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All Chapters of 水鏡の星詠: Chapter 201 - Chapter 210

236 Chapters

蔦がほどける夜 ③

「リュカ・エルディア。綺麗な名前ね。星の名前みたい……」 三人の間に流れる沈黙は、もはや重くはなかった。それは、お互いの名を知ったことで生まれた、かすかな絆から生まれたものだ。 リュカがどこから来たのか。何者なのか。 リノアもエレナも、心の奥でその答えを欲していた。だが、まだ訊くには早すぎる。 リノアは喉元まで来ていた言葉を飲み込んだ。 代わりに、エレナが口を開く。「私たちはクローヴ村という遠く離れた土地から来たの。この地に興味があってね」 エレナが微笑んだ。 その笑みは、名乗ったばかりのリュカに安心を与えるためのものでもあり、それ以上を語らないという意志でもある。こちらの目的まで話す必要はない。 フェルミナ・アークに足を踏み入れる者は限られている。 探検家、研究者、あるいは何かを探す者── だからこそ、リュカの存在は異質だった。そして、リュカが追っていた女性と子どもの存在も…… その姿をこの禁足地であるフェルミナ・アークで目撃したことは、二人にとって衝撃的なことだった。 その時、森の奥からざわめきが聞こえた。 木々の間をすり抜ける風か、あるいは何か別のものか。エレナとリュカが真っ先に反応し、その気配を探った。 エレナは身を乗り出し、地面に置いていた弓を引き寄せ、リュカは腰に差した剣に手を添えた。 膝をずらし、片足を地にしっかりと据え、もう片方の足はいつでも踏み出せるように軽く曲げられている。 その姿勢は、獣が息を潜めて獲物を待つものだった。呼吸を浅く整え、闇の向こうへ意識を集中する。 風が木々を撫で、葉がささやき、枝が揺れている。 だが、その音に混じって、何かが羽ばたいた。 焚き火の光が届かぬ森の奥──黒い影がひとつ、枝から枝へと滑るように飛び去っていく。 その音は風よりも低く、柔らかい。しかし確かに生き物のものだった。「何、あれ? 鳥?」 リノアが目で追った。 その姿は見慣れた鳥とは違っていた。 羽根は夜の色に紛れるほど深く、飛び方はまるで音を避けるように滑らかだ。「……カザル・シェルド」 リュカが口を開いた。焚き火の揺らぎに溶けるような声……「この土地にしかいない鳥。こちらが何もしなければ、何もしてこない」 その言葉に、エレナは弓に添えていた手をそっと離した。指先の力が抜け、肩の緊張もほどけていく。 
last updateLast Updated : 2025-08-15
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蔦がほどける夜 ④

 リュカの表情がわずかに揺れたのを、二人は見逃さなかった。 リノアとエレナは思わず視線を交わす。 鳥は遠くの枝に止まり、夜の闇に紛れるように身を丸めている。 鳥が発した言葉は誰のものだったのか。 リノアとエレナは息を呑み、視線をリュカに向けた。「今、“リュカ、早く戻って来い”って……」 リノアが呟いた。 だが、リュカは何も言わない。まぶたの奥に何かを押し込むようにして目を閉じている。 焚き火の光がリュカの横顔に揺れる影を落とす。「リュカ……今のは誰の声?」 リノアが問いかける。「あの声は、あの女のもの。私が……殺そうとした……」 その言葉は夜気よりも冷たい。「その鳥、偽りの言葉を話すんだよね」 リュカが頷く。「じゃあ……本当は、“戻ってくるな”ってこと?」「そういうことだと思う」 あの鳥は真実を逆さに語る。“戻って来い”と鳴いたなら、“戻ってくるな”即ち“追いかけてくるな“という意味になる。 これ以上、関わらないでくれという意思表示…… リノアは沈黙の中でその意味を噛みしめた。 鳥がもう一度鳴く。今度は、幼い声で。「おかあさん、こわいよ……」 リノアが眉を寄せた。「……こわくない?」 リュカの瞳が炎の奥に沈む。「あの女は私を恐れていなかった。それが、あの子どもの安心感に繋がっている。リノアとエレナ、二人は気づかなかったのかもしれないけど、あの女は相当な手練れ。私の幻術を遥かに上回る“影織”と呼ばれる術を使っていた」「影織?」「幻術みたいなもの。私はただ兵士など人や物を世に生み出し動かすことしかできない。だけど、あの女は相手の感覚にまで干渉する。あのようなことは、そう簡単にできることではない」 焚き火の炎が仄かに揺れる。 その光の中でエレナは言葉を選ぶように、ゆっくりと口を開いた。「私たち、フェルミナ・アークに入ってから、一度、影に囚われて過去を見せられてるの」 エレナの言葉が落ちると、空気がひときわ静まり返った。炎さえ、その意味を聞き取ろうとしているかのような静けさが辺りを包む。 エレナが続けた。「最初は夢かと思った。でも何か違う。夢にしてはやけに鮮明だったし……。実際にその場にいたような感覚がした」 リュカは焚き火の奥を見つめたまま、微かに眉を動かした。 炎の揺らぎがリュカの頬を撫でる。「それ
last updateLast Updated : 2025-08-16
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フェルミナ・アーク探訪録 ⑨

 窓の外では、夜の森がざわめいていた。風が枝を揺らし、葉の擦れる音が書斎の壁を越えて微かに届く。 セラは椅子に座ったまま、両腕を膝に抱え込むようにして身を縮めていた。 イオの書斎は息をひそめたように静まり返っている。棚に並ぶ書物の背表紙が灯りの中で沈黙を守っていた。 セラの視線は向かいに座るアリシアの顔に注がれている。その表情を見つめる目には、知っているはずの人間を見失ったかのような戸惑いが浮かんでいた。 言葉は交わされない。だが、空気の中に何かが沈んでいた。それは、問いかけにも似た沈黙だった。 ゾディア・ノヴァ──その名がセラの心に突き刺さったまま、冷たく重い棘のように残っている。「セラ」 イオが再び口を開いた。 この家の壁に染みついた記憶を呼び起こすような響き……「私はセラが物心つく前から、この家でゾディア・ノヴァについて研究してきた。仕事だと偽ってね。遠ざけたのには訳がある。セラのことを思わなかった夜はない」 セラの胸が締め付けられる。 イオの言葉はセラがこれまで抱えてきた父への不信を、ゆっくりと溶かし始めていた。 セラの記憶の中の父は、いつも書斎の閉ざされた扉の向こうにいた。深夜の足音、急な旅立ち、電話の向こうで響く硬い声──それがイオのすべてだった。「お父さんはいつも……私を置いて、どこかに行った。私よりも仕事が大事なんだって、そう思ってた……」 セラは震える声で呟いた。 イオの目が一瞬、痛みに揺れる。 イオは古い木の床に膝をつき、セラの視線と同じ高さまで身を下ろした。「セラ、私はお前を守りたかった。ゾディア・ノヴァは深く知る者を決して逃がさない。エリオは奴らの闇から抜け出した数少ない人間だ。セラを奴らから引き離す為には、仕方がなかったんだ」 アリシアがそっとセラの肩に手を置いた。 アリシアの手の温もりが、セラの凍えた心をわずかに溶かす。「隠しすぎたかもしれないな。セラは子どもじゃない。もっと早く話すべきだった」 その声には、後悔の念が混じっていた。「私は臆病だった。妻を病気で亡くし、セラまで失ってしまう事への恐れが強すぎた。セラを失うのが怖かったんだ」 深く息を継ぎ、イオが続ける。「セラが相談を持ち掛けてきた時、放っておけば、そのうち諦めてくれるだろうと思った。まさか情報屋に頼ってまで動き出すとは……、
last updateLast Updated : 2025-08-17
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ノクトゥムの残響  ①

「今の音……」 セラが反射的に椅子の背から身を離した。 風ではない。それは、何かがこちらを探るように、意図を持って触れた気配── 鋭く、冷たく、皮膚のすぐ外側を撫でていくような…… イオが窓辺に歩み寄り、カーテンの隙間から外を覗き込む。 路地裏に一つの影──「……どうやら見張られているようだ。まさかゾディア・ノヴァ……。しばらく姿を見せなかったが、ついに動き出したか……」 そう言い終えると、イオは窓から視線を外し、ゆっくりとカーテンを閉じた。 イオの瞳が過去の影をなぞるように冷たく光っている。「ひょっとしたら、ヴィクターを餌にしていたのかも」 アリシアが口を開いた。「ヴィクターさんが? どういうこと?」 セラが問う。「たぶん、私たちがヴィクターの潜伏場所に足を運んだ時点で、既に見張られていたんだと思う」「あの噴水の?」 セラの問いに、アリシアが頷く。 尾行されたとすれば、おそらく、あの場所からのはずだ。 ナディアとエリオが逃れたはずの手が、今度は自分たちに向かって伸びてきている。その事実が背筋を冷やす。「ここ最近、私は目立った動きをしなかった。だから奴らも大人しくしていたが……。きっと君たちの行動が不穏な動きに見えたんだろう」 イオが窓辺から離れ、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。 深く身を背もたれに預けることなく、前傾姿勢のまま、指先を組んで沈黙する。 その沈黙は何を言うべきか迷っているというよりも、今起きていることを頭の中で整理しているようだった。「ここ最近、私は目立った動きをしなかった。だから奴らも大人しくしていたが……」 イオは視線を落とし、言葉を絞り出すように続けた。「きっと君たちの行動が不穏な動きに見えたんだろう」 その声には苛立ちも焦りもない。ただ、長く潜んできた者だけが持つ、状況を見極める冷ややかな重みがあった。「どうして、あの人たちは見張っているんですか? 私たちには何の価値もないはず」 アリシアがイオの顔を見つめた。「ゾディア・ノヴァの前身──セリカ=ノクトゥムは、表向きには崩壊したことになっている。だが、実際には組織の核が残り、今もゾディア・ノヴァとして息を潜めている。より危険な存在になってね……。崩壊した理由は内部崩壊だ。信頼が瓦解し、疑心が組織を食い破った。だからこそ、奴らは異常なまでに
last updateLast Updated : 2025-08-18
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ノクトゥムの残響 ②

「先ほど、フェルミナ・アークに乗り込んだ者がいると言ったね。自然破壊を止める為にラヴィナに会いに行ったと。その者たちは、どういう人物なんだ?」 イオがアリシアに問いかける。「はい。リノアとエレナです。二人とも、私とヴィクターと同じクローヴ村の出身で、リノアはノクティス家の血を引いています」 アリシアは迷うことなく答えた。 その名が告げられた瞬間、イオの呼吸が浅くなる。「ノクティス家……その名が今ここで出るとは思わなかった……」 イオは言葉を継ぐ。「フェルミナ・アークに行ったのは何かの因果。ノクティス家の血がそうさせたのかもしれないな」 少し間を置いて、イオは続ける。「確か、その二人はラヴィナに会いに行ったと言ってたね。ラヴィナは賢い人物だ。今頃は異変を察知して動いていることだろう」 イオはアリシア、セラ、そしてヴィクター──三人の顔を順に見つめる。「どうだ? この機に乗じて動いてみないか?」 イオは椅子から身を乗り出し、前のめりに言葉を発した。 その動きから、時間がイオの背を押していることを誰もが感じ取った。「動くって……どういうこと?」 セラが問い返す。「フェルミナ・アークにノクティス家の者が向かったのは偶然ではないはず。その動きには何かの意味がある。今はゾディア・ノヴァの中枢に揺さぶりをかける数少ない好機だ。この機を逃すのはもったいない」 イオは椅子の背に軽く手を添えながら言った。 窓の外の気配は、まだ消えていない。 だが、アリシア、セラの胸の奥には、その恐怖とは異なる感情が芽吹いていた。 それは、選択の予感──守られるだけでは終われないという、確かな目覚めだった。「僕も……動くのですか」 ヴィクターが恐る恐る問いかけた。「君は狙われる可能性がある。一人にならない方が良い」 イオは即座に答えた。その口調に迷いはない。「私もそう思います。ヴィクターさんなんて、向こうから見れば立派な“裏切り者”ですからね」 セラが肩をすくめて言った。 その言葉は冗談のようでいて、針のように鋭い。「裏切者って、そんな……」 ヴィクターは言葉をこぼし、目を伏せた。「これは、もう動くしかないわね」 言葉と同時に、アリシアの視線が前方へと向けられた。 その一言が、場の空気を引き締める。「だが、現状では力が足りない。もっと多く
last updateLast Updated : 2025-08-19
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蔦がほどける夜 ⑤

 カザル・シェルドが再び、鳴いた。 今度の声は笑い声に似ているどころではなかった──それは誰かが耳元で嗤ったような、明確な嘲笑── カザル・シェルドは枝の上で羽を震わせたかと思うと、次の瞬間、闇を裂くように飛び去って行った。 向かった先は北西の空。 リノアとエレナ、そしてリュカはその軌道を目で追った。「空白地帯に向かってる」 リノアがぽつりと呟く。 地図に描かれない空白地帯──そこには一体、何があるというのか。 あの鳥は“追いかけて来ないで欲しい”と意思表示をした。それは誰に向けた声だったのだろう。 リュカか、それとも……私だろうか。 リュカではない気がする。 リュカは女性の方が遥かに実力があると言っていた。私たちが助けなくても、おそらく無傷でいられたはずだ。そのような人が、わざわざカザル・シェルドを寄越したりするだろうか。 だが、私だとしても……いまいち腑に落ちないものがある。あの振り返った時の、私を見る女性の目──あの目は拒絶の目ではなかった。 あの女性が本当に私の母であるなら尚更だ。 振り返った時── 最初は、ただ確認するような冷静な目だった。だけど私の顔を認識した瞬間。その目が柔らいだ。 あの眼差しは、幼い頃に母が私に向けていたものと同じだった。 見間違いだとは思えない……「それにしても不気味な笑い声だったね。まだ耳に残ってる」 エレナが言う。「うん、そうだね」 リノアはそう呟くと、空を見上げた。 風が北西の空へ流れていく。 カザル・シェルドの姿はもう見えない。だけど胸の中にはまだ、あの嗤い声が残っている。 それは嘲笑だったのか。それとも、別れの合図だったのか。 今は、まだ分からない。「ねえ、ここの動物って、もっと危険だと聞いてたけど、今のところは、そうでもないよね」 エレナが肩の力を抜き、息を吐いた。「狩りをする時も、そう感じたし。もちろん狙われた動物は殺気立ってたけど、それ以外は攻撃的な姿勢を示してくるものはいなかった。警戒すらしていないというか」 エレナは木々の奥を見つめた。「いや凶悪だ。ここの動物というか生物はね。ここに来るまで森を刺激しなかっただけでは?」 リュカは薪の爆ぜる音にも目を向けず、火越しに周囲を伺っている。焚火の炎がリュカの頬に不規則な影を落とす。警戒心は消えていない。「
last updateLast Updated : 2025-08-21
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蔦がほどける夜 ⑥

 リノアは毛布を肩まで引き寄せて、もう一度だけ周囲に視線を巡らせた。 闇の奥に何かが潜んでいる気配は、まだ残っている。だが、その数は少なく、動きもない。少なくとも今は、こちらの様子を伺っているだけのようだ。襲撃の兆しはない。 エレナ一人で見張りを任せるには、十分な余裕がある。 明日に備えて、今は眠ろう。 リノアはエレナに背中を預けるようにして、そっと瞼を閉じた。 焚火の音が遠くの沈黙を際立たせている。 その音に包まれながら、リノアは眠りへと身を委ねた。 疲労が身体にじわじわと染み込み、意識が夢と現の境へと沈んでいく。 リュカは無言のまま、背を丸めて横になっていた。迷いも警戒もなさそうだが、眠りに落ちるまでの時間は長そうに見える。 リュカは目を閉じながらも、耳だけは森の音に向けていた。その呼吸は浅く、意識の一部はまだ戦場に残っている。 焚火の光がリュカの頬を照らし、影がゆっくりと形を変えていく。 夜は深まり、火は静かに燃え続ける。 エレナは焚火の傍らでじっと座っていた。「ねえ」 リュカの声が火の音に紛れるように響いた。 エレナは顔を上げず、焚火の奥を見つめたまま耳を傾ける。「どうして私を助けたの? ほっとけないって言ってたけど、敵を助けるなんて……そんなの聞いたことがない」 しばらく、火の爆ぜる音だけが返事の代わりに空気を埋めた。 エレナはゆっくりと息を吸い、言葉を選ぶように沈黙を保った。「敵だからとか、関係がない」 ようやく口を開いたその声は、焚火の熱とは反対に冷えていた。だけどそれは、本当の冷たさではなく、過去の痛みに触れた者だけが持つ言葉だった。「あなたが、あのまま誰にも手を伸ばされずに終わるのを、私は見過ごせなかっただけ」 リュカは何も言わず、ただその言葉を受け止めた。 しばらく沈黙が続いたあと、エレナが小さく息を吐いて言った。「こっちも聞いて良い?」 焚火の音に紛れるような、穏やかな声だった。「答えたくなかったら、答えなくても良いけど……あなたは、どこから来たの?」 リュカの肩がわずかに動く。 問いに反応したというより、何かを押しとどめるような仕草だった。 言いあぐねているのか、リュカは中々、口を開かない。 だが、何も答えないままではいけない。そう思ったのか。リュカは一言だけ言葉を発した
last updateLast Updated : 2025-08-21
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蔦がほどける夜 ⑦

 リノアよりもずっと若い。十五歳くらいだろうか。 エレナは枝をくべながら、リュカに語りかけることのできない言葉を、心の中でそっと結んでいた。 もし、シオンが生きていたなら──この寝顔を見て、何を思っただろう。 エレナはその少女の姿に、幼き日の記憶を重ねた。 エレナの家族もまた、あの戦乱の渦中で引き裂かれている。 父は弓を携えて前線へと赴き、母は傷ついた兵を癒すために後方へと配属された。 それぞれが与えられた役割を果たすために、異なる場所で、異なる時間を生きた。 最後に二人の姿を見たのは、森の奥深く── 倒れた木々の間に、静かに横たわる二人の背中があった。 父が母を何かから庇うように覆いかぶさり、そのままピクリとも動かない。 すでに二人とも、息絶えていたのだ。 守ろうとした想いと、守られた命の重さ── その姿は、どこか神々しく、安らぎを与えるものだった。 私の記憶の中で、あの夜の出来事は、いまも消えていない。 炎の色や崩れ落ちる樹々の音──それらよりも、母の口元に浮かんでいた微笑みの方が印象深かった。だからこそ、目の前で狼狽し、逃げ惑うリュカの姿が、あの時の自分に重なったのだ。 あの戦乱の後、私の住むクローヴ村では争いが無くなり、私は戦うことをせずに済んだ。しかし、この少女は……。今もなお、その渦中にいる。 これまでのリュカは、生まれてから、ずっと戦うことを義務付けられてきた。 そこにあるのは哀しみだけだというのに…… 争いや、その先にある支配は何も生み出すことはない。 私にはシオンがいた。だけど、リュカには誰がいるのだろう。 エレナは横たわるリュカを眺めた。 それにしても、奇妙な術を使うものだ。 鉱石を使わずとも、あのような幻術が使えるのか──しかし、驚くべきものは、あの女性だ。 あの女性が私に観せた幻影は一体、何だったのか。 リュカは、それを影織と呼んでいた。 記憶に直接触れる術──影織。 その名残は、今も私の中で揺れている。 影に囚われた時、私は別の世界にいた。その場所には行ったことはない。だけど、過去に体験したことを追随しているような現実味のある世界だった。 それは決して、夢を覗き込むような感覚ではなかった。 気づいたら、陽だまりのような淡い光に包まれた空間が広がっていた。 森の奥の小さな食卓。片隅に
last updateLast Updated : 2025-08-22
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守るための旅路

 翌朝、空はまだ淡い灰色を帯びていた。 夜の名残を引きずるように霧が地面を這い、アークセリアの街並みをぼんやりと映し出している。 馬車の車輪が軋む音が、石畳の冷たい朝に響いた。 荷台にはイオが用意したクラウディアへの封筒が積まれている。配達人は無言で手綱を握り、馬の鼻先を村の外れへと向けていた。 アリシアはセラの横に立ち、視線を馬車の背に向けたまま、呟くように言った。「風が強くなりそうね。峠を越えるなら、気をつけないと」「あの人なら抜けられる。峠の癖も知ってるし」 セラは少しだけアリシアに顔を向けた。 ヴィクターは少し離れた場所で一人、馬車を見つめていた。 霧の中を進んでいくその背に、何かを託すような視線を向けながらも、心は別の場所にあった。──どうして俺が付いて行かなきゃならないんだろう。確かにリノアの為に何かをしてあげたいとは思うけど。 フェルミナ・アーク── その名を聞くたびに、胸の奥がざらついて仕方がない。 あの地に向かうことが、正義だとか必要だとか、そんな理屈は分かっている。だけど、あの場所は危険すぎる。良質な木材や珍しい木材があるとはいえ、木工職人でも足を運ぶ者はいないというのに。 俺が本当に望んでいるのは、もっと静かな場所。 朝にはパンの焼ける匂いがして、夜には誰かの笑い声が遠くから聞こえてくる、クローヴ村のような場所だ。だけど、クローヴ村も最近は随分と騒がしくなった。 策略も過去も、どこまでも追いかけてくる。 それらを避けて生きていられる場所なんて、もうこの世界には存在しないのかもしれない。 リノアが動けば、その周囲も動き、アリシアが動けば、セラも動く。その流れの中に、自分も巻き込まれている。 荷馬車に繋がれた馬が、鼻を鳴らした。 それを合図にしたかのように、配達人が軽く手綱を引く。 ヴィクターの心の中で、故郷のクローヴ村の風景が一瞬だけよぎった。 それはヴィクターが守りたいものの象徴でもある。 フェルミナ・アークには行きたくはないが、守るためには行かざるを得ない。 その葛藤が、ヴィクターの沈黙を重くしていた。 車輪が霧を割り、石畳を踏みしめていく。 三人は言葉を交わさず、霧の向こうに消えていく馬車を黙って見送った。 それぞれの胸に、これから動き出す物語の断片が息づいている。「クラウディアさんが
last updateLast Updated : 2025-08-23
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崩れたものと、繋ぎ直すもの ①

 崖崩れによって損壊した街道の修繕は、思った以上に早く終わった。 土砂を運び出し、崩れた街道の石を積み直し、仮設の橋を架けるまでに数週間を要した。 クローヴ村の若者たちと、近隣集落の職人たちが肩を並べて働いた。誰もが黙々と手を動かし、言葉よりも行動で互いを支えたのだ。 近年は各村や町、集落は個別で動くことが増え、近隣の人たちと協力することが少なくなっている。その為、今回の出来事は忘れかけていた“隣人”という言葉の重みを思い出させるものとなった。 土にまみれた手と手が交わり、道具を貸し合い、食事を分け合う中で、かつて当たり前だった助け合いの感覚が少しずつ蘇っていった。 クローヴ村の若者がノルヴェンの職人に道具の使い方を教わり、ノルヴェンの子どもたちが村の炊き出しに加わる。そんな些細な場面の積み重ねが、崩れた街道以上に、断たれていた心の道を繋ぎ直していった。 数週間にわたる作業の末、仮設の橋がついに完成した。 夕陽が傾きかけた空の下、クラウディアは橋のたもとに立ち、ノルヴェンの長・バルドと並んで人々を見渡した。 風が緩やかに吹き抜ける中、クラウディアは土のついた手袋を外し、ゆっくりと口を開く。「この道は今までのような、ただの通り道ではなくなった。命を運び、言葉を交わし、心を繋ぐ道です。崩れたのは崖だけじゃなかった。私たちの関係も少しずつ崩れていたのかもしれませんね」 バルドは黙って頷いた。その目には、遠くの山を見つめるような深い思索が宿っていた。「今後は様々なことで協力し合わなければならないでしょう。自然は私たちの都合を待ってはくれない。崖が崩れたのは偶然ではありません。森の奥では誰かが木々を枯らし、地を荒らしている。痕跡は確かに残っていました」 人々の間にざわめきが走る。 ノルヴェンの長・バルドが眉をひそめ、若者たちが互いに顔を見合わせた。 クラウディアはその反応を受け止め、言葉を続ける。「それに、不穏な連中の動きもある。フェルミナ・アークの方から、妙な噂が流れてきています。私たちのような小さな村や集落が巻き込まれる可能性があるということです。かつての戦乱のように」 クラウディアは言葉を切り、少しだけ息を吐いた。 そして、もう一度人々を見渡す。「私たちが分断されたままなら、彼らにとって、これ以上の都合の良いことはありません」 沈黙
last updateLast Updated : 2025-08-23
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