All Chapters of クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!: Chapter 831 - Chapter 840

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第831話

まるで、物事は本来こうなるべきだったかのようにすら思えた。結局のところ、彼女はこれまでずっと緒莉に対して色眼鏡で見てきた。その美しい幻想が打ち砕かれ、薄い紙一枚のような真実が突き破られた。受け入れられないのも、無理はない。紗雪はそう思うと、それ以上は何も言わなかった。美月の方からしばらく音沙汰がなかったので、そのまま電話を切った。どうせこれ以上引き延ばしても意味はない。ただ受話器を握ったまま沈黙しているだけなら、無駄に時間を浪費するだけだった。電話が切れた画面を見つめながら、美月はいつまでも心を落ち着けられなかった。暗くなり、最後には消え落ちていく画面に映った自分の顔は、信じられないほど打ちひしがれていた。そこには、いつもの自信と華やかさはどこにもなかった。代わりに、目には深い疲労と年輪のような翳りが浮かんでいた。彼女はふと我に返った。いつから自分はこんなふうになってしまったのだろう。すべてが思い描いた通りに進むことはなく、むしろ道を外れていくばかり。そう考えると、美月は胸の奥に痛みを覚えた。もともと、物事が自分の手から離れていくのが嫌で仕方がなかった。今はなおさらだ。しかし、どうやって掌握すればいいのか、ますます分からなくなっていた。すでに多くのことが、自分の手の届かないところへ行ってしまっている。その事実に思い至ると、心は迷いに包まれた。けれど、どうすればいいのかは分からない。ただ、一歩一歩進み、自分の心に従うしかない。無理にどうこうしようとしても解決できることではない。人生も、そして伴侶も同じだ。これまでの出来事を経て、美月も理解した。今一番大切なのは、真相をはっきりさせることだ。この件が本当に緒莉と辰琉に関わっているのかどうか。もしそうなら、決して二人を許さない。紗雪は自分の娘だ。娘に手をかけるなんて、まるで自分を死んだ者扱いしているようなものだ。美月の顔に一瞬浮かんだ陰りを見て、伊藤は思わず身震いした。奥様は、もうこれ以上我慢なさらないおつもりなのだろうか。さきほど紗雪の体験談を聞いただけで、自分ですら恐ろしくなった。辰琉という男が、どうして紗雪様にそんなことをできるのか。これまでは、紗雪の体調が悪く、奇病を患っている
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第832話

しかし具体的に何が起こったのか、彼女自身にもはっきりとは言えなかった。ただ、心の奥底では強い予感のようなものがあった。伊藤は美月の不安げな表情を見つめ、唇を固く結んだまま、結局何も言わなかった。この時ばかりは、美月自身が気づかなければならないことだと分かっていた。他人がどれだけ言葉を尽くしたところで、結局は本人が腑に落ちることの方が大事だったからだ。それに、伊藤も理解していた。今の美月に必要なのは慰めではなく、冷静さだと。自分で考え抜き、理解してこそ、より遠くまで進んでいける。伊藤は美月に軽く声を掛け、そのまま部屋を後にした。長居はしなかった。やがて部屋には美月ひとりだけが残された。彼女は床に並んだ整然とした荷物を見つめ、呆然とした。なぜこんなことになってしまったのか、心の中では理解できずにいた。ほんの少し前までは、すべてが順調で、何ひとつ壊れてはいなかったはずなのに。二人の娘もそうだった。彼女の描いた道筋に沿って歩んでいた。確かに、紗雪は多少その方向から外れたかもしれない。それでも、大きく逸れることはなかった。会社に入ったあとも、紗雪の活躍は目を見張るほどで、それは誰もが認めるところだった。その姿に美月は心から喜び、自分は良い娘を授かったのだと感じていた。もう一人の娘は体が弱いものの、母の前ではいつも穏やかで聡明だった。外に連れて行けば、誰からも褒められ、母親としての顔も立った。あの日々は確かに幸福だった。その均衡を破る者は、誰ひとりいなかった。だが今、美月は迷いの中にいた。紗雪が入院してからというもの、まるで何もかもが変わってしまったようで、理解が追いつかない。不意を突かれたように、心が揺さぶられていた。数々の出来事を経るうちに、美月はますます迷いを深めていった。一体これはどういうことなのだろうか――......部屋を出た伊藤は、すぐに美月の決断を実行に移した。密かに探偵を雇い、鳴り城中央病院を徹底的に調べさせた。特に、紗雪に関わったあの医師については念入りに。何があったのか、真実を知りたいと思ったのだ。本来なら見過ごすこともできたかもしれない。だが、京弥の言葉を耳にして以来、もう黙ってはいられない。大切な紗雪様が、そん
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第833話

「紗雪様をいじめた連中は、一人残らず見逃しはしない」そう口にした伊藤の瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。先ほどまでの態度とは、まるで別人のようだった。同じ頃、警察署でも事態はぎくしゃくしていた。辰琉は尊大な態度で電話をかけようとしていた。だが警官の表情は終始冷静で、大きな変化は見られない。辰琉はその様子を見て、妙に引っかかるものを覚えた。つい先ほどまで、この警官は彼に対してこんな態度ではなかったはずだ。まるで一本電話を受けただけで、別人のように変わってしまったかのようだった。「言っておくが、俺は冗談言ってない。本当に電話をかけるんだぞ」辰琉は再び脅すように言い放ち、警官を見下すような表情を浮かべた。まるでその電話を一本かければ、目の前の警官を即座に抹殺できるとでもいうように。警官は呆れたように彼を見つめ、最後に溜め息をついた。「かけていいと言ったんだ、騙す必要なんてないだろう」その言葉に、辰琉は口を開きかけた。だが結局、何も言い返せなかった。相手がここまで許可しているのに、なお食い下がるのはかえって不自然だ。むしろ、この状況で渋り続ければ、周囲に怪しまれるだろう。警官が繰り返し「かけていい」と言っているのに、なぜまだごねる必要があるのか――そう考えると、辰琉は覚悟を決め、余計な言葉を飲み込んだ。「いいだろう。かけろと言ったのはお前だからな、後悔するなよ」警官は仕方なさそうに頷いた。だが心の中では首をかしげていた。いったいこの男はどういうつもりなのか。こちらがかけていいと言っているのに、なぜ信じようとしない?そもそもスマホは今、彼の手元にある。本当にかけたいなら、とっくに番号を押しているはずだ。それを延々と渋る意味が分からない。この男の思考回路は理解できない――警官はそう感じていた。署に来てからというもの、終始わめき散らしていたかと思えば、いざスマホを渡すと、今度はぐずぐずと動かない。そんな姿に苛立ちを覚えたが、上からの指示もある。仕方なく黙って従うことにした。手のかかる厄介者を相手にしているだけだと自分に言い聞かせながら。一方、緒莉はそのやり取りを観察していた。彼女の目には、警官の変化がどうにも不自然に映った。少し前までは
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第834話

紗雪なんて大したことない。いくら警戒していたって、結局は自分に簡単に気を失わされたじゃないか。所詮は負け犬にすぎない。そう思うと、緒莉の胸に不安はなくなった。どうせまだ切っていない切り札が一つある。それは彼女の最後の手札。本当に追い詰められるまでは使うつもりはなかった。だが、無理やり彼女を追い込もうとしてるなら、もう容赦しない。誰であろうと、結果は同じだ。行く手を阻む者は、一人ずつ排除するだけ。幼い頃から、彼女はその理屈をよく理解していた。欲しいものは、自分の手で掴み取らなければならない。そうして初めて、確かに自分のものだと実感できる。だから今も、多くのことを自分の力で勝ち取ろうとしている。常識外れでない限り、自分の手に余ることでない限り、あの人に頼るつもりはなかった。切り札を軽々しく晒してしまったら、それはもう切り札ではない。そのことを、緒莉は誰よりもよく分かっていた。彼女の胸には不審が渦巻いていたが、今は「敵は暗に潜み、こちらは表に立たされている」状況。不用意に動くのは危険だ。まずは辰琉が電話をかけ終えて戻ってくるのを待つべきだろう。そうして彼は半信半疑のまま外に出て電話をかけに行った。だが警官は後を追うことなく、悠々と拘留室に残っていた。緒莉はその様子を見て、心の中の疑念をさらに募らせた。しかし、声には出さず、成り行きを静観することにした。時には、先に動くより待つほうがいい。警官はスマホを渡したが、手錠は外さなかった。外には同僚も控えている。だからこそ、安心してここに座っていられるのだ。どうせすぐに戻ってくる。上司の言葉からしても、この電話が成功する可能性はない。ならば、かけさせても問題はない。緒莉はそんな警官を観察しながら、試しに口を開こうとした。そのとき、外から突然、大きな声が響いてきた。「どういうことだ!俺は父さんの息子だぞ!見捨てるなんて......!」辰琉の荒々しい声が、拘留室にまで響き渡った。静まり返った室内では、その声が一字一句、はっきりと聞き取れる。だが安東父には、それに構っている余裕はなかった。最近の安東グループの混乱は、彼を完全に追い詰めていた。どうも一社だけでなく、複数の勢力から一斉に
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第835話

当面の急務は、とにかくここから早く出ることだった。このままぐずぐずしていたら、ずっとここに閉じ込められてしまう。なぜだか分からないが、その予感だけは辰琉の中で強く確信めいていた。だからこそ、彼は声の調子を和らげ、わざと媚びるような響きを混ぜた。「ごめん、父さん......わかってるよ。今回ここに入ったのは本当に偶然で、誰かが俺たちを陥れようとしたんだ。あの人の罠に乗っちゃいけないんだよ」一言一言、切実さをにじませて必死に訴える。けれど、この時の安東父にはもう何を言っても耳に届かなかった。机の上に積まれた大量の書類を前に、頭が割れそうになっていた。そのうえ息子はどうしようもない役立たず。何の助けにもならないどころか、二川家との結婚の話も散々引き延ばしている。それだけでも十分面倒だというのに、今度は外で問題を起こし、挙げ句に拘置所送り。まるで会社の名誉を地に落としているようなものだ。幸い、今回は海外での出来事。騒ぎ立てなければ、外に漏れることはない。安東父は一気に堪忍袋の緒が切れた。「自分で何とかしろ。こっちは忙しい」もはや心の底から、この息子を見限ろうとしていた。この子供が潰れたなら、新しい子供を育てればいい。そう思った瞬間、彼の目に冷たい光が走る。そうだ、息子はひとりじゃない。なぜこの子にばかり力を注ぐ必要がある?考え至ると、安東父は一切のためらいもなく電話を切った。辰琉に言い返す機会さえ与えずに。「もしもし......父さん?」受話器から響く「ツーツー」という音。辰琉は思わず声を張り上げた。何度も「父さん!」と叫んだが、返事は一切なかった。その時ようやく心の底まで打ち砕かれ、力が抜けてその場に崩れ落ちた。あまりにも唐突で、頭が追いつかなかった。部屋の中の警官が物音に気づき、ゆっくりと立ち上がり外へ出てきた。崩れ落ちた辰琉を一瞥し、かつて自分が受けた屈辱と痛みを思い出す。やっと仕返しができる。「おやおや、これはこれは鳴り城の安東家のお坊ちゃまじゃないですか」警官はあからさまに嘲るような笑みを浮かべた。「どうされたんです?電話を終えたら床に座り込んで動けなくなった?床は冷たいですよ。お坊ちゃまの繊細なお体が冷えたら大変じゃない
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第836話

「不服か?」今西も一気に頭に血が上った。一日中こいつに振り回された挙げ句、まだ手を出そうとしてくる。そんなもの受け入れられるはずがない。こいつさえいなければ、今日は早番で帰れたのに――辰琉の顔は壁に押しつけられ、肉が歪んでいた。それでも、かすれた声が必死に漏れ出す。「やっぱりお前ら警察が何か言ったんだろ?そうじゃなきゃ、親父があんな態度をとるはずない!信じられないし......納得できない......俺は親父の唯一の息子だぞ!一体、何を吹き込んだんだ!」彼の脳裏には、さっきの父の言葉が何度も響いていた。A国に来てまだ数日。どうしてこんなことになった?父の態度も、まるで人が変わったかのようだ。以前は決してこんな冷たさじゃなかったのに......駄目だ、納得できない。異国でこんな風に終わるなんて絶対に嫌だ。必ず立ち直る。緒莉への恨みも、まだ清算していない。逃げられると思うな。それに、鳴り城には自分を待つ女がもうひとりいる。絶対に倒れるわけにはいかない!辰琉は急に声色を変え、さっきまでの尊大さを消した。「すみませんでした、警察官さん。頼む、離してくれ。もう一度だけ電話させてほしい」態度の急変に、今西は眉をひそめた。こいつ、どういうつもりだ?さっきまでの様子と全然違うじゃないか。「さっき電話したばかりだろ?」とはいえ、昔から「怒れる拳笑顔に当たらず」という。相手の態度が下手なら、多少言葉を返す気にもなる。「それとは違うんだ」辰琉は一瞬口ごもり、顔を赤くしながら言った。「さっきの電話は親父にかけたやつだ。今度は......母さんにかけたいんだ。話を聞きたい」今西は目を細めた。裏に何かあると分かりつつも、特に追及はしなかった。上からも「常識の範囲内なら融通して構わない」と指示が出ている。電話一本くらい、大したことじゃない。「わかった」その言葉に、辰琉は思わず顔を上げた。てっきり断られると思っていたのだ。言ってしまったことを後悔し、恥をかいたと苛立っていたが、まさか本当に許されるとは。警官が嘲笑するでもなく、あっさり許可を出したことに、彼自身驚きを隠せなかった。「ありがとう......それと、ごめんなさい。さっきは、手
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第837話

緒莉はその言葉にただ微笑んだ。「私は何もしていませんよ」探るような目を向けながら続ける。「まさか、証拠もないのに全員を一緒くたにするんですか?」この警官、何者なのか。どうしてこんな言い方ができるのか。背後に誰かがいるのか、それともただの馬鹿なのか。こんな状況で、まだ強気に出られるなんて普通じゃない。一方、辰琉の方は必死だった。素早く母親の番号を押し、呼び出し音を聞きながら願う。母さえ繋がれば、ここから出られる。母は自分を愛している。唯一の子どもだから。その自信だけは揺るがなかった。誰にも母を侮辱させない。母さえ味方なら逃げられる。自分はまだ若い、後の人生を刑務所で終えるなんて絶対に嫌だ。そう思うと、顔に悔しさが滲み出る。しかし、電話は何度鳴っても出ない。胸の奥がぎゅっと締めつけられる。「お願いだ、母さん。出てくれ。どうして誰も助けないんだ?この国に来る前までは、あんなに順調だったのに......」頼む、母さん、早く出てくれ......」心の中で繰り返すその言葉しか、もう頭に残っていなかった。そして。自動的に切れる直前、ようやく電話がつながった。母の声が響いた瞬間、胸がいっぱいになり、言葉が詰まる。「母さん!俺だ、辰琉だ!」受話器の向こうで、母の瞳には一瞬迷いが浮かぶ。だが夫の視線を感じ、口調をわざと平静に整えた。「何かあったの?」その作り物めいた落ち着きに、辰琉は気づくことなく、必死にまくし立てる。「母さん!今、ちょっとしたことで拘置所に入れられてるんだ!父さんに助けに来るよう言ってくれ!ここにいるのが怖くて......俺、まだ死にたくないんだ!」最後は、泣き声に変わっていた。母はその声に胸を抉られる思いだった。だが、夫の鋭い目に射抜かれ、瞳に決意を宿すと、冷たく言い放った。「何か過ちを犯したから捕まったんじゃないの?辰琉、あなたもう大人なのよ。いつになったら成長するの?」その言葉には責める響きすら混じっていた。耳にした辰琉は、信じられない思いで固まる。これが、あの優しかった母さん?「母さん、それは......どういう意味?」驚愕と絶望の入り混じった声が震える。「俺は母さんの子どもだよ!今
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第838話

安東母はその言葉を聞いて、心の奥でわずかに後ろめたさを感じながらも、口調は揺るぎなく言い放った。「もう初めてじゃないでしょ。今さら何?もう大人なんだから、いつまでも子どもみたいなこと言わないで」「母さん、それって......」辰琉の声は、不意に落ち着き払ったものへと変わった。まるで相手が自分の母親ではないかのように。「母さんは俺を要らないってこと?」その言葉に、安東母の心臓はドキンと音を立てた。息子の声音に違和感を覚えつつも、隣で安東父が見ている手前、他の言葉が出てこない。結局、腹を括ったように彼女は吐き捨てた。「大人なんだから、自分でなんとかしなさい私もお父さんも、一生あなたの尻拭いなんてできないんだから」次の瞬間、辰琉のスマホからツーツーという無機質な音が鳴った。明らかに、再び電話を切られたのだ。だが今回は、彼の表情に大きな動揺はなかった。むしろ、こうなることをどこかで予想していたかのように。椅子に腰を下ろし、手の中のスマホを見つめる。気がつけば、すべてが滑稽に思えてくる。ただ、なぜそんな感情が湧くのかは自分でも分からなかった。こんな短い時間で、自分は両親に見捨てられたのか?しかも「辰琉のためだ」と言っていた両親に?父と自分の顔立ちは似ているし、母が日頃見せてきた優しさも本物に思えた。確かに血のつながった親子のはずだ。それなのに、どうしてこんな関係になってしまったのか。今西が出てきたとき、そこには椅子に沈み込んだままの辰琉がいた。うなだれ、打ちひしがれている姿。だが今回は、今西は嘲ることも、急かすこともしなかった。ただ静かに、そこに立っていた。互いに口を開かず、壊れやすい均衡が保たれる。それがかえって不思議で、辰琉自身も違和感を覚えた。警察官との付き合いなんて浅いはずなのに、こうして落ち着いて隣にいられるとは――奇妙だと。その頃、彼の知らないところで、母親もまた鳴り城で苦しんでいた。電話を切った後、安東母はすでに涙に濡れていた。スマホをテーブルに叩きつけ、真っ暗な画面を指差して泣き叫ぶ。「これで満足したでしょ!」安東父は切られたスマホに目をやると、ただ「ふん」と一声。何も言わなかった。だがその態度に、安東母は我慢でき
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第839話

彼女は男の最後の視線を受けて、心の底で悟った。相手が冗談を言っているわけではないことを。もしまだ辰琉を庇おうとすれば、自分が「安東奥様」としての立場は終わるという意味だ。半生を贅沢と富貴の中で過ごしてきた彼女にとって、突然奈落に突き落とされるようなことなど、受け入れられるはずがなかった。結局、息子と富のどちらかを選ぶとすれば、安東母は迷いなく後者を取った。安東父が言った通り、この地位さえあれば金もある。欲しい男も女も、探せばいくらでも見つかる。息子だって、また作ればいい。安東母の瞳に、かすかな思索の色がよぎる。さっきまでの悲しみも、少しずつ薄れていった。やがて彼女は立ち上がり、ソファに腰を下ろした。背筋を伸ばしたまま、ぼんやりと長い時間を過ごす。その様子を見ても、安東父は何も言わなかった。彼も本当は心が痛む。だが会社のためには、こうするしかなかった。もし辰琉が刑務所に入れられたのなら、それは背後にいる者が安東家を恐れていない証拠だ。入る前に息子が自分の家の名を持ち出したのは間違いない。それでも結果が変わらなかったということは、そういうことになる。ならば、早めにあの女を利用して、新しい後継を育てるしかない。敵わない相手なら、避ければいい。安東家が今日まで続いてこられたのは、ひとえに彼が日々慎重に行動してきたからだ。「用心に越したことはない」という言葉の通りに。だからこそ、ここまで大きくなれたのだ。息子と会社。そんな単純な二択なら、迷うはずもない。彼ははっきりと選び、即断できる人間だった。安東母は、その表情を見てすぐに理解した。この男はもう決めている。そして一度決めたことを、誰にも覆させはしない。彼女であっても例外ではない。それが、この男の頑なさだ。もうどうしようもない。既に決まってしまったのだ。安東母は静かに目を閉じ、心の中で息子に謝った。「ごめんね、辰琉。母さんには力がない。助けてやれないの。助けたくないんじゃない、ただ私にはそれだけの力がないのよ......」安東グループの外では、太陽がまぶしく輝いていた。だが安東母の心は、すっかり冷え切っていた。これからどこへ向かえばいいのか、自分でも分からない。まして安東父
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第840話

彼女は、自分に隠し事をされるのが何より嫌いだ。緒莉は、肩を落として戻ってきた辰琉を見て、まるで何も知らないかのように装い、先に声をかけて気遣う。「辰琉、どうしたの?」にこやかに優しく微笑んで、「さっき電話しに行ったよね?繋がらなかったの?」その口調はあまりに柔らかく、まるで日常の何気ない出来事を語るようだった。だが辰琉の神経は、唐突に何かに触発されたように逆上し、彼女の首を掴み上げて強く締め上げた。「全部お前のせいだ!じゃなきゃ俺がこんな目に遭うわけがない!このくそ女!この俺がここまでやってやったのに、なんで裏切るんだ!緒莉、お前は一体なんなんだ。見誤ってたぞ!そんなに俺を死なせたいって言うなら、一緒に死んでやるよ!」緒莉の目は白く裏返り、喉に酸素が入らなくなっていく。必死に両手を伸ばし、辰琉を突き放そうとするが、男女の力の差は歴然としていた。しかも相手は激昂状態にある。あまりに突然の出来事に、今西もすぐには動けなかった。我に返った時、ようやく慌てて二人の間に割って入り、引き離そうとする。「何してるんだ!」「ここは警察署だぞ!お前の目には法も何もないのか!」今西は渾身の力を込めたが、それでも辰琉を引き剥がせなかった。最終的に、監視カメラで異変に気づいた同僚たちが飛び込んできて、二人をようやく引き離した。間一髪だった。床に崩れ落ちた緒莉は、荒く息をしながら首に手を当てる。皮膚にはくっきりと赤黒い指の跡。鏡を見ずとも、どんな姿かは想像がついた。乱れた髪、完全に掠れた声で彼女は訴える。「わ、私は......この人と同じ部屋にいたくありません。怖いんです......外に出してください、協力できることは何でもします!」涙の跡に覆われた小さな顔、白く細い首に残る無惨な痕跡。あまりの惨状に、その場の警官たちの心も揺らいだ。今西を除いて。彼は細めた目で彼女を見据え、下ろした手を僅かに握り締める。この女と過ごした時間で、彼女がどんな人間かは嫌というほど分かっていた。今回辰琉が逆上したのも、結局は緒莉が焚きつけたからだ。狙いは一つしかない。とうとう隊長まで見ていられなくなった。「聞きたいことがあるなら今のうちに聞け。終わったら二川さんを病院へ」そう
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