激しい夜の情事の後、藤崎佳奈(ふじさき かな)の肌には薄くピンクの輝きが差していた。高橋智哉(たかはし ともや)は彼女を腕に抱き、長い指先で彼女の繊細な顔立ちをなぞる。その魅惑的な目には、これまでにない優しい情が宿っていた。佳奈は激しく求められ、体は疲れ切っていたが、どこか満たされた気持ちがあった。しかし、彼女がまだその余韻に浸る間もなく、智哉の携帯電話が鳴り響いた。画面に表示された番号を見た瞬間、佳奈の心はざわめいた。彼女は智哉の腕にしがみつき、見上げるように言った。「取らないで、いい?」電話の相手は遠山美桜(とおやま みおう)だった。彼女は智哉にとって、手の届かない理想そのものだった。帰国してまだ1カ月も経たない間に、何度も自殺未遂を繰り返していた。佳奈はわかっていた。美桜がわざとこういう行動をとっているのは明らかだ。それでも、智哉は佳奈の気持ちなどお構いなしに、彼女を腕から払いのけた。ついさっきまでの甘い空気など感じられない冷たい態度で、ためらいなく電話を取った。佳奈には電話の内容までは聞き取れなかったが、智哉の瞳には嵐のような感情が揺らめき、外の夜の闇よりも深く見えた。電話を切ると、彼は素早く服を身に着けながら言った。「美桜がまた自殺未遂をしたらしい。様子を見てくる」佳奈はベッドの上に座り、彼をじっと見つめた。白く透き通った肌には、彼の愛撫の痕跡が鮮やかに残っている。「でも、今日は私の誕生日。あなた、私と過ごすって約束したよね。大事な話があるの」智哉はすでに服を着終え、冷たく鋭い目で彼女を見下ろした。「こんなときに、よくそんな我儘が言えるな。美桜は命の危機にあるんだ」佳奈が反応する間もなく、智哉は勢いよくドアを閉め、部屋を後にした。間もなく、外からエンジン音が聞こえてきた。佳奈は枕の下から小さな箱を取り出し、そっと中を開けた。中には二つのペアリングが入っている。彼女の目には涙が浮かび、視界が滲んでいく。三年前、佳奈が路地裏で悪党に囲まれた時、智哉は彼女を救うために太ももに怪我を負った。彼女はその出来事をきっかけに、彼を介抱することを自ら申し出た。そしてある夜、酒の勢いで二人は関係を持った。その後、智哉は彼女にこう尋ねた。「俺と付き合
その言葉を聞いた瞬間、智哉の表情は冷え切り、鋭い視線で佳奈をじっと見つめた。「俺は結婚しないって前に言っただろう。遊びが続けられないなら、最初から承諾するな」佳奈の目尻は薄紅に染まりながらも、静かに言葉を返した。「最初は二人の感情だったのに、今は三人になった」「彼女は君にとって何の脅威にもならない」佳奈は自嘲気味に微笑んだ。「彼女の電話一本で、あなたは私を放り出し、私が死にかけていることすら気にしない。智哉、どうすれば『脅威』になるのか教えてよ」智哉の瞳には怒りがはっきりと浮かんでいた。「佳奈、生理痛くらいでここまで大げさに騒ぐ必要があるのか?」佳奈は彼の言葉を聞き、静かに息を吸い込むと言った。「じゃあ、もし私が妊娠していたら?」「子供を理由にするのはやめろ。俺は毎回きっちり避妊している」その冷たく迷いのない口調に、佳奈の心に残っていたわずかな幻想が音を立てて崩れた。もし本当に子供がいたとしても、彼はそれすらも排除しようとするだろう。佳奈は拳を固く握り、爪が皮膚に食い込んでも痛みを感じなかった。彼女は顎を上げ、苦々しい笑みを浮かべて言った。「あなたはこう言ったわね。『二人の関係は感情だけ。結婚はしないし、どちらかが飽きたらすぐに別れよう』。智哉、私、もう飽きたの。別れよう!」その言葉は簡潔で、迷いも未練も感じさせなかった。だが、誰も彼女の胸の中から血が流れていることに気づくことはなかった。智哉の手は拳を握りしめ、青筋が浮かび上がっていた。彼の目は鋭く、冷たく佳奈を射抜いた。「その言葉がどういう結果を招くか分かってるのか?」「この言葉があなたの機嫌を損ねるのは分かってる。でも智哉、私は疲れたの。三人で築く愛なんていらない」彼女はかつて、愛さえあれば結婚など必要ないと信じていた。しかし、それが間違いだったと気づいた。智哉の心は、最初から彼女には向いていなかったのだ。智哉は彼女の顎を乱暴に掴み、その瞳に冷笑を浮かべた。「こんな手で俺に結婚を迫るつもりか?佳奈、お前は俺を甘く見てるのか、それとも自分を買いかぶってるのか」佳奈は絶望に満ちた目で彼を見つめた。「どう思われても構わない。今日ここを出ていくわ」彼女がベッドから降りて荷物をまとめようとした瞬間、智哉は彼女の
智哉はグラスを持つ手を何度も握りしめた。同時に、心の奥に鋭い痛みが走るのを感じた。あの日、美桜が自殺未遂を起こし、佳奈も生理痛で何度も彼に電話をかけていた。最初は応答していたが、後には苛立ちのあまり電話を切ってしまった。もしかして、それが原因で別れを切り出したのだろうか。智哉は視線を落としながら、辰也と誠健がそのクズ旦那を罵るのを聞いていた。指先に挟んだ煙草の火が手の甲を焼いても、全く気付かなかった。その夜、智哉はずっと落ち着かない気分で過ごしていた。普段ならこの時間になれば佳奈から電話が来て、帰宅を気遣う言葉があったはずだ。しかし、今は深夜1時を過ぎても、一度も連絡が来なかった。胸の奥に不安が広がり、智哉はすぐに煙草を揉み消し、スマホを手にして店を後にした。バーを出たところで、一人の少女が花かごを抱えて近づいてきた。「お兄さん、彼女さんに花をプレゼントしませんか?」と笑顔で話しかけてきた。智哉はかごの中に盛られたシャンパンローズを見つめながら、辰也の「ちょっと優しくすればいいだけ」の言葉を思い出した。そして答えた。「全部、包んでくれ」少女は嬉しそうに花を美しくラッピングして彼に渡し、たくさんの祝福の言葉を添えた。智哉の険しい表情も、少しだけ和らいだ。彼は財布から数枚の万札を取り出して少女に渡した。しかし、花束を抱えて家に戻った彼を待っていたのは、佳奈の愛らしい姿ではなく、家政婦だった。「お帰りなさいませ。酔覚ましスープをお作りしましたが、一杯いかがですか?」智哉は眉をひそめ、階上を見上げながら尋ねた。「彼女は寝ているのか?」家政婦は一瞬戸惑った後、すぐに答えた。「藤崎さんは出て行かれました。これをお預かりしています」智哉は家政婦から一つの封筒を受け取り、それを開けてみた。中には佳奈が書いた衣類リストが入っていた。額に青筋を立てながら、彼はその紙を丸めてゴミ箱に投げ捨てた。すぐにスマホを取り出し、佳奈に電話をかけた。着信音が長く鳴った後、ようやく彼女が応答した。受話器の向こうから、少し掠れた声が聞こえてきた。「何?」智哉は骨ばった手でスマホを強く握り締め、歯を食いしばりながら問いかけた。「本気でやるつもりか?」「本気よ」と佳奈は冷静
智哉のキスはいつも強引で容赦がなく、佳奈が逃げ出す隙を一切与えなかった。彼は彼女をデスクに押し付け、一方の手で彼女の顎を掴み、もう一方の手で彼女の腰をしっかりと抱き寄せていた。柔らかく甘い感触が、彼の全身の神経を刺激し、体内に眠る獣が檻を破ろうと暴れ回っていた。智哉と佳奈が一緒にいた頃、その情事はとても円満だった。彼がどれだけ求めても、佳奈は彼の望むまま応えてくれた。時には疲れ果てて気を失うことさえあったが、彼女は決して文句を言わなかった。しかし、今の彼女はまるで別人のように激しく抵抗し、涙が熱く頬を伝っていた。智哉は動きを止めた。長い指で彼女の目尻の涙をそっと拭いながら、欲求不満を滲ませた低い声で言った。「佳奈、このゲームは俺が終わりだと言うまで終わらない。分かったか?」佳奈は涙に濡れた瞳で彼を見つめ、血の滲んだ唇を震わせながら言った。「智哉、私はあなたに辱められるためにいるわけじゃない!」智哉は彼女の唇から血の滴を舐め取ると、目に笑みを浮かべることなく静かに笑った。「もし藤崎家を犠牲にする覚悟があるなら、試してみるといい」そう言うと、彼は立ち上がり、目を逸らさず佳奈の乱れたスカートとその下の細く長い脚を一瞥した。佳奈は強烈な屈辱を感じ、急いで身なりを整えるとドアに向かって歩き出した。ドアを開けると、そこには白いワンピースを身に纏った美桜が立っていた。彼女は人畜無害な笑顔を浮かべていた。「智哉さん、朝ごはんを持ってきました」佳奈はこれが美桜との初めての近距離での対面だった。彼女たちの顔立ちには確かに少し似ているところがあった。特に目元と鼻筋が。その瞬間、佳奈は自分の推測が正しかったことを確信した。智哉が彼女を純粋な目的で疑った一方で、彼を引き留めた理由はただひとつ、彼女を美桜の代わりとして見ていたのだ。三年の愛情は、最後には代用品という結末を迎えた。佳奈の胸は張り裂けるような痛みに襲われた。彼女はなんとか自分を落ち着かせ、美桜に軽く頷くと、その場を立ち去った。オフィスのドアが閉まる音を聞きながら、智哉は冷たい目で美桜を見つめた。「どうしてここに来た?」美桜の目にはすぐに涙が浮かび、弱々しく頭を垂れた。「ごめんなさい、智哉さん。最近、朝ごはんを
佳奈は素早く反応し、横に身をかわしたが、それでも熱いコーヒーの一部が足に飛び散った。彼女は思わず息を呑み、痛みで顔をしかめた。美桜に文句を言おうと顔を上げたその瞬間、彼女の体が後ろのガラス棚に向かって倒れていくのが見えた。佳奈はとっさに手を伸ばして彼女を引き留めようとしたが、美桜はその手を振り払った。「ガシャーン!」美桜の腕がガラスを粉々に砕き、鋭い破片が床に散らばる。彼女の腕から流れる鮮血が、足元に滴り落ちていった。その時、背後から智哉の冷たい声が響いた。「佳奈、何をしている!」智哉の高く引き締まった体が素早く美桜のそばへ駆け寄る。その深い瞳はどんどん暗さを増していった。「大丈夫か?」美桜の顔は真っ青になり、涙が頬を伝い落ちていた。震える唇で、泣きながら話し始めた。「智哉さん、全部私が悪いんです……私が不注意で藤崎秘書にコーヒーをかけてしまったんです。だから、彼女が私がわざとだと思って押したんです……でも、彼女を責めないでください、お願いです……」その言葉を聞いた瞬間、佳奈の目は驚きで見開かれた。美桜が自分を陥れるために苦肉の策を使ったことに気づき、彼女はすぐに反論した。「私じゃありません!彼女が自分で倒れたんです!」智哉の冷たい視線が彼女の体を一瞬だけ舐めるように走り、彼女の火傷した足に視線が留まる。しかしすぐに目を逸らし、冷たい声で言い放った。「俺が戻ったら話をつける」そう言い残すと、彼は美桜を抱えるようにして足早にその場を去った。佳奈は彼らの背中を見送りながら、表情に言いようのない痛みが浮かんでいた。これが、自分が七年も愛し続けた男なのか。彼は美桜と自分の間で、一度も自分を信じる選択をしなかった。佳奈はすぐに気持ちを切り替えた。美桜の計略を成功させるわけにはいかない。たとえ智哉との関係が終わったとしても、彼が自分にどう思おうと関係ない。だが、こんな捏造された事実を許すわけにはいかない。一度許せば、次もまた同じことが起きる。彼女はすぐに同僚の石川を見つけ、彼女の技術部にいる恋人に頼んで、さっきの出来事の映像をコピーしてもらった。自分の潔白を証明するためだった。すべてを処理した佳奈は、その一件から素早く気持ちを切り離し、冷静さを取り戻した。佳奈は仕
智哉の瞳が一瞬止まり、冷たく佳奈を見据えた。「命を捨てたいなら、試してみるといい」佳奈の整った顔立ちに薄い嘲笑が浮かぶ。「どうして私が試したことがないって思うの?もし私が今、2000CCも失血していたら、それでも彼女に献血しろって言うの?」「佳奈、くだらない言い訳はやめろ。生理中の最大出血量なんてせいぜい60CCだろう?嘘をつくならもう少しまともな話にしろ」佳奈は苦々しく笑った。ここまで言っても、彼は信じてくれない。少しでも彼が自分に気を掛けていたら、少しでも彼女のことを理解していれば、追及するくらいはしたはずだ。彼が少しでも彼女のことを理解していれば、彼女が見て見ぬふりをするような人間ではないことくらいわかるはずだった。それが、愛されている人間とそうでない人間の違いだった。美桜の小さな傷でこれほどまでに慌てふためく彼。一方で、佳奈が危険な流産手術を経験したことには一切気づかなかった。佳奈が胸の痛みを感じていたそのとき、病室の入口に見覚えのある人影を見つけた。佳奈はその場で呆然と立ち尽くした。あの日、意識が朦朧とする中で、彼女は一つの人影を見た。耳元で優しく低い男性の声が彼女の名を呼ぶのが聞こえた。彼女は無理やり目を開け、その声の主が目の前にいる男性であることをはっきり覚えていた。そのとき彼女は、その腕をしっかりと掴みながら、弱々しく懇願した。「お願い……助けて……」目を覚ましたとき、知里が教えてくれたのは、彼女を病院に運んでくれたのが眼鏡をかけたイケメンだったということ。佳奈は自嘲気味に微笑み、足を引きずるようにその男性、辰也の元へと歩いていった。「あなたは美桜さんのお兄さんですよね?」辰也は軽く頷き、穏やかな声で答えた。「はい。藤崎さん、体調に何か問題があれば、私が……」佳奈は一瞬目を閉じ、運命を受け入れるように小さく息を吐いた。神様も皮肉なことをしてくれるものだと感じながら、彼女は微笑み、口を開いた。「辰也さん、少しお時間をいただけますか?」彼女が辰也を近くの階段に誘おうとしたその瞬間、智哉が手首を掴んだ。「何を話すつもりだ?俺の前で言えないことでもあるのか?」佳奈は冷たい笑みを浮かべた。「あなたの前で話す?あなたに聞く権利があるとでも?」
佳奈が目を開けると、見慣れた顔が目に飛び込んできた。まるで救いの手を求めるように、彼女はその男性のシャツをぎゅっと掴み、か細い声で言った。「先輩、ここから連れ出してください……」彼女は智哉にこんな無様な姿を見られたくなかった。彼の同情するような目も耐えられなかった。何もかも拒否し、ただ一刻も早くここを離れたかった。雅浩は少し緊張した様子で彼女を見つめ、言った。「この状態でどうやって帰るつもりだ?医者に見てもらわないと」「いいえ、先輩!ただ献血しただけで、少し疲れただけです。家まで送ってくれれば大丈夫です」雅浩の優しい目には心配が浮かんでいた。彼は佳奈を横抱きにすると、低い声で安心させるように言った。「怖がらないで、僕が連れ出してあげる」そのとき、智哉が外に出てきたが、ちょうど雅浩が佳奈を車に乗せる場面を目撃した。雅浩の目には佳奈への深い憐れみと優しさがあふれていた。怒りで拳を握りしめながら、その車が視界から消えるのを見つめた智哉の目には、陰鬱な色が浮かんでいた————————佳奈が目を覚ますと、すでに翌日の朝だった。 一晩中何も食べず、多くの血を抜かれたため、彼女は自分の胃が空っぽだと感じた。 彼女が寝室から出ると、おいしい食事の香りが彼女の鼻をくすぐった。 彼女は驚きながらキッチンを見た。高く逞しい人影が彼女に向かって歩いてきた。 雅浩は手に粥のボウルを持ち、ピンクの子豚柄のエプロンを腰に締め、顔全体に笑みを浮かべていた。 「昨夜、医者に見てもらったんだ。君は血が足りないって言われたから、補血のために豚レバーの粥を作ったよ。食べてみて」佳奈は少し恥ずかしそうに笑いながら言った。 「先輩、昨夜は本当にお世話になりました。次にご馳走させてください」 彼女と雅浩はR大法学部の優秀な学生で、雅浩は彼女よりも2学年上だった。 二人とも法学界の重鎮、白川先生の門下生である。3年前、雅浩は修士課程を修了し海外に渡ったが、佳奈はその後、智哉の秘書となった。 二人は専門分野でそれぞれの道を歩み始めた。 雅浩は微笑みながら言った。 「いいね、先生も君に会いたがってるよ。もう少し元気になったら、一緒に先生を呼ぼう」 佳奈は頭をかきながら苦笑いを
美桜の声は大きく、佳奈の耳にはっきりと届いた。さらに、智哉の先ほどの心を抉るような言葉も。佳奈は、自分の7年間の深い愛情がまるで犬にでも与えたように無駄だったと感じた。冷たい目で智哉を見つめながら言った。「石川さんにお願いしてあの映像を録画してもらっただけで、削除なんて頼んでません」智哉は無表情で彼女を見つめ返した。「証拠も証人も揃ってる。まだ言い逃れするつもりか?」佳奈は悲しげに微笑んだ。なぜ自分は彼に説明しようとしているのか?もしかして、智哉が自分を信じてくれることを期待しているのか?美桜に関わることなら、智哉は必ず彼女の味方をする。そう分かっていながらも、心のどこかで期待してしまう自分が虚しかった。佳奈は唇を軽く噛み、感情を落ち着かせるように努力した。「そういうことなら、立件して調べてもらえばいいです。私がやっていないことを認めさせられるなんて絶対に許しません。たとえ藤崎家を巻き込むことになっても、自分の無実を証明してみせます」普段の彼女は穏やかで控えめ、従順で聞き分けのいい性格だった。しかし、今目の前にいる彼女は、智哉が見たこともない毅然とした姿だった。智哉は小さく笑いながら言った。「口だけは達者だな」「高橋社長、お忘れなく。私は法律を学んでいました。もしも当時、あなたのお金に目が眩んでいなければ、今頃はきっと優秀な弁護士になっていたでしょうね」佳奈はその言葉を口にしながら、「お金に目が眩んだ」という部分を意図的に強調した。そして、まるで何でもないことのように軽く笑った。まるで、そんな風に見られるのは慣れっこだと言わんばかりに。智哉はその言葉に激怒し、奥歯を噛みしめた。「それじゃあ、せいぜい頑張るんだな!」そう言い捨てると、振り返りもせずにドアを強く閉めて出て行った。智哉が階下に降りると、高木が車から飛び出してきて慌てて言った。「高橋社長、藤崎秘書に買われた栄養品を忘れましたよ。社長が届けられますか?それとも私が……」高木が言い終わらないうちに、智哉の冷たい声が響いた。「捨てろ」高木は智哉の唇にできた傷に目をやり、何が起きたのかすぐに察した。彼は懸命に説得を試みた。「高橋社長、それは社長が大変な手間をかけて選んだ高級栄養品じゃないですか
智哉はお婆様の問いかけに少し驚きながら尋ねた。「お婆ちゃん、この写真の人たちをご存知なんですか」高橋お婆さんは写真の中の女に目を留め、静かに口を開いた。「この女の人は江原英子(えはら えいこ)って言ってね、あんたの祖父と幼馴染だったのよ。家同士の因縁で結ばれることはできなかったけど、昔ふたりの間には子どもがいたって聞いてるの。あんたのお父さんよりも一歳年上だったはず……まさか、写真のこの男の子がその子なのかね」その言葉を聞いた瞬間、智哉の頭の中で全ての点が線になった。「そのあと、その女の人はどうなったんですか」「子どもと一緒に国外に出たそうよ。だけど、空港へ向かう途中で事故にあって亡くなったって話だったわ」智哉は眉をひそめ、お婆様に向かって問いかけた。「それって……祖父がやったんですか」「なにバカなこと言ってるのさ!」お婆様は目を見開いて彼を睨んだ。「あの人がそんなことするわけないでしょう。やったのは、あの人の弟だよ。兄に罪を着せて、江原家の人間に恨みを抱かせるためさ。それが、江原家が今でも高橋家を仇だと思ってる理由よ」お婆様はそう言いながら、写真をじっと見つめた。「でも、この女も子どもも事故で死んだはずなんだけど……この写真、どこで手に入れたの?」智哉はすでにすべてを理解し、重い声で言った。「高橋家を潰そうとしてるのは、この人です。あの時の子どもはきっと死んでない。車椅子に乗ってる男……あれが彼です」その言葉に、高橋お婆様は深いため息をついた。「その人は、ずっとあんたのお祖父ちゃんが自分たちを殺そうとしたって思い込んでたんだろうね……ほんと、因果な話だよ。あの時の過ちのせいで、今あんたと佳奈が苦しんでる。うちの家が、佳奈に申し訳ないね」お婆様は佳奈の手を取り、目に涙を浮かべた。この因縁のせいで、佳奈は母親を失い、命の危機に何度も晒された。 すべては、昔の憎しみの連鎖が原因だった。何も知らない彼女が、無関係のまま巻き込まれたのだ。それを察した佳奈はすぐにお婆様をなだめた。「お婆さま、大丈夫です。このことももうすぐ終わります。あの人を捕まえれば、きっとすべてが元通りになりますから」その優しさに、お婆様は感極まったように頷いた。「いい子だね……智哉があんたに出会えたことは、
智哉の目がさらに鋭く光った。このバッジを持つ者は、黒風会の各堂主だけだ。 つまり、ずっと高橋家を狙っていたのは、黒風会の関係者――。黒風会はヨーロッパを拠点とする地下組織で、各国の経済の要を握るほどの影響力を持つ巨大勢力だ。 噂では、彼らの堂主は全員、ヨーロッパ名門家系の実力者たちであり、手を組んでヨーロッパ全体の産業チェーンを牛耳っているという。そして近年、国内の経済発展が加速する中、黒風会の触手は国内企業にも伸びてきた。 智哉のもとにも、組織に加わるようにという打診があった。 ヨーロッパ市場を与える、という魅力的な誘い付きで。だが、智哉はその背後に本当に黒風会の意志があるとは思っていなかった。あの黒風会が本気で企業を潰したければ、二十年もかける必要などない。 つまり、これは黒風会の堂主の一人による動きであり、しかもその男は高橋家への復讐者だ。その時、高木がポケットから一枚の写真を取り出し、智哉に手渡した。「高橋社長、別荘の主寝室のベッド下からこの白黒写真が見つかりました。写っている少年……もしかすると、これが黒幕かもしれません」智哉は写真を受け取り、静かに目を伏せた。写っていたのは一組の母子。女は妖艶で色気があり、男の子は整った顔立ちをしているが、どこか怯えたような表情を浮かべている。そして、女の肩には一つの男の手が置かれていたが、その男の部分だけが写真から切り取られていた。智哉はじっと写真を見つめ続けた。おそらく切り取られた男は、高橋家に関係する人物。 正確に言えば、「高橋家の男」――。その晩、智哉は部下を動かし、残党を尋問させた。口を割った者の証言によれば、黒幕は足の不自由な男だという。 だが、本名は誰も知らない。顔を見たことがある者もほとんどいない。ここまで巧妙に身を隠し、これほどの網を張っても尻尾すら掴めない―― 智哉の中で、その男への興味がどんどん膨らんでいく。その時、病室のドアがゆっくり開いた。高橋お婆さんが執事を伴って入ってきた。 その顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。「智哉、もう全部片付いたわよ。悪党どもも捕まったし、そろそろ佳奈と結婚したらどうなの?ぐずぐずしてたら、曾孫が生まれちゃうじゃない」佳奈のそばに歩み寄り、その
その名を聞いた瞬間、智哉と清司は思わず顔を見合わせた。まさか聖人が、美桜の仇を討つために、高橋家との長年の付き合いを裏切ってまで、他人の手先になるとは。まったく、二人はお似合いだ。 智哉には命知らずの母親がいて、佳奈には分別のないろくでなしの父親がいる。智哉の目が静かに鋭さを増した。玲子から受けた傷は、もう取り返しがつかない。 だからこそ、聖人が再び自分たちの間に割って入ることだけは、絶対に許せない。彼はスマホを手に取り、結翔へと電話をかけた。――数日後。郊外の別荘、その広いリビング。黒いスーツに身を包んだ男が車椅子に座り、満足げな顔で部下の報告を聞いていた。「旦那様、高橋家はすでに百億以上の損失を出しています。この打撃で高橋グループは致命的なダメージを受けました。麗美小姐は焦って記者と口論になるほどで、もはや高橋家を飲み込むのは時間の問題かと」男は口元に冷笑を浮かべる。「もうすぐ高橋家の身内が牙をむいてくる。代理社長の麗美じゃ、その混乱を抑えきれないだろう。その時こそ、我々の人間がトップの座に就き、高橋家を奪い返す絶好の機会だ」そう言いながら、車椅子のアームレストを両手で力強く握りしめた。まさに勝ち誇っていたその時、入口から慌ただしい足音が響いた。警備の者が慌てて駆け込んでくる。「旦那様、大変です!外に黒ずくめの連中が大勢現れて、武器を持って別荘を包囲しています!」男の目が一瞬で鋭くなり、手の甲には青筋が浮き上がる。同時に、彼のスマホがけたたましく鳴り始めた。すぐに応答すると、電話の相手は四大家族の一人だった。「旦那様、大変です!我々四大家族の全ての資産が壊滅的な打撃を受けています。今まで手に入れた高橋グループのプロジェクトや株も、誰かに激安で買い叩かれました。倒産寸前です!」「旦那様、地下カジノが摘発されました!関係者全員が連行されました!」「旦那様、例のヨーロッパの黒幕宛の荷が警察に押収されました!あれは我々の命綱だったのに……!」立て続けに鳴る電話、そして次々と報告される悪報――。男の目の奥には、次第に凶暴な光が宿っていく。そして、ついに手にしていたスマホを地面に叩きつけた。「役立たずばかりだ!」怒鳴る彼に、側近がすぐさま声をかける。「旦那
久しぶりに肌を重ねた二人は、抑えようのない本能に身を任せていた。一通り情熱を交わしたあと、智哉は満ち足りたように佳奈にキスを落とした。その瞳には、まだ情欲の余韻が残っている。「高橋夫人、気持ちよかった?」頬を赤らめた佳奈が睨みつける。「智哉、最低……あんなにお願いしたのに、なんで止まってくれなかったの?」智哉は彼女の耳元でくすっと笑った。「あれはお願いじゃなくて誘惑だろ?止まれるわけないじゃん。ていうか、さっき君も……」その言葉を言い終える前に、佳奈がその唇を塞いだ。「変なこと言うなら、もう口きいてあげないから!」智哉は笑いながら、彼女の手にキスを落とした。「はいはい、もう言わないよ。これからは全部奥さんの言う通りにする。早くって言われたら早くするし、止めてって言われたらちゃんと止める。それでいい?」「うるさい!」佳奈は彼を押しのけ、服を整えてベッドから降りた。ちょうどその時、病室のドアがノックされた。清司が手に食事の入った箱を持って立っていた。乱れた二人の服装と、赤く染まった頬を見て、何があったかすぐに察した。佳奈が赤面したままバスルームへ入っていくと、清司は智哉をじっと見据え、少し警告めいた眼差しを向けた。「若いからって元気なのはいいけどな、佳奈はまだ安静が必要な時期だ。あの子、やっと授かった命なんだ、無茶はするなよ」智哉はにっこり笑って答えた。「分かってますよ、お父さん」「よし、じゃあ手を洗ってご飯にしよう。今日は焼きスペアリブと、他にもちょっとしたおかず作ってきた」「ありがとうございます。お疲れ様さまでした」清司は彼の背中を見ながら、笑みを浮かべて首を振った。二人が仲睦まじいのは嬉しいことだが、若さゆえの勢いで何かあってからでは遅い。食事をテーブルに置いたあと、清司は何気なくテレビをつけた。画面ではニュースが流れていた。【あ高橋グループの社長・智哉氏が火災で重傷を負い、植物状態になる可能性が高いとのこと。父・征爾氏はショックで会社の経営どころではなく、高橋グループは今、完全な混乱状態に陥っています。港湾輸送は他者に掌握され、銀行からの融資は停止。大型プロジェクトは次々と問題を起こし、たった数日で株価は連続ストップ安。損失は数十億円に上ると見られます。
征爾は、普段は穏やかで理知的な晴臣の額に、怒りで浮かび上がった青筋を見つめた。 その目には、決して消えることのない憎しみが宿っていた。 その姿を見て、征爾の胸は鋭く締めつけられるような痛みに襲われた。 いったいどれほどのことを経験すれば、あの晴臣がここまで取り乱すのか。 目の奥が熱くなり、喉が詰まりそうになる。 言葉にしようとしても、父親として認めてほしいなんて、とても言えなかった。 長い沈黙のあと、ようやく征爾は低く、静かに口を開いた。 「正直、俺には当時のことがまったく思い出せない。だが、たとえ記憶がなくても、お前たちに苦しみを与えたのが俺であることは確かだ。 だから父親として認めてもらおうなんて思ってない。ただ……せめて償わせてくれ。奈津子を支えたい。記憶を取り戻すためにも、そばにいさせてくれ」 晴臣はしばらく、征爾の瞳をじっと見つめ続けていた。 やがて、その手がゆっくりと征爾の胸元から離れる。 目は、赤く潤んでいた。 「もし、すべてが明らかになって、お前が本当に母さんを裏切った張本人だって分かったら、絶対に許さない」 そう言い残し、晴臣はくるりと背を向け、病室の中へ入っていった。 征爾は、その背中が消えていくのを黙って見送り、小さくため息をついた。 そして、ポケットからスマートフォンを取り出し、どこかに電話をかける。 「24年前、俺と関わった女性の記録をすべて洗ってくれ」 同じ頃、別の病室では。 佳奈はちょうど産科検診を終え、携帯を手に智哉に赤ちゃんの心音を何度も聞かせていた。 眉のあたりには、幸福と興奮が滲み出ていた。 「聞こえた?これが赤ちゃんの心臓の音なんだって。先生が言うにはね、もう頭の形も分かるし、体の器官もはっきりしてるんだって。 ねえ、この子、智哉に似てると思う?それとも私に?」 そう言いながら、彼女はお腹に優しく手を添える。 数ヶ月後には、ここから新しい命が生まれてくる――その未来を、彼女ははっきりと描いていた。 智哉はそんな彼女を愛おしそうに見つめながら、唇にそっとキスを落とした。 低く、掠れた声で囁く。 「どっちに似てても、誠治の娘なんかより、絶対何倍も可愛くなる。あいつの娘なんて、色
征爾の言葉は、まるで鋭い針のように、奈津子の胸の奥深くに突き刺さった。もし晴臣が本当に征爾の子どもだったとしたら、彼女と征爾は、玲子の存在を知りながらも、背徳の関係に踏み込んでいたことになる。その想像に、奈津子は苦しげに手を引き抜き、かぶりを振った。「あり得ない……晴臣があなたの子どもなんて、絶対にあり得ない!」その激しい拒絶に、征爾はすぐさま優しい声で宥めた。「分かった、落ち着いて。俺はただの可能性として言っただけだ。真相はちゃんと調べてる。必ず、お前と晴臣に事実を伝えるから」けれど、奈津子の感情はもう抑えきれなかった。パニック寸前の様子に、征爾はすぐ医師を呼び、安定剤の注射を打ってもらった。薬が効き始め、静かに眠りについた彼女の目尻には、まだ涙が残っていた。それを見た征爾の胸に、鋭い痛みが走る。彼女は、一体どれほど傷ついてきたのだろうか。そっと手を伸ばし、その涙をぬぐってやる。その時、ポケットの中の携帯が震えた。病室を出て応答すると、電話の向こうから男の声が聞こえた。「征爾さん、先日お預かりしたサンプルの結果が出ました」その言葉に、征爾の呼吸が止まりそうになった。「結果は?」「二つのDNAサンプル、一致しました。親子関係に間違いありません」その瞬間、征爾は壁に背中をぶつけるようにして、ずるずるとその場に立ち尽くした。やはりそうだった。晴臣は、奈津子との間に生まれた、自分の実の子だった。征爾は、何とも言えない感情に飲み込まれた。驚き、罪悪感、そして深い後悔と苦しみ。なぜ、どうして自分はその記憶がないのか。なぜ、彼女にそんな思いをさせたのか。電話を切ると、彼はしばらく廊下に一人立ち尽くしていた。震える指でポケットからタバコを取り出し、火をつける。深く吸い込むと、ニコチンが喉を焼き、咳が止まらなくなった。奈津子。晴臣。ようやく全てが繋がった。なぜ晴臣が、初めて会ったときから自分を憎んでいたのか。なぜ、あの目に憤りが宿っていたのか。それは――彼が母を捨てた男だと知っていたから。征爾の胸が、ギュッと締め付けられるように痛んだ。どれだけタバコを吸っても、この痛みは紛れない。そのとき、不意に背後から低く澄んだ声が聞こえた。「病院で
奈津子が目を覚ましたとき、最初に目に入ったのは征爾の姿だった。彼はベッドのそばの椅子に座り、書類に目を通しながらペンを走らせていた。眉間に寄せた深い皺と、署名をするときの力強い筆跡――その様子に、奈津子の脳裏にふと、奇妙な映像が浮かんだ。――ひとりの女性が、頬杖をついて微笑みながら男性を見つめている。男性の表情は今の征爾とまったく同じ。書いている文字の癖も同じ。そして、ふと男性が目を上げると、そのまま女性をやわらかく見つめる。眉の間に、優しい光が滲んだ。彼は大きな手で、女性の鼻をそっとつまみながら微笑む。「こっちにおいで」女性はうれしそうに椅子から立ち上がり、そのまま征爾の胸の中へ飛び込んだ。白くしなやかな指先が、彼の喉仏にある小さな黒子を撫でながら、甘えるように囁いた。「征爾、赤ちゃん……作ろう?」征爾は彼女の瞼に口づけを落とし、低く響く声で答えた。「何人欲しい?今夜、全部叶えてやる」そう言うと、彼は彼女の唇をやさしく、けれど迷いなく塞いだ。――思い出したその一連の記憶に、奈津子の頬は一瞬で熱を帯びた。どうして、こんな記憶があるの?記憶の中の女性の顔は、自分ではないのに、まるで自分の体験のように鮮明だった。もしかして……自分は、玲子と征爾のそういう場面を、どこかで見てしまったのだろうか?本当に、玲子の言う通り、自分はふたりの関係を壊した「第三者」なの?そんな思いが胸をよぎり、奈津子は震える手で布団を握りしめた。だが、次の瞬間、否定の思いが胸に湧き上がる。――違う。私は、そんな女じゃない。晴臣だって、征爾の子どもなはずがない!混乱する思考のなかで、征爾が顔を上げた。彼は奈津子の涙に気づき、慌てて書類を放り出し、駆け寄った。「奈津子、どこか痛むのか?すぐに医者を呼ぶ」立ち上がろうとした瞬間、奈津子の手が彼の手首を掴んだ。その声はかすれていたが、はっきりと聞こえた。「高橋さん、私は大丈夫」征爾はその目をじっと見つめ、声を落とした。「なぜあんな無茶を。防具も用意してあったのに、自ら危険に身を投じて……。もしものことがあったら、晴臣はどうするんだ。あなたにまで失われたら、あいつは……」奈津子の目から涙がこぼれた。「玲子のやり方は知ってる。あの時
玲子はこのまま、誰にも構われず見捨てられて、朽ちていくなんて絶対に許せなかった。そう思っていた矢先、頭上に何かが降りかかる気配を感じた。驚いて顔を上げると、女囚のひとりが湯桶を手にしながら、何かを玲子の頭にぶちまけていた。長年、上流の暮らしに慣れ切っていた高橋夫人にとって、こんな屈辱は生まれて初めてのことだった。玲子は怒りに任せて立ち上がり、その女に向かって突進した。「今の、何をかけたのよ!」歯を食いしばりながら詰め寄ると、相手の女はけたけたと笑い出す。「嗅いでみりゃ分かるでしょ?」玲子が鼻をひくつかせると、強烈な悪臭が鼻孔を突いた。その臭いで、かけられた液体が何だったのか、瞬時に理解した。怒りで顔が歪み、思わず手を振り上げてその女を打とうとした――だが、腕が振り切られる前に、誰かに手首をがっちりと掴まれた。次の瞬間、頭に重い衝撃が走る。椅子が彼女の頭上に振り下ろされたのだ。視界がぐらつき、めまいが襲ってくる。それと同時に、数人の囚人たちから容赦ない暴行が始まった。拳と足が、何度も何度も彼女の体に叩きつけられる。三十分もの間、途切れることなく殴られ蹴られ続け、玲子の意識は朦朧とした。その時、ようやく美桜の言っていた言葉の意味を理解した。「侮辱され、殴られた」――それが、どれほどの地獄だったかを。命だけは守ろうと、玲子は床にひざまずき、泣きながら許しを乞うた。それを見てようやく暴行は止み、玲子は這うようにしてベッドに戻る。ベッドに横たわったそのとき、彼女の目に入ったのは、見覚えのある顔だった。やせ細り、色も抜け落ち、かつての輝きはどこにもない。だが、それは紛れもなく――美桜だった。玲子の目から、思わず涙がこぼれる。這い寄るようにして美桜のそばへ近づき、声を震わせて言った。「美桜……あなた、無事だったのね?」だが美桜は、まるで悪霊でも見るかのような目で玲子を睨みつけた。「近寄らないで!」そう叫ぶや否や、玲子を思いきり蹴り飛ばした。「私はあんたなんか知らない!顔も見たくない!」玲子は信じられないような顔で見つめ返す。「美桜……玲子おばさんよ、覚えてないの?」「知らないって言ってんでしょ!次に近づいたら、ボスに言ってまたボコらせるから!」
その言葉を聞いた瞬間、晴臣の張り詰めていた心の糸がふっと緩んだ。彼はすぐに身を乗り出して尋ねた。「誰なんですか?」「高橋社長です。本当に奇跡的です、肝臓の適合率が非常に高く、しかも血液型も一致してます。これで安心してください、手術は問題なく進められます」晴臣の眉間がきつく寄った。「でも……彼はついこの前まで大火傷を負ってたはず、まだ体力も戻ってない。手術なんて、耐えられるんですか?」医師は彼の肩に手を置き、落ち着いた声で言った。「大丈夫です。高橋社長からの伝言でもありますが、どんなに辛くても、あなたのお母さんを救えるならそれで十分だと。では、すぐに手術の準備に入ります。外でお待ちください」その後すぐに、智哉は別名義で秘密裏に手術室へ運び込まれた。身元が漏れるのを防ぐため、頭には包帯を巻き、担当医以外には正体を知らせなかった。約二時間後――手術室の扉が開いた。医師は疲労の色を滲ませつつも、口元には安堵の笑みを浮かべていた。「手術は無事成功しました。患者さんは、明日には目を覚ますでしょう」晴臣はこぶしを強く握りしめ、興奮と安堵の入り混じった声で尋ねた。「智哉は……彼の状態は?」「高橋社長も問題ありません。麻酔が切れたら、すぐに目を覚ますでしょう」奈津子は、智哉の隣の部屋に移された。病室で母の顔を見つめながら、晴臣はその手をしっかりと握った。額の髪をそっと撫でながら、かすれた声で語りかける。「……母さん、また生き延びたね」もはや何度目か分からない、生死の境を乗り越える旅。自分が母の腹にいる頃から、二人は追われる生活をしてきた。祖父に保護され、ようやく平穏を手に入れたあの頃から、今日まで――。思い返すたび、胸の奥に苦しみがよみがえる。「母さん、安心して。必ず黒幕を突き止めて、あなたの人生の晩年を、穏やかで幸せなものにしてみせるよ」その時、征爾が病室のドアを開けて入ってきた。やつれた晴臣を見て、声を落とす。「俺が代わりに見てる。少し休め。彼女が目を覚ますのは明日だ。体力もたないぞ」晴臣はじっと彼を見つめ、低い声で訊いた。「智哉は、目を覚ましたか」「目は覚ましたよ。佳奈がついてる。あいつは身体が丈夫だから、ちょっとの手術じゃ倒れないさ。心配いらん」「見