All Chapters of 離婚は無効だ!もう一度、君を手に入れたい: Chapter 611 - Chapter 620

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第611話

彼女はふいに河野誠を見かけた。コンビニの前で、河野誠は若い女性を支えていた。女性のお腹が大きくなっていたので、二人は結婚しているのだろう。河野誠はベビー用品の入った袋を提げていた。水谷苑の姿を見かけた瞬間、河野誠は硬直し、持っていた袋を落としてしまった。彼の妻は、向かい側に立つ水谷苑を見た。それは美しく、気品のある、若い女性だった。女とは敏感な生き物で、妻はすぐさま、自分夫がかつてこの女を好きだったのだとわかった。彼女は静かに夫に尋ねた。「あなたの知り合い?」河野誠は水谷苑から目を離さなかった。生きている間に彼女に会えるとは思っていなかった。九条時也にひどい目に遭わされて、もしかしたら、もう歩けない体になっているかもしれないと思っていたのに。まさか、こうして再会できるとは。彼女は相変わらず、か弱く、美しかった。それは高価な服を身にまとっても、隠し切れない可憐さだった。河野誠の目に涙が浮かんだ。彼は落とした荷物を拾い上げ、妻に向かって微笑んだ。「違うよ......知らない人だ」彼は妻を支えながら、水谷苑とすれ違った。本当のところ、彼自身が一番よくわかっていたのだ。水谷苑はこれまで一度も彼を愛したことがないことを。彼女がここに来たのは、自分が元気でいるかを確認するためだろう。確かに、今の彼は楽しく過ごしせている。数年前、九条薫からもらったお金で家を買って、怪我の手術も受けられた......結婚して、もうすぐ子供が生まれる。所詮自分には、水谷苑を愛する資格などなかったのだと彼は密かに思った。だって、彼女を守ることさえできなかったのだから。自分もまた、普通の人間だ。お金を受け取ってからも、何度も彼女の泣き叫ぶ夢を見たし、彼女に会いに行きたいという衝動に駆られたこともあったが、結局会ったところで自分はなにもできないだろう。下手したら、今度は両足を失うはめになるかもしれない。自分は、そういう弱い男だった。愛に狂うのは、一度でたくさんだ。彼らはすれ違い、背中合わせになった二人は、まるで過去を捨ててしまったかのようだった。水谷苑は彼を呼び止めなかった。説明もしなかった。彼が幸せに暮らしているのを見て、少しだけ気が楽になった......向こうから、長身の男がゆっくりと歩いてきた。九条時
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第612話

九条時也は冷たい笑いを浮かべていた。そして彼は鼻で笑いながら言った。「案外、彼女が自ら望んだのかもしれないじゃないか?20億円なんて、彼女が一生かかっても稼げない金額だ。誠は顔も悪くないし、性格も温厚だ。彼女が断る理由なんてないだろう?むしろ、お前がそんなに気にするのはなんでだ?まだ誠に未練でもあるのか?見ていて癇に障ったか?」水谷苑は弁解しようとしなかった。二人がギクシャクしたままで、車内の雰囲気も重苦しく、誰も口を開こうとしなかった。そんな雰囲気はパーティー会場のホテルに着くまで続いた。車が止まると、九条時也は彼女の手を軽く握り、冷たい声で言った。「どんなに不機嫌でも、後で顔に出すなよ。このプロジェクトは俺にとってすごく重要なんだ」水谷苑は落ち着いた表情で言った。「大丈夫。あなたのプロジェクトを邪魔するような真似はしないわ」彼女は水谷燕の妹であり、それなりに世間を知っている。九条時也の傍らで、彼の妻の役を完璧に演じきった......香市では、彼らが離婚したことはまだ公にされていなかったのだ。しかし、香市では、九条時也の女癖の悪さは有名だった。起業当初、彼は香市で多くの愛人を持っていた。皆、商売上手で頭の切れる女ばかりで、彼と相性も良かった。今夜も、そのうちの一人に会った。上場企業の役員、伊藤恵美(いとう えみ)。見た目は美しく穏やかだが、実際は非常にやり手の女性だ。かつての愛人同志が、廊下でばったり出くわした。伊藤恵美は最近、特定の恋人がいなかった。それに、彼女は九条時也が離婚したという情報を掴んでいた。彼女はイブニングドレスを着て、色っぽく壁にもたれかかり、細い腕で彼の首に絡みつき、吐息を漏らしながら言った。「上の階に部屋を取ってあるの......時也、行かない?」以前の九条時也なら、間違いなく誘いに乗っていただろう。しかし、この前の田中詩織の件で、水谷苑が機嫌を損ねて、二人の関係がひどくこじれてしまった......だから、今回彼は彼女の腕を自分の首から外し、静かに「やめろ」と断った。だけど、伊藤恵美は、しなやかな体で再び彼にすり寄ってきた。彼女は軽く笑い、彼の胸を指でなぞりながら言った。「安心して、彼女には言わないわ。時也、私たちの相性がどれほど良かったか、忘れたの?あなたは、私
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第613話

本当のところ、彼女には、もうほとんど何も感じなくなっていた。彼女はもう彼を愛していないのだ。ただ、汚らわしいと感じているだけだった。廊上のシャンデリアの光が、水谷苑の華やかなドレスを照らしていたが、彼女の青白い顔は、まるで生気のない人形のようだった。夢中になっていた男女も、彼女に気づいた。二人の恋愛に第三者がいるのはどうして窮屈になってしまうものなのだ。水谷苑は力が抜けたように笑い、「ごめん!続けて」と言った。「苑!」九条時也は、慌てた声で彼女を呼んだ。だが水谷苑は彼を見ようともしなかった。もう、あんな醜態は見たくない。紅潮した女の顔、とろけたような目つき、淫らな二人の姿など、見たくもなかった。これが、九条時也の本性なのだ。なんてだらしのない男なんだろう。水谷苑は踵を返して歩き出した。この雰囲気の中では、その華やかなドレスを身にまとった後ろ姿もなんだか悲しげなメロディーを奏でているようだった......しかし追いかけてきた九条時也が彼女の手首を掴んだ。水谷苑は、かつてないほど激しい剣幕で言った。「離して!」彼女は彼が汚らわしいと思い、本気で嫌がっていた。しかし、九条時也は彼女を離そうとしなかった。彼は奥深い目線で彼女を見つめながら、珍しく弁解した。「ただの遊びだ、本気じゃない」水谷苑は喉が締め付けられるような思いで、声が酷く嗄れていた。「時也、あなたが他の女と遊びだろうと、本気だろうと、私にはどうでもいいの!ただ、見たくないだけ。あなたが言った通り、私たちの間には憎しみしかないんだから!今更、情けがましい振りなんてしないで」彼女は力いっぱい抵抗したが、逃げられなかった。九条時也の顔色は、ますます険しくなった。突然、彼は水谷苑を抱き上げ、会場の外へと歩き出した。二人の後ろで、伊藤恵美が「時也!」と甘えた声で彼を呼んだ。そこに太田秘書が現れて、伊藤恵美の服を整えてあげながら、優しく言った。「九条社長は家庭を大切にしたいと真剣に考えていらっしゃいますので、伊藤さんを傷つけてしまうのも仕方がありません。ですが、九条社長のことですから、きっと慰めの支払いも少なからずあるでしょう、それでどうかご理解ください」伊藤恵美は屈辱を感じた。香市では、たくさんの男たちが大金を積んで、自分を
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第614話

......そう言うと、彼は手を伸ばして水谷苑を引き寄せ、自分の腕の中に抱き寄せた。彼女は負けじと、淡々とした声で言った。「時也、正直、もう何も感じないわ。あの動画に比べたら、こんなこと、大したことない。あなたがこんな場所で、他の女とセックスしたところで、ただの女遊びでしょ。私が気にするほどの事でもないわ」九条時也は怒るどころか、笑った。そして、顔を近づけ、唇を彼女の唇にくっ付けながら、嗄れた声で言った。「そうだな。お前は他の男のことを想っているから、俺がどんなに汚れようが何しようが気にならないんだな。じゃあ、妻の度量ってもんを俺に見せてみろよ......どうだ?」水谷苑は目を大きく見開いた。涙で目がかすんでいた。車の中で、そんなことをするなんて、信じられなかった。運転手もいるのに。しかも彼は、たった今、他の女と......しかし、彼女は九条時也を止めることはできなかった。細い腰まで引き釣り降ろされ、重ねられた豪華なドレス生地は彼女の白い肌を際立たせ、彼女はまるで九条時也に摘まれるのを待っている美しい花のようだった。彼の動きは乱暴で、全く優しくなかった。激しく体を揺すぶられる中で、彼の金属製のファスナーに傷つけられた彼女の柔らかい肌に鋭い痛みが走った......その痛みは、彼女を苦しめ、無理やり現実に引き戻した。夢中になった九条時也は、彼女の顎を掴んで、問い詰めた。「お前はまだ、あいつのことを考えているのか?」水谷苑は首を横に振った。声を震わせながら彼女は「違う!そんなんじゃない!」と言った。パーティーのためにアップにしていた黒髪が、白い肌の上に乱れた......その美しさは息を呑むほどだった。彼は片手で彼女の細い腰を抱き寄せ、軽く力を加えるだけで、彼女の体が更に美しくよじれた。彼は彼女に、愛していると言ってほしかった。しかし水谷苑が、そんな言葉を口にするはずがなかった。彼女が言わないので、彼はさらに激しく彼女を弄んだ。喉仏を上下に動かし、黒い瞳で、彼女の蕩けるような表情を貪るように見つめていた......高級車の車体が、かすかに揺れていた。運転手は、後ろで何が起こっているのか、薄々感づいていた。しかし、見てはいけないと思い、運転に集中した。車を止めることもできず、香市の街を何度
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第615話

真っ白な洗面台に、一抹の赤い血水面に溶け込んでいた......水谷苑は、ぼんやりとそれを見つめていた。自分はもしかしたら、病気になったかもしれない。翌朝、契約に署名の必要があったから、太田秘書は朝早くからホテルに九条時也を迎えに来ていた。九条時也はネクタイを締め、テーブルについて朝食をとっていた。太田秘書は、彼の傍らで待機していた。彼女は寝室の方を見たが、何の音もしなかったので、水谷苑はまだ寝ているのだろうと思い、上司に小声で尋ねた。「伊藤さんは、どうなさいますか?」九条時也は、そのことをすっかり忘れていた。この程度の女遊びは、彼にとっては日常茶飯事だった。しかし、彼は女には常に寛大だった。少し考えてから、静かに言った。「10億円の小切手を送ってやれ。それと、もう二度と電話をかけてこないようにと言ってくれ」太田秘書は、これで縁が切れたのだと理解した。水谷苑のことを心配していた彼女は、思わず「では、他の女性とも?」と聞いてしまった。九条時也は顔を上げた。太田秘書は思わず身を強ばらせ、慌てて「九条社長、失礼いたしました!」と声を上げた。九条時也は特に彼女を咎めず、「それはまた後で考えよう」と曖昧な返事をした。彼の態度は曖昧で、太田秘書には彼の真意が読めなかった。九条時也は朝食を食べ終えると、寝室に戻ってコートを取ってきた。水谷苑はまだ眠っていた。彼女の静かな寝顔を見て、彼は昨夜のことを思い出した。どんなに追い詰めても、彼女は復縁を承諾しなかった。自分を愛しているとも言わなかった。彼は冷たく笑った。いつから、彼女を自分のものにしたいと思うようになったのだろう。彼女は、男に頼って生きるだけの女なのに。そう思うと、彼はためらいなく部屋を出て行った。最近、水谷苑を求める気持ちが異常に強いのは、きっと、物珍しさのせいだろう。この気持ちが冷めたら......飽きてしまうだろう。しかし、彼は彼女を手放したくなかった。まだ、彼女を自分の傍に置いておきたかった。自分の妻として。そう、一生、自分の妻で居てもらおう。例え別れても、彼女を他の男になんて渡すつもりはなかった。彼女が自分の妻でいることが最善なのだ。......スイートルームのドアは静かに閉まった。水谷苑は目を開けた。
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第616話

水谷苑は小声でお礼を言った。彼女は立ち上がり、診察室を出て、長い廊下を歩いた。果てしなく続く廊下は、冷たく、寂しかった......いくら歩いても、終わりが見えなかった。彼女はうつむき、握り締めた名刺を見つめた。医師には感謝している。でも、もう治療はしたくない。兄は刑務所に入れられている。九条時也が、一生かけてもあの憎しみを忘れられないことを、自分はよくわかっていた。彼は、自分たちを簡単に許すことなどないのだ。自分と兄、どちらか一方しか生き残れない。もし自分が死んだら......九条時也の怒りも収まるかもしれない。その窓辺に置かれた上品な名刺は、風に吹かれて飛んでいった............水谷苑はそのまま歩いて病院を出た。しかし、伊藤恵美が自分に会いに来るとは、水谷苑は思ってもみなかった。日差しの下、水谷苑は顔色が悪かったが、伊藤恵美は美しく着飾り、ただ、少し怒っているようだった。きっと、九条時也と喧嘩でもしたのだろうと水谷苑は思った。しばらくした後、二人は一緒にカフェに入った。伊藤恵美はコーヒーを優雅にかき混ぜながら、妖艶な笑みを浮かべて言った。「思っていたのと違うのね。まあ、どうでもいいけど。ねぇ、私は時也と二年以上付き合っているんだけど、私たちはとても相性がいいの!もちろん、彼がB市でたくさんの愛人を持っていることも知っているわ。でも、私は気にしない......だって、私は彼の妻じゃないもの」水谷苑はうつむいたままだった。そして、彼女は淡々とした声で言った。「私も、もう彼の妻じゃないわ。だから、わざわざあなたと彼との関係を私に説明する必要はないわ。そう言った意味では、私たち、今じゃそんなに立場が変わらないよね」そう言われ伊藤恵美はイラっとした。「でも、あなたは彼と一緒に暮らしていて、子供もいるじゃない」水谷苑も彼女を見ながら言った。「じゃあ、あなたも彼との間に子供を産めばいいわ」そして少し間を置いて、続けた。「誰も止めたりはしないでしょう?」伊藤恵美は驚いた。水谷苑が、こんな態度をとるとは思ってもみなかった。彼女は......九条時也のことなど、全く気にしていないのだろうか?自分にとって、九条時也はワイルドで、とても魅力的な男だった。それなのに、水谷苑は、彼を
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第617話

夜8時、九条時也はホテルに戻ってきた。スイートルームは真っ暗で、水谷苑は大きな窓辺に座っていた。窓の外のネオンが彼女の顔に映り、美しい横顔に寂しげな影を落としていた。「どうして灯りをつけないんだ?」そう言いながら、九条時也は部屋の電気全てをつけた。明るい光の下、水谷苑の目尻には、涙の跡が残っていた。九条時也はしばらく彼女を見ていた。彼はソファに座り、コートを脱ぎながら、何気なく尋ねた。「まだ、昨夜のことで怒っているのか?夕食は食べたか?」水谷苑は「食べたわ」と答えた。九条時也は疑っていたが、伊藤恵美の件で二人の仲はさらにぎくしゃくしていたので、彼も以前のように彼女を気遣うことはなかった。食べたくないなら、それでいい。バカじゃないんだから、お腹が空いたら食べるだろう。九条時也は一日中忙しく、疲れているはずなのに、性欲は衰えず、少し休むとすぐに彼女を求めてきた。水谷苑が拒否すると思っていたが、彼女は意外にも素直に従った。彼は彼女にキスをすると、彼女も口を開き、彼に応えるようにキスを返した。彼女はもう、彼に抵抗しなかった。彼の首に抱きつき、細い体を密着させ、彼の動きに合わせて体を揺らした......九条時也は、彼女をセクシーな目つきで見ていた。付き合って数年になるが、彼女が狂ったふりをしていた二年を除けば、セックスに関してはいつも受け身で、ここまで積極的に求めてくることはなかった。今、彼女はまるで水のように、彼の動きに身を任せていた。女が素直に従ってくれれば、男は心地良いものだ。九条時也はしばらくの間、彼女を抱き続けた後、落ち着いた声で尋ねた。「どうしたんだ、今日は?急に素直になって」今、彼の機嫌は最高潮に達していた。水谷苑は彼に体を預け、熱くなった彼の首筋に顔をすり寄せ、小さな声で尋ねた。「兄が釈放されたら、彼をどこか海外に行かせてくれる?」海外......彼は彼女の緊張した表情と、白い肌に残るアザを見た。彼女が自分を誘ってきたのは、水谷燕のため、彼女の偉大な兄のためだったのだ。そう感じた九条時也の目線は冷たくなっていた。彼は何も答えず、乱暴な動きで、彼女の淡い期待を打ち砕いた。何度も、何度も、体を重ね......水谷苑は、彼にしがみついた。今度は、彼
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第618話

彼は容赦なく、彼女を打ち砕けた。水谷苑は、されるがまま目を少し見開いた。冷たい窓ガラスに白い手をついて、窓の外のきらびやかなネオンを眺めていた。華やかで、眩しかった......それに比べて、自分は、なんと惨めなのだろう。自分の背後で、こんな酷いことをしているのは、本当に九条時也なの?あんなに優しかった九条時也が?はじめの頃は、指一つ触れるのもためらったのに、今はこんな場所で、自分をまるではしたない女みたいに扱っている。「時也......時也......」水谷苑は咳き込み、赤い血が透明なガラスに付着した。激しい痛みに耐えるために、彼女は何度も何度も彼の名前を呼んだ。しかし、呼んでいたのは、今の彼ではなく、彼女がかつて愛した彼だった。彼女を傷つけることなどない、優しい九条時也。初めて体を重ねた夜、彼女を一晩中優しく愛撫してくれた九条時也。あっなぜ、まだ終わらないの?これで何度目だろう、なぜ彼は終わらせてくれないの......自分が苦しんでいることを、彼は知っているはずなのに。痛みで意識が朦朧とする中、彼女は床に放り出された。支えを失い、柔らかいカーペットの上に倒れ込んだ。しかし、それで終わりではなかった。男はソファに座り、彼女に奉仕するように命じた。彼は服を着たまま、ベルトだけを外していたから、彼女に、それを直させようとしていた。水谷苑は、かすかに微笑んだ。高橋に言われた言葉を思い出した。「奥様、九条様の機嫌を損ねたくなかったら、お兄様のお話はしない方がいいですよ。お兄様の話が出ると、九条様は必ず奥様に八つ当たりしますから」今、彼女はそれを身をもって体験していた。しかし、どうでもいい。どうせ自分は癌で、もうすぐ死ぬのだ......死ぬ前に少しぐらい苦しんでも、構わない。九条時也に殺されれば、水谷家と九条家の因縁も終わる。これは、水谷苑にとって、人生で最も屈辱的な瞬間だった。かつては、兄に大切に育てられた彼女だったのに、今は、男の目の前で裸同然の姿でひざまずき、彼の体を丁寧に拭き、ファスナーを上げている......彼のベルトは硬くて、うまく扱えなかった。でも九条時也は焦らないようにと、彼女の手を取り、やり方を教えていた。彼女もそれに従うように、丁寧にやり方を覚えていた。
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第619話

彼は乱暴だった。ソファの上、カーペットの上、至る所に彼の仕業の痕跡が残っていた。大きな窓ガラスには、彼女の口から出た血がついていた......しかし、九条時也は何も気づいていなかった。彼の欲求を満たすことに夢中で、彼女がもうすぐ死ぬことなど、知る由もなかった。その夜、彼は帰ってこなかった。彼女は冷たいベッドに横たわり、窓の外の月を眺めていた。そして彼女は、残りの人生を数え始めた。九条時也の傍にいれば、すぐに死んでしまうだろう......もしかしたら半年、あるいは、あと2、3ヶ月と持たないかもしれない九条津帆......そう、自分にはまだ九条津帆がいる。B市に戻ったら、九条津帆に何年分もの洋服を買い揃えよう。これから先毎年、母親が買ってくれた新しい服を着られるように。それから、絵本も買ってあげよう。九条時也に新しい女ができたら、きっともう九条津帆のことは構ってくれなくなるかもしれないから。幸い自分の手元には、まだ少しお金が残っていた。それを高橋に預け、九条津帆のために貯金しておいてもらおう。万が一なことがあっても、愛する九条津帆が苦労しないように。九条津帆、可愛い九条津帆......そんなかわいい子をどうして心置きなく置いて逝けるのだろうか?夜、彼女は熱を出した。幸い、熱は下がったが......朝になって、彼が帰ってきた。体には、かすかに香水の香りが残っていた。伊藤恵美と同じ香水だ......彼の首筋には、キスマークがついていた。こうやって、自分を苦しめているの?残念ね、自分はもうすぐ死ぬのに。時はすでに午前9時。当初予定していた結婚届を提出するまで、あと1時間。水谷苑は小さな声で言った。「着替えてくるわ」彼は彼女の手首を掴み、彼女の目を見て尋ねた。「何も聞きたいことはないのか?」水谷苑は切なげに微笑んだ。「聞いたところでどうにもならないでしょう?あなたが私を傷つけたくないと思っているのなら、浮気などしないはずだし......済んでしまったことを今更私にどうこう聞かせる必要はないわ」九条時也は彼女から手を放した。水谷苑は急いでクローゼットに行き、10分ほどで着替えた。薄化粧もして、顔色を良く見せた。突然、下腹に激痛が走った。彼女は下腹を押さえてドアにもたれかかり、呼吸もでき
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第620話

鎮痛剤。そう、鎮痛剤を買わなくちゃ。......香市の夜は冷え込んでいた。水谷苑はコートを着ていたが、それでも寒くて体が震えていた。病気のせいだろう。以前は、こんなに寒がりではなかった。街の至る所に、薬局があった。水谷苑は適当に一軒の薬局に入った。明るく照らされた店内に入り、彼女はレジ係に効き目の強い鎮痛剤を二箱欲しいと伝えた。レジ係は顔を上げもせず、香市訛りで言った。「強いお薬はあまりおすすめできません、もっと一般的に飲まれているこちらはいかがでしょう」彼女は札束をカウンターに置いた。40万円の現金だ。レジ係は驚き、辺りを見回してから、慌てて札束を手に取り、数え始めた......一枚一枚、それはかなりの枚数だった。水谷苑は、青白い唇で言った。「40万円で買える?効き目の強いお薬少し多めに欲しいの」「買えますよ!もちろんですよ!」レジ係は金をしまい込み、監視カメラから死角になるように、水谷苑に薬を五箱渡した。「でも、この薬は1日に2錠までですよ。それでも痛みが治まらなかったら、病院に行ってくださいね。お金には困ってないと思うけど、痛み止めを飲んでも、病気は治りませんから......」水谷苑は、かすかに微笑んだ。彼女は五箱の薬のパッケージを外して、中身だけ慎重にバッグにしまった。レジ係の女性は笑って言った。「薬を買うだけなのに、まるでスパイみたいですね。それに最近はクレカとか電子マネー払いが多いから、今時現金をこんなに持ち歩いてるなんて、珍しいですね!」水谷苑は、かすかに笑って言った。「携帯をなくしちゃって......」それに、彼女は世間話をする気分ではなかった。蛍光灯の光が彼女の頭上に降り注ぎ、長い影を作っていた。たった二日間で、彼女はかなり痩せこけてしまった......その後ろ姿は、寂しげで、虚しさが溢れていた。薬局を出ると、夜の風に吹かれながら水谷苑は思わず咳き込んだ。そして、まさか、こんなところで九条時也に会うなんて思ってもみなかった。あれはかつて、二人で乗っていた高級車に違いない。あの車の中で、かつて彼は自分を抱いた......しかし今となっては、彼の隣にはすでに、別の美しい女がいたのだった。きっと、ホテルに行くのだろう。水谷苑は静かに立ち尽くしていた。彼女の顔に
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