Semua Bab 水鏡の星詠: Bab 221 - Bab 230

275 Bab

ひとつの道 ①

 エレナは矢筒に手を戻しながら、目を細めた。──倒した。 氷が軋む。 だが、執行者の身体はそのまま凍結され、動く気配はない。 確かに動きは止まった── リノアとリュカは無事だろうか。 そう思い、エレナが振り向く。 焚火の光に照らされたリノアはまだ眠りの中にあり、胸がわずかに上下している。その安らかな寝顔にエレナは少しだけ頬を緩ませた。──あれっ、リュカは…… リュカの姿がどこにも見当たらない。 しかし、気配は感じる。 今、この沈黙の中にいるのは、夢の中のリノアと、氷に囚われた執行者──そして、気配だけを残すリュカ。 風が止み、森が息を潜める。 リュカは、つい先ほどまで敵だった。あの執行者と同じ側にいた人間だ。幾らか緩和したとは言っても、ゾディア・ノヴァの教えが完全に無くなったわけではない。 まさか…… 疑念が胸をよぎる。先ほどまでのリュカの姿は演技だったのか。 エレナは弓を握り直し、前を見据えた。 焚火の向こうに揺れる影── 指先が冷え、心臓が一拍遅れて脈打った。 リュカだ。 だが、リュカは闇の向こうの存在を見ていない。その視線が捉えていたのは、エレナだった。 リュカの瞳に冷徹さが戻っている。感情のない、命令を遂行する者の目──「……終わったと思ったのか?」 リュカは剣に手をかけ、ゆっくりと構えを取った。 その声は低く、冷たい。まるで執行者の声が乗り移ったかのようだ。 焚火の光が刃に揺れ、沈黙が鋭く裂かれる。 その動きにエレナは息を呑んだ。 目の前にいるのは、先ほどまでのリュカではない。意志を抜かれた操り人形のようだった。 リュカは微動だにしない。 その沈黙は刃よりも鋭い。 焚火の炎が揺らめく中、エレナは息をすることさえ忘れ、リュカを見続けた。 エレナがリュカの動きを注視していた時──氷の中の執行者が笑った。 その瞬間── エレナの背後から何かがエレナの背中に襲い掛かった。 それはリュカでもなく、執行者でもない。名もなき闇。 エレナが振り返るより早く、黒い霧のような腕が喉元を狙って伸びる。──しまった。避けられない……「伏せろ!」 リュカが剣を振るって闇の腕を弾き飛ばす。 火花が散り、空気が震える。焚火の光が一瞬、逆巻くように揺れた。「油断するな、あれこそが術者だ」 リュカの目は変わ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-08-31
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丘の向こうにあるもの ①

 クローヴ村に到着した頃には、陽はすでに傾き始めていた。空は淡い橙に染まり、木々の影が長く伸びている。 街道の修繕を終えたクラウディアたちは、村の広場へと歩を進めた。 村の広場には数人の村人が集まっている。干し草を束ねる者、井戸の水を汲む者、子どもを抱えて家路を急ぐ者。どこか落ち着いた空気が漂っているが、クラウディアはその静けさの奥に僅かながら違和感を感じ取った。「何か、おかしなことは?」 クラウディアが声をかけると、見張り役の男はすぐに反応した。まるで言葉を待っていたかのように、素早く顔を向ける。「異常は一件。夜半、森の方で物音。枝を踏むような重い足音です。誰かが通ったものと思われます。確認はできませんでした」 彼の言葉は簡潔で、訓練されたような調子だった。 クラウディアはクローヴ村を囲った境界線を想像した。急いで編まれた簡易的な境界線。あの程度のものならすぐに突破できるはずだ。それを踏まえると、最初から村への襲撃は考えていなかったと見るのが普通だ。 簡易的なものとは言え、作ったのには理由がある。あれは音を鳴らすためだけのもの。誰かが縄に触れれば鈴が鳴る。たった、それだけの仕掛け。 わずかな警告。ほんのわずかな時間稼ぎ。それだけでも、少しは村人たちを安心させることができる。それは欺瞞かもしれない。だが欺瞞もまた時には必要だ。恐怖に飲まれぬためには、形だけでも秩序を保たなければならない。 クラウディアは、あの結び目を編んだ夜を思い出した。 誰もが黙り込み、震える手で縄を編む音だけが村の広場に響いていた。 あれは防壁というよりは祈りに近い。信じるための線── この場所に、まだ希望が残っていると誰もが思えるように。そんな願いが、ひとつひとつの結び目に込められている。「今夜は、もう少し見張りを増やしましょう」 クラウディアは見張り役の男に告げた。 今、クローヴ村には戦える者がほとんど残っていない。戦乱後、多くの兵士は行方知れずとなり、その後の平穏な日々で兵士は育っていないのだ。 残った兵士は僅か。しかし、かつて森を駆け回った兵士も今となっては年老いた。武器を手に取り戦うことは、もはや不可能だろう。守る意志があったとしても力が及ばない。“重い足音”を深追いしなかったのは正解だった。 とにかく今は情報を集めること。相手の動きを見極めること
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-09-02
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丘の向こうにあるもの ②

 クラウディアはイオからの手紙を懐に入れると、エルディア家からの封書を、その場で封を切った。 村人たちがその様子を見守る。 手紙には、グリモア村のグレタとゾディア・ノヴァの動向に関することが記述されてあった。──グレタは各国の名家の元を訪ね歩いていたのか。「ゾディア・ノヴァが再び動き出している。各地の国々に密かに使者を送り込み、協力を仰いでいるらしい」 グレタの言葉は簡潔だったが、そこには強い警告が込められていた。 その使者は、協力の見返りとして領土の分配を約束したという。 ゾディア・ノヴァとしては魅力的な条件を提示したつもりなのだろう。浅はかな考えだ。 クラウディアは手紙を読み終えると、そっと目を閉じた。 ゾディア・ノヴァ──その名が再び動き出したと聞いても、驚きはしない。 クラウディアは、かつてその前身となるセリカ=ノクトゥムに仕えていたことがあった。あの頃から、彼らの思想は変わっていない。 言葉巧みに理想を語り、協力を求めるふりをして、裏では領土と権力の掌握を企てる。その手口は洗練されているが、根底にある思想は古びたままだ。「相変わらず。狂っている……」 クラウディアが呟く。 領土の分配── それは、かつて何度も繰り返し聞かされた悪しき言葉だ。それは誰かの犠牲の上に築かれる秩序であり、誰かの沈黙を前提とした繁栄だ。 今はどこの国も平穏を取り戻しており、領土を拡大したいなどという時代錯誤な考え方をする名家は存在しない。その静けさを乱すような提案を、名家が本気で受け入れるはずがない。得るものより、失うものの方が遥かに多いのだ。 仮に動く国がいたとしても、一つか二つだろう。しかし、その一歩が大きな崩れを生む。 クラウディアは足を止めて、遠くの丘の上を見据えた。風が髪を揺らし、乾いた草がざわめく。 空は澄んでいる。しかし、その静けさがかえって不気味だった。 境界の向こうから亡霊のように、ゾディア・ノヴァの影が忍び寄っている。 楽観視するわけにはいかない。 クラウディアの視線は、かつて仕えていた国の方角を無意識に探していた。 あの地から放たれる使者の足音は影のように忍び寄り、しかし確実に世界を揺るがす。 かつて多くの者があの者たちに翻弄され、そして沈んでいった。その記憶は風景の中に埋もれても、クラウディアの中では決して色
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-09-02
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丘の向こうにあるもの ③

 村人たちの喧騒をよそに、クラウディアは自宅へと向かった。 扉を閉める音が、外のざわめきからクラウディアを切り離す。 日が暮れかかり、家の中は薄暗い。クラウディアは窓辺に置かれたランタンに火を灯すと、懐に入れていた、もう一通の手紙を取り出した。 イオから手紙が来るとは珍しい。 イオはフェルミナ・アークの研究者として知られる人物だ。きっと何かあるに違いない。 封を切る手が自ずと慎重になる。 急いで書いたのか、感情が高ぶっているのか、イオの筆跡は、いつも通り整ってはいても、どことなく足早な印象が感じられた。 文の流れが妙に早く、文面に、いつもの余白がない。何かに追い立てられているような調子だ。グレタがエクレシアへ向かおうとしている。何を話したか不明だが、グレタとゾディア・ノヴァの接触があった。そしてゾディア・ノヴァの元兵士であるエリオ。この人物は現在、フェルミナ・アークを離れ、今は郊外で生活している。彼にも手紙を送っておいた。じきアークセリアに来るだろう。合流した後は私の娘であるセラ、クローヴ村のアリシアとヴィクター、エリオ、その恋人ナディア。彼らと共にエクレシアへ向かう予定だ。恐らくゾディア・ノヴァは勢力を拡大しようと目論んでいる。何としてでも阻止すべきだ。リノアとエレナがフェルミナ・アークに乗り込んでいる。今こそ叩くべき時──イオ・マルヴェルより クラウディアは目を細め、文面を何度も読み返した。 ゾディア・ノヴァ──その言葉が、かつての戦火の記憶を呼び起こす。 クラウディアは手紙を膝の上に置き、しばらく動かなかった。 外では風が戸を揺らしている。 その音が遠くの戦の足音のように聞こえた。──リノアとエレナがフェルミナ・アークに足を踏み入れた……か。やはり、あの二人は何かに導かれている。 驚くべきなのは、アリシアとヴィクターの動向だ。 戦う術を持たないはずのアリシアとヴィクターが、危険を承知の上で禁足地へ向かおうとしている…… 驚きと共にクラウディアの胸にひとつの問いが浮かんだ。なぜ、彼らは行かねばならないのか。 リノアとエレナだけに背負わせたくはない。その想いがあるのは分かる。そして、それぞれが何を背負い、何を失ったか。それもよく分かっているつもりだ。 しかし、それだけでは説明がつかない。──何かが彼らを引き寄せて
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-09-04
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風の前触れ ①

 陽が傾き始めた頃、ナディアは畑の端で土をならしていた。 手には鍬、足元には根を張り始めた若い苗。風が吹くたびに葉が揺れ、土の匂いが空気に溶けていく。 そのとき、遠くから馬の蹄の音が聞こえた。 乾いたリズムが畑の静けさを切り裂くように近づいてくる。 ナディアが顔を上げると、荷馬車がゆっくりと柵の前で止まった。 手綱を引いていたのは、見慣れた配達人。「ナディアさん。情報屋カデルからの手紙です」 ナディアは鍬を地面に立てかけて、手を拭いながら配達人に歩み寄った。「ありがとう。助かります」 配達人は帽子のつばに指を添えて軽く会釈すると、手綱を引いて馬車を静かに回し、土煙を残して畑の先へと消えていった。 封書には見覚えのある印が刻まれている。「カデル……一体、どうしたのかしら」 思わず声が出る。 何かあったのだろうか。そう思いながら、ナディアは畑を後にし、薪を割るエリオの元に向かった。 斧が木を裂く音が、一定の間隔で空気を叩く。斧の振るい方には、かつて剣を握っていた者の癖が残っている。 だが、その肩は以前と比べると僅かながらに凹んでいた。平穏な暮らしの積み重ねが、動きの鋭さを少しずつ鈍らせたのだ。「エリオ」 ナディアが声をかける。「カデルから、手紙が届いたわ」 エリオは斧を地面に置き、手を拭いながらナディアに近づく。 ナディアが封書を差し出すと、エリオはそれを受け取り、しばらく無言で見つめた。「カデルが、俺に?」 思いがけない名を聞き、エリオが戸惑いを見せる。 封を切る前から、軽い話ではないことを悟っているかのようだった。 紙越しに伝わる重さは、言葉のそれではなく、過去の気配── ナディアは声を発さず、ただエリオの動きを見守った。 風が二人の間をすり抜け、木々のざわめきが遠くでささやく。 エリオは決心した顔つきで、ゆっくりと封を切った。 中から現れたのは、折り目のついた一枚の便箋。 その筆跡を目にした瞬間、エリオの表情がわずかに揺れた。「カデルの字だ。嫌な予感がするな」 情報屋カデル──かつて命を託すしかなかった相手。信頼とは違う、だが、背を預けた時間は確かにあった。当時の二人には、それしか選択肢がなかったからだ。 過去の記憶が、便箋のインクの匂いと共に蘇る。「何て書いてるの?」 ナディアがエリオに一歩近づ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-09-04
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風の前触れ ②

 エリオは深く息を吸い込み、便箋の端を持ち直すと、ゆっくりと折り目をほどいていった。 カデルらしい筆跡だ。鋭く、どこか癖のある線。伝えたい情報だけが端的に記されてある。「リノアとエレナという人物がフェルミナ・アークに向かっているらしい」 読み進めるにつれ、エリオの表情が徐々に変わっていく。「ノクティス家……」 その名に至ったとき、エリオは一度手紙から目を離した。 遠くを見るように視線を泳がせ、何かを探すように空を仰ぎ見る。「エリオ、どうしたの?」 ナディアが問う。「そのリノアという人が、どうやらノクティス家の血を引いているようなんだ……」 どうして、そのような人間がフェルミナ・アークに行く必要があるのだろうか。深刻な理由でもあるとでもいうのか。 エリオは再び便箋に目を戻し、残りの文を読み進めていった。 その瞳には、かつて戦場で情報を読み解いていた者の鋭さが見て取れる。「ノクティス家って何?」 ナディアが首を傾げる。「ゾディア・ノヴァにとっては、脅威になり得る存在。だけど見方を変えれば、利用価値の高い血筋とも言える。この名家の者には代々受け継がれる特殊な力があるからね。それは戦術にも、政治にも、信仰にも影響を及ぼすほどのものなんだ。その血筋の者が動き始めたということは、ただ事ではないってことは確かだ」 ナディアが息を呑む。 エリオは少しだけ間を置いてから、さらに続けた。「ノクティス家の者だけじゃない。クローヴ村のクラウディアとグリモア村のグレタも動いている。均衡が崩れ始めているようだ。平穏はもう、形だけのものと言って良い」 風が苗の葉をそっと揺らし、遠くで鳥がひと声だけ鳴いた。空気が何かを告げようとしている。「また戦いが始まるってこと?」 ナディアが心配そうにエリオを見つめた。「分からない。何が起きているのか、何を目的に彼らが動いているのか、この手紙だけでは……」「また私たち、どこか遠くへ逃げなきゃならないのね」 ナディアがエリオを見つめ、そして続けた。「一体いつまで、こんな生活を続けなければ……」 そう言って、ナディアは目を伏せた。 雲がゆっくりと流れ、井戸の水面がわずかに波打つ。 エリオは読み終えると、便箋を丁寧に折り直し、ナディアの方へ向き直った。「確かに、いつまでもこんな生活はできないよな」 エリオ
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-09-05
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ひとつの道 ②

 焚火の炎が緩やかに揺れる。 空気はまだ冷たく、凍結の晶核の余波が地面に残っていた。 黒い霧のような残骸が地面に広がり、中心には砕けた仮面の破片がひとつ。それは、命令を下していた“闇の存在”の抜け殻── 本体の気配はまだ消えていない。 攻撃を仕掛けた後、暗闇へと身を潜めたままだ。こちらの出方を伺っているのだろう。 リュカは剣を構え、闇の中を見据えている。 気配は、確かにそこにある。 だが、姿は見えない。 音もなく、ただ、焚火の炎が逆巻くように揺れているだけ。 静まり返る中、エレナはリュカの背中を見つめていた。 リュカの肩が浅い呼吸に合わせて上下している。その動きは、焚火の揺らぎよりも速く、どこか落ち着かないものだった。 剣を握る手にも過度な力が込められている。 リュカが今、何を思い、何を押し殺しているのか──それを知る術はない。だが、リュカの背に漂う空気が言葉にならない葛藤を物語っている。──これは、リュカ自身の戦い。 リュカは自分の運命に抗い、前に進もうとしている。平常心でいられるほうがどうかしている。 運命に抗う者の歩みは、いつだって痛みを孕んでいるものだ。 エレナが思案に耽っている時、闇の奥から、低い唸りのような気配が広がった。 空気が震え、地面の霧が巻き上がる。 砕けた仮面の破片が風に押されて転がっていく。「油断しないで。エレナも狙われてる」 リュカは闇の奥を見据えたまま、微動だにしない。その姿は少女であることを忘れさせるほどに、凛として揺るぎのないものだった。 戦いに於いては、リュカの方が場数を踏んでいるのかもしれない。 エレナは頷くと、矢を番えたまま一歩後退した。 月光が枝の隙間から差し込み、指先に触れた冷気が微かな震えを呼び起こす。 霧が不自然に揺れている。 これは風のせいではない── 地面の下で蠢く何かが、そうさせているのだ。 敵の術か、それとも先ほど倒した敵の残滓か。 刺激すれば今にも飛び出して来そうだ。 焚火の炎が刃とリュカの瞳に揺れる光を宿している。「来る」 リュカの声が空気を裂いた瞬間、霧の奥から何かが跳ねた。滑るように黒い影が沈黙を破って飛び出す。 リュカが剣を振るい、刃が空を切る音と闇の叫びが重なった。 火花が散り、霧が裂ける。「二体?!」 エレナが思わず声を上げる。
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-09-06
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ひとつの道 ③

 夜の帳が深く降りる。 闇はただ暗いだけではなく、その底で何かが目を覚まそうとしていた。 空気の底を這う意志を持った冷たさ── 地面の奥に潜んでいた気配が、じわじわと輪郭を帯びていく。 土がわずかに盛り上がり、冷気がそこから漏れ出す。周囲の霧が何かに引き寄せられるように渦を巻いた。 中心には、黒い裂け目のような影── エレナは指先に意識を集中させた。 矢の先に込めたのは、勝ちたいという欲ではなく、守るという意志だ。 背後から、リノアの微かな喘ぎが聞こえる。その呼吸は浅く、途切れがちで、まるで夢の中で何者かに囚われているようだった。 足元を這う冷気が空気の緩みを奪い、場を静かに凍らせていく。 エレナは一歩、足を前に踏み出した。 守るべきものは、すでに決まっている。 その瞬間が、ついに訪れた。 沈黙が限界を越え、闇が牙を剥く。 そこから現れたのは黒く染まった羽根── 一枚、また一枚と地面から舞い上がるように浮かび上がっていく。 それはしばらくエレナの周囲を旋回し続けた後、やがて目的を定めたかのように、ゆっくりとリノアの方へ降下していった。 エレナは目の前の光景に釘付けになり、矢を引き絞ったまま、動くことができなかった。 リノアの胸元に舞い降りる一枚の羽根──それは敵の術が生み出したものだ。 物理的な実体を持たず、精神の深淵から創り出した幻。射抜くことなど、できるはずがない。 その羽根がリノアの胸に触れた瞬間、リノアの荒々しい喘ぎがふっと途絶えた。 静寂が辺りを包み込む。 リノアが内なる何かを拒むように身体をうねらせている。 それは寒さでも、夢の残響でもない。内側へ侵入しようとする“何か”を拒む、無意識の抵抗。 抵抗も虚しく、水面に溶ける光のような柔らかさで、羽根がリノアの胸元へと沈んでいく。 リノアの背が弓なりに反り、そして再び喉から微かな喘ぎが漏れた。声にならない言葉が吐息と共に夜の冷気に漂う。 それは祈りか、呪いか、それとも届かぬ願いか──エレナには分からなかった。 矢を放ったところで羽には届かない。 ならば、私ができることはただ一つ、リノアの名を呼ぶことだ。その声がリノアをこの見えない鎖から解き放つ鍵になるかもしれない。「リノア」 エレナは囁くように、その名を呼んだ。 張り詰めた空気に、その声が染み込む
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-09-07
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ひとつの道 ④

 エレナは弓を下ろした。 張り詰めた空気の中、指先に込めた意志が、矢の先端に微かな震えとなって現れる。「リノア……」 エレナの声が風に紛れてか細く響く。だが、その一言が意識に触れたのか、リノアの身体がわずかに反応した。 リノアの唇が再び動く。今度は、かすかな囁き。「エレナ、逃げて……」 ガラスが砕けるような儚い声がエレナの胸を突き刺し、 周囲の空気をさらに重く、冷たいものに変えた。 風の流れが変わり、何かが迫る予兆のように枝葉が揺れる。 頭上で旋回する羽根に乱れが生じ、そのうちの一つが再び、リノアの胸元へと舞い降りた。 それは先ほどのものよりも暗く、夜そのものを切り取ったような黒い輝きを放っている。 羽根がリノアの身体に触れるたびに表情が歪み、瞳に宿る光が消えていく。 エレナは歯を食いしばり、矢を構えたまま一歩踏み出した。 リノアを救うには敵の術を断ち切るしかない。 本体を叩けば終わる──それは分かっている。 だが、その本体は…… エレナは素早く周囲に目を走らせた。 霧が濃く、視界は限られている。 木々の間に人影はない。 リュカの姿も見えない── リュカは、どうやら森の奥で本体と交戦しているようだ。 エレナは息を詰め、思わず矢を握る手に力を込めた。 術の影響がここまで及んでいる──距離を隔ててもなお、これほどの干渉が可能とは……。 しかも、リノアの中に入り込み、内側からリノアを変えようとしている。 かなり手ごわい相手だ。術の精度も、意志の強さも、常軌を逸している。 エレナは唇を噛み、視線をリノアに戻した。 リノアをこの場に残して行くわけにはいかない。リノアを置いていくことは、見捨てることと同義だ。 この場を離れれば、リノアは確実に術に飲まれてしまうだろう。 風が枝葉を揺らし、羽根が空中で軌道を描く。一体、どうすれば…… エレナの心は凍てつく絶望に捕らわれていた。 弓を握る手は震え、矢はもはや無意味な重さにしか感じられなかった。 矢を放てばリノアを傷つけるだけ──その確信がエレナの決意を鈍らせた。 リノアの身体が小刻みに震えている。 呼吸は浅く、途切れがちで、喉の奥から漏れる音は言葉を形作れず、ただ苦しみを吐き出すだけだった。 指先が痙攣し、その瞳に宿っていた温もりも、意志も、すでに遠くへ引き離されて
last updateTerakhir Diperbarui : 2025-09-08
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ひとつの道 ⑤

 リノアを奪おうと風が枝葉を揺らし、羽根が空中で軌道を描いている。 だが、エレナの足は止まらない。 感情が身体を突き動かす。 恐怖も、怒りも、愛も、すべてがエレナの背を押していた。「リノア!」 声が空気を裂く。 それは祈りでも命令でもない。ただ、届いてほしいという願いだけが込められていた。 リノアの瞳が、わずかに揺れる。 その奥に微かな光── 震える手でリノアの冷たい手を握りしめ、エレナはリノアの顔を覗き込んだ。「リノア、聞いて。覚えてる? あの夜、森の湖畔で一緒に笑ったこと。あなたが私の手を握って、どんな闇も怖くないって言ったこと!」 エレナの声が抑えきれない感情の奔流となって溢れ出す。 胸の奥に刻まれた記憶── その記憶が言葉となって、リノアの閉ざされた意識に楔を打ち込む。すると、リノアの指がわずかに動き、エレナの手を握り返すような微かな反応を見せた。 その感触にエレナは息を呑む。 胸の奥に熱が灯り、冷え切っていた感覚が溶け出していくのを感じた。先ほどよりも反応が良い。──リノアはまだ、完全には沈んでいない。こちらの世界に戻ろうとしている。 この微かな反応を闇に奪わせてはならない── エレナはリノアの手を離さず、必死に祈るように見つめ続けた。 だが、黒い羽根は止まらない。空中を漂う羽が次々とリノアの胸に沈み込み、リノアの瞳から光を奪っていく。 どういうわけか、羽はエレナには刺さらなかった。エレナの身体を通り抜けてリノアへ向かって行く。 どうして私には刺さらないのだろう── エレナはふと疑問に思った。 エレナはリノアの手を握ったまま、羽根がリノアの胸に沈む様子を見つめた。──術者はリノアだけを狙っている。風のように通り過ぎる羽は、私を見ていないかのようだ。 術はリノアの内側にある何かに共鳴しているのではないか── リノアの心に反応している? 迷い、恐れ、後悔──そうした感情の揺らぎに反応しているのだとしたら…… この羽は心の隙間に入り込んでいる。 ならば、私に刺さらないのは…… それは、きっと私の心がもう、揺れていないからだ。 エレナの胸の内に、かつて自分が見せられた幻術の記憶が蘇る。 最愛の恋人──シオンの死。 その痛みは鋭く、深く、私の心を引き裂いた。 だけど私は、その喪失を現実として受け入
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