All Chapters of 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて: Chapter 611 - Chapter 620

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第611話

冷たい感触と、懐かしい匂いが、佳奈の脳内を一瞬で爆発させた。 彼女は必死に抵抗しようとした。こんなにも自分を堕とす熱いキスから逃れようと、もがいた。 だけど、体にはもう力が残っていなかった。 智哉の胸を叩く拳は、まるで猫掻きのように弱く、彼を止めるには程遠い。 その仕草は、却って智哉の中に長く押さえ込まれていた獣を刺激するだけだった。 彼は荒い息を漏らしながら、佳奈の唇を何度も甘噛みした。 喉から漏れる声は、掠れて低い。 「佳奈。前に君が薬にやられた時、俺は君を見捨てた。君を死にかけさせた。だから今回は、たとえ殺されても、君を放っておいたりしない」 そう言い終わると、彼の舌が佳奈の口内に深く入り込んできた。 一瞬で、彼女の呼吸は奪われた。 佳奈は思わずくぐもった声を漏らす。 だが、こんなにも強引な智哉を前にして、しかも薬の影響もあって、彼女の警戒心は少しずつ溶けていった。 そのまま身を任せ、智哉と共に深く沈んでいく。 服は床に落ち、部屋の空気は甘く熱く染まっていく。 二年ぶりに触れ合う恋人たち。薬などなくても、智哉はまるで薬をキメたかのように狂おしく佳奈を求めた。 何度も、何度も。 この瞬間の彼らには、過去の因縁も、復讐の念もなかった。ただ、この奇跡のような再会を、心の底から貪るだけだった。 どれほどの時間が経ったのか、佳奈はついに力尽き、ベッドに沈み込んだ。 その瞳にはまだ涙が残っていた。 智哉はその目元にそっとキスを落とし、掠れた声で囁いた。 「今度は優しくするから、な?」 そう言って、また一つコンドームの袋を破った。 その光景に、佳奈の瞳孔が一気に縮まる。 疲れ切った声で抗うように言った。 「智哉……薬の効果、もう切れたの。もう助けてもらわなくていいから……」 しかし、智哉は構わず再び彼女に覆いかぶさった。 口元にはいたずらっぽい笑みを浮かべながら。 「でも、俺の薬は……今から効き始めるところなんだよ」 佳奈は慌てて布団に潜り込んだ。 「何回目よ!?あんた種馬か!?そのうち種切れになって、子供作れなくなるわよ!」 智哉は笑いながら彼女の唇に軽くキスをした。 「今回は、動かなくていい。俺がするから」 その言葉が終わるか終わらないかのうち
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第612話

佳奈は俊介の悪戯っぽく笑う顔を睨みつけながら、彼の腰の肉を思い切りつねった。俊介はわざとらしく大声を上げた。「俺の腰、もう壊れてんのに、まだつねるなんて……」ふたりはふざけ合いながら車に乗り込んだ。背後では、メディアの連中がカメラに収めた意味深な写真を見て、満足げな笑みを浮かべていた。これは間違いなく、話題沸騰のビッグニュースになる。案の定、【法曹界トップ女性弁護士・佳奈、金融界の御曹司・田森坊ちゃんと一夜を共に!?】というスキャンダルが瞬く間にトレンド入りを果たした。そのニュースを見た浩之の顔には、陰湿な笑みが浮かんだ。「智哉、お前の元嫁、他の男に取られたぞ。どうするつもりだ?」彼にとってこの手は、かつて佳奈を陥れようとしたどんな策略よりも効果的だった。心を抉ることほど、彼を興奮させるものはない。智哉が佳奈を忘れていようがいまいが、浩之にとってそれは最大の屈辱だった。そのとき、秘書が報告に来た。「旦那様、ABグループの人間が裁判所に連れて行かれました。銀行からのローン返済が滞っていたようです」その言葉を聞いた瞬間、浩之の顔色が曇った。「絶対に俊介の仕業だ。お前に俊介の事故のことを調べさせてたろ、まだ結果は出ないのか?」「俊介の事故はかなり深刻で、生死の境をさまよっていたそうです。田森家が最高の医師を呼び寄せて、なんとか一命を取り留めました。その後、二年間療養して、ようやく公の場に姿を見せたんです」浩之の目が細く鋭くなる。「どうも腑に落ちない……長い間姿を見せなかった俊介が、現れた途端に佳奈に接触するなんて……ただの一目惚れってわけじゃないだろうな?」秘書が笑って答えた。「佳奈さん、美人ですし、実力もある。法曹界の高嶺の花とまで言われてますし、彼女を狙うのは名門ばかり。俊介さんも男ですから、色に惑わされてもおかしくありませんよ」浩之は目を細めたまま低く言った。「そうだといいがな……もし奴らが手を組んで俺たちに牙を剥いたら、やっかいなことになる。佳奈を甘く見るな。ここ二年で、彼女の人脈はかなり広がっている。今やどの企業のトップも彼女を怒らせるのを恐れてる。彼女を敵に回すってことは、法曹界の地獄の番人を敵に回すってことだ。命までは取られなくても、ただじゃ済まない」秘書が口を開
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第613話

二人は車を走らせ、そのまま病院の監視室へ向かった。モニターには、あの車のナンバープレートが映し出されていた。俊介はすぐさま秘書に調査を指示した。佳奈は呆然とモニターを見つめ、映っている二人の誘拐犯を凝視していた。彼女の両手は強く握りしめられ、拳は白くなるほどだった。何度も映像を再生するうちに、その手にはますます力がこもっていく。ふと、彼女の目が一人の犯人の耳に留まった。そこには黒いピアスがついていた。佳奈ははっきり覚えていた。美誠が自分を訪ねてきたとき、まさに同じピアスをしていたのだ。彼女はすぐに画面を指差して言った。「この人、美誠よ」俊介の目がわずかに鋭くなり、その犯人をじっと見つめた。犯人は黒いスポーツウェアを着て、野球帽をかぶり、マスクで顔を隠していた。顔ははっきり映っていなかった。美誠は背も高く、体格的にも男に見えるほどだった。俊介は佳奈の肩を軽く叩いて言った。「美誠なら話は早い。目的は一つ、相続権を手に入れることだ。だから、お父さんを傷つけたりはしないさ」その推測に少し安心したのか、佳奈の強く握られていた拳がようやくほどけた。彼女は低い声で言った。「彼女が最近誰と接触していたか、どこに住んでいるか、全部調べられるはず」「すぐに人を動かすよ。君はあまり心配しないで」一時間後。俊介の元に電話が入った。「旦那様、車は見つかりましたが、目的の人物は乗っておりませんでした。どうやら車を乗り換えたようです」「監視カメラには、乗り換えの様子は映ってないのか?」「その道のカメラは故障中でした」俊介は眉間を押さえながら言った。「美誠の可能性がある住所をすべて調べろ。一箇所も見逃すな」「はい、すぐに調査します」電話を切った後、俊介は深い黒い瞳で佳奈を見つめた。「心配しないで。必ず見つけ出す」佳奈は目を赤くしながら俊介を見た。「やっと父が回復してきたのに、こんなことがあったらぶり返すかもしれないのよ」「大丈夫だ。篠原先生がそばにいるし、それに――もし本当に美誠なら、彼女の狙いは金であって命じゃない」「でも……もし美誠が浩之に利用されていたら?」その一言に、俊介は言葉を詰まらせた。それこそが、彼の一番恐れていたことだった。浩之という男
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第614話

佳奈はその言葉を聞いた瞬間、表情が一気に冷え込んだ。「相続権が欲しいなら、まずは父を解放して」美誠は鼻で笑った。「私をバカだと思ってるの?あなたの父親を解放したら、もうお金なんて手に入らないじゃない。佳奈、ふざけないで。今すぐ手続きに行って。清司の全財産を私の名義に移すのよ。さもなければ、彼が生きてあなたに会える保証なんてないから」佳奈はなんとか冷静さを保とうとし、声を低く落とした。「美誠、お金が欲しいなら渡すわ。でも父の財産は、一円たりともあげない。あれは父が一生かけて築いたものよ」美誠はまた笑った。「でも私が欲しいのは、その財産だけ。あなたのお金なんて興味ないわ」その言葉に、佳奈の目がわずかに陰った。そして口を開いた。「わかった。まずは父の様子を見せて。それから手続きに行くわ」まもなくして、美誠から一本の動画が送られてきた。そこには、車椅子に座った清司の姿が映っていた。目を大きく見開き、口をパクパクと動かして、何かを佳奈に伝えようとしているようだった。だが、声はまったく出ていない。必死に何かを訴えようとしているのか、額には汗が滲んでいた。その動画を見て、佳奈はすぐに言った。「財産を移すって、そんなに簡単なことじゃない。たくさんの手続きが必要で、数日かかるわ。その間、父の安全は絶対に保証してもらう」美誠は冷たく言った。「佳奈、大人しくしてなさい。じゃないと、あなたの父親はここで死ぬことになるわよ」「父はあなたの手の中にある。私が大人しくしないはずないでしょ?毎日父の様子を動画で送って。それに、手続きの進捗も逐一報告するわ。これでお互い安心できるでしょ」美誠はニヤリと笑った。「わかってるじゃない。さっさと済ませなさいよ」そう言って、通話は切られた。佳奈は送られてきた動画を何度も再生して、じっと見つめた。何かが引っかかる――父がいる場所が、どこか見覚えのある環境だった。俊介も画面を覗き込み、清司の動く口元をじっと観察した後、口を開いた。「お父さん、藤崎家の本邸にいるよ」佳奈は目を見開いた。「唇の動きが読めるの?」「うん。この二年間、俊介として生きるために、声の真似だけじゃなく唇の動きも練習したんだ。俊介は唇の動きで会話を読むのが得意だったからね。
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第615話

俊介はその計画を聞いて、胸が締めつけられるような気持ちになった。 かつての佳奈なら、絶対にそんな選択はしなかったはずだ。 彼女は迷わず、まず父親の救出を最優先にしただろう。 だが今の彼女は、まるで軍師のように冷静沈着に全体の作戦を練っていた。 この二年間、彼女が一人でどれほどの苦悩と困難を経験してきたのか……想像するだけで俊介の胸が痛んだ。 俊介はそっと彼女を抱きしめ、慰めるように言った。 「安心して。俺が必ずお父さんの安全を守る」 佳奈は顔を上げて、俊介を真っ直ぐに見つめた。 「言葉には気をつけて。一回お父さんって口にしちゃうと、クセになって身バレするわよ」 「分かってる。それが真実を君に隠してた理由の一つでもあるんだ。感情を抑えるように努力するよ」 そう言って、彼はスマホを取り出し、藤崎家に人を向かわせるよう指示を出した。 一方その頃―― 美誠は電話を切ると、清司を見下ろしながら冷笑を浮かべた。 「清司、驚いたでしょ?本当の娘は私なのよ。あなたの財産を受け取るのは当然の権利ってわけ。安心して、佳奈が素直に従って財産を渡してくれれば、あなたには手を出さないわ」 清司の顔は怒りで真っ赤になり、首まで膨れ上がっていた。 昏睡状態にあったとはいえ、ここ最近の出来事はすべて把握していた。 唇をわななかせ、目を見開いて美誠を睨みつける。 額には怒りの血管が浮かび、両手は車椅子の肘掛けを力いっぱい握りしめていた。 だが、どれだけ力んでも、一言すら声に出すことはできなかった。 そんな清司の様子を見て、美誠は満足そうに笑みを浮かべた。 「今のあなたはただの廃人よ。私が言うことがすべて。警察が来たって、どうせ何もできないでしょ?私はただ、父親が自らの意思で財産を実の娘に渡したって言えばいいだけ。今までの償いとしてね。 二人で仲良くしてなさいよ。ちょうど昔話でもしてなさい」 そう言い残し、彼女はドアをバタンと閉め、鍵をかけて出て行った。 清司は怒りでドアを睨みつけ、車椅子の肘掛けを何度も叩いた。 その様子を見た聡美は、そっとため息をついた。 「清司、無理しないで……あなたが目を覚ましただけでも奇跡なのよ。二年も昏睡してたんだもの。舌も声
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第616話

「旦那様、麗美さんが無罪放免となり、帰国できることになりました」その言葉を聞いた瞬間、浩之の顔色が一気に曇った。「そんなはずはない……どういうことだ?」「旦那様、私たちは佳奈に騙されていたんです。彼女はとっくにM国に密かに入っていて、ABグループが高橋グループのコンピューターに侵入し、チップ技術を盗み出し、それで偽のスマホを製造して爆発事故を起こしたという証拠を手に入れたんです。さらにABグループが商業連盟を口実にして、他のグループから資金を巻き上げていた証拠も見つけました。これらの証拠があれば、ABグループは危機に陥ります。あの会社はM国のハイテク産業のトップなので、国としては潰せない。だから麗美さんに対する訴えを取り下げたんです」その説明に、浩之は怒りに震えながら車椅子の肘掛けを強く握りしめた。顔には陰鬱な怒りがますます濃く浮かび上がっていた。「佳奈……俺を弄んだな。絶対にただじゃ済まさないぞ!」そう吐き捨てた後、即座に命じた。「藤崎家に動くよう伝えろ。佳奈に裁判で勝たせてやっても、親父さんには二度と会わせねえ」だが、その言葉が終わるか終わらないうちに、再びスマホが鳴り響く。「旦那様、藤崎家に突然警察が押し入ってきて、清司さんを救出しました。それに、美誠が逮捕されました……どうやら、完全に罠だったようです」立て続けの打撃に、浩之の怒りが一気に爆発した。スマホを思い切り床に叩きつける。二つの戦で、佳奈はあまりにも鮮やかに勝利を収めた。偶然とは到底思えない。きっと最初から清司の居場所を突き止めていたのだ。だが、浩之を油断させるために、すぐには救出せず、あえて「空城の計」を演じたに違いない。これで麗美という駒は使えなくなった。手元に残るのは瀬名お爺さんのみ。一刻も早く、あの爺さんからすべてを引き出し、瀬名家の実権を手に入れなければならなかった。――一方その頃。麗美の裁判は国内外で大きな注目を集めており、裁判所の前には多くの記者が詰めかけていた。佳奈が建物から出てきた瞬間、記者たちが一斉に取り囲む。「藤崎弁護士!今回の裁判結果について、少しお話しいただけませんか?」佳奈は落ち着いた表情で答えた。「裁判は順調に進みました。麗美さんは無事に帰国できます」その言葉を聞いた瞬
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第617話

「個人的な感情については、もう過去のことです。今はただのビジネス関係にすぎません。皆さん、関心を寄せてくださってありがとうございます。本日はここまでにさせていただきます。どうぞお引き取りください」そう言い終えると、彼女は人混みの中を通り抜けようとした。だが、こんなにおいしい話題を記者たちが簡単に手放すはずがない。マイクを握ったまま、さらに質問を重ねてきた。その時だった。黒塗りの高級車から一人の男が降りてきた。男の手には花束。黒いサングラスをかけ、シルバーグレーのオーダースーツに黒いネクタイという出で立ち。長く引き締まった脚で力強く歩きながら、佳奈の方へと向かってくる。俊介は群衆をかき分けるようにして、佳奈をそのまま抱き寄せた。そして花束を渡し、口元に笑みを浮かべながら言った。「藤崎弁護士、おめでとう」佳奈は少し驚いた。この人、こんなにすぐキャラ変するものなの?さっきまで傍聴席で真剣な顔してたのに、今やすっかりあのプレイボーイの田森坊っちゃんになってる。佳奈は花を受け取り、微笑みながら「ありがとう」と言った。その様子を見た記者たちの好奇心はますます膨らんだ。以前、佳奈に新しい恋人ができたという投稿がトレンド入りしたことがあったが、当時はどちらもノーコメントだった。ところが、今こうして堂々と一緒にいる。記者たちはたまらず追及を始めた。「藤崎弁護士、田森坊っちゃんとお付き合いされているんですか?以前の噂は本当だったんですか?」佳奈は俊介を一瞥し、その意図をようやく理解した。彼は二人の関係をはっきりさせるために、わざわざ現れたのだ。佳奈はほのかに笑みを浮かべて言った。「田森坊っちゃんは、今の私の彼氏です」俊介はその言葉を聞き、記者たちに笑顔で手を振りながら、落ち着いた声で言った。「はい、今日の質問はここまでにしましょう。これから彼女と一緒に、お祝いしに帰りますので」そう言って、彼は佳奈の肩を抱きながら人混みを抜け、あの黒い車に乗り込んだ。ドアが閉まる瞬間、彼は佳奈を強く引き寄せ、唇を重ねた。佳奈がちょうど身を引こうとしたその時、俊介の低い声が耳元で囁かれた。「動くな。あいつら撮ってる。恋人関係を確実にするには、これくらいのインパクトが必要だろ?」そう言うと、彼は再
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第618話

「彼が事故に遭ったとき、ちょうど私が近くにいてね。私が彼を病院まで運んだんだ。田森家は最高の医者を呼んだけど、それでも彼は目を覚まさなかった。それで田森お爺さんが私に協力を持ちかけてきた。俊介として表に出てほしいって。一つは、彼の代わりにあの事件の調査を続けるため。もう一つは、私自身が再起するチャンスでもあった。この二年間、調査をしながら俊介の仕草や言動を徹底的に真似てきた。だからこそ、今の私は君でさえ見分けがつかない俊介になれたんだ」その言葉を聞いた瞬間、佳奈は何かに気づいたように目を見開いた。「じゃあ……佑くんが『顔が変わる』って言ってたの、本当はあなたが智哉だって気づいてたってこと?」「そう。その子、頭がいいんだよ。どうやって気づいたのかは分からないけど……そこは君に似たのかもな」佳奈の目が一瞬、翳った。「私たち、血が繋がってないのに……どうして似るのよ」俊介は彼女のその表情に気づき、優しく頭を撫でた。「佳奈」少し掠れた声で彼は言った。「もし……あの時、赤ん坊が生きてたら、その子の安全のために誰かに預けること、できた?」その言葉に佳奈は思わず顔を上げ、目に抑えきれない感情が浮かんでいた。声も自然と低くなる。「そんな可能性、あり得ないけど……でも、もしそうだったとしても、私は絶対に手放さない。安全よりも、母親の愛情が何より大切だと思うから」その答えに、俊介の喉がごくりと鳴った。もし彼女が「預けてもいい」と言っていたら、佑くんのことを話す決心がついたかもしれない。でも、今の彼女に真実を告げれば、きっと彼女は佑くんを手放さないだろう。それは、彼女にも子どもにも、あまりにも危険すぎる。俊介は佳奈の頭を優しく撫でながらつぶやいた。「……君が俺を恨む日が来ないといいな」その言葉はあまりにも唐突で、佳奈は一瞬戸惑った。彼が何かを隠している――そんな予感が胸をよぎる。その時、俊介の携帯が鳴った。画面を見てすぐに通話ボタンを押す。「坊ちゃん、清司さんと篠原先生、無事救出しました。美誠と慶吾は誘拐容疑で警察に連行されました」俊介は佳奈を一瞥すると、電話の相手に聞いた。「清司さんの容体は?」「病院に搬送されて検査中です。篠原先生の話では、大きな問題はなさそうです」
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第619話

藤崎お婆さんは、その瞬間、目を見開いた。心の中で何度も繰り返していた。「ありえない……絶対に、ありえない」千尋はゆっくりと彼女の前に歩み寄った。その冷ややかな瞳には、どこか皮肉めいた光が宿っていた。「じゃあ知ってる?うちの母さんがあんたの息子と付き合ってた頃、すでに神医って呼ばれてたのよ。診てもらいたい人が何千万円からスタートってレベルで並んでたの。そんな彼女が、あんたたち藤崎家のちっぽけな財産に興味持つと思う?」その言葉を聞いた藤崎お婆さんは、信じられないといった顔で聡美を見つめた。二十数年前、藤崎家はまだ名門とは言えなかった。だからこそ、彼女は清司と聡美を別れさせて、上流階級のお嬢様との政略結婚をさせようとしたのだ。だが、清司はそのことに反発して一人で酒を飲みに行き、酔った勢いで裕子と関係を持ってしまい、子どもまでできた。当時の裕子の家はそれなりの名家だったため、彼女は子どもを理由に、無理やり清司と裕子を結婚させた。もし本当に聡美が神医だったとしたら――彼女は、藤崎家に莫大な利益をもたらす嫁を自ら捨てたことになる。治療費が数千万円からって、あの時代の藤崎家の年間利益がやっとそれくらいだったのだ。今となっては、悔やんでも悔やみきれなかった。藤崎お婆さんの態度は一瞬で豹変した。涙ぐみながら聡美に向かって言った。「聡美さん、この子は清司の子なのよね?藤崎家の血を引いてるんでしょ?私の可愛い孫娘、あなたこそ本当の藤崎の家族よ。こっちに来て、顔を見せてちょうだい」そのあまりの手のひら返しに、千尋は思わず鼻で笑った。「私は聡美の娘であって、藤崎家とは一切関係がない。これ以上騒ぐなら、その口も黙らせるわよ?」その一言に、藤崎お婆さんはすっかり怯え、言葉を失った。その様子を見て、佳奈は後ろのボディガードに向かって言った。「この人を連れてって。今後、病室に一歩でも入れさせないで」「かしこまりました」ボディガードは藤崎お婆さんを引きずるようにして病室の外へと運んでいった。それでも彼女は諦めきれずに叫んでいた。「可愛い孫よ、必ずお前を藤崎家に迎え入れてみせるからね!」その言葉に、千尋はまたもや冷笑を漏らした。そして顔を上げ、清司の方を見やると、彼はすでに涙で顔がぐしゃぐしゃになっていた
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第620話

清司の声はとても小さく、言葉もはっきりしなかった。それでも聡美には、二十年以上遅れて届いたその謝罪の言葉が、はっきりと聞こえた。彼女は苦しげに目を閉じた。二十年以上も、彼女はずっと理解できなかった。なぜ清司があの時、あんなにも冷たく突き放したのか。体を重ねたあと、まるで何もなかったかのように彼女を捨てた男。――実は、あれは仕組まれた罠だったのだ。――実は、彼はずっと彼女を妻に迎える方法を模索していたのだ。彼女と駆け落ちすることさえ考えていたのだ。胸の奥で積もり積もった二十年分の憎しみは、その「ごめん」で少しずつ溶けていった。聡美はゆっくりとベッドのそばへ歩み寄り、涙を浮かべながら清司を見つめた。声を震わせながら言った。「清司……千尋は、あなたの娘よ」その一言が、すでに傷つききっていた清司の心をさらに深くえぐった。彼は千尋に視線を向けた。喉の奥に、言葉では言い表せない痛みが込み上げる。両手を強く握りしめ、口を開いた。「ごめん……なさい……」その一言に、千尋の冷たい表情にふわりと微笑みが浮かんだ。彼女の美しい瞳には、かすかに涙が光っていた。だが、彼女は平然を装いながら清司を見つめた。その声には、一片の温もりもなかった。「謝らなくて結構よ。私、子供の頃から父なんていなかったの。私が必要としてたとき、あなたはいなかった。今さら現れても、もういらないの」その言葉が、彼女の気持ちをすべて物語っていた。彼女は聡美に一瞥をくれた。「お母さん、昔あなたたちに何があったかは知らない。でもこの人、私に精子を提供した以外、何もしてくれてない。私はこの人を父親とは認めない。あなたがどう付き合おうと、それはあなたの問題。私は関わらない」そう言い切ると、彼女はくるりと背を向けて部屋を出ていった。ずっとドアの前で待っていた斗真は、彼女の姿を見るなりすぐに追いかけた。「千尋、どうしたの?」千尋は目をパチパチと瞬かせながら答えた。「大丈夫、ちょっと用事思い出したの。先に行くね」「どこ行くんだ?送るよ」「いいの、タクシー呼ぶから」斗真はドアの前に立ったまま、微かに中の会話を聞いていた。そして今、彼はようやく理解した。初めて千尋に会ったとき、なぜか懐かしさを感じた理由を。
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