All Chapters of 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて: Chapter 601 - Chapter 610

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第601話

言い終えると、彼女はその書類を手にして雅浩の家を出て行った。車に乗り込むと、俊介は後部座席に置かれた書類の束を見て、眉をひそめた。「麗美の弁護をするつもりか?」佳奈は淡々と答えた。「うん。何か問題ある?」俊介は複雑な表情で彼女を見つめた。「この案件がどれだけ厄介か、浩之がずっと目を光らせてるのも知ってるだろ。下手すりゃ、奴に嵌められるかもしれないんだぞ。それでも、元夫のためにそこまでやる気か?」「彼のためじゃない。奈津子おばさんのためよ。この前、桃花村で聞いたでしょ?奈津子おばさんが智哉と麗美の本当の母親だって。あの人、昔から私にすごく優しくしてくれた。そんな人に、娘を失わせたくないの」その言葉に、俊介は何も言い返せなかった。彼の瞳は深く、静かに佳奈を見つめ、声が少しかすれた。「佳奈……もうこれ以上、智哉のために自分を危険に晒すな」「ちゃんとわきまえてるわ」佳奈は視線を窓の外に移した。その瞳には、じわりと涙がにじんでいた。無視なんてできない。智哉を一人で背負わせるなんて、絶対にできない。麗美を助けて、外祖父の安全さえ確保できれば、智哉は思い切って戦える。二人は車で佳奈のアパートへ向かった。建物の下に着くと、佳奈は「ありがとう」と一言だけ言って車を降りようとした。だがその手首を、俊介がぐっと掴んだ。その顔が、突然佳奈の方へと近づいてくる。二人の視線がぶつかり、呼吸が絡み合う。俊介は喉を鳴らしながら、佳奈の顔を見つめて低く問いかけた。「佳奈……いつから鬱が再発したんだ?」その言葉に、佳奈は一瞬驚いて固まった。反射的に彼を突き飛ばすこともなく、ただその場で動けずにいた。おかしい……昔の彼女なら、男に触れられるだけで嫌悪感を覚えていた。手を引かれるだけでも不快だったはずなのに――俊介とのこの距離、鼻先が触れそうなほど近いのに、拒絶しなかった。ようやく我に返った佳奈は、俊介を軽く押し返し、緊張した声で言った。「田森坊ちゃん、ちょっとお節介が過ぎるわよ」だが俊介は引き下がらなかった。佳奈を座席に押し留めたまま、深い瞳で彼女を見つめる。その瞳には、言葉にできないほどの痛みが滲んでいた。「俺の知り合いに、いい精神科医がいる。今度M国に出張する時に、そい
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第602話

佳奈はそう思った瞬間、心臓を鋭く抉られたような衝撃を受けた。俊介に対する特別な感情、そして父の彼に対する態度を思い出しながら、佳奈の脳裏に信じがたい一つの仮説が浮かんだ。その考えが頭を離れず、無意識に拳を強く握りしめる。俊介の車が遠ざかっていく方向を見つめながら、小さく呟いた。「智哉、本当にあなたなの……?」翌日。佳奈がオフィスに入るや否や、秘書が駆け寄ってきた。「藤崎弁護士、お客様がお待ちです。名前は岸本とのことです」その名字を聞いた瞬間、佳奈は誰が来たのかすぐに察した。すぐに応接室へと足を運ぶ。扉を開けると、スポーツウェアに身を包み、キャップをかぶり、黒いマスクで顔を隠した女性が窓辺に立っていた。物音に反応して、彼女はゆっくりと振り返り、マスクを外すと、そこには里佳の顔があった。「藤崎弁護士」佳奈は余計なことは聞かず、ただその瞳の奥を見ただけで、彼女が瀬名お爺さんの鑑定を受け、隆三にも会ってきたことを理解した。軽く頷いて、ソファを指し示す。「お父さんに会ったの?」里佳の目が瞬時に赤く染まり、声を震わせながら言った。「本当に……浩之が殺したの?」佳奈は冷静な表情を崩さずに答える。「警察はすでに実行犯グループを逮捕したわ。ただ、今のところ浩之との直接的な証拠は見つかっていない。でも、黒幕が彼だということは間違いない。瀬名グループは製薬会社で、浩之はこの数年、莫大な利益を得るためにウイルスを開発していた。ウイルス戦争を引き起こし、自社の抗ウイルス製品を売り込もうとしていたの。あなたのお父さんたちは、その実験台にされたのよ。結局、失敗に終わったけど。現在、国際警察がこの事件の合同捜査を進めているから、すぐに彼の罪も明るみに出るはずよ」その言葉を聞いた瞬間、里佳は両手を握りしめ、目に怒りの炎を宿した。「もし本当に彼が犯人なら、絶対に許さない!」「彼はあなたのお母さんの無知を利用し、お爺さんを誘拐した。もう全部知ってるでしょ?だから聞きたいの。私と手を組む気はある?」里佳はうつむき、苦しそうな声で答えた。「昨日……母に会ったの。彼女、本当に知らなかった……自分が外祖父の娘だって。浩之はずっと騙してた。全部終わったら、私とお母さんを海外に逃がすって言ってた」「真実は
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第603話

白石は訳がわからないという顔で彼女を見た。「たとえあいつが内臓全部取り替えたとしても、癖ってのはなかなか変わらないもんだよ。特に、悪巧みするときに鼻を触る癖は昔からのもんだ。どうした?何か疑ってるのか?」佳奈は首を振った。「ただの推測よ。俊介を入れてちょうだい」「わかった」五分後、俊介がドアを開けて入ってきた。腕には花束を抱え、その整った顔には優しげな笑みが浮かんでいた。「彼女さん、ハッピー七夕!」そう言って花束を佳奈に差し出す。瞳の奥には隠しきれない想いが滲んでいた。佳奈は花を受け取り、口元を少しだけ緩めた。「田森坊ちゃんって、昔からこうやって口説いてたの?受付まで買収したって聞いたけど」俊介は笑って答えた。「だって、君があまりにも手強いからさ。ちょっとくらい賄賂使わないと、入り口すら通れないよ。今やもう、事務所全体が俺が君を口説いてるって知ってるしね。きっとこの情報もすぐに浩之の耳に入る。俺たちの第一段階の作戦は、これで成功ってわけだ」「次は、ABグループを狙いたい。麗美さんの案件から切り込むつもりだけど……田森坊ちゃんのご意見は?」俊介は彼女をじっと見つめながら、ゆっくりと語った。「ABグループは二年前、意図的に騒ぎを起こして、智哉の半導体技術を潰しにかかった。結果的にグループ全体が混乱した。君が今、俺と手を組んでABグループを狙うってことは……俺を使って、元旦那の復讐をしようとしてるんじゃないのか?藤崎弁護士、俺を甘く見ないでくれよ」佳奈は静かに言った。「ABグループは大手財閥の一角。かつてはZEROグループと最大のライバルだった。あなたの元カノもその財閥の令嬢……二年前の事故が彼女と関係あると、あなたは疑わないの?麗美さんの案件は、あくまで入口。もし彼らの犯罪の証拠を掴めれば、芋づる式に色々と暴けるはずよ」「藤崎弁護士って、俺のことそんなに興味あるんだ?俺の元カノまで調べたとは」「それが弁護士の基本よ。どんな小さな手がかりも見逃さない。あなたも気づいてるんでしょう?彼女があなたに近づいたのは偶然じゃない。実は商業スパイで、あの事故にも彼女が関与していた……私の推測、当たってる?」俊介は佳奈をじっと見つめながら、指先で机を軽く叩きはじめた。ただのリズムではない。手のひ
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第604話

佳奈は俊介のへその右側、ちょうど三センチあたりをじっと見つめていた。彼女の記憶では、智哉がアフリカの紛争で撃たれたとき、その場所に傷痕が残っているはずだった。だが、いくら目を凝らしても、それらしい跡は見つからない。見えるのは、俊介の鍛え上げられた腹筋と、滑らかで冷たい白い肌だけだった。佳奈は一瞬、混乱した。――もしかして、勘違いだったの?そのとき、不意に耳元で俊介の悪戯っぽい笑い声が響いた。「藤崎弁護士がわざと俺の服に飲み物をかけたのって、俺の腹筋が見たかったから?そんなに遠回しじゃなくて、ストレートに言ってくれればいいのに」そう言うと、彼はシャツのボタンを一気に外した。完璧な筋肉のラインを描く胸筋と腹筋があらわになる。佳奈は顔を真っ赤に染め、声も少しかすれて低くなった。「すみません、さっきは手が滑って……新しいシャツを買ってきてもらうね」そう言いながら、彼女はデスクの電話を手に取り、秘書に連絡した。「近くのデパートでLUブランドの白いシャツを一枚買ってきて。サイズは190」電話を切ると、俊介が微笑を浮かべながら彼女を見つめていた。「これ、藤崎弁護士からの七夕プレゼントってことでいい?」佳奈は淡々とした表情で答えた。「お客様の衣服を汚してしまったんから、等価の補償をするのは当然の責任だわ。田森坊ちゃんがどう受け取ろうと、私には止められない」俊介は笑いながらシャツのボタンを留め直し、嬉しそうな声で言った。「大物弁護士を彼女にしたら、毎日が法律講座だな。結婚する頃には、俺も法廷に立てるかも」「そんな日は来ないわ」佳奈はきっぱりと言い切った。「どうしてそんなに自信あるの?佳奈、言い切るのは良くないよ。世の中、何が起きるかわからないから」俊介は口元に笑みを浮かべながらそう言ったが、その瞳の奥には深い想いが宿っていた。胸の奥が痛む。佳奈に対して、自分が背負っている罪。彼女には幸せな結婚を与えるべきだった。それができなかった自分を、俊介は許せなかった。だからこそ、どんな代償を払ってでも、償いたいと思っていた。佳奈はそれ以上の会話を避け、案件の話に切り替えた。法律事務所を出た俊介は、晴臣に電話をかけた。「今夜、ひとつ頼みがある。佳奈に疑われた」晴臣はくすりと笑っ
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第605話

「今夜はご馳走させていただくよ」ふたりは車でフレンチレストランへ向かった。車を降りた瞬間、佳奈の目に馴染みのあるシルエットが飛び込んできた。一瞬、頭の中が真っ白になる。思わず俊介の方を振り返った。自分が今どんな気持ちなのか、佳奈にも分からなかった。でも、智哉の姿を見たその瞬間、今までの疑念が一気に霧散していくようだった。ちょうどその時、智哉と綾子も車を降りたところだった。智哉の視線が、深く彼女のほうへと注がれる。佳奈は無意識に拳をぎゅっと握りしめた。もし俊介が智哉だとしたら、目の前のこの智哉は一体何なのか。ひとりの人間が、同じ時間に同じ場所にふたり存在するなんて、あり得ない。俊介は佳奈の青ざめた顔を見下ろしながら、肩を優しく抱き寄せた。「どうした?元旦那の隣に女がいるの見て、ヤキモチでも焼いてるのか?」佳奈はすぐに感情を抑え、微かに笑みを浮かべた。「いいえ、中に入ろう」そう言って、俊介の腕に身を任せながらレストランの中へと歩き出した。綾子は智哉を見ながらわざとらしく言った。「高橋社長、あれ藤崎弁護士ですよね?七夕に田森坊ちゃんと一緒に来るなんて、もう付き合ってるんじゃないですか?」智哉は綾子を一瞥し、低い声で言った。「江原秘書、今日は取引先との会食だ。余計な詮索はするな」綾子はすぐに頭を下げた。「すみません。ただ、高橋社長が藤崎弁護士に他の男がいるのを見て、気を悪くされるんじゃないかと……」「俺を裏切った女と、まだ一緒にいられると思うか?」そう言うと、智哉は踵を返してレストランの方向へ歩き出した。その言葉を聞いた綾子の唇には、満足げな笑みが浮かぶ。すぐに智哉の後を追った。俊介は佳奈を連れて、特大の個室に入っていった。扉を開けた瞬間、佳奈はその場で固まった。部屋の隅々まで花で埋め尽くされており、色は彼女の好きなピンクと白。大きく飾られた『LOVE』のライトが、暖かい黄色の光を灯している。足元には花びらが敷き詰められ、雰囲気照明に照らされて一層華やかに映えていた。壁にはLEDライトで「佳奈」の名前が点滅している。部屋全体の装飾は、まさに佳奈が好むタイプ――ロマンチックで、どこか癒しと温もりがある空間だった。こんな特別な日に、こんな光景を
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第606話

料理が運ばれ終わると、店員は静かにその場を離れた。俊介はデキャンタからロゼワインを手に取り、佳奈のグラスにゆっくりと注いだ。唇の端には、抑えきれない高揚の笑みが浮かんでいた。彼と佳奈が別れてから、もう二年。夜が更けて静寂に包まれるたび、彼の脳裏には二人で過ごした幸せな日々の光景が浮かんでくる。その一つ一つの記憶が、胸に銀の針を突き刺すような痛みをもたらす。記念日が来るたび、彼は海の向こう岸に立ち、遠くを見つめていた。佳奈のそばに飛んでいき、ぎゅっと抱きしめたい。そう思うたび、心が千々に乱れた。子どもは、まだ生きている――その事実を伝えたくてたまらなかった。けれど、かつて自分が佳奈に与えた深い傷を思い出すと、その衝動はすべて、波に飲み込まれるように消えていった。グラスに注がれたロゼワインは、芳醇な香りを放ちながら、静かに満ちていく。まるで今の俊介の心のように、佳奈への思いが、静かに、しかし確かに溢れていた。ただ、佳奈の隣に座って、一緒に食事をしたい。それだけでよかった。俊介はワインを佳奈に差し出し、何かを言おうと口を開きかけた。その時、スマホが突然鳴り出す。画面を見た俊介は、すぐに佳奈の方へ目を向けた。「ごめん、ちょっと電話に出る」佳奈は目が良く、記憶力も抜群だった。俊介のスマホには発信者名の表示はなかったが、その番号を一目見ただけで、誰からの電話かすぐに分かった。――晴臣。佳奈は表情を変えず、静かにうなずいた。そして俊介が部屋を出て行くのを見送ると、すぐにスマホを取り出し、あるメッセージを送信。ほどなくして返信が届く。その文字列を見た瞬間、佳奈の美しい瞳が、ゆっくりと暗く沈んでいった。俊介は人気のない場所に移動し、通話ボタンを押した。「どうした?」「兄さん、綾子がワインに何か入れたみたい。彼女、俊介と佳奈さんに関係を持たせて、それを暴露するつもりなんだろう。兄さんが佳奈さんを諦めるように」その言葉を聞いた俊介の目が、さらに冷たく光る。低く沈んだ声で告げた。「そこまでやるなら、こっちも予定を早める。今夜、決行だ」「了解」通話を切ると、俊介はすぐに個室に戻った。だが、ドアを開けた瞬間、異変に気づく。佳奈がテーブルに突っ伏していたのだ。嫌な予感が脳内
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第607話

智哉はその言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。茫然と佳奈の涙で濡れた顔を見つめながら、思わず問いかける。「き、君……わざとだったのか?」「じゃなきゃ何?身分を変えて、また私をバカにして騙すつもり?」「じゃあ、薬を飲んだのは本当?」佳奈は赤くなった目尻で彼を見つめながら、かすれた声で答える。「お酒に薬が入ってるのは分かってた。でも、それでも飲んだの。あなたが本当は誰なのか、知りたかったから。晴臣にあなたのフリをさせて、私の疑いを完全に消そうとしたんでしょ?綾子を騙せても、私は騙せない。晴臣はタバコを吸うとき、必ず左手で挟む。でも、あなたは右手。それだけで、あの人があなたじゃないって分かった。だから、あなたが彼を使って私の目を欺こうとしたって気づいたの。智哉、私を弄ぶのがそんなに楽しいの?」その言葉を聞いて、智哉は喜んでいいのか、悲しむべきなのか分からなかった。佳奈の鋭い洞察力は、やはり誰にも敵わない。まさか、こんなに早くバレるとは思ってもいなかった。彼の目には隠しきれない感情が浮かび、低い声で口を開いた。「佳奈……君を守るために、智哉としては近づけなかった。でも、放っておくこともできなかった。だから俊介という身分を使ったんだ。この身分なら浩之の疑いを招かないし、簡単には手を出せない。そうすれば、君を守れると思ったんだ」佳奈は自嘲気味に笑った。「それで感謝しろって?ごめん、そんなやり方は受け入れられない。もし私を信じてくれてたなら、最初から話してくれたらよかったのに。バカにするみたいに騙す必要なんてなかった。別の身分で近づいてきたのは、私がまだあなたに気持ちがあるか試したかったからでしょ?別れる時に言ったよね、一度手放したら、もう振り返らないって。今の私がやってることは、全部子どものため、そして父の仇を討つため。智哉、あなたとはもう何の関係もないの」佳奈の声は弱々しく、力もなかった。それでも、その言葉は智哉の胸を鋭く刺した。彼の目が陰り、低く沈んだ声で続ける。「佳奈……本当は全部話したかった。でも、俊介としての使命は重いんだ。智哉の仇を討つだけじゃなく、田森さんの大きな案件も追ってる。生きて帰れる保証なんてない。もし何かあった時、俊介という協力者を失うだけで済むなら
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第608話

智哉は佳奈の強い意思に抗えず、彼女を抱きかかえてバスルームへと連れて行った。そして、佳奈を湯船の中へそっと下ろす。冷たい水が、彼女の火照った身体をゆっくりと冷ましていく。その頃――綾子はクライアントとの食事の席にいた。そこへスマホに一通のメッセージが届く。画面を開いた綾子の目に映ったのは、ほんのさっき部屋で起きた出来事の写真だった。彼女は唇の端を得意げに吊り上げた。そして返信する。【各メディアに流して。法曹界のトップ女性弁護士が新しい恋人を見つけたって】この情報が世に出れば、佳奈が再び智哉の元に戻る可能性は完全に潰える。智哉は、もう彼女だけのものになる。そう思うだけで、綾子の胸は快感で満たされた。彼女はテーブルに置かれたウェイターが注いだばかりの赤ワインを手に取り、一気に飲み干す。そして目元を細めながら、クライアントに向かって微笑んだ。「村本社長、ちょっと高橋社長がトイレに行ったまま戻ってこないので、様子を見てきますね」村本社長は綾子の胸元に目をやり、いやらしい笑みを浮かべる。そのまま大きな手で綾子を抱き寄せた。「江原秘書、君が智哉に惚れてるのは分かってる。このプロジェクトを取らせたいんだろ?俺のものになれば渡してやるよ、どうだい?」綾子は恐怖に震えながら抵抗した。「村本社長、やめてください。私は高橋社長の秘書です!」「ハッ!智哉がまだ二年前のあの輝いてた男だと思ってるのか?とっくに地に堕ちたんだぞ。今日ここで君をどうしようが、あいつは何も言えやしないさ」そう言って、村本社長は綾子の唇に噛みついた。綾子は抵抗しようとしたが、なぜか身体から力が抜けていく。ぐったりとしたまま、村本社長の唇が彼女の身体を這うのを止められなかった。そのとき――部屋のドアが勢いよく開かれた。綾子はてっきり智哉が戻ってきたのかと思った。だが、そこに現れたのは凶悪な形相の中年女だった。女は太っていて、厚化粧。ギラギラした目で二人を睨みつける。「何してんの、あんたたち!」村本社長は慌てて綾子を突き放し、女の元へと駆け寄る。彼女を指差して言い放った。「誤解だよ!こいつが俺を誘惑してきたんだよ!プロジェクトが欲しいからって!」綾子は何か言い返そうとしたが、喉に何か詰まったよう
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第609話

綾子はその問いを聞いた瞬間、ビクリと体を震わせた。呆然と智哉の顔を見つめ、口をぱくぱくと動かしながら、やっとのことで震える声を絞り出した。「な、何をおっしゃってるのか、分かりません……私は綾子です。療養院であなたと知り合ったんですよ」智哉の唇が冷たく歪む。どこか邪悪な笑みを浮かべながら言った。「そうか?じゃあ教えてくれよ、俺たちが楓の木の下に埋めたもの、覚えてるか?」「未来の自分への手紙……あなたの分は、私が代わりに書いたの」綾子は即座に答えた。智哉はその返答をすでに予想していたようで、鼻で笑いながら言った。「そうか。じゃあ俺がその手紙を書いたとき、お前に言った大事な一言、覚えてるか?」その言葉を聞いた綾子は、ぽかんとした表情になった。手紙の内容を聞いてくるんじゃないの?なんでそんなことを聞くの……?そんな話、誰からも聞いたことないのに。しどろもどろになりながら、やっと口を開いた。「時間が経ちすぎて……忘れました」智哉の目が冷たく細まり、声はさらに低くなった。「忘れたんじゃなくて、知らないんだろ。本当は、お前が11号じゃないからだ」その冷たい視線に、綾子は思わず一歩後ずさった。「わ、私は11号です!信じられないなら、療養院の院長に聞いてください!この顔をちゃんと覚えてるはずです!」智哉は小さく笑った。「その院長は浩之の愛人だ。俺と11号の情報を記録していたのも、11号の存在を隠していたのも、全部彼女の仕業だ。俺にずっと偽物を掴ませるためにな」「綾子、お前、俺のことをバカだと思ってるのか?」その言葉に、綾子の心の防壁は完全に崩れた。目には一瞬で涙が溢れた。「じゃ、じゃあ……あなた、最初から私が偽物だって知ってたの?」「偽物だってだけじゃない。お前の家が没落したのも、全部浩之の筋書き通りだった。お前の信頼を得て、利用するためにな」綾子は信じられないという表情で智哉を見た。「そんなはずない……私は江原家の血を引く者よ。浩之とは親戚で、私は彼を叔父と呼んでる。彼と父は従兄弟だったのよ。どうしてそんな人が私たちを裏切るの……?」智哉は薄く笑った。「だからこそだ。浩之の本名は『啓之』。江原家のお嬢様、江原美波(えはら みなみ)の隠し子だって知ってるか?」「そ、
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第610話

唇が小刻みに震えていた。どれほどの時間が過ぎたか、彼女はやっとかすれた声で口を開いた。「私の任務は、あなたの行動をすべて監視して、浩之に報告することだったの。それだけじゃない……彼は私に、佳奈さんの代わりとしてあなたの心の中に入り込めって……そして高橋夫人の座を手に入れろって言ったの。それで、俊介さんと佳奈さんの飲み物に薬を入れろって命令された。目的は二人をくっつけて、あなたがまだ佳奈さんを忘れてなければ、きっと俊介さんに怒りをぶつけるはず。浩之の狙いは一石二鳥よ」その話を聞いた瞬間、智哉の表情はさらに冷たくなった。唇の端がわずかに引きつる。「じゃあ、見た通りをそのまま浩之に報告しろ。お前はこれからも俺の秘書だ。俺が報告しろと言ったことだけを報告しろ。逆らったらどうなるか……お前は知ってるよな?」綾子の目には鋭い光が宿る。「安心して。もうあんなやつのために動くつもりはない。あいつは私の両親を殺した……絶対に許さない」「分かってるならいい。後で服を届けさせる」そう言い残し、智哉は部屋を出て行った。車に乗り込むと同時に、彼は顔から仮面を外した。現れたのは、晴臣の端正な顔立ちだった。彼はスマートフォンを取り出し、俊介に電話をかけた。「計画通りだ」俊介はちょうどバスルームの前に立っていた。電話を切った彼の目には、鋭く冷たい光が宿っていた。これでまたひとつ、浩之の監視の目を潰した。計画の成功に一歩近づいたのだ。そのとき、バスルームの中から何かが割れる音が聞こえてきた。俊介はすぐにドアをノックして声をかけた。「佳奈、大丈夫か?」佳奈の声は弱々しく返ってきた。「だいじょうぶ……」だが、その声には、隠しきれない苦痛の色がにじみ出ていた。俊介はもう我慢できず、ドアを開けて中に飛び込んだ。目に入ったのは、床に崩れ落ちた佳奈の姿だった。腕や太ももは、砕けたガラスで切り傷だらけになっていた。俊介はすぐさま彼女を抱き上げた。その瞳には、深い哀しみと怒りが浮かんでいた。「佳奈……怪我してるじゃないか。すぐに薬を塗るぞ」佳奈はすでに冷水の浴槽に三十分も浸かって、これで薬の効果も消えたと思っていた。浴槽から出ようとしたとき、足に力が入らず、まるで綿の上を歩くようにふらついた。
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