All Chapters of クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!: Chapter 841 - Chapter 850

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第841話

言葉を聞いて、隊長も躊躇いを見せた。彼はもう一度、緒莉の傷を見て、心の中で舌打ちするように驚嘆した。本当ならこの女を引き留めておきたかったが、首の傷はどう説明しても通らない。緒莉は隊長の意図をすぐに悟り、ただ目を伏せて、端の方で小さく震えていた。まるでひどく理不尽な仕打ちを受けたかのような姿だった。最終的に隊長は大きく手を振り下ろした。「いい、調べ終わったら彼女を放してやれ。ここに置いておいても仕方がない。所詮はか弱い女だ」だが今西は、どうにも腑に落ちなかった。一日近く一緒に過ごして、緒莉がどんな人間か、ある程度は掴んでいる。ほとんど見透かせるくらいには分かっていた。だからこそ、この女を放してはいけないと思った。もし自由にしてしまえば、禍を招くのではないかと。それでも隊長は譲らなかった。「もういい。どちらにせよ、俺たちには直接証拠がない。それに、彼女が怪我をしたのは確かにうちの署の中だ。その責任は俺たちが負うべきだ」そう言い残すと、本当に立ち去ってしまった。去る前に、辰琉を連れ出し、別室に隔離させた。すでに人を傷つけている以上、軽く見てはいけない。辰琉に他の病的な要因がある可能性も否定できない。残されたのは今西と、彼を手伝う一人の警官だけ。二人は顔を見合わせる。辰琉を連れ出したあと、今西の価値観は根底から揺さぶられていた。拘留室の中は一気に空きが出て、さっきまでの窮屈さはなくなっていた。その光景に、今西はふと疑念を抱いた。これは、緒莉が仕組んだ陰謀なのではないか?早く外に出るために、わざとやったのでは?もしそうなら、この女は本当に恐ろしい!緒莉は小さく震えながら尋ねた。「あの、まだ私に聞きたいことがあるのでしょうか?もしないのなら、もう帰ってもいいですか?」彼女の目は涙で潤み、声はかすれていた。わずか二言三言でも、男の庇護欲を刺激する響きだった。だが今西は、そんなものには乗らなかった。「やめてくれ、その手は俺には通じない。聞きたいのはただ一つ、お前は一体何を企んでいる?」この瞬間、今西は緒莉をただの女とは見ていない。彼女は計算高く、しかも音もなく罠を仕掛ける女。それはさっきの出来事の早さを振り返れば分かる。気づい
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第842話

もともと、研修生の警官は緒莉を少し気の毒に思っていた。そこへ今西さんがさらに冷たく接するものだから、ますますやりすぎだと感じた。だが、彼はまだ入って間もない研修生。あまり強い言葉を言える立場ではない。だからこそ、あの程度の言い方でしか相手に伝えることができなかった。今西は研修生を見て、歯がゆさを覚えた。誰に教わってきたんだ、こんな顔色も読めない奴を。それに、被疑者の目の前で同僚を非難するなんてどういうつもりだ。少しは頭を働かせろ。今西は大きく息を吸い込み、抑えた声で言った。「今は勤務中だ。優先すべきことをわきまえろ」研修生はまだ何か言おうとしたが、今西の目に宿った冷たい光を見て、思わず口をつぐんだ。そのときになって、ようやく自分が余計なことを言ってしまったと気づく。何にせよ、今西はこの署での先輩だ。自分の言葉は、彼の顔を潰すような真似だった。しかもそれを、容疑者の目の前で。最後に研修生は口を開きかけて、緒莉に一度視線を向けた。その目には迷いがあった。だが一瞬で目を逸らし、結局何も言わなかった。これ以上何を言ったところで意味はない。結果を変える力なんて自分にはないのだから。結局は無駄に終わるだけだ。緒莉は黙り込む研修生を見て、心の中で大きく白目をむいた。役立たず。本当に何の役にも立たない。少しは自分のために口をきいてくれると思ったが、どうやら買いかぶっていたようだ。さっきまで彼に期待して見せた表情は、まるきり無駄だった。そう内心で毒づきながらも、表面上は欠片もそれを見せない。「もういいんです、刑事さん」うなだれながら、落胆したように首を振る。「仕方ないのです、私はただの一般人。できることは、刑事さんたちの仕事に協力するくらい。それ以上は何もできません」そう言って、今度は今西を見た。「刑事さん、聞きたいことがあるなら聞いてください......知ってることは全部話しますから」その声は掠れて弱々しく、長く喋るたびに力なく響いた。緒莉の苦しげな様子に、研修生の同情心はまたも揺さぶられた。だが何を言えばいいのか分からず、ただひたすら今西を睨むしかなかった。どうしてこんな冷酷な人間がいるのか。彼は正義のために警察学校に入ったじゃないの
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第843話

彼は今西の表情を見て驚きを隠せず、思わず口を開いた。「今西さん......今の、本当ですか?」今西はこめかみを押さえ、淡々と答えた。「ああ。もう遅い、これ以上引き延ばすな」そう言うと、彼は拘留室を後にし、残されたのは研修生と緒莉の二人だけ。緒莉も少なからず驚いていた。まさか、この研修生が本当に役に立つとは。こうして自分を保釈させるなんて――そう理解した瞬間、緒莉はすぐに反応した。彼女は感謝の色を浮かべ、研修生に向かって言った。「さっきはありがとうございました、刑事さん」「礼なんていりません。当然のことをしただけですから」研修生は駆け引きなど知らないまっすぐな性格で、口にした。「それに、二川さんはただ協力しているだけでしょ。大丈夫ですよ」その言葉に、緒莉は口元にかすかな苦笑を浮かべた。「でも、もし刑事さんがいなかったら......きっと私の怪我は治療もされないでしょう」言葉と同時に、涙が潤んだ瞳に浮かぶ。声はかすれていたが、それでも彼女の顔立ちは十分に効果を発揮する。男が一番弱いのは、女に頼られる瞬間だ。それは彼らの男らしさを大いに満たし、達成感を与える。研修生も例外ではなかった。「行きましょう、二川さん。僕が病院まで送ります。喉は......早く治療しないと」緒莉は小さく頷き、口元に満足げな笑みを浮かべた。男の心をどう掴めばいいか、彼女は熟知している。どんな場面で、どんな言葉を口にし、どんな表情を見せればいいのか。彼女はそれを徹底的に研究していた。だからこそ、この程度の研修生など容易く手玉に取れる。研修生は終始笑顔のまま、浮き立つような足取りで緒莉を病院まで送り届けた。その様子を、今西は上の階から眺め、心の中で呆れ返った。口元には皮肉な笑みが浮かぶ。これが緒莉という女の「魅力」なのか。たったこれだけの時間で、あの研修生をここまで必死にさせるなんて。今西は思わず首を振った。踵を返し、署長へ報告に向かおうとしたその時。少し離れた場所に、隊長が立っているのに気づいた。今西は恭しく挨拶をして、すぐにその場を離れようとした。署長に報告を上げる必要があり、ここで足止めされている時間はない。しかし隊長は今西の前に立ちふさがり、行く手を
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第844話

今西は隊長のその様子に、全身を震わせてしまった。慌てて二歩ほど後ずさり、深々と頭を下げる。「そ、そんなことはありえません、隊長。自分にとって、隊長は永遠に隊長です。隊長に育てていただいた恩を忘れるなんて、絶対にありません。何があっても、です!」その言葉に、隊長はあたかも安心したように今西の肩を軽く叩いた。「ただの冗談だよ」隊長は豪快に笑い声をあげる。「ほら、腰を伸ばせ。そんなに真に受けるな」だが、その笑みは目には届いていなかった。今西もそれに気づいてはいたが、なおも恭しく、へりくだった態度を崩さない。余計なことは口にしなかった。今は一言でも多く話せば命取りになる。そして、隊長がどういう人間かもよくわかっている。だからこそ、これほど丁寧に振る舞っているのだ。新人たちには到底わからない事情だ。今西はあらためて強く言った。「自分は偶然、この事件を担当しているだけなんです」その言葉に隊長も思い直したようにうなずく。確かに、全ては偶然の重なりにすぎない。「そうか。もう仕事に戻れ」そしてふと思い出したように尋ねる。「そういえば、新しく入った実習生、どう思う?」思いがけない問いに、今西は思わず顔を上げた。まさか、何か勘づかれたのか?「とても真面目で頑張り屋です。若いのに勢いがありますし、時間をかければきっと優秀な人材になります」当たり障りのない、教科書どおりの答えを返す。その官僚的な口ぶりに、隊長は一瞬表情をこわばらせ、呆れたように手を振って退出を促した。今西は軽く頭を下げ、その場を離れる。これ以上ここにいれば、何が起こるかわからない。今日の隊長は、明らかに様子がおかしい。背後で今西の姿を見送った隊長の目に、鋭い光が走った。さきほど窓辺に立っていた今西の顔を、彼は見逃していない。その視線の先には、実習生と緒莉がいたではないか。そして今西のあの表情――隊長は瞬時に悟る。「こいつ、緒莉のことが気になっているな」もしかしたら、叶わぬ想い。そこへ実習生が割り込んだのではないか。そう考えると、隊長の中で確信に近いものが芽生える。清楚で素朴な女性に惹かれない男なんていない。そういうものに耐えられるなんて、隊長には信じがたい。よほど特殊
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第845話

隊長がこれまで自分に接してきた態度は、決してこんなものではなかった。だが、ここ最近になって今西も違和感を覚えるようになった。まるで、何をするにも自分を警戒しているように。それだけではない。重大な案件も、隊長は自分に任せようとしないような感じ。一体、なぜだ?もしかして、自分が力をつけて追い抜くことを恐れているのか。あるいは、自分の立場が脅かされると感じているのか。先ほどの隊長の言葉を思い返しながら、今西は目を細めた。やはり、あの推測は間違っていないのかもしれない。ふっと重たい息を吐き出す。本当のところ、自分にはそんな野心はない。だが、大人の世界とは複雑なものだ。たとえ本人にその気がなくても、ある程度の位置に立てば、周囲が勝手にそう仕向けてくる。最後には、嫌でも背中を押され、上へと押し上げられてしまう。理屈は単純だ。望む望まないにかかわらず、外からの圧力はいくらでもやってくる。理由なんていくらでもあるのだ。今西は首を振り、その考えを頭から振り払おうとした。だが、彼の推測は偶然にも隊長の本心を的中させていた。もっとも、今の今西が知る由もない。それはまた別の話だ。今西は署長室を訪れ、さきほどの出来事を余さず伝えた。署長は話を聞いて、意外そうに目を細めたが、特に何も言わなかった。「つまり、安東は今も警察署に拘留されている、そういうことだな?」今西はうなずいた。「はい。ご指示どおり、外へ電話もかけさせました。ですが......二度の通話、安東はどちらも良い返事をもらえなかったようです。それどころか、ご両親と口論になっていました」その言葉に、署長のややふくよかな顔に思案の色が浮かんだ。彼は当初、辰琉には強大な後ろ盾があると考えていた。迂闊に手を出せない相手だと。だからこそ、わざわざ京弥に連絡を入れたのだ。だが、実際には――驚くほど脆かった。ほんの少し揺さぶっただけで崩れ落ちるとは。署長にとっても予想外だった。こんな役立たずに、わざわざ京弥の手を煩わせる必要があるのか?署長は眉間を押さえ、どう報告すべきか思案を巡らせた。この件は大ごとではないが、小さなこととも言えない。「わかった」署長は姿勢を正し、今西を見据えた。「
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第846話

清那は紗雪の手を握り、優しく声をかけた。「いいじゃない、紗雪。おばさんにも慣れる時間が必要なんだよ。もし同じことが私に起きたって、私だってすぐに受け入れられるわけじゃないし」紗雪はその言葉に思わず苦笑する。「わかってるって。安心して、ちゃんと理解してるから」そう言って顔を上げると、日向と京弥の視線が交わるのが目に入る。心の中で首を振った。「まさか、私がそんな打たれ弱いと思ってるの?」両手を広げ、肩をすくめる。「どう転んでも、自分の人生を全うする。それが一番大事なんだから」京弥は唇の端をわずかに上げ、彼女の頭を軽く撫でた。「これだよ、俺が知ってる紗雪は」困難に屈せず、自分の考えを持ち、やるべきことに向かって歩き続ける。そんな姿が彼の胸に深く刻まれている。紗雪は小さな顔を上げ、真剣な眼差しで京弥を見つめた。頭上から伝わる温もりに心が弾む。そう、これこそが自分の知っている「お兄さん」だ。ずっとそばにいてくれたなんて、なんて幸せなんだろう。これから先も時間はある。ゆっくり歩んでいけばいい。一方、日向はその様子を見つめ、目にわずかな羨望の色を宿す。だが、自分の立場は分かっていた。無理に割って入るなんてできない。それはただの「横恋慕」になる。男としての矜持は、まだ残っている。だから、そっと目を閉じ、心の底で決意した。諦めよう。これからは、彼女のそばで静かに見守るだけでいい。欲を出すべきじゃない。二人は幸せそうだ。第三者が入り込む余地なんてない。それを壊すなんて、筋が通らない。清那も誇らしげに声を張った。「そうそう!私の中の紗雪なんて、もう女神様みたいな存在なんだから!兄さんみたいな凡人が手に入れられたのは、ただの幸運よ!」この瞬間、清那にとって「従兄」よりも大事なのは、迷いなく「親友」だった。従兄なんて大したことない。親友こそが一番大事。普段なら京弥に強い口調で言うなんてできなかった。けれど今日は、隣に大切な親友がいるからこそ、つい冗談を飛ばせた。言い終えたあと、清那はハッとして後悔し、こっそり従兄の顔色をうかがった。すると、そこには意外にも穏やかな笑みが浮かんでいた。笑ってる!?清那は驚いて背筋を伸ばし、も
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第847話

もう大人なんだから、こういうことくらいは分かっている。ましてや、彼女には京弥の行動を縛る権利なんてない。電話一本まで口出しするなんて、あり得ない話だ。清那は、ベランダへ戻っていく京弥の背中を見つめながら、思わず小声でつぶやいた。「いったい誰と電話してるの?なんだか妙にこそこそしてるし......もしかして、紗雪にも隠し事?」紗雪は笑って清那の鼻先を軽く突いた。「もう、いいでしょ。大人なんだから、それぞれ考えて行動するのは当然よ。いちいち口を挟むことじゃないの」その言葉を聞いて、清那は素直にうなずいた。そしてこっそり紗雪の表情を観察してみたが、彼女が本当に気にしていないのを知り、安心した。実のところ、さっきの二言は、清那がわざと紗雪に聞かせたものだった。紗雪がそれで不機嫌になるかどうか、試したかったのだ。もし本当に怒ったなら、後で従兄に伝えて、ちゃんと宥めるように言おうと思っていた。結局、それはただの試し言葉にすぎなかった。だが紗雪は本当に気にしていなかった。心に留めることすらしない様子を見て、清那はようやく胸をなでおろした。気にしないなら、それでいい。こんなことで二人が口げんかになる心配もない。一方、日向は京弥の背中を眺めながら、何か考え込んでいるような表情を浮かべていた。ベランダ。京弥は通話ボタンを押す。すぐに、署長の興奮した声が受話口から飛び込んできた。「椎名社長、新しい情報が入りました!」京弥は軽く「ああ」とだけ答える。「話してみろ」あまりに淡々とした返事に、署長の胸にあった喜びは半分ほどしぼんでしまった。自分では大ニュースだと思っていたのに、京弥にとっては取るに足らないことなのかもしれない。署長は深呼吸をして、起こったことを一気に説明した。「安東は拘束済みです。そして二川さんも、我々と提携している病院に搬送されました」京弥は目を細め、危うい声音で言った。「彼の精神状態、本当に異常だと確認したのか?」その一言に、署長の心臓がひやりとした。そうだ、自分はその肝心な点を見落としていた。京弥は長い指で肘掛けをトントンと叩き、しばし沈黙。返答がないと分かると、鋭く問いただした。「つまり、お前は何も確かめないまま、俺に報告してきたっ
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第848話

「ああ、それでいい」京弥はふいに言い添えた。「それと、二川緒莉のことも、しっかり監視しておけ。あの女は狡猾だ。絶対に逃がすな」その言葉に、署長は思わず驚いた。この京弥ほどの立場の人間が、恐れるような存在があるとは思わなかったからだ。だが、その口ぶりからは、緒莉に対して並々ならぬ思いを抱いているのが伝わってきた。どうやら以前、彼は彼女の手で痛い目を見たことがあるらしい。「はい」署長の胸の内も、少し重くなった。最初は、もうすぐ片がつくと思っていた。だが京弥と話した後、事態は自分が想像したほど単純ではないと悟った。むしろ、まだ始まったばかりと言ってもいい。署長は心身ともに疲弊していたが、やるべきことは落とさなかった。怖いからといって、最後に投げ出すわけにはいかない。そんなことは絶対に許されない。そう思い直すと、彼の心はまた大きく揺れ動いた。この数日、確かに心をすり減らされている。一刻も早く辰琉を片付けたい。送還するにせよ、罪を確定するにせよ、とにかく決着をつけてほしい。そうなれば、これ以上悩まなくて済む。しかも、それによって京弥に借りを作れる。もし今後何かあった時に、京弥の助けを得られるなら、間違いなく大きな力になるはずだ。そう考えた瞬間、署長の態度はがらりと変わり、へつらう色合いすら帯びてきた。京弥は、相手にこれ以上言うことがないと察すると、電話を切った。その瞳の奥には冷たい光が走る。面白い。あの安東辰琉が、まさか狂人のふりを思いつくとはな。つまりもう追い詰められたってことか?ならば、どこまで演じ続けられるか、見ものだな。そう思いながら、京弥は部屋に戻った。入ると、他の者たちが揃ってじっと彼を見ている。まるで、彼が今しがた何かとんでもない悪事でも働いてきたかのように。京弥は鼻先を軽く触れ、「みんな、どうしたんだ?」と首を傾げる。紗雪は、清那と日向の真剣な表情を見て、すぐに察した。二人はきっと勘違いしている。京弥が電話を受けに外へ出たのは、彼女を仲間外れにしたいからだと誤解しているのだろう。そう思うと、紗雪は小さく首を振った。「ううん。気にしないで」そして話題を変えるように微笑む。「それより、このあとみんなで外に食べに
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第849話

とくに清那は、どんなことがあっても顔を見るだけで、世界がぱっと晴れ渡るように感じさせてくれる存在。紗雪は彼女の頭を軽く撫で、ふと顔を上げると、京弥の視線とぶつかった。彼は笑みを浮かべて言う。「見ただろ、俺のせいじゃない。清那が自分から離れたくないって言うんだから、俺たちも一緒に付き合おう」紗雪は苦笑しながら小さくうなずいた。本当は、みんなには外に出て美味しいものを食べてもらいたかったのだ。自分は適当に済ませればいいと思っていたし、何より清那には、この消毒液の匂いが充満する場所にずっと居てほしくはなかった。身体に良くないのでは、と心配だったから。けれど紗雪は気づく。今回目を覚ましてから、清那の態度は前よりもずっと違う。以前よりも甘えてくるし、離れるのを嫌がるようになった。まるで片時も傍を離れたくないみたいに。仕方なく紗雪は譲歩する。「......わかった。みんな好きなものを頼んでいいよ。私のことは気にしなくて大丈夫だから」自分のせいで、これ以上大事な人たちに我慢させたくはなかった。彼らはすでに十分、自分のために犠牲を払ってくれているのだから。けれど、京弥たち三人は目を合わせると、揃って彼女の傍にいることを選んだ。その結果に紗雪は少しだけ迷ったが、結局は何も言わなかった。そうなるだろうと、心のどこかでわかっていたから。食事が終わると、清那と日向はホテルへ戻った。そして京弥は病室に残り、ベッドの反対側に横になると、紗雪を腕の中に引き寄せた。胸に伝わる懐かしい温もりに、ようやく心臓のざわつきが落ち着いていく。これまでの漂うような不安が、すっと消えていった。紗雪も素直に彼を抱き返し、二人は固く抱き合う。「私たち......ほんとうに大きな遠回りをしたね」ずっと探してたんだよ。長い間、ずっと。でもよかった。そこにいてくれて。その言葉を心の中でそっと付け足す。京弥は彼女の言葉に胸を揺さぶられ、顎を彼女の頭にそっと乗せて小さく応える。「ああ、確かに大きな遠回りをしたな。間違ってなくてよかった。結局、俺たちは変わらず一緒にいられる」紗雪の笑顔は溢れそうで、二人は抱き合いながら静かな安らぎを味わった。そのとき、京弥はふと昼間の電話を思い出し、その内容を紗雪に話
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第850話

ましてや、もう皆大人なんだし、そんなに打たれ弱いわけじゃないだろう?京弥は昼間の検査結果を紗雪に伝えた。「病院によると、緒莉の首には確かに外傷があって、声帯もある程度損傷しているそうだ。完全に回復するには時間がかかるだろう」その言葉を聞いて、紗雪の胸の奥に複雑な思いが広がった。どうやら辰琉は、本当に殺す気で手をかけたらしい。途中で止めるつもりなどなかったのだ。つまり、二人の関係はもう完全に表立って破綻したということだ。「そんなに?」京弥はうなずいた。「ああ。だから二人の婚約ももう駄目だろうな」なぜか紗雪は、自分の気持ちをうまく言葉にできなかった。安東家が虎の巣窟だということは、彼女自身もわかっていた。緒莉がそこに飛び込むのは、火の中に身を投げるようなものだった。結局のところ、こうなるのは必然だったのかもしれない。ただ、最初の頃から緒莉は、まるで全く気にしていないようだった。むしろ絶対の自信があるように、安東家を掌握できるとでも思っていたのだろう。なのに、何が彼女を安東家から手を引かせ、命懸けで争う道を選ばせたのか。その時、紗雪の脳裏に電光のような閃きが走る。そして京弥と同時に口を開いた。「――あの薬剤だ」夜、二人は月明かりの下で視線を交わした。紗雪は京弥の瞳に浮かぶ色をはっきりと感じ取った。そして京弥も、紗雪の高ぶる気配を敏感に察知した。まるで二人の思考が同じ周波数で共鳴したかのように。紗雪は勢いよく上体を起こし、抑えきれない感情を吐き出した。「つまり、緒莉と辰琉は共犯ってことよ。でも、安東家という大きな後ろ盾を捨ててでも対立を選んだのは、きっと辰琉の手に証拠があるから......そうでしょう?」京弥もまた身を起こし、彼女の期待に満ちた瞳を正面から受け止め、最後にはうなずいた。「君の読みは間違ってない」京弥の視線に冷たい光が走る。「となれば、緒莉の線から攻めるべきだ。二人で組んでいたとしても、痕跡を完全に消すことはできないはず」「そうよ!」紗雪は思わず京弥に抱きついた。京弥は数秒戸惑ったが、すぐに抱き返した。紗雪は声を抑えながらも震えるほどの熱を込めた。「今度こそ絶対に負けられない!私が一か月も寝込んでたんだもの、必
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