All Chapters of 結婚は断るのに、辞職したら泣くなんて: Chapter 871 - Chapter 880

咲良はその顔を見た瞬間、驚きの声を漏らした。「あなたなの……？」結衣はゆっくりとベッドのそばに腰を下ろし、咲良の手を握った。ぽろぽろと涙が頬を伝って落ちていく。その声には、言葉では言い表せないほどの痛みが滲んでいた。「咲良、あなたはあのギャンブラーの娘なんかじゃない。あなたは石井家のお嬢様なの。昔、兄があなたを連れて出かけた時に迷子にしてしまって……それで、あなたはあんな苦しい人生を送ることになったの。私の父は治療費が払えなかったから、私を石井家の娘として送り込んだの。この何年もの間、私は彼らの愛情をたっぷり受けてきた。お父さんもお母さんも、おじいちゃんも、お兄ちゃんも……みんな、私のことをすごく愛してくれたの。咲良、ごめんなさい。私があなたの人生を奪ってしまった。本当はあなたこそが石井家のお嬢様で、この愛情も、全部あなたのものだったのに。でも、彼らは私のことをあまりにも愛してくれた。私があなたの誘拐を指示したって知ってても……それでも、私を許すことを選んだの。私を失いたくなかったから、あなたに真実を隠したの。お兄ちゃんが研究って名目であなたを治療してたのも、昔の過ちを償いたかったから。でも安心して。彼らはあなたを認めないつもりだけど、今後の人生のことはちゃんと考えてくれてる。もう、前みたいに苦労させたりしない。私もお姉ちゃんとして、あなたを支えるから。咲良、一緒に暮らすことはできなくても、私たちはずっと家族だよ」結衣はそう話しながら、真っ直ぐな目で咲良を見つめていた。その口調は穏やかで、まるで一片の悪意も感じさせなかった。その言葉を聞いているうちに、咲良の脳裏には幼い頃の断片的な記憶が浮かび上がってきた。そして、その記憶の中には、たしかに彼らの姿があった。記憶の中の自分は、彼らのことを「おじいちゃん」「お父さん」「お母さん」「お兄ちゃん」と呼んでいた。つまり、これまでずっと頭の中に浮かんでいた映像は幻なんかじゃなくて……本当に、幼い頃の彼女の記憶だったのだ。石井先生は、彼女の兄だった。彼女はギャンブラーの娘なんかじゃない。石井家が長年探し続けていた、あの失われたお姫様だった。だけど、その身分は他人に奪われてしまった。もう、戻ることはできない。そう思った途端、咲良の胸に鋭い痛みが走っ

彼女の言葉を聞いた瞬間、石井家の人々は全員が凍りついた。誰もが理解していた。もしあの看護師が本当に結衣だったのなら、彼女が咲良に何を話したのか、想像に難くない。今の咲良はあまりにも弱っていて、ほんの少しの刺激でも命取りになりかねない。もし結衣が事実を捻じ曲げて真実を語れば、咲良の病状が悪化するのは目に見えていた。その可能性が頭をよぎった瞬間、誠健の父の顔色は一気に暗くなり、向かいに立っていたボディガードを鋭く睨みつけて怒鳴った。「咲良を守るために雇ったんだぞ？それでこのザマか？」ボディガードはすぐさま頭を垂れた。「申し訳ありません、石井さん。あの看護師は以前からお嬢様の薬を担当していた者で、特に異常は見られませんでした……」その時、結衣の病室を担当していた看護師が慌てた様子で誠健の父の元へ駆け寄ってきた。泣きそうな顔で言った。「申し訳ありません、石井さん。さっきトイレに行った際、中から鍵をかけられて閉じ込められてしまいました。いくら叫んでも誰も来てくれなくて……」知里がその看護師を一瞥する。黒縁メガネにピンクのナース服、体型も結衣とどこか似ている。マスクをつけたら、確かに見分けはつかないかもしれない。彼女はすぐに口を開いた。「石井おじさん、今は一刻も早く結衣を見つけるべきです。彼女は看護師に成り済まして咲良の病室に入れたんです。他にもどんな悪事を働くか分かりません」誠健の父はすぐさまボディガードに視線を向けた。「病院内をくまなく探せ。結衣を見つけ出して、ここに連れてこい」奥歯をグッと噛み締め、苛立ちを噛み殺す。長年、彼女にどれだけ優しくしてきたことか。誠健と彼女が喧嘩するたびに、いつも彼女の味方をしてきた。まさか、こんなにも黒い心を持っていたとは……その頃、病室の中では誠健が必死に咲良の救命を行っていた。額にはうっすらと汗がにじんでいる。看護師がタオルでその汗を拭いてくれた。「患者のデータを報告しろ」冷たい声で指示を飛ばす。「心拍数38、血圧50です」その数値を聞いた瞬間、誠健の全身から冷や汗が噴き出す。このままでは危険だ――そう直感した彼は、すぐさま別の救命措置に切り替えた。そこへ、別の看護師が病室に入ってきて報告する。「石井先生、知里さんがお話したいと

誠健の唇は火が出そうなほど熱く、吐き出す息もまるでサウナのように熱かった。知里はすぐに異変を感じて、小さな声で呼びかけた。「誠健、もしかして熱あるんじゃない？」「いや、大丈夫。ただちょっと疲れてるだけ。少し抱かせてくれたら、復活できるから」「でも、こんなに熱いなんて……ちょっと触らせて」誠健は彼女の肩に顔を埋めたまま、くすっと低く笑った。「どこに触るの？もしかして、あそこ？」「何バカなこと言ってんの。隣に座ってて、体温計持ってくるから」そう言って知里はすぐに看護師を呼び、体温計を借りて誠健の脇に挟んだ。ここ数日、ほとんど寝ておらず、連続で救急処置や大手術をやっていた。これで倒れない方がおかしい。こんな誠健の姿を見るのは、知里にとって初めてだった。いつもは飄々として、余裕たっぷりの態度ばかり。こんな弱った姿を見せられると、さすがに胸が締めつけられる。数分後、知里は体温計を取り出し、表示された数字に目を見張った。「誠健、熱あるよ。39.5度もある」その声に反応して、誠健の母がすぐに駆け寄ってきた。息子を見つめる視線は、どこか痛ましげだった。「こんな高熱、何年ぶりか……前回は小さい頃、咲良を助けに氷の池に飛び込んだ時だったわね。知里、私たちは咲良の様子を見てるから、誠健を家に連れて帰って、薬飲ませてあげて」知里は心配そうに聞き返した。「こんな高熱、点滴とかしなくて大丈夫ですか？」「大丈夫よ。解熱剤を何回か飲ませれば下がるわ。あの子、医者のくせに小さい頃から注射と点滴が大嫌いだったの。予防接種するだけで、半日泣いてたんだから」誠健はうっすら目を開け、かすれた声で答えた。「お母さん、俺の黒歴史、嫁の前で暴露しないでくれる？俺のカッコいいイメージが一瞬で崩れたよ」誠健の母は笑いながら言った。「嫁の前でカッコつけたって意味ないのよ。お父さんなんて一生カッコつけてるけど、未だに成功してないんだから」その声に誠健の父も調子を合わせた。「お母さんの言う通りだぞ。嫁の前ではちょっとくらい弱いところ見せた方が、夫婦の絆が深まるんだ。俺なんてそれでお母さんの心を掴んだんだから」「じゃあ、さっさと知里ちゃんに連れてってもらいなさい。薬飲んで、ぐっすり寝るのよ。知里ちゃん、しばらく大変だけど、

「お前そんなにスゴいなら空でも飛んでろよ」「ふふん、それは嫉妬でおかしくなってる証拠だ。俺はお前なんかと同じレベルじゃないからね」誠健は彼の言葉に腸を煮えくり返らせていた。知里を抱きしめながら、しょんぼりした声で言った。「今どきさ、嫁も子もいなきゃ、こんなに肩身狭いんだよ。さとっち、俺たちも将来は子ども作ろうぜ。八つ子産んで、あいつらを黙らせてやるんだ」佑くんは大きな黒目をパチパチさせながら言った。「義理のお母さんは人間だよ。ブタじゃないんだから、一度にそんなに産めるわけないでしょ。石井おじさん、バカなの？」誠健、またしても心にクリティカルヒット。佑くんを指差して、くやしそうに言った。「君、その口の悪さ、完全に親父譲りだな。こんなに小さいのに性格ひねくれてんの、大人になっても絶対嫁もらえねーぞ」「誰が嫁もらえないって？義理のお母さんが僕に産んでくれるもん」「君の義理のお母さんが産んだ子は俺の娘だぞ。絶対君なんかに嫁がせない。君は一生独り身だ」佑くんはつぶらな瞳をくるりと動かして、そっと知里を見つめた。「義理のお母さん、ふたりは仲直りしたの？」知里は首を横に振った。「まだだよ」「じゃあ、僕の嫁さんはまだ彼の娘じゃないってこと？」「誰の娘になるか、まだわからないね」佑くんはすぐに自分の胸をトントン叩いて、ほっとした顔で言った。「よかったぁ……びっくりして心臓止まるかと思った」その愛らしい姿に、知里の心もきゅんとなった。彼をぎゅっと抱きしめて、そのほっぺにちゅっとキスしながら言った。「なんでこんなに可愛いの？死ぬほど頑張って女の子産むから、君を私の婿にしてあげる」「やったー！やったー！義理のお母さん、いつ産むの？僕、嫁さんにプレゼント準備しなきゃ」誠健は智哉を睨みつけて言った。「お前の息子、マジでお前にそっくりだな。ちっちゃい頃から女にメロメロじゃん」智哉は平然とした顔で言い返した。「羨ましいか？残念だったな、お前は嫁すらいないんだから」そんなふうに、みんなで笑い合っていたとき、誠健のスマホが鳴った。着信表示を見て、すぐに通話ボタンを押す。「見つかったか？」「石井さん、結衣は国外に出ました」その一言で、誠健の目の色がガラリと変わった。「全ルー

咲良の手のひらほどの小さな顔が、一瞬でほんのり赤く染まった。 美しいタレ目の瞳には、きらきらとした光が宿っている。 「お兄ちゃん……彼のこと、好きなのって内緒にしてくれる？」 咲良のあまりの恥ずかしがりように、誠健は口元を緩めた。 「咲良はお兄ちゃんに手伝ってほしくないのか？咲良が彼のこと大好きなの知ってるよ」 咲良は首を振った。 「体が元気になったら、自分で告白しに行くの」 「そうか。じゃあ、もしうまくいかなかったら、お兄ちゃんが彼を拉致って、無理やり結婚させてやるよ」 「そんなの嫌！無理やりくっつけても、幸せになれないよ」 ふたりは楽しそうに笑い合っていた。この温かい雰囲気こそ、咲良が好きなものだった。 家族のみんなが、心から彼女を大切に思ってくれているのが伝わってくる。彼らの愛情は、咲良の胸にしっかりと届いていた。 夜になると、再開パーティーが高級ホテルの宴会場で盛大に開催された。 咲良は白いシフォンのドレスを身にまとい、漆黒の髪を肩にふわりと流していた。 高価な宝石は身につけておらず、シンプルで上品なアクセサリーだけ。 まるで空から舞い降りた妖精のような佇まいだった。 誠健の父と母が咲良の手を引いて壇上に上がり、集まった記者やゲストの前で彼女を紹介した。 「石井家が長年探し続けていた、我が家のお姫様です」 その言葉に、場内の視線が一斉に集まり、石井家へと賞賛の拍手が送られた。 会場は終始にぎやかで、華やかな雰囲気に包まれていた。 咲良にとっても、これほど盛大な宴会に参加するのは初めてのことだった。 彼女は両親に連れられて、業界の年長者たちに挨拶を済ませた後、会場の隅にある休憩スペースでひと息ついていた。 そのとき、瑛士がデザートの皿を手にこちらへやってきた。 穏やかな笑みを浮かべながら、彼は言った。 「咲良、おめでとうってまだ言ってなかったね」 咲良も微笑んだ。 「ありがとうって言うのは私の方だよ。瑛士が知里姉と知り合いじゃなかったら、お兄ちゃんに見つけてもらえなかったし、石井家に戻ることもできなかった」 「それは、きっと縁ってやつだよ。見つけ出せたのは、運命だったんだ……それに、君の養母さんがずっと君を守ってくれてたおかげでもある」 「わかってるわ。