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All Chapters of 水鏡の星詠: Chapter 231 - Chapter 240

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ひとつの道 ⑥

 エレナはリノアの額に額を寄せ、震える唇で囁いた。 呼吸は浅く、胸の奥から押し出されるように言葉が漏れる。「お願い……戻ってきて、リノア」 エレナの声は、張り詰めた感情の糸が今にも途切れてしまいそうなほどに震えていた。焦りと願いが込められた言葉が、ひとつずつ吐息に混じってこぼれていく。 喉の奥で震える声は、まるで過去と現在を繋ぎ止めようとする細い橋のようだった。 エレナの目はリノアを捉えたまま離さない。その瞳には、祈りにも似た切実さが宿っている。 指先に力が入り、握った手がわずかに汗ばんでいく。──届いてほしい。 ただ、それだけを願った。 その時、リノアの胸に沈んでいた一枚の羽根が砕け、粉のように散った。 リノアの瞳が揺れ、涙が一筋、頬を伝う。 それは閉ざされていた心がようやく動き出した証だった。──リノアが目を覚まし始めている。 リノアの指がわずかに動き、エレナの手を握り返した。 リノアの瞳の奥に、微かな光が灯る。それは術の闇に覆われながらも、消えずに残っていたリノア自身の意志だった。 リノアが何かを話そうとするが、言葉にならない。けれど、その動きには意味があった。 リノアは戻ろうとしているのだ。自分自身の力で、闇の底から。 エレナはその手を離さず、リノアを見つめて、ゆっくりと頷いた。 もう呼びかける必要はない。 リノアの瞳が、確かにエレナを捉えていた。 その奥に、かつての温もりが、ゆっくりと戻ってきているのが分かる。「エレナ……」 その声は細く、風に消えそうなほどだった。だけど、その響きには確かな重みが感じられる。 術に囚われていた時間のすべてを、言葉の一滴に込めたような──そんな声だった。 紛れもなく、リノアの声──誰にも操られてはいない。 エレナは返事をしなかった。ただ、リノアの手を握りしめたまま、目を伏せて息を整える。 胸の奥に溜まっていたものが、少しずつほどけていく感覚── 風が場の空気を一新するように流れた。  羽の軌道が乱れ、残された数枚が宙に留まり、沈むことなく揺れている。まるで次の命令を失ったかのように。 リノアの瞳が、ゆっくりと焦点を結び始める。 その奥に、まだ痛みは残っている。けれど沈黙だけではない。何かが、リノアの中で動き出している。「……ここは……」 リノアが掠れた声で問いか
last updateLast Updated : 2025-09-09
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ひとつの道 ⑦

 リノアは目を伏せ、記憶の奥を探るように言葉を紡ぎ始める。「湖の畔に立ってたの。水面は鏡みたいに静かで、星が沈んでるみたいに見えた。その向こうに、誰かがいたの。湖の反対側──遠くに、ぼんやりと人影が見えていて……でも、顔は見えなかった。声も届かなかった。ただ、ずっとこっちを見てる気がして……水面越しに、目が合ってるような感覚だった」 エレナは息を呑んだ。 術が見せたものにしては、あまりに繊細だ。「その湖……水鏡って呼ばれてた気がする。星を映す鏡。記憶を映す鏡。でも私が見ていたのは……星じゃなくて、過去だった」 エレナはリノアに寄り添うように、そっと頷いた。「最初から、その夢を見てたの?」 リノアはすぐには答えなかった。 瞳を伏せたまま、記憶の奥を探るように言葉を選び、そして、ゆっくりと口を開いた。「最初は違ってた。夕暮れの森。空が赤くて、煙が立ち上ってて……木々が燃えてた」 リノアの声が震えている。「火の中で幼い私が叫んでいた。目の前で、父と母が誰かに連れて行かれるのを見ていたのに、私はその場から動けなかったの。その場に取り残されて、炎が迫ってくるのをただ見ているしかなくて……。焼ける感覚まで、はっきりあった」 リノアの瞳が揺れている。 それは敵が見せた幻術の記憶──術がリノアの記憶の奥に眠っていた“未完の痛み”を引きずり出したのだ。「でも……エレナの声が聞こえた瞬間、全てが壊れた。炎も、煙も、叫びも──全部……霧みたいに消えていった。気づいたら、私は水鏡の湖の畔に立ってたの」 そう言って、リノアは目を伏せた。 エレナはそっとリノアの肩に手を添えた。「その湖は、あなたの記憶の底にある場所。敵はそこに入り込んで、リノアを取り込もうとしたの。でも戻ってきてくれた。星が沈んでいても、水鏡は割れなかった」 リノアは目を閉じて、深く息を吸い込む。「……あの湖に、もう一度行ける気がする。今度は幻じゃなくて、自分の足で」 その言葉が場の空気を変え、張り詰めていた気配がほどけていく。もはや術の残響は一かけらも存在しない。
last updateLast Updated : 2025-09-09
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運命に抗う者たち ①

 イオから手紙が届いてから数日後、クラウディアは村の集会所の奥で荷物をまとめていた。 早朝の霧が村を包む中、クラウディアはアークセリアへ向かう準備を進めていた。 地図、薬草、古い記録書など──アークセリアへ向かうために必要なもの、そしてエクレシアに入るために必要なものは整えてある。 決断は、すでにその身に根を張っていた。迷いはない。 扉が軋む音が響き、クラウディアは手を止めた。振り返ると、村人の一人、老いたハーヴェイが息を切らせて立っていた。 ハーヴェイは見張り役の一人だ。いつもはトランとミラなど若い人が見張り役をしている。しかし状況が状況だけに、村人たちも協力をしなければならない。そこでハーヴェイが自ら見張り役を買って出たのだ。「それくらいなら、わしにもできる」と言って。「村長、村の外から二人の旅人が来ています。エリオ、そしてナディアと名乗る者たちです。集会所で待つように伝えましたが、お会いになりますか?」 ハーヴェイの報告を聞いた瞬間、クラウディアの胸の奥にイオの手紙の一節が蘇った。 そこに記されていた名──エリオとナディア。その二人のことだ。 エリオ──その名に遠い記憶がざわめく。 ゾディア・ノヴァの前身であるセリカ=ノクトゥム時代、幼かった少年の一人にエリオがいた。その姿が脳裏に浮かぶ。 時の流れは速く、今となっては姿も声も変わっているはずだ。それでも、その名を聞いた瞬間、胸の奥に懐かしさが疼いた。 あのエリオが、どうしてここに?  イオの手紙には、彼らの名が“来るべき者たち”として名を連ねていた。だが、そこには詳しい事情は書かれていなかった。ただ、急ぎ会うべきだと──それだけが強調されていた。 ゾディア・ノヴァから逃れることは通常あり得ない。私は戦乱後の混乱に乗じて組織から離れることができたが、エリオは違うはずだ。 ゾディア・ノヴァは一度標的を定めた者を決して逃さない。その名を記録に刻んだ瞬間から追跡が始まる。 逃亡は許されず、忘却も存在しない。彼らの網は広く、静かに、確実に迫ってくる。標的がどこに潜もうと、どれほど時が経とうと──組織は必ず追い詰める。 それがゾディア・ノヴァのやり方だ。 それを知っているクラウディアにとって、エリオの存在は懐かしさと同時に説明のつかない違和感を伴っていた。 エリオはどうやってここまで
last updateLast Updated : 2025-09-10
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運命に抗う者たち ②

「通してちょうだい、ハーヴェイ」 ハーヴェイが頷き、踵を返して去ると、ほどなくして二人の人物が現れた。 そこに立っていたのは、長身の青年エリオと黒衣の女性ナディア。しかしエリオの顔を見ても、クラウディアの心はすぐには反応しなかった。かつての少年の面影が時の流れに埋もれていたからだ。 青年が一歩踏み出し、穏やかな声で言った。「クラウディアさんですか? 私はエリオと言います。そして、こちらがナディアです」 エリオの微笑みは礼儀正しく、しかし、どこか遠いものがあった。クラウディアを覚えている様子はない。 クラウディアは目を細めて、エリオを観察した。エリオの声、立ち振る舞い、その瞳の奥に、確かにあの少年の影がちらついている。だが、クラウディアはそれを口には出さなかった。 クラウディアは椅子に腰を下ろすと、二人に向かって手で座るよう促した。 エリオは軽く頭を下げ、ナディアもそれに倣って一礼する。二人は並んで腰を下ろした。 クラウディアは二人の所作を見て、ここまで何かを背負ってやって来たことを感じ取った。穏やかでありながらも、どことなく緊張を孕んでいる。「直接、アークセリアに向かうものかと思っていたよ」 そう言って、クラウディアは笑みを浮かべた。 その言葉に特別な色はない。だが、クラウディアは何気ない会話の流れを装いながら、エリオの表情の揺れを拾おうとした。 エリオがどう応じるか。それを確かめたかったのだ。 エリオとナディアの名はイオの手紙に記されていた。そして、エリオに関しては遠い記憶として、クラウディアの胸に残っている。 セリカ=ノクトゥム時代──まだ幼かった少年が薬草の仕分け場の隅に座っていた姿。エリオは親の手元をじっと見つめていた。 今、目の前にいる青年が本当に、あのエリオなのか。クラウディアは確信を持てずにいた。「クラウディアさんがおっしゃるように、僕たちは直接、アークセリアへ向かうつもりでした。カデルという人物から手紙が届いたのですが、本当に行って良いのか少し不安で……決してカデルを疑っているわけではないのですが……」 エリオの言葉は途中で途切れた。 慎重に言葉を選びながらも、内心の揺らぎが隠しきれていない。 カデル──情報屋として知られる男。 色々ときな臭いところはあるが、根は真っすぐな人間だ。「その手紙には何と?」 
last updateLast Updated : 2025-09-11
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運命に抗う者たち ③

「それは大変だったね。よく、ここまで来た」 そう言って、クラウディアはエリオの顔を見つめた。 エリオという名に、過去の一場面が水面下からゆっくりと浮かび上がってくる。 やはりそうだ。このエリオは私の知るエリオで間違いない。「君は……サフィアの子どもじゃないか。あなたの親は薬草の仕分け場で働いていたはず。どおりで……聞き覚えのある名前だと思ったよ」 クラウディアは目を細めて、少しだけ息を吐いた。「実はね、私もゾディア・ノヴァから離れた者の一人なんだよ」 それは過去を語るというより、エリオの言葉に応えるような語りだった。「戦乱のあと、この村に身を置くようになった。頼まれてね──この地を守る役目を」 エリオが顔を上げる。 クラウディアは椅子の背にもたれたまま、窓の外に目を向けた。「最初は戸惑ったけどね。でも、ここでなら少しは静かに生きられると思った。当時の監視の目は今ほど厳しくはなかったから、それが可能だったのよ」 霧がまだ残っている。その向こうに、かつての戦場も、組織の影も、すべてが沈んでいるように見える。「さっき、“逃げて来た”と言ったね。でも、それは違う。あなたは生きるために、その道を選んだ。それは逃げじゃない。正しい選択だ」 クラウディアはそう言って、今度はナディアに目を向けた。「その子のことが、大事なんだろ?」 エリオが頷く。「一緒に歩いていく。あなたは、そう決めたんだね」 クラウディアは目を細めた。 言葉にしない想いが、クラウディアの表情の奥に沈んでいる。それは、かつて誰かを守ろうとした者だけが持つ、痛みを知る者の想いだった。「誰かと道を共に歩むってのは、ただ隣に立つってことじゃない。その人の痛みを背負う覚悟があるかどうか──それが試されるんだよ。まして、あなたたちのように、追われる身であればなおさらだ。だけど──それでも共に歩むと決めたなら、それは強さと言える」 クラウディアの言葉が部屋に落ちた後、しばらくの間、誰も口を開かなかった。 言葉の重みが、二人の胸に深く沈んでいく。「はい。僕たちは共に歩いていきます。どんなことがあっても」 エリオとナディアは、ゆっくりと息を吸って前を見据えた。 その声に迷いはない。だからこそ、二人は今、ここにいるのだ。 クラウディアが深く頷く。「あなたたちは、もう逃亡者じゃない
last updateLast Updated : 2025-09-11
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運命に抗う者たち ④

「エリオ、あなたは変わったわね。でも目元だけは変わってない」 クラウディアはエリオの顔を見つめながら、遠い記憶の断片を繋ぎ合わせようとした。 幼い頃の少年──ゾディア・ノヴァの影で遊ぶ、あの無邪気な足取りが、今のエリオの穏やかな歩みに重なる。「昔、あなたの母親──サフィアが薬草の仕分け場で働いていた頃、よくあなたを連れて来ていた。あの頃は、まだ戦の気配も遠くてね。あなたは棚の影からじっとこちらを見ていた。物静かだけど、目だけはよく動いていた。何かを見て、何かを考える。そんな子だった」 エリオは少し照れたように肩をすくめ、軽く頭を掻いた。 当時、幼かったエリオはクラウディアのことをよく覚えていない。それでも、クラウディアの語る言葉が胸の奥に微かな熱を灯した。 その隣で穏やかな笑みを湛えて座っていたナディア。クラウディアの言葉に視線をわずかに揺らす。 その揺れは、過去と現在の狭間に立つ者だけが持つ葛藤の表れだった。 ナディアもまた、エリオの過去を知らないわけではない。 まだエリオがゾディア・ノヴァにいた頃。エリオが、どのような場所に身を置き、どのような命令に従っていたか──断片的ながら耳にしていた。だが、目の前にいるエリオは、その頃の彼とは違う。 今のエリオは自分の意志で歩いている。意味も分からないまま、誰かに命じられたからと行動を取る彼ではない。 過去が語られる度に、エリオがそこからどれほど遠くへ来たかを思い知らされる。そして、自分がその歩みに並んでいることが、どれほどの意味を持つかも── クラウディアはナディアに視線を移した。「あなたはゾディア・ノヴァの出じゃなさそうだね。元々は普通の暮らしをしていたんだろ。戦や命令とは無縁の、穏やかな日々を」 振舞いも、視線の動きも、訓練された兵士のそれではない。だが、そこには日常を失い、何かを越えてきた者の痕跡が刻まれている。「エリオと出会ってから、いろいろありました」 それだけを言って、ナディアは目を伏せた。 語らなくても分かる。その言葉の奥にあるものが…… もちろん全ては分からない。しかし、どのような道を通ってここまで来たかは容易に想像することができる。 長く、厳しい道を歩んできたに違いない。「そうだろうね」 クラウディアは慈しみの眼差しをナディアに向けた。「変えなきゃいけないね。
last updateLast Updated : 2025-09-12
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運命に抗う者たち ⑤

 クラウディアは荷を背負い、エリオとナディアを従えてクローヴ村の集会所を後にした。 早朝の霧が村を深く包み込み、空気はいつもより重く、湿り気を帯びている。 村の広場には村人たちが見送りに集まっていた。 老いたハーヴェイが帽子を胸に抱き、その隣で、トランとミラはハーヴェイに倣うように背を伸ばして並んで立っていた。 二人ともまだ若い。しかし、未成年ながらも見送りの場に立つことを選んだ。 ミラは唇をきゅっと結び、視線を逸らさずにクラウディアを見つめている。だが、手袋の端を撫でる指先が、内に秘めた感情の揺れを無言で語っていた。 トランも腕を組んではいたが、その肩はわずかに震えている。 二人とも気丈に振る舞おうとしているのは明らかだった。 クラウディアは周囲を見渡した。しかし言葉を発する者はいない。誰もが不安なのだ。 クラウディアは一人一人に目を向け、短く頷く。 その仕草は別れの挨拶であると同時に、言葉にできない感情の受け止めでもあった。 彼らの沈黙は、恐れの証── だが、それは当然のことだとクラウディアは思った。 森の向こうに何が待ち受けているのか誰にも分からない。言葉を交わすよりも、黙って立ち尽くすことの方が、今はずっと誠実に思える。 村人たちの姿に、クラウディアはかつての自分を重ねた。 視線を遠くに移す。 ゾディア・ノヴァにいた頃── 声を上げることが命取りになる世界だった。 疑問を口にすれば監視の目が向けられ、反論すれば、すぐに記録に残された。 命令は絶対で、感情は不要。 そこでは、誰もが自分の存在を曖昧にしながら、ただ「生存」のために動いていた。 何を見ても、何を思っても、それを言葉にすることは許されない。沈黙こそが安全であり、従順こそが生存の絶対条件だった。 だが、その沈黙の中で少しずつ自分を失っていくことになる。 何を望んでいるのか、何を恐れているのか── それすらも分からなくなるほどに、命令に従うだけの日々が続いた。 エリオと同じように私も、ある瞬間に気づいたのだ。 このままでは、自分が誰だったのかも分からなくなると── だからこそ、言葉を交わすことの危うさを誰よりも知っている。 言葉は時に、真実よりも先に恐れを呼び寄せる。 口にしてしまえば、たちまち、まだ見ぬ恐れが形を持ち、目の前に立ちはだかるのだ。
last updateLast Updated : 2025-09-13
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運命に抗う者たち ⑥

 クラウディアは馬の背に身を預けながら、村の広場に集まった人々を見渡した。 老いた者、幼い者、傷を抱えた者──この村で生きてきた者たちの顔が霧の中に浮かび上がっている。「それでは、行ってくるわね」 クラウディアが背筋を伸ばして言葉を発すると、その響きは霧を押し分けるように広がっていった。「私がいない間、この村は皆さんの手に託されます。不安もあるでしょう。だけど、あなたたちなら、きっと村を守ることができます。この土地の空気を知り、この暮らしを愛してきた皆さんだからこそ、私は守れると信じています」 誰かが小さく頷き、誰かがそっと手を握りしめた。 言葉こそは少なかったが、その沈黙の中に覚悟が込められている。長年、共に過ごしてきたのだ。お互いに深い信頼が根付いている。 クラウディアは手綱を握る手に力を込めると、霧の中で何かを振り払うように、馬の腹を蹴った。湿った地面に蹄が打ちつけられ、鈍く響く音が静寂を裂く。 エリオとナディアがクラウディアの後に続いた。 三つの影が、ゆっくりと霧の中へと吸い込まれていく。その姿は過去を断ち切り、未来へと踏み出す者たちの凛々しい姿だった。 その背中を見つめながら、村人たちは心の奥で願った。 この旅が終わりではなく始まりであるようにと── 霧の中を進む三人の馬蹄が、湿った地面に一定のリズムを刻んでいた。だが、その静けさは長くは続かなかった。 クローヴ村の周辺は朝の光に包まれている。しかし、どこか様子がおかしい。 ここ最近は鳥の数が少なくなり、森が静かになったとは言え、あまりにも静かだ。朝方くらいは僅かながら鳥のさえずりが聴こえるものだが。 クラウディアは馬上で身を起こし、街道から目を離して森の方へ視線を向けた。 何かが遠くで目を覚まし、こちらを眺めているような気配── やはり、いつもと何かが違う。 そう感じた瞬間、クラウディアは手綱を握る指に力を込めて、馬の歩みをわずかに緩めた。 風は吹いてはいない。しかし頬を撫でる感触がする。見えない何かが私の存在を確かめようとしているかのように…… 天候の移ろいでは説明できない。気温でも湿度でもなく、もっと根の深い異質なものが森の奥から滲み出ている。 きっと自然が何かを語ろうとしているのだろう。 クラウディアは馬上で息を吐いた。 リノアなら、すぐにこの気配を感じ
last updateLast Updated : 2025-09-14
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礼拝堂の防衛線 ①

 アークセリアの古びた礼拝堂── 石壁に刻まれた祈りの痕跡は、もう誰の信仰にも応えてはいない。その静寂の中で、アリシア、セラ、ヴィクターが身を寄せ合いながら、クラウディアたちの到着を待っていた。 彼らは兵士ではない。 戦場での動き方はおろか。剣の重さも知らない。 それぞれに何かしらの能力があるとはいえ、エクレシアへ乗り込むには、あまりに心もとなかった。 クラウディアの経験と洞察、そして状況に応じた声かけ── それがなければ、次の一歩を踏み出すことすらできない。 礼拝堂の空気は祈りよりも不安に満ちていた。外の世界が、静かに、そして確実に変わり始めている。 その兆しを彼らはまだ言葉にできずにいた。 アリシアが地図を広げて、セラが薬草を点検する中、ヴィクターが怪訝な表情を浮かべて窓の外を眺めていた。「何か……変だ」 ヴィクターの視線が霧の向こうを探る。 木と生きてきた者にしか分からぬ、空気の歪み──自然が何かを隠しているときの、あの微かな違和感が生じている。 ヴィクターは耳を澄ませた。 街の雑踏が、何層もの木肌を隔てて届くように、鈍くこもっている。 礼拝堂の周囲に音を遮るものはない。高い建物はなく、広場に面した石畳は音をよく響かせる。いつもなら、人の足音や馬の蹄が遠くからでも届いてくるはずだ。それなのに、今は空気が音を呑み込んでしまったかのように何も聞こえない。 いつもなら、風が通れば木は応える。 だが、今は何も語らない。まるで精気を失った樹木のように呼吸を止めている。「木が黙っている……」 ヴィクターは窓枠に手を添え、礼拝堂の横に立つ樹木を見つめた。 幹はしっかりと立ち、葉は枯れていない。枝の先に小さな芽も残っている。「生きているのに動かない。どうして……」 低く呟いた声は、礼拝堂の石壁に吸い込まれるように消えた。 風がないせいではない。 気温のせいでも、湿度のせいでもない。──木が自らの意思で沈黙している。 ヴィクターは窓辺に立ったまま、視線を樹々から離さずに思考を巡らせた。 自然というのは言葉を持たない代わりに、別の方法で情報をやり取りしているものだ。 風の流れ、根の振動、葉の揺らぎ──それだけではない。虫の羽音、土の湿り気、苔の色の変化にさえ意味がある。 木工職人として、誰よりも木を見てきたつもりだ。 木
last updateLast Updated : 2025-09-15
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礼拝堂の防衛線 ②

「そんなに悪いことが起こってるの?」 セラが薬草を握る手を止め、心配そうにヴィクターの背中を見つめた。 セラの声は小さく、震えている。「ああ、状況は良くはない」 ヴィクターが窓の外から視線を外し、ゆっくりと振り返った。自然の息吹を感じ取るヴィクターの目は、鋭くもどこか不安に揺れていた。「それって……今、動かなきゃいけないってことよね」 アリシアの声が礼拝堂の重い空気を切り裂いた。「そうだな。何かが起きてからじゃ、遅いかもしれないからな」「それなら、さっそくやりましょう」 アリシアは地図を畳んで、胸の奥に湧いた焦りを振り払うように立ち上がった。 沈黙に飲み込まれる前に行動を取る──それがアリシアのやり方だ。「ヴィクター、指示を出して。私たちに何ができる?」 アリシアの声が仲間を鼓舞するように力強く響く。 自然の知識ではヴィクターが誰よりも頼りになる。彼なら、この異様な現象に立ち向かう術を知っているはずだ。 ヴィクターが率先して動く人間ではないことは分かっている。いつも誰かの影に隠れて、必要とされるまで口を開かない。 木のように黙ってそこに在り続ける。ヴィクターとは、そういう人間だ。だけど、この状況では、そうも言っていられない。 自然が沈黙している今、誰かがその声を代弁しなければ。それができるのは、木の呼吸を知るヴィクターしかいないのだ。 アリシアはヴィクターの背中を見つめながら、息を整えた。 ヴィクターは何かを見極めるまで決して焦らない。それは急ぎすぎれば見落とすものがあることを知っているからだ。その慎重さは時に苛立たしくもあるが、ヴィクターの言葉にはいつも、根を張ったような確かさがあるのも事実だ。 仮に上手く出来なくても構わない。周りにいる誰かが補えば良い。ただそれだけのことだ。「そうだな……。確かセラは《エアリス鉱》を購入してたな」《エアリス鉱》(別名・風脈鉱)──薬草の香気と組み合わせることで、空気の層に潜む異常を可視化できる鉱石。 植物が空気中に良からぬものを散布するなら、これ以上のものはない。「これだっけ? たしか、この薬草と合わせれば作れるって言ってた」 セラはすぐに動き出した。 セラは道具袋から小瓶を取り出すと、それらを礼拝堂の石台に並べた。そして手際よく薬草を刻み、エアリス鉱の粉末と混ぜ合わせる。 香
last updateLast Updated : 2025-09-16
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