江原家が今でも高橋家を仇だと思ってる理由よ」お婆様はそう言いながら、写真をじっと見つめた。「でも、この女も子どもも事故で死んだはずなんだけど……この写真、どこで手に入れたの?」智哉はすでにすべてを理解し、重い声で言った。「高橋家を潰そうとしてるのは、この人です。あの時の子どもはきっと死んでない。車椅子に乗ってる男……あれが彼です」その言葉に、高橋お婆様は深いため息をついた。「その人は、ずっとあんたのお祖父ちゃんが自分たちを殺そうとしたって思い込んでたんだろうね……ほんと、因果な話だよ。あの時の過ちのせいで、今あんたと佳奈が苦しんでる。うちの家が、佳奈に申し訳ないね」お婆様は佳奈の手を取り、目に涙を浮かべた。この因縁のせいで、佳奈は母親を失い、命の危機に何度も晒された。 すべては、昔の憎しみの連鎖が原因だった。何も知らない彼女が、無関係のまま巻き込まれたのだ。それを察した佳奈はすぐにお婆様をなだめた。「お婆さま、大丈夫です。このことももうすぐ終わります。あの人を捕まえれば、きっとすべてが元通りになりますから」その優しさに、お婆様は感極まったように頷いた。「いい子だね……智哉があんたに出会えたことは、
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第388話

佳奈は高橋お婆さまを見送った後、ちょうど雅浩の家族三人が歩いてくるのを見かけた。悠人の額には包帯が貼られており、どう見てもケガをしたばかりのようだった。佳奈はすぐに駆け寄り、心配そうに声をかける。「悠人、どうしたの?ケガしたの?痛くない?」佳奈の顔を見た途端、悠人はさっきまで我慢していた涙をぽろぽろとこぼし始めた。小さな手を彼女に伸ばして、悲しげな声を上げた。「叔母ちゃん、悠人、いたいの……だっこしてほしい」佳奈が抱きしめようと一歩踏み出した瞬間、綾乃がすかさず止めた。「ダメよ、叔母ちゃんのお腹には赤ちゃんがいるんだから、抱っこはだめ」悠人は少し不満そうに口を尖らせた。「じゃあ……ちゅーして」佳奈は彼の首に腕を回し、頬にそっとキスをした。「これからは気をつけてね。ケガしちゃうといっぱい血が出るし、病気にもよくないの。分かった?」悠人はしっかりと頷いた。「わかってるよ。ママが弟を産んだら、悠人も手術できるって」その言葉に、佳奈は驚いて綾乃を見つめた。「綾乃姉さん、妊娠してるの?」綾乃はほんのりと微笑んだ。「やっと一ヶ月目。佳奈、一緒に外で日向ぼっこしない?」佳奈はすぐに察した。綾乃と雅浩の間には、何かしらのわだかまりがあるのだと。彼女は頷き、三人で病院の庭に出た。ベンチに並んで腰かけると、佳奈は少し躊躇いながら尋ねた。「先輩とは、今どうしてるの?」綾乃は淡々とした声で答えた。「悠人のパパとママ。私たちの関係はそれだけよ」「でも……子どももいるのに、少しも進展はないの?」綾乃は静かに佳奈を見つめ、そして低く言った。「試験管ベビーなの。私たちは一度もそういう関係になってない」その言葉に、佳奈の胸に複雑な感情が押し寄せた。なぜなら――雅浩が好きだったのは、他ならぬ自分だから。綾乃の前では、どうしても後ろめたさが拭えなかった。「綾乃姉さん、私と雅浩の間には何もなかったよ。今の彼は、あなたと悠人のために家族になりたいと思ってる。……少しだけでも、彼にチャンスをあげてみたら?」綾乃は苦笑いを浮かべた。「佳奈、実は私、あなたに少し似てると思ってた。恋に対して、すごく一途なところとか。若い頃、雅浩が誰かを好きだって知ってた。でも、私は自分の魅力で振り向か
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第389話

車が迫ってくるのを見た瞬間、綾乃は反射的に佳奈を突き飛ばした。「ドンッ」という鈍い音と共に、綾乃の身体は数メートルもはじき飛ばされ、地面に激しく叩きつけられた。彼女が最初に守ったのは、まだ小さな命だった。 倒れ込む瞬間まで、両手でお腹を庇い続けた。 その衝撃で腕に激痛が走り、鋭く焼けつくような痛みが走る。そのとき、聞き覚えのある声が焦りに満ちて響いた。「綾乃!」雅浩が駆け寄り、今にも抱き起こそうとする―― だが綾乃は、痛みを堪えながらも懸命に言葉を発した。「悠人……車の中にいる……早く助けて」雅浩は顔を上げ、大通りへと走り去ろうとする車を視認した。 彼は即座に立ち上がり、ためらうことなくその車に向かって全力で駆け出す。車のドアに手をかけ、運転席のマスク男と激しい揉み合いになった。マスク男は舵を左右に振りながら彼を振り落とそうとするが、雅浩は全身をぶつけられながらも、ハンドルにしがみついて離れない。その激闘のさなか、佳奈が呼んだボディガードたちが車両の進路を塞ぎ、無理やり停車させた。犯人はその場で取り押さえられ、悠人は無事に救出された。震える体を抱きしめながら、雅浩は息を切らしつつ優しく声をかける。「もう大丈夫だよ。パパがいるから、怖くない」悠人はしゃくり上げながらも、視線を綾乃の方へ向けた。そして、再び泣き声が大きくなる。「ママ、いっぱい血が出てる……うぇぇ、パパ、早く行ってあげて!」雅浩は悠人を抱いたまま綾乃の元へ駆け寄った。すでに医療スタッフが駆けつけており、綾乃は担架に乗せられていた。彼女は依然としてお腹を守るように腕を添え、眉をひそめながらも静かに言った。「先生……赤ちゃんを先に診てください……私のケガは我慢できますから」医師はすぐにうなずいた。「大丈夫です、できる限りお腹の子を守ります。安心してください」雅浩は悠人を佳奈に預け、綾乃の手をしっかり握った。汗が額ににじむ彼女を見て、胸の奥がきゅっと締めつけられる。「綾乃……大丈夫か?」綾乃はきつく目を閉じたあと、息を吐きながら答えた。「平気……雅浩、赤ちゃんを守って。私は腕が折れただけ……命に別状はない。だから、この子だけは……守らないと」雅浩の喉が詰まり、胸に込み上げる感情
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第390話

彼女が眉一つ動かさずに痛みに耐えているのを見て、雅浩の胸にじわりとした痛みが広がった。自分の記憶の中の綾乃は、大切に育てられた箱入り娘だった。 指先をちょっと切っただけでも泣いていた彼女が―― 今、腕を骨折しながら、こんなにも静かに耐えている。この三年間、彼女は一人で悠人を育ててきた。 その間にどれだけの苦労を味わったのか。雅浩は黙って腕を伸ばし、綾乃の唇の前に差し出した。「痛くて我慢できない時は、俺の腕を噛んでいい」綾乃はかすかに首を振った。「平気……心配しないで」そう言ったものの、骨を元に戻す処置が始まると、綾乃の額には滝のような汗が浮かび、唇はきつく噛みしめられた。雅浩の腕にしがみついた手には、力がこもりすぎて爪が食い込むほどだった。それでも―― 彼女は、声ひとつ漏らさなかった。ギプスを固定している間、医師は感心したように口にした。「いやあ……あなたは本当に強いお母さんですね。この痛み、男でも耐えきれないことが多いんですよ。しかも、妊婦さんなのに」綾乃は、片腕にギプス、もう片方には包帯を巻かれた状態で、力ない声で尋ねた。「先生、いつ頃、外せますか?」「こちらの腕は、毎日消毒しながら一週間程度。骨折してる方は、少なくとも二週間はかかります。絶対に水に濡らさないでくださいね」綾乃は少し困った顔をした。「お風呂の時、ラップで巻いてもいいですか?」医師は思わず笑みを浮かべた。「そんな無理しないでくださいよ。旦那さんがいるでしょう? こういうときこそ、頼らないでどうするんですか」綾乃は言いかけた。 自分と雅浩の関係は、夫婦ではないと――。けれど、その言葉は喉の奥で詰まり、うつむいた彼女の顔は青ざめていた。その姿を見て、雅浩の心がまた少し痛んだ。彼はそっと綾乃を抱き寄せ、柔らかい瞳で彼女を見つめた。「俺がいるよ。全部、俺がやるから」そう言って、彼女をそっと抱きかかえて病室の外へと出る。すでに清水さん夫妻が駆けつけていた。綾乃の傷を目にした瞬間、清水夫人の目には涙が浮かぶ。体外受精の過程で綾乃がどれだけの苦労をしたか、彼女はずっと見守ってきた。 その記憶が胸を締めつける。「綾乃、よく頑張ったね」唇の血色が消えかけている綾乃は
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