All Chapters of クズ男と初恋を成就させた二川さん、まさか他の男と電撃結婚!: Chapter 851 - Chapter 860

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第851話

二人は、どれほどの時間が経ったのかもわからないまま、ようやく再びベッドに身を横たえ、寄り添って眠りについた。天の月は雲に隠れ、星々だけがかすかに瞬いている。まるで、ようやく再会できた二人を邪魔しないように、そっと息をひそめていた。翌朝。紗雪が目を開けると、隣にはもう誰の気配もなかった。代わりに、部屋には食欲をそそる朝食の香りが漂っていて、一気にお腹が鳴りそうになる。身体を支えて起き上がると、椅子には清那がすでに腰掛けていた。テーブルには料理がずらりと並び、その一部はもう食べられていて、残りはどう見ても彼女のために取っておいたものだった。その光景に、紗雪の胸がじんわりと温かくなる。時計を見ると、まだ朝の八時過ぎ。思わず笑みがこぼれた。「今日は早いのね。清那らしくないよ」そう言いながらベッドを降り、洗面所へ向かう。知らぬ間に、お腹の空きもだいぶ強くなっていた。紗雪が立ち上がったのを見て、清那は慌てて駆け寄り、彼女を支えた。それが可笑しくて、紗雪は声を立てて笑った。「もう、自分でできるよ」呆れ半分に言う彼女に、清那は真剣な顔で返す。「一か月も寝込んでたんだから、体はまだ本調子じゃないでしょ。私が支えていれば安心なの」紗雪は少し抵抗を覚えた。まるで本当に自立できない人みたいで、気持ちが落ち着かないのだ。けれど清那は一歩も譲らず、何を言っても手を放そうとはしない。仕方なく、紗雪は受け入れることにした。長い付き合いだからこそ、清那の性格はよくわかっている。ここで意地を張っても、無意味なことだ。「じゃあ仕方なくお願いしようかな」紗雪は甘えた調子でそう言い、ついでにぷにっと清那のふっくらした頬をつまんだ。その瞬間、心の奥まで満たされていく。ずっとこうしたかった。でも初日は清那があまりに泣きすぎて、そんな気分にはなれなかった。だから今日がちょうどいいタイミングだったのだ。清那は恨めしそうに紗雪を見上げたが、彼女の体調を気遣って反撃は控えた。洗面所の前まで来ると、清那はきちんと引き下がる。「終わったら呼んでね。面倒だからって呼ばないなんて駄目よ。すぐそこにいるから、何かあったら呼んで」念を押すように繰り返す清那に、紗雪は苦笑してうなずいた。「わ
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第852話

彼女が回復した後には、考えなければならないことが山ほど待っている。紗雪は首を振り、歯ブラシを手に取り身支度を始めた。その間に清那は、慌ただしく席へ戻ってご飯をかき込んでいる。日向は、忙しなく動き回る清那の姿を眺めて、まるで蜂のようだと思った。ふと、先ほど紗雪が言った「今日は早いのね。清那らしくないよ」という言葉を思い出す。そこでふと気になった。清那は家では普段、何時に起きているのだろう?彼は隠すことなく、率直に問いかけた。その言葉に、清那は珍しく気まずそうに視線を逸らす。「えっと......家ではね......」頭を掻きながら言葉を濁した。実際には、家ではいつも昼近くまで寝ていて、ほとんどは使用人に起こされてようやく目を覚ます。自分から起きようとしたら、下手をすれば午後まで眠り続けてしまうだろう。もし両親が、空腹で体を壊すのを心配して起こしてくれなければ、きっとずっと眠っていたはずだ。日向は、そんな清那の歯切れの悪さを見て、思わず笑いをこらえた。理由はすぐにわかった。彼女のこうした「お姫様」気質は、家族に甘やかされて育った証拠だ。そうでなければ、こんな自由奔放な性格にはならない。今の清那が持っているものは、家族からの深い愛情そのものなのだ。清那は、どう答えたものかと迷っていた。顔を上げると、日向の目とぶつかる。そこには抑えきれない笑みが宿っていた。瞬時にそれを察した清那は、ぱっと立ち上がり、指を突きつけて言った。「ちょっと!その笑いは何よ!からかうのは禁止!家にいたら誰だって寝坊くらいするでしょ!」日向は慌てて両手を上げ、降参のポーズを取る。「ごめんごめん、からかったわけじゃないよ。君の言うとおりだ、寝坊なんて普通のことだよね。ただ可愛くてさ」その「可愛い」のひと言に、清那は固まった。顔がみるみるうちに赤く染まり、まるで夕焼けの色がそのまま頬に移ったように白い肌を彩った。そしてその光景は、日向の暗かった心の奥をも照らした。一瞬、彼は呆然としてしまい、どう反応していいかわからなくなった。紗雪の前では感じたことのない、この強烈な感覚。なのに清那の前では、同じような感情が何度も押し寄せてくる。日向の表情は次第に曇り、心の中で自分を罵った。
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第853話

でも、日向って......さすがに心変わりが早すぎない?ふん、やっぱり男なんてみんな噓つきだ。清那がぷくっと頬を膨らませて怒っているのを見て、日向は心の中で「本当に可愛いな」と思った。どうしてこんなにも心優しくて、しかも人に対して誠実で、お日様みたいに明るい子がいるんだろう。この世のすべての美しい言葉が、この女の子一人に集まっているかのようだった。その瞬間、日向自身も不思議でたまらなかった。だが、彼はどうにか心を抑え込もうとした。「自分は最低な男にならない」と、常に言い聞かせているからだ。さっきまで「紗雪をそっと守っていこう」と心に誓ったばかり。なのに今度は、その親友に心を動かされている?日向はうつむき、自分の掌を見つめた。そんな自分に、心の底から嫌悪感が込み上げてきた。空気は一気に気まずくなり、先ほどまでの和やかさは跡形もなく消えてしまった。日向は大きく息を吐き、話題を逸らすしかなかった。「そういえば、君の従兄は?」考えてみれば不思議な話だ。あの京弥って男、どうして紗雪を一人で病室に置いて平気でいられるんだ?よくそんな無用心なことができるな。もしまた前みたいなことが起きたらどうするんだ。清那は手を振って首を横に振った。「兄さんに、急に用事ができたから早めに来てほしいって言われたの。それに、もう二度と前みたいなことは起きないわ。気付いていなかったの?この病室の周り、白衣を着た人が増えてるでしょ?」その言葉に、日向は一瞬動きを止めた。「まさか......」彼の言葉を最後まで言わせずに、清那はこくりと頷いた。「そう、その人たち全部、兄さんが紗雪を守らせるために派遣したボディーガードよ。ただ他の人たちに迷惑かけないように、あえて白衣を着せてるの」それを聞いて、日向はすぐに理解した。どうやら、あの男も意外と細やかな気配りをするらしい。前みたいなことにはならなそうだ。でなきゃ、真っ先に自分が立ち上がっていたはず。資格なんてないかもしれない。けれど、それでもできることは全部やりたい。紗雪が一人で悲しみに沈む姿なんて、もう見たくない。清那は、考え込んでいる日向の横顔をじっと見つめた。彼が何を思っているのか分からず、最後には小さく首を振ってそれ
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第854話

その頃、京弥もじっとしてはいなかった。早朝に病院で目を覚ますと、ためらうことなく真っ直ぐ警察署へ向かった。運転席にはサングラスをかけた秘書の匠が座っていた。久しぶりにいつもの威圧感を取り戻した社長を横目に、彼の胸は嬉しさでいっぱいだった。やっぱりこうでなくちゃ。これこそ自分の好みの「社長様」だ。この一か月、自分がどう過ごしてきたか、誰も理解できないだろう。自社を見張るだけじゃなく、二川グループにも気を配り、さらには社長の気分まで気にしなきゃならなかった。一日二十四時間なんて足りやしない。四十八時間欲しいと何度思ったか。休む時間は大幅に削られ、以前のような自由などまるでなかった。しかも肝心の社長は、奥様の傍を片時も離れず、会社のことも家のこともすべて彼に丸投げ。もし自分にもっと能力があったら、社長は会社ごと渡しかねない――匠は本気でそう疑った。奥様を失ってからの社長は、何事にも興味を示さなくなっていた。この一か月、匠の目にはずっとそう映っていた。何を聞いても「どうでもいい」という態度。時には電話すら出ないこともあった。そんな姿を見るたびに胸が痛んだ。叱られたり怒鳴られたりしていた頃の社長が、むしろ懐かしく思えたほどだ。あの頃の社長は誰よりも覇気に満ち、ビジネスの場でも一歩も引かなかった。自分はその後ろで有能な秘書を演じていればよかった。今のように馬車馬のようにこき使われることもなかったのに。ところが数日前、奥様が目を覚ましたと聞いてから、京弥は再び闘志を取り戻した。すぐさま電話を寄越し、「A国まで来い」と言ったのだ。やはり、信頼できる秘書がいないと不便なのだろう。社長から電話がかかってきたとき、匠は文字通り飛び上がるほど興奮した。長い間待ち望んでいた瞬間が、ついに来たのだ。とくに奥様が目覚めたと知ったときには、嬉しさのあまり泣き出してしまった。よかった。本当によかった。この一か月、昼も夜も神様に祈ってきた甲斐があった。奥様さえ目を覚ませば、社長も立ち直る。そうすれば、自分たち社員にもやっと安らぎの日々が戻ってくる。会社の柱がやっと帰ってくる。そんなふうに思うと、匠には外の景色さえ眩しく映った。草すら可愛く見える。そして、今
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第855話

その頃、匠は心の中で少し首をかしげていた。社長、どうやって気づいたんだ?だって自分はサングラスをかけていたし、しかも社長は目を閉じて休んでいたはずだ。それなのに本当に、こっちが盗み見してたのが分かったっていうのか?いくら考えても答えは出ない。結局、考えるのをやめて頭の隅に追いやった。ただ、正直に言えば――ああやって社長にピシャリとやられるのは久しぶりで、心の奥では妙に気持ちよかったりする。そう思った瞬間、ぞっとした。自分はいったいいつから、こんな風に歪んでしまったんだ......?いや、余計なことは考えるな。運転に集中だ。ほどなくして、車は警察署の前にぴたりと停まった。下車する前に、京弥が念のため確認する。「国内のほうは、全部手配できているな?」匠は胸を叩いて答えた。「ご安心ください。すべて手配済みです。何か突発的な事態があっても、すぐにこちらに情報が入りますから」京弥は軽くうなずき、それ以上は何も言わなかった。匠を長年使ってきた以上、基本的な能力については信頼している。確かにこの一か月は気力を失っていた。だが、彼の心は常に澄んだ鏡のようだった。会社を匠に任せても大丈夫――そう信じていたからこそ、時には電話にすら出なかったのだ。任せると決めた以上、無条件で信じて支える。それが最大の激励になる。事実、これまで家族から一度も電話がかかってこなかった。つまり匠がきっちり隠し通した証拠だ。会社も何一つ問題なく回っている。だからこそ、京弥は安心してスマホを閉ざし、大切な人の傍に時間を注ぐことができた。紗雪を一人でA国に残すなんて、絶対にできない。冗談にもならない。京弥にうなずかれた瞬間、匠の胸は喜びで膨らんだ。今のは信頼の証だ。会社に一か月顔を出していないのに、確認はたったひと言だけ。それ以上は何も聞かれなかった。それが何よりの信任だ。匠の胸中も澄んだ鏡のようで、すっかり腹は決まった。よし、A国に残って社長に付き従おう。たとえただの運転手であっても構わない。社長の側にいれば、得られるものはいくらでもある。椎名グループでひとり働くより、こうして傍で仕える日々のほうがよほど幸せだ。こうして二人は警察署に入った。署長
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第856話

来る前に、今西は署長から何度も念を押されていた。その言葉を、今西もちゃんと胸に刻んでいる。今回は署長は隊長すら呼ばなかった。しかも、今西自身がこの事件の担当者でもある。総合的に見て、接待役として最も適任なのは今西以外にいない。京弥と匠が歩み寄ると、署長は今西を連れて前へ進んだ。実際に京弥の姿を目にした署長は、目尻のしわがくっつくほど満面の笑みを浮かべた。「いやぁ、百聞は一見に如かずとはまさにこのこと!」署長は手を差し出し、握手を求めた。だが京弥はまったく動かず、代わりに匠へと目配せをした。匠はすぐにその手を取り、にこやかに口を開いた。「こちらこそ、署長にお会いできて光栄です。今後の件については、ぜひお力添えを」そう言いながら、匠は袖口から空白の小切手を取り出し、握手の動きに紛れて署長の手に滑り込ませた。それを感じ取った署長の目は、たちまち輝きを増す。まあ、大物がちょっとした癖を持っていて、握手を嫌うことくらいある。焦ってしまったのは自分の方だ、と署長はすぐに気を取り直した。そのまま匠と署長は打ち解けた様子で談笑を始める。一方で京弥は静かに二人のやり取りを見つめ、眉間にわずかな皺を寄せていた。それを察した匠は、すぐに会話を本題へと戻した。時間は限られている、ここで無駄にするわけにはいかない。あやうく署長のペースに巻き込まれるところだったが、なんとか軌道修正することができた。署長も京弥の表情を一目見て、相手が何を目的に来たのかを理解した。彼は今西の肩を軽く叩き、興味深げに言った。「いやぁ、おしゃべりが過ぎてしまいましたね。本題に入りましょうか」匠はこういうタイプの人間に対して、妙に気が楽だった。金で納得させられる人間なら、難しく考える必要もない。京弥の傍らで過ごしているうちに、匠も少なからず彼から学んでいた。金に振り回されるのではなく、金を支配し、使いこなすこと。それが主であり、決して従ではないのだ。「さすがはA国警察本部、責任感が強く、仕事も丁寧だと伺っていました。今日こうしてお会いして、それが本当だと体感しました」匠が真顔でそう言うと、署長は思わず舞い上がるほど喜んだ。まさか大物の側近に、こんなに弁の立つ補佐役がいるとは。どうやらこの補
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第857話

今西は頷いた。「はい。これも自分の役目ですから」その表情は真剣で厳しく、まるで本当に市民のためを思っている優秀な警察官のように見えた。これが匠が今西に抱いた第一印象だった。だが同時に、心の奥では──まだ早まって判断するべきではない、と考えていた。これからの行動を見てみないことには分からないのだ。今西は京弥の少し前を歩いた。とはいえ絶妙に距離を保ち、ほとんど横に並ぶような位置を取っていた。出しゃばりすぎない、そのあたりの気配りはできているようだ。ほかの大物にどう接するべきかは分からない。だが、京弥に対しては。やはり礼を尽くすのが一番だと今西は判断した。それが、自分にとっての道を開くことになるかもしれない。もしこの大物をうまくご機嫌にできれば、将来は出世街道まっしぐら。隊長からの脅しなど、もう恐れる必要がない。そのときには、もはや自分と隊長は同じ次元にすらいないはずだから。そう思えば思うほど、今西の背筋はますます伸びていった。実際、彼には隊長の座を奪いたいという野心があった。だが今まで、適切な機会が訪れなかっただけだ。しかも隊長はもともと疑い深い性格で、下手に野心を見せれば、取り返しのつかない事態になる。自分の才能を発揮する場など、最初から与えてもらえないかもしれない。そんな思いを、今西はこれまで胸の奥に押し込めてきた。口に出す必要など、まったくなかったのだ。彼の家はごく普通の家庭で、ここまで来られたのも必死に努力して警察学校に合格したからだ。運も良く、配属先で今の隊長と関わることになった。普段は人当たりがよさそうに見えるその隊長も、裏では全く違った。部下に対しては横柄で、呼びつけたり怒鳴ったりが日常茶飯事。だが署長の前では、いかにも部下を大事にしている上司を演じていた。だからこそ、今西は「自分がその座につけないか」と考えるようになったのだ。隊長になれば、もう余計な気を回す必要もなくなる。家族の生活もすべて自分の肩にかかっている。食べるもの、暮らしのすべて。だからこそ、上へと這い上がらなければならない。自分の社会的立場をはっきり自覚するためにも。そう思えば思うほど、今西の説明にも力が入った。彼は話しながら、京弥の表情をうかがった。
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第858話

「それに、うちの社長にはまだ用事がありますから、ここでこれ以上時間を潰すわけにはいきません」その言葉に、今西は「あっ」と額を叩き、ようやく本題を思い出した。慌てて腰を折り、深々と頭を下げる。「すみませんでした。今すぐご案内します。本当に申し訳ありません」そう言いながら、前方を指し示す仕草をした。「この先へ進めば、安東が収監されている場所に着きます」匠は今西を見て、不思議そうに首をかしげる。「一緒に来ないんですか?」安東の現状を思い浮かべた今西の胸に、嫌な感覚が走った。彼はちらりと京弥の冷たい横顔を見て、しばし迷ったが、最後には頷いた。「......分かりました。自分も同行しましょう」本当は、安東のあの姿など見たくなかった。もし京弥の要請でなければ、足を踏み入れることもなかっただろう。だが、わずか二日間で安東は、まるで別人のように変わり果ててしまっていた。今西に案内され、京弥と匠は収監室へと向かう。彼の精神が崩れているのは確かだ。だがそれは、以前の罪を帳消しにする理由にはならない。つい先日までは、確かに正気だったのだから。だからこそ、過去の行いには必ず代償を払わせる。そう思い至った京弥の眼差しが、ひどく冷たく沈む。紗雪を傷つけた人間を、野放しにするつもりは一切ない。どんな理由であっても、絶対に許さない。彼がここに来たのは、真実を自分の目で確かめるためだ。もし本当に狂ったのなら、そのまま一生牢の中に閉じ込めればいい。だが、もし狂ったふりをしているのなら──そのときは決して容赦しない。京弥の瞳に冷光が閃き、安東の現状を目にするその瞬間を待ち望む気持ちが強まっていった。やがて一行は収監室に到着する。中は真っ暗で、気配すらない。京弥たちが近づいても、安東はまったく動きを見せなかった。問いかけるより先に、匠が口を開く。「今西さん、本当にここに彼が?」彼は躊躇しながらも言った。もし本当に中にいるなら、彼らがここまで来る間に何らかの反応があってもいいはずだ。それなのに、目の前に来てもなお沈黙したまま。匠の胸には、ますます疑念が広がる。そして、その違和感を匠が覚える以上、京弥もまた同じことを考えていた。彼は愚かではない。部屋の前まで来
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第859話

部屋の奥へ進むと、灯りを点けた。しかし京弥はまだ動かない。彼が知りたいのは、安東がどこにいるか、それだけだった。次の瞬間、光に包まれた室内に姿が現れる。京弥の目に映ったのは──わずか二日足らずで人相が変わるほど落ちぶれた安東だった。髪は鳥の巣のように乱れ、服も捕まったあの日からずっと同じものを着続けている。顔には虚ろな笑みを浮かべ、口では延々と繰り返していた。「父さんも母さんも迎えに来てくれる、きっと外に出られるんだ......お前ら、全員覚えてろよ......絶対に許さない......へへっ......」安東は床に横たわり、体を壁の隅に押しつけるようにしていた。さっきまで彼を見つけられなかったのは、ちょうど視界の死角に隠れていたからで、それが誤解を招いたのだ。匠は以前にも辰琉を見たことがある。たしか、社長と共に美月の誕生日パーティーに出席していた。あのときの辰琉は、舞台の上でまさに意気揚々としていた。家に守られて育ったせいか、京弥に正面から食ってかかり、彼のものを疑っても、自分の贈り物が偽物だとは一度も考えなかった。当時の彼は確かに人目を引く存在だった。だが今の姿と、あの頃の姿を結びつけることなど到底できなかった。京弥は少し驚き、問いかける。「彼に手を上げたのか?」匠も興味を引かれたように顔を上げる。そうでも考えなければ説明がつかなかったからだ。ほんの数日で、まともな人間がどうしてこうなる?しかも、これまでの調査でも辰琉の家系に精神疾患の記録はなかった。ならば、この有様はすべて本人が原因なのか?匠は信じ難い気持ちを抱いた。だが今西は首を振り、複雑な表情で言う。「いえ。我々は何もしていません」彼はA国人だが、平和的な性格で、逮捕した容疑者にも乱暴なことはしない。子供のころからの夢は、冤罪を晴らすことであって、増やすことではない。だからこそ、暴力的な手段を嫌っていた。今西はため息をつきながら続ける。「あの日、彼を二川さんと引き離した途端に、こんなふうになったんです。しかもずっと堂々とした口ぶりで何かを言い続けている」そしてまた首を振った。「うちは今、彼の両親に連絡を取っています。このままではどうにもなりません。警察署は精神の壊れた人間
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第860話

匠はそのまま中へ歩み入った。近づけば近づくほど、安東の体から漂う異様な臭いが鼻を突き、胸が悪くなる。加えて、今は真夏の盛り。収監室の中は耐え難いほどの悪臭に包まれていた。思わず吐きそうになったが、京弥から言いつけられた任務を思い出し、歯を食いしばって耐えた。誰もが京弥の側に留まれるわけじゃない。その資格を持つ者だけが許されるのだ。匠は大きく息を吐き、早く片を付けようと気を引き締める。しゃがみ込むと、安東の目は焦点を失い、どこを見ているのかすら分からない。その腕には何かをぎゅっと抱きしめており、決して離そうとしない。手を伸ばして取り上げようとした瞬間、辰琉は強烈に拒絶し、匠に触れさせまいとした。それを見た今西が首を振る。「諦めたほうがいいですよ。我々も何度も試しましたが、彼はどうしても手放さないんです。しかも、何をするにも必ずそれを抱えたまま」その言葉に、匠の好奇心はますます掻き立てられる。一体何を抱えている?「安東さん、それは?」探るように声をかけたが、返ってくるのは虚ろな独り言。「待ってろ......お前ら全員覚えてろ......」視線は定まらず、まるで言葉が耳に届いていないようだ。完全に自分の世界に沈んでいる。その様子に、匠は無力感を覚える。どうして人間が、ここまで壊れてしまうのか。しかも前触れもなく――不可解さを抱えながらも、彼の胸にあるものへの好奇心は尽きない。無理やり手をこじ開けようとしたが、やはり無駄だった。今西はそんな匠を黙って見ていた。警告はした。だが聞かない者には言葉など無意味だ。人間は結局、自ら壁にぶつかってみなければ諦められないものだから。そのとき、背後から足音が響き、声が落ちた。「お前は二川緒莉と一緒にA国へ来たんだろう?」その瞬間、辰琉の口から繰り返しの言葉が途切れた。虚ろだった瞳が次第に一点へと収束していく。「......二川、緒莉......?」ぶつぶつと呟いたかと思うと、辰琉は突如立ち上がった。予想外の行動に、場の全員が息を呑む。ただ一人、京弥だけは落ち着き払っていた。まるでこの反応を見越していたかのように。「社長、なぜ中まで......こんな不潔――」思わず匠が声を上げるが、京弥
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