All Chapters of クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!: Chapter 1071 - Chapter 1080

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第1071話

写真を撮った男は、手にしたカメラを眺めながら、満足そうに口元をつり上げた。「この一枚なら、きっといい値段で売れる」少し前、ある人物に雇われ、この女の写真を撮るよう頼まれた。これだけ撮れたんだ、きっと高くなる。顔には抑えきれない笑みが溢れそうになる。こんな美味しい話が自分に転がり込むなんて、これからもっと楽にやっていけるだろう。しかも、自分の得意分野ど真ん中。――鳴り城郊外。辰琉は全身を目立たないように装い、どこか薄汚れたような格好をしていた。髪は雑草みたいにぼさぼさで、周囲を一度見回すと、帽子のつばを指で押し下げ、陰鬱な目を隠した。郊外の別荘を見つめ、胸の奥にかすかな安堵が生まれる。静まっていたはずの心に、また波紋が広がる。緒莉の件を経験してから、もう誰にも何にも興味なんて持てないと思っていた。けれど今は違う。真白のそばへ近づこうとする今、心は少しも動かない。真白なんて、所詮は踏み台にすぎない。真剣になるつもりなんて最初からなかった。でも今思う。結局のところ、戻って来るのは同じ女だと。そして、自分に一番合うものは、ずっとそばにあったと気づく。どうして今まで気づかなかったんだろう。服を整え、さらに帽子を深くかぶり、別荘へ向かって歩き出した。――屋内では、真白がご機嫌で花を生けていた。生活は退屈だが、自分で楽しみを見つけないといけない。このところ辰琉が近寄ってこない。真白にとっては、貴重な休息の時間だった。陽光が彼女の繊細で美しい横顔に影を落とし、長い指先が丁寧に育てた花びらをそっと撫でる。今、真白の心は穏やかだ。辰琉さえ来なければ、何をしても構わない。ただ彼から離れられればそれでいい。今の彼女の望みは、それだけ。外で何か物音がした。このところ、使用人の足音や口調を聞き慣れてしまった真白は、すぐに来たのが使用人ではないと気づく。花びらを握りしめ、気づかれないように息を潜めた。ここに来て以来、訪れるのは辰琉か使用人だけだった。じゃあ、今の足音は誰?まさか、前から来ていた?ただ自分が気づかなかっただけ?それでも、何かがおかしい。この足音――どこかで聞いた気がする。でも誰なのか、思い出せない。確かめるしかない。
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第1072話

辰琉はその光景を見て、拳をぎゅっと握りしめた。胸の奥に、さらに冷たい苦味が広がる。つまり、自分がいない間、こいつらは前よりも幸せに暮らしていたってことか?その場に立ち尽くし、何を言えばいいのか一瞬わからなくなる。真白もおそるおそるそちらを見た。そして、今の辰琉の姿を目にし、思わず目を見張る。「......あなたは」信じられなかった。普段の彼は、どこまでも几帳面で、何事にも秩序正しく、そして潔癖症だった。男女のことが終われば、必ず即座にシャワーへ行き、しかも彼女まで連れていって一緒に洗わせるほどだった。それほど潔癖だった男が、今はこんな姿をしている。さっき、足音で気づけなかったのも当然だ。この状態では、顔を見ても判別に時間がかかる。声だけで気づけるわけがない。真白の戸惑いを見て、辰琉の胸にはさらに嘲りが湧く。「何だ。少し離れただけで、もう俺のことがわからなくなったのか?」その声も、気配も、以前とはまるで別人のようだった。より暗く、底の見えない気配をまとっている。真白は思わず喉を鳴らした。本気で怖くなっていた。「その......落ち着いて話そう?」後ずさりし、壁際まで追い込まれる。この部屋は広くない上に、足には彼がつけた鉄鎖が絡んでいる。逃げようにも逃げられない。どうすればいいのか、全くわからなかった。以前の辰琉なら、まだ話が通じる余地があった。今の彼は、まるで冷たい蛇に睨まれているようだ。だが辰琉は、もうじっとしている気はない。歯の隙間から冷たい笑い声が漏れる。「話す?笑わせるな。俺がそんなに暇だとでも?」真白はその場で固まった。こんなにも話の通じない辰琉を見るのは初めてだった。仕方なく、別の角度で切り込む。「ただ......どうしてそんな姿になったのか気になって」柔らかい声で、ささやくように続ける。「何かあったんでしょ?きっとすごく辛かったんだよね。言ってくれたら、力になるよ」その瞬間、辰琉の陰った瞳が大きく開かれる。「......助ける?どうやって?」同じ言葉を何度も繰り返す。――信じられるわけがない。この女は、最初は逃げることしか考えていなかった。それが今さら助けるだと?どれだけ時間が経ったと思っ
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第1073話

もし彼女が自分を好いているとしても――それは以前の自分であって、今の自分ではない。その認識だけは、辰琉もはっきりしていた。しかし真白は、すぐに目をくるりと動かし、何か思いついたようだった。「この数日で、私は自分のことを思い出したの」喉をそっと鳴らしながら、思い出したことを一つひとつ語り始める。彼女にもわかっていた。彼が何か大きなことを経験したのだと。でなければ、こんな姿になるはずがない。今の彼には自分の助けが必要。助けてやれば、以前みたいな扱いはされない。真白の頭は、今ほど冴えていたことはなかった。辰琉は、真剣そのものの表情で話す真白を見つめた。「......思い出した?」「ええ」立ち上がった真白の所作には、自然と気品が滲む。その瞬間、辰琉の胸に大胆な推測が浮かんだ。まさか、本当にすごい家柄なのか?それなら、自分はこれから一気に上に行ける。情けない両親の手を借りる必要もない。真白という後ろ盾さえあれば――何だって手に入る。しかし、次の瞬間、彼はその考えに自分で冷水を浴びせた。甘い幻想から意識を引き戻し、問いかける。「それで、あんたは一体何者なんだ?」質問されると、真白はますます気合が入った。背筋を伸ばし、凛とした空気をまとって言い放つ。「私は、鳴り城のどんな企業よりも尊い身分よ。二川家なんて、鼻で笑うレベル」辰琉の胸に、燃えるような欲がよぎる。「私は――ヴィシュー王族の娘」その瞬間、空気が固まった。辰琉は真白を見上から下まで眺め、口を半開きにする。言葉が出てこない。もしかして、部屋に閉じ込めすぎて、頭がおかしくなった?そう思うと、少し罪悪感まで湧いた。だって、彼女の顔は確かに好きだ。でも、もし中身が壊れてしまっていたら?魅力は半減だ。考えるだけで胸の奥がざわつく。とはいえ、表には出さず、無言で部屋の荷物をまとめ始める。真白は呆然とした。もっと尊敬の眼差しで見られるはずだったのに。どうしてこんな反応?「......何してるの?」「荷物をまとめてる。鳴り城はもうダメだ。別の場所へ行く」真白は理解が追いつかない。「私の正体を知って、それで何があったのか話してって言ってるの。大丈夫。私が助
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第1074話

彼が無視を続けるのを見て、真白は肩をぱんっと叩いた。「なんで黙るの?もしかして、私の話を信じてない?私は本当のことしか言ってないんだから。早く私を解放しなさいよ。そうしたら助けてあげる」辰琉は最初、相手を無視するつもりだった。だが真白は言えば言うほど勢いづいていく。仕方なく、短く返した。「はいはい、信じるよ。だからお前も、荷物まとめるの手伝え」それだけ言うと、また黙々と荷物整理に戻る。鳴り城に一分でも長くいれば、それだけ危険が増す。追っているのは両親だけじゃない。警察も、美月の手も伸びている。どこまで逃げられるかわからない。だから今は、とにかく離れるしかない。遠くへ。真白は、さっきまでの落ち着きが一気に吹き飛び、怒りがこみ上げる。思い出した身分がそのまま彼女の態度に現れ、元々のわがままさもにじむ。「私、荷物なんてまとめないわ。まとめたいなら自分でやりなさい」腕を組み、きっぱりと言い放つ。「さっきから何度も言ってる。一回くらい信じてもいいでしょ?信じられないなら自分で調べれば?ヴィシューで、数年前に娘が行方不明になってないかって」その言葉に、辰琉の手が止まる。真白の真剣な顔。その重さに、心の天秤が揺れた。――まさか、本当に?荷物を置き、スマホを取り出して検索を始める。【ヴィシュー王室 行方不明 娘】あった。本当に、記事が存在した。目を見開いたまま、文字をひとつひとつ読み込む。その後も、しばらく呆然としていた。まさか、自分が救った女が王女だったとは。真白は、彼がようやく信じたのを見て、ふっと表情を緩めた。「ほらね。ずっと言ってたでしょ?なのに、ほんと無知なんだから」顎を上げて得意げな表情。その清々しさ。以前自分を散々苦しめた男が、今はこんな風に戸惑っている。胸の奥に妙な爽快感が湧く。辰琉も、その変化に気づいた。スマホをそっとしまい、静かに口を開く。「俺、あんな扱いしたのに。それでも助けるって言うのか?それとも、あんたはただ利用するだけして、自由になったら俺を切り捨てるつもりか?」細く目をすがめ、じっと探るように見つめる。胸の高鳴りは一瞬で引き、疑念だけが濃くなる。王女なら、あんな扱いに耐えるはずがない。愛
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第1075話

彼女も最初は、確かにそんなふうに思っていた。以前辰琉から受けた傷は、今でもはっきり覚えている。あの痛みは、ちょっとやそっとで埋められるものじゃない。けれど......いまの辰琉の惨めな姿を見たら、不思議と心の中が静かになってしまった。どれだけ深い恨みだって、こうなってしまえば、ひと息つけるものだ。前は、自分をいじめた人間が自分より幸せに暮らしているのが許せなかった。だから、意地でも辰琉を踏みつけて、二度と立ち上がれないようにしてやろうと思ってた。彼があんなふうに自分を扱ったのだから、復讐したって当然だって思ってた。記憶が戻らなかった間、毎日が地獄みたいで、いつになったらここから逃げられるのか、そればかり考えてた。でも全部思い出してみたら、逆に不思議と気持ちは落ち着いていた。自分は今やヴィシュー王家の姫。そんな立場の自分が、小物にこだわる必要なんてどこにある?それに、失った記憶の間の辰琉は、確かに自分に優しくしてくれていた。幽閉はされたけど、食事も生活も、一度も困らなかった。そう思ったら、胸のつかえがすっと消えた。だから、あの恨みはもう下ろしていい。一人でもちゃんと生きていける。恨みを抱えて生きたい人なんていない。そのことに、ようやく気づけたから。だから、自分は憎しみを手放すことにした。「正直に言うけど、最初は確かにそんなふうに思ってたのよ」そう言うと、辰琉は「やっぱりな」という顔をした。「ほらな。もう演技する気もないのか?俺をバカだと思ってるだろ。なんだ。まさか本気で、俺が素直についていくと思ってた?」辰琉は突然笑い声を上げ、立ち上がって彼女の背後に回り、首を掴もうとした。だが、彼女はもう以前の記憶をすべて取り戻している。王家の姫が、護身術ひとつ身につけてないはずがない。彼が勢いよく近づいたおかげで、むしろ好機だ。彼女はその腕を取り、そのまま綺麗に投げ飛ばした。ここ最近、自分はしっかり食べて力も戻っている。反対に、辰琉は酷く消耗している。その差が、如実に出た。――こんなに弱かったっけ?地面に倒れたまま起き上がれない彼を見て、拍子抜けしてしまった。以前はあんなに尊大だったのに。今見ると、全然たいしたことない。むしろ、普通の男よ
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第1076話

前の真白なら、辰琉に逆らうなんて考えもしなかった。でも今は、さっきの投げ技――迷いなんてひとつもなかった。辰琉は完全に虚を突かれ、呆然と床に倒れたまま動かない。瞬きをしながら天井を見つめ、ようやく自分がどこにいるのか思い出したようだった。真白も一瞬「あ、やりすぎだかな」と思ったけど、その次に押し寄せてきた爽快感にぞくりとした。――これが男の上に立つって感覚か。どうして今まで気づかなかったんだろう。いや、いま思い出したのだって遅くはない。「さて、これでちゃんと話してくれる気になった?」その声に、辰琉はもう逆らう気力もなく、ぼんやりと頷いた。「......わかった。なんでも聞く」その言葉に、真白は満足げに微笑む。腕を組み、軽く頷いた。「そうでなきゃ。何事もちゃんと話し合いが大事よ。暴力なんて、したくてしたわけじゃないんだからね。全部あなたが悪いのだからね?」辰琉はみっともなく体を起こし、真白の言葉にもただ無表情で反応するだけ。「本当に前のことを水に流すというのなら、俺は信じるよ」「もちろん。そのつもりよ」真白はあっさり頷いた。「前は、ただあなたがあまりにもいい暮らししてるのが気に食わなかっただけだから。でも今のあなた、明らかに私より惨め。だからもう、気にする必要ないわ」辰琉は歪んだ笑みを浮かべた。彼にも、真白の言いたいことは十分理解できたようだ。落差が大きければ大きいほど、復讐なんて自然と色褪せる。「これからどうするつもり?」お互いが互いを利用する気でいる。それくらい、今や当たり前のこと。大人の世界に、純粋なんて言葉はない。真白は足元の鎖を指して視線で示した。「これ、早く外してよ。まさかこのまま外へ出ろと?」言われた瞬間、辰琉は慌てて鎖を外した。「そ、それじゃあ真白――じゃなくて、姫様。すぐにヴィシューへ戻って、王に挨拶を?」切り替えの速さはさすがだ。結局、この世界で信用できるのは「利」だけ。彼も分かっている。真白の言葉、態度、その気配――全部、以前とは違うと。立場が変われば、呼び方も変わる。それだけのこと。鎖が外れ、真白は足首を回す。その瞬間、身体の内側から力が戻ってくるような感覚があった。久しぶりの自由に、思わず
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第1077話

真白が今なにをしても、彼は受け入れるつもりだ。だがどうやら、真白にはそんな気はさらさらないらしい。彼女が楽しそうにしているのを見て、しかも自分の存在なんて気にも留めていない様子を前に、辰琉はなぜかほっと息を吐いた。――自分など眼中にない。それがむしろ救いだ。つまり本当に、あの出来事を気にしていないということなのだろう。それならそれで、彼も少し肩の力を抜ける。「それで、次は?」真白がまだ自分の世界に浸っているのを見て、辰琉はもう一度問いかけた。自分を上に押し上げてくれる可能性がある以上、辛抱強く待つ価値はある。彼の頭にはすでに復讐がぎっしり詰まっている。紗雪も、無責任な両親も......必ず代償を払わせるつもりだ。立ち上がった辰琉を真白が見つめる。以前よりは確かにみすぼらしいが、根っこは変わっていない。その目の奥の野心、それは隠しきれないものだ。それを確認して、真白は満足げに微笑む。人生の磨り潰しにも負けず、野性を失っていない。そういう人間でなければ、彼女の手駒として成立しないのだ。「まだ計画中よ」ゆっくりと距離を詰め、指先で彼の胸元をなぞる。「でも、覚えておきなさい。這い上がりたいなら、頼れるのは私だけよ。大丈夫。忠誠さえ示してくれれば、損はさせないわ」その言葉に、辰琉の胸にも炎が燃え上がる。「わかった。信じるよ」両拳をゆっくり握りしめる。状況ははっきりしていた。真白が自分を切り捨てない限り、裏切る理由はない。「いいわ」真白は満足げに頷く。「これで私たち、同じ舟の上よ。これからよろしく。本当の忠誠を示してくれたら、過去の恨みは水に流すわ」辰琉も力強く頷く。その目には、久しぶりに未来の光が宿っていた。ふたりは警察の目を避け、ひっそりとヴィシューへと戻った。だが辰琉は知らなかった。この先、自分を待ち受けるものが、もっと深い闇だということを。表では光り輝く「王女」と称される彼女――その裏には、泥も影も絡みついている。さもなければ、彼女が鳴り城の山で行き倒れているなんてこともなかったのだろう。考えれば穴だらけ。けれど、当時の辰琉は憎しみに支配され、何も考えられなかった。頭の中にあるのはただ、復讐だけ。二川を倒せば、緒
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第1078話

彼女はぎゅっと唇を噛みしめ、周囲をそわそわと見回した。胸の内では冷や汗をかきながら、今回はどうか順調にいきますようにと祈る。そして辰琉には、必ず役目を果たしてもらわなければならない。そうでなければ、この一手は完全に誤りになる。兄弟姉妹たちが、みな虎視眈々とこちらを伺っているのだ。真白は手のひらを強く握る。賭けるわけにはいかない、賭ける度胸もない。長い時間が経ち、王室が今どんな状況なのかすら分からない。すべては未知。だからこそ、慎重さこそ命だ。生きてさえいれば、道は必ず開ける。辰琉が彼女の命を救った――それが唯一の確かな事実だ。だからこそ真白は、過去のことを水に流した。もし彼がいなければ、あの山奥で本当に死んでいたかもしれない。誰にも気づかれないまま。だから、最初の憎しみは当然としても、今はもう恨めない。薄く唇を上げ、遠くの景色を見つめながら、思考はどこか遠くを漂う。その横顔を見て、辰琉も彼女を邪魔しようとは思わなかった。彼にも考えるべきことは山ほどある。自分はもう、あの気楽な御曹司ではない。いまは誰にも頼れず、真白に寄りかかり、そこから這い上がる以外に道はない。そして、辰琉が鳴り城を離れたことは、監視していた者と美月の耳にも届いていた。美月はその報告を聞いても、特に表情を動かさなかった。すでに緒莉と約束した。ここで捕まえ直せば、むしろ彼女自身が器の小さい女に見える。娘は二人しかいない。一人はすでに心が離れている以上、もう片方まで手放すわけにはいかない。美月は山口に手を振り、理解したと示す。――出ていったのなら、もう戻らなくていい。鳴り城は辰琉の居場所ではない。このままいれば、むしろ二川家に害になるだけ。今の結末こそ、安東家への十分な罰だ。孝寛は虚栄心の強い男だが、息子を可愛がってきた。だからこそ、無理をしてでも牢から引っ張り出した。本来なら、未来の後継者は彼だけ。だがその未来を壊したのは、他でもない辰琉自身。自らの身勝手さが招いた結果だ。だから美月は、安東家全体を潰す必要などないと判断した。恨むべきは家ではなく、彼本人。情けは人のためならず――そういう生き方も、美月は理解していた。山口は退出しながら、どう
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第1079話

彼女がそう思っているのなら、これまで紗雪が受けてきた傷はいったい何だったのだろう。まさか今までのすべてが無かったことになる?そんなの、あり得ない。だから今でも山口は、美月のやり方を理解できずにいた。彼がその件を手配していると、角を曲がった先で、ちょうど会長室へ向かう紗雪と鉢合わせた。心のどこかで後ろめたさがあったせいだろう、山口は視線をそらしてしまう。紗雪はそれを見抜き、先に声をかけた。「山口さん、今からどこへ?」山口の足が止まり、気まずそうに顔を引きつらせる。――どうして見なかったふりをしてくれないんだ......今だけはそうしてほしかったのに。何を言えばいいのか、本当に分からない。仕方なく、山口はゆっくり振り返り、作り笑いを浮かべた。「き、奇遇ですね、紗雪さん」けれど紗雪はその態度に乗らず、先ほどの問いを重ねる。「そうね。でも、どうしてここに?」その笑みは穏やかでも、視線は鋭い。まるで獲物を捕らえる鷹のように、山口の表情を微細に観察する。焦った山口は、苦し紛れに口を開いた。「そ、その......会長のお仕事でして。申し訳ありませんが、紗雪さんにはお伝えできない内容です」山口は軽く頭を下げる。「お急ぎのご用でしたらどうぞ。会長のご指示を滞らせるわけにはいきませんので」心の中では必死に祈っていた。どうかこれ以上追及しないでください、と。紗雪の勘の鋭さはよく知っている。少しでも言葉を重ねれば、すぐにボロが出る。紗雪は無言で、ただ薄く笑って彼を見つめ続けた。その視線だけで、山口はもう限界だった。目をそらし、唇が震え、言葉が出てこない。しばらくして、紗雪は手を軽く振った。「もう行っていいわ。ちょっと気になってただけだから」山口はすぐに頭を下げた。「そ、それでは失礼します」紗雪はもう追わなかった。同じ働く身だ、追い詰めても仕方ない。人にはそれぞれ事情がある、それくらい分かっている。紗雪が去ると、山口はようやく息をついた。まさかあんな一瞬の視線で、ここまで見破られるとは。ただ横目にチラッとしただけで、気配を察するなんて。幸い、紗雪は無理に追い詰めず、理解を示してくれた。そうでなければ、もう言い逃れる術はなかっただろう。
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第1080話

紗雪は手元の資料に目を落とし、あとで何か口実を作って母に探りを入れるべきかと考えていた。二人の間には、きっと何かが隠されている。唇をわずかに上げ、そのまま会長室へ向かう。そして軽くノックし、内側から返事を聞くと、ためらわずに扉を開けて入った。美月はパーティーの準備で忙しく、ネット上の二川に関する言論をチェックしていた。少しでも動きがあればすぐ分かるように、常に画面を追っている。このところ、ネット上では安東家と二川家についての話題が尽きない。中には「もう両家は今後一切協力しないのでは?」と噂する者まで現れていた。正直に言えば、ネット民の嗅覚には感心するしかない。ほんの些細な変化でも、彼らは大げさに取り上げる。そして、微かな気配や隙を拾い上げ、見事に言い当ててしまうことすらある。だからこそ美月は、二家不仲説が出ていないか目を光らせていた。二川に不利な言葉があれば即座に削除し、さらにアカウントを雇って「二川のほうが優れている」という印象を植え付ける。先入観を与えてしまえば、多くの問題は最初から勝負がつく。――二川のほうが安東より格上である、と。そんな最中、紗雪が姿を見せたので、美月は意外そうに眉を上げた。この娘は、余程のことがなければ自ら来たりしない。今日は何の用だろう。「どうしたの?」美月はスマホから視線を上げ、まっすぐ娘を見つめた。その態度は決して柔らかくない。しかし紗雪にとって、この母の冷ややかさはもう驚くことでも傷つくことでもない。長い年月の中で、とうに慣れてしまった。紗雪は微笑し、手にしていたファイルを差し出した。「用事があったので来ました。こちら、最近の当社と西山――恕原の西山グループの比較データです」その言葉を聞き、美月の目が一気に鋭さを帯びる。紗雪が昏睡していた一ヶ月、美月は西山家の動きを何度も警戒してきた。それはずっと胸に刺さる棘のようで、彼女を気を張らせ続けていた。その懸念を娘が口にした。美月はむしろ嬉しさすら感じる。「ありがとう。見させてもらうわ」紗雪は控えめな笑みを浮かべ、従順そうな表情で母を見つめ続ける。その視線に、美月は珍しく心がざわついた。小さく鼻を鳴らし、書類に目を走らせる。数行ずつまとめて読むスピードは速
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