All Chapters of 名も無き星たちは今日も輝く: Chapter 141 - Chapter 150

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─15─ 作戦決行

翌日、表面上は何事もなく日勤を終えたユノーが引き継ぎを済ませ帰宅しようとしていた時、声をかけられたような気がして振り向くと、柱の影にペドロがたたずんでいた。 「……シモーネ嬢から連絡がありました」 その言葉に、ユノーは自らの心臓が飛び跳ねるのを感じたが、つとめてそれを表情に出すまいと努力して言葉の続きを待つ。 「正式に公爵閣下のお許しが出たそうです。いつでも受け入れる準備ができた、と」 はやる気持ちをおさえて、ユノーは一つうなずく。 それから、緊張でややかすれた声でたずねる。 「では、決行はいつ?」 「できるだけ早い方が良いでしょう。幸い明後日の夜は常闇に当たるので、都合がいいかと」 そう言うペドロにユノーはもう一度うなずき、とある疑問を口にする。 「わかりました。ですが、シグマさんとトーループ閣下には……」 「シグマにはすでに伝えました。将軍閣下には配下の者をやり、つなぎはつけました」 もはや、後戻りはできない。 両の手を固く握りしめるユノーは淡々とした口調で続ける。 「日付が変わる頃合いで出立します。場所は、中央広場」 そう言い残すと、ペドロの姿はいつの間にか消えていた。     ※ 中央広場から地下水路に潜り、足首まで水に浸かりながら闇の中をランプを頼りにどれくらい歩いただろう。 皇都の地下に張り巡らされている水路は、長身のロンドベルトでも余裕を持って歩けるほど天井が高い。 そのロンドベルトは、地図を見ることなく歩を進める。 万一その人がいなければ、迷路とも言える水路の中で確実に迷い、二度と光を見ることはできなくなるだろう。 そんなことをぼんやりと考えていたユノーを、シグマの声が現実に引き戻した。 「なあ坊ちゃん、斥候隊長は大丈夫かな?」 そう、ペドロは戻ってきたユノー達を拾いフリッツ公の屋敷へ送り届けるために中央広場に待機しているのだ。 当然の疑問ではあるが、ユノーは首を左右に振った。 「配下の方もいらっしゃるんですから、こちらより数倍安全ですよ」 そう言うユノーの声は、わずかに震えていた。 無理もない、万一敵に気付かれれば自らの手を血に染めなければならない状況に足を踏み入れたからだ。 けれど、恩人を救うためなら致し方ない。 そう決意を固め、ユノ
last updateLast Updated : 2025-11-06
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─16─ 救出

「……か……閣下?」 その姿を認めるなり、ユノーはあわてて走り寄る。 近づくに連れ、なんとも言えない異臭が強く鼻を突く。 今までここで何が行われていたのを理解したユノーは、思わず立ち尽くし、後からやってきたシグマは込み上げて来る吐き気をこらえながら忌々しげにつぶやいた。 「……なんてことをしやがる」 対するユノーは、衝撃と怒りで言葉も出ない。 が、一歩引いたところでその様子を見ていたロンドベルトは、さも当然とでも言うような口調で告げる。 「理性と尊厳を破壊するには、もっとも手っ取り早い方法ですからね」 あまりにも冷静なその口調に、シグマはロンドベルトをにらみつける。 それを受ける側はわずかに肩をすくめ、冗談めかしてこう答えた。 「私はこんな回りくどく悪趣味な方法は使いませんよ。誤解しないでください。私でしたら……」 両者のやり取りを無視して、ユノーはぴくりとも動かないシエルの脇に膝をつき、自らのマントでその身体を包んだ。 「……はい?」 そして、そのままシエルを背負おうとした時、何かを聞きとがめてその顔を注視する。 藍色の瞳は虚ろに見開かれ、色を失った唇は同じ言葉をうわごとのように繰り返していた。 「……殺せ……一思いに……殺せ……」 「閣下! しっかりしてください! 僕です!」 だが、その声はシエルには届かない。 どうすることもできずにいるユノーを押しのけるようにロンドベルトはひざまずくと、その手をシエルの額にかざした。 「……あ……や……は……」 意味をなさない小さな声をもらすと、シエルは目を閉じ力無く首をがくりと折る。 不安げに見つめてくるユノーに、ロンドベルトは低く答える。 「大丈夫、気を失っているだけです。さあ、この間に早く」 一体どのような方法を使ったのか、ユノーは聞こうとしてやめた。 聞いたところで、ロンドベルトが正直に答えるとは思えなかったからだ。 同時に、取り乱すだけで何もできなかった自分を恥じた。 やはり自分は、武人として大切な何かが欠けているのだろう。 だが、今はそれをどうこう言っている場合ではない。 「……わかりました」 注意深くシエルを背負うと、ユノーはややふらつきながら立ち上がった。 両手がふさがっているこの状態では、剣を振るうことはでき
last updateLast Updated : 2025-11-09
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─17─ 地下水路

「どこへ行った? 逃がすな!」 「まだ遠くへは行っていないはずだ! 探せ!」 水路の壁や天井に反響して、追手の声が四方八方から聞こえてくる。 不安げなユノーとシグマをよそに、ロンドベルトはまったく表情を動かすことなく闇の中を走り続ける。 「将軍さん、どこへ行くつもりなんだ?」 シグマの言うとおり、ロンドベルトは無茶苦茶に走っているように思えた。 だが、それは考えあってのことだった。 「中央広場に戻るのは危険と判断しました。地上にはこちらの追手の数倍の部隊が展開しているでしょう」 そんな中に飛び込んでいっては、多勢に無勢で勝ち目はないのは明らかだ。 だとすると、残された方法は……。 「追手をまきながら進んでいるということは、わかりました。ですが……」 シエルを背負い、かつ甲冑をまとっているユノーの息は、早くも上がりかけている。 果たして自分の体力はどこまで持つのか不安げなユノーを安心させるように、ロンドベルトはわずかに振り返りながら言った。 「安心してください。目標は定めていますので」 私を信じてください。 そう告げるとロンドベルトはおもむろに剣を一閃させ、角から現れた二人の追手をあっという間に切り捨てた。 この闇の中でも、彼の瞳は確実にすべてをとらえているのだろう。 しかしそれにしても、ここまで地下水道が皇都の地下を網の目のように張り巡らされているとは知らなかった。 まだまだ自分は知らないことが多すぎる。 ユノーはなんとも言えない思いにとらわれて、思わず唇をかんだ。 そんなユノーを現実に引き戻したのは、ロンドベルトの何気ない問いかけだった。 「シグマ殿、後ろから来る気配はありますか?」 「聞かなくても将軍さんには見えてるんだろ?」 にやりと笑いながら答えるシグマに、ロンドベルトはいつもの斜に構えた笑みで返し、やや歩調を緩めた。 「どうやら敵は完全に我々を見失ってくれたようですね」 どうやら危機は脱したようである。 ユノーはわずかにずり落ちていたシエルを背負い直し、あわててその後を追う。 果たしてロンドベルトがどこを目指しているのか、まだ見当がつかなかった。 そしてふと、ある疑問が浮かび上がる。 「……ペドロさんは、大丈夫でしょうか」 その疑問が、不意に口をついて出
last updateLast Updated : 2025-11-12
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─18─ 終着点

真っ暗な地下水路をさんざん歩き回った末に、ようやくロンドベルトは上方へ向かう階段へと足を向けた。 すでにユノーとシグマの方向感覚は狂い、どれほどゲッセン伯の屋敷から離れたのか、あるいは同じ場所を巡っていたのか、もはや定かではなかった。 この階段を上りきったところは、果たしてどこなのだろう。 緊張で強張った表情をその顔に貼り付けて、ユノーとシグマはその後に従う。 今までとは異なる種類の闇が彼らを包む。 彼らが出てきたのは、おそらくは貴族の屋敷の庭と思しき場所だった。 よもやゲッセン伯の屋敷に戻ってきてしまったのではないかと、一瞬ユノーは肝を冷やす。 だが、闇に浮かび上がる屋敷の規模はゲッセン伯のそれよりはこぢんまりとしており、どうやら別の場所のようだった。 安堵の息をユノーがもらしたとき、無数の足音がこちらに近づいて来るのが聞こえてきた。 あわてて戦斧を構えるシグマに対し、ロンドベルトは落ち着いた様子で片手を上げてそれを制した。 松明の明かりの中浮かび上がった人物は、驚いたような声を上げる。 「ロンダート卿? それに将軍閣下とシグマじゃないですか? よくぞご無事で」 それは他でもなくペドロと、その配下の元斥候隊の面々だった。 ロンドベルトの言っていた『騒ぎ』から退避して来たのだろう。 ということは、この屋敷は言うまでもなく……。 「……フリッツ公の別邸? では、トーループ将軍は、最初から?」 「我々が侵入すれば、遅かれ早かれ騒ぎになるのはわかりきったことですから。……先に申し上げなかったのは、申し訳なく思っています」 なんとも言えない疲労感を感じ、ユノーは思わずその場に膝をつく。 その時、ペドロは初めてユノーが背負っているモノに気がついた。 「……シエル? では、作戦通りゲッセン伯の屋敷に入れたのですか?」 それから、ペドロは街で起きた混乱を三人にかいつまんで説明する。 それはおおよそロンドベルトが『見て』いた状況そのままだった。 当初の作戦にしたっがって中央広場に出ていたら、白の隊とぶつかっていたことだろう。 「というわけで、我々は退避をしたのですが……。将軍閣下の判断に感謝いたします」 更に続きそうな言葉を遮って、ロンドベルトはぴくりとも動かないシエルに顔を向ける。
last updateLast Updated : 2025-11-16
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─19─ 怒りの矛先

「どうしてこんなにひどいことを……」 力無く寝台に横たわるシエルを見つめるシモーネの目には、涙が光っている。 フリッツ公お抱えの薬師と医師は、運び込まれてきたシエルを見るなり、自らの範疇外であることを申し訳なさそうに告げた。 原因がケガや病気ではないのだから、もっともなことではある。 くれぐれもこのことは他言無用と強く言い含め両者を退出させると、シモーネは堰を切ったように泣き始めた。 そんなシモーネから寝台の上のシエルに視線を移したユノーは、とある疑問を口にした。 「けれど……どうして閣下は、その、こんなになるまで……。尊厳を守るために、自ら命を絶たれるという選択も……」 そんなユノーに、ペドロは重々しく告げる。 「シエルは武人である前に神官です。自害はもっとも重大な罪。ロンダート卿なら、ご存知でしょう」 そういえばそうだ。 ユノーの母は、自ら命を絶ったがため長らく正規の弔いをあげることができなかったのだ。 打ちひしがれるユノーに、ペドロはさらに続ける。 「……あと、聞いた話ですが、猊下はシエルが過去に囚われ不用意に命を絶たぬよう暗示をかけたそうです。ですので、どんなに絶望的な状況下に置かれても、シエルは自害することはできないんです」 「……そんな」 驚いて顔を上げるユノーの視界に飛び込んできたのは、苦渋の表情を浮かべるペドロだった。 両者のやり取りが聞こえているのかは定かではないが、ぴくりとも動かないシエルのかたわらでシモーネはいまだ泣きじゃくっている。 そんな三人に視線を向けるユノーの心のうちに、ふつふつと怒りの感情が湧き上がってきた。 握りしめる両の手の拳が、小刻みに震えている。 「……ロンダート卿?」 異変を感じたペドロから声をかけられた刹那、ユノーは思わず叫んでいた。 「そこまでして……こんな苦しみを抱いてまで、人は生きなければならないんですか? 見えざるものは乗り越えられない試練は与えないと言うけれど、これではあまりにもひどすぎます!」 不意にシモーネの泣き声がやんだ。 驚いたようにこちらを見つめてくるシモーネに、だがユノーは何も言うことができなかった。 すっかり頭に血が上ったユノーの耳に、落ち着き払ったペドロの声が流れてきた。 「今の言葉は、聞かなかったこ
last updateLast Updated : 2025-11-20
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─20─ 怒りと焦り

暗闇の中で行われた救出劇から二日が過ぎたが、状況は好転しなかった。 シモーネを介してペドロから、シエルは目を覚ましたものの、虚ろな表情でただ寝台に横たわるのみだ、との報せをうけ、ユノーは己の無力さを嘆くしかできなかった。 「あの時と同じですね」 ぽつりと言うペドロに、ユノーは何事かと思わず首をかしげる。 気がついたペドロは、記憶をたどるようにとつとつと語り始めた。 「シエルが西の塔から助け出されたあと、しばらくの間まるで抜け殻のようだったんです。殿下が色々と手を尽くされて、どうにか自我を取り戻したんですが……」 「じゃあ、その方法がわかれば、もしかしたら……」 「そう……なのですが……」 それとなくミレダから聞き出すのは、至難の業だ。 下手をすれば、全てがばれてしまうかもしれない。 けれど、最後に残された望みはこれしかない。 「気は進みませんが、それとなく当時孤児院の責任者だった司祭様に聞いてみます。もしかしたら、何かご存知かもしれません」 お願いします、そうユノーが頭を下げる間に、ペドロにはかき消すようにいなくなっていた。 ※ 一日の勤めと引き継ぎを終え帰路についていたユノーは、不意にその腕を掴まれ部屋の中に引きずり込まれていた。 すわ敵か、と腰の剣に手を伸ばすが、誰の仕業であるかを理解し、あわててその場にひざまずく。 「失礼いたしました。殿下におかれましては……」 「お前たち、一体何を企んでいいる?」 そう言うミレダの口調からは、尋常ではない怒気が感じられる。 心当たりならば嫌というほどあるので、ユノーは極力表情を動かさないように努力しながら注意深く返答する。 「企む、とは?」 沈黙が続くことしばし。 ミレダはユノーをしばし見下ろしていたが、時間の無駄と思ったのだろうか、おもむろに切り出した。 「シグマの店にしばしば集まっているそうじゃないか。しかも敵将まで一緒に」 ユノーは周囲の温度が下がったような錯覚にとらわれた。 一体どこからか話が漏れたのか。 そして、どこまで知られているのか。 黙りこくるユノーの様子をどう受け取ったのだろう、ミレダは呆れたように吐息を漏らす。 「私と市井を繋いでいるのは、ペドロだけじゃない」 なるほど、そう言うわけか。 納得し
last updateLast Updated : 2025-11-23
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─21─ 光明

 薄暗い部屋に、フリッツ公イディオットは一人たたずんでいた。 ここは、屋敷の中の父親……先代の私室である。 主を失ったあと、足を踏み入れる者がいなかったその部屋は、埃とカビの入り混じったような空気に満たされていた。 腕を組み部屋の中央に立ち尽くしていたイディオットは、大きく息をつくと大股に歩み始めた。 その眼前には、天井まで届く本棚がある。 ミレダはあっさりと皇位を譲ると言っていたが、自分が先帝の息子であるという確たる証拠がなければ、結局は議会案……ミレダとイディオットが婚姻した上での共同統治が押し切られてしまうだろう。 そこで、彼はその証拠を探しにここへやってきたのである。 この場所を選んだ理由は、もし皇宮にそれがあれば、先帝崩御と共に宰相及びメアリの手に渡る可能性が高いからだ。 だが、彼らがイディオットの出生に関し何も口にしないということは、そもそも何も知らないということだ。 だとすれば、自らの屋敷にそれがある。 書庫にある本は、少年時代に粗方目を通したが、それらしいものは無かったと記憶している。 となると、残される場所は先代の私室ということになるのだが、まさかこれほどまでの蔵書があるとは思いもよらなかった。 さて、どこから手を付けようか。 なんの気なしに書棚から一冊の本を取り出そうとした、その時だった。「このようなところで、何をしておられるのですか?」 背後から突然声をかけられて、イディオットは身体ごと振り向いた。 戸口に立っていたのは他でもなく、先代の頃からこの家に仕えている最古参の執事長だった。 イディオットは肩をすくめてみせたが、執事長はにこりともしない。 「私の証《あかし》となるものがないかと思ってね」 「と、申しますと?」 生真面目に問い返してくる執事長に、イディオットは隠しだてはできないと観念した。 「このままだと、私は殿下と婚姻しなければならなくなる。けれど、先代が私に告げたことが事実だとすれば、それは見えざるものの意に反する」 その言葉を肯定するように執事長がわずかにうなずくのを確認して、イディオットは更に続ける。「議会を納得させるような、私の出生の証があれば。そう思ってこの部屋に来たんだけれど、どうしたらいいかわからなくてね」 さようでしたか、とつぶやくと、執事長は深々と一礼する。 それを一
last updateLast Updated : 2025-11-27
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─22─ 迫りくるもの

「とりあえず、意識は戻られました。けれど……」 そして、幾度目かのシグマの店での会議である。 シモーネは静かにそう切り出したのだが、表情は暗い。 飲み物を手際よく配りながら、シグマが問い返す。「けれど、どうしたんだ? 目は覚めたんだろ?」 しかし、その言葉にシモーネは目を伏せ、首を左右に振る。 首をかしげるシグマに向かい、シモーネは絞り出すように続けた。「寝台に横たわったまま、虚ろな眼差しを天井に向けられるのみで……。何も話すこともなく、もちろん食べ物を口にすることもなく……」 やはりゲッセン伯のところで受けた苛烈な責苦で、その心は完全に壊れてしまったのかもしれない。 予想通りの展開に、室内には重苦しい空気が流れる。 さらに追い打ちをかけるように、シモーネはこう続けた。「悪いことに、屋敷の周囲に見慣れぬ人間がうろつくようになりました。……敵は、手当たり次第に心当たりの場所を探っているのでしょう」 その言葉に、ユノーはうなずいて賛同を示した。 というのも、祖母の家の周囲にも明らかに地元の人間ではない男を見かけたからだ。 遅かれ早かれ、この店での会議も危険なものとなるかもしれない。 いや、その前にシエルの安全をなんとしても確保する必要がある。 そんな思考に沈んでいたユノーを、シグマの一言が現実に引き戻した。「そう言えば、斥候隊長はどうしたんだ?」 そう、今日はまだペドロが来ていない。 同じく姿が見えないロンドベルトからは、何やら条約締結の件で慌ただしくなったため当分出られないとの連絡を受けている。 あの几帳面なペドロが連絡もなく欠席するはずがない。 何か面倒なことに巻き込まれたのか、あるいは……。 嫌な想像が一瞬ユノーの脳裏をよぎったが、無理矢理にそれを振り落とす。 何よりユノーよりもはるかに手練で注意深いペドロが、そう簡単に危機に陥るはずもない。「もうしばらく待ちますか? それとも……」 言いさして、ユノーはシモーネに視線を送る。 それを受けてシモーネは一つうなずくと、何やら紙に書き付け始めた。 どこに敵の目が光っているかわからない今、重要な事柄を言葉に出して外部にもれるのを防ぐためだろう。 シモーネの手元を注視するユノーとシグマ。 女性らしい繊細な文字は、こんな文章を書き出していた。──公爵閣下は、アルト
last updateLast Updated : 2025-11-30
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─23─ 鍵

 両者が滑り込むように室内に入ると、シグマはすぐさま扉を閉める。 それを確認してからジョセはフードを外し、見つめてくる室内の面々に向かい深々と一礼した。 その隣で、ペドロは申し訳なさそうにしている。「すみません。完全に自分の失態です」 一体どういうことなのだろう。 ペドロはの言葉の真意がわからず顔を見合わせる一同の疑問に答えたのはジョセだった。「話はすべてペドロから聞きました。弟子のために尽力してくださり、感謝の仕様もありません」 再び頭を垂れようとするジョセに、ユノーはあわてて言った。「とんでもありません。僕……小官たちは勝手に動いただけですので……」 ついでシグマもこう付け加える。「そうだよ。オレ達、単に大将を助けたかっただけで……」 二人の言葉に、だがなぜかジョセの顔には苦渋の表情が浮かんでいる。「いいえ。何もできず、弟子を奪われるなど、これ以上ない失態です」「……『殺すなかれ』は神官の本分。致し方ないことではありませんか?」 遠慮がちに言うシモーネに、だがジョセは目を伏せ首を左右に振り、苦しげにこんな言葉を口にした。「我々は一体、何のために剣を持つのか。それを改めて考えさせられました。大切な存在を守れずして、何が騎士かと」 除名の処分を受けてでも、大司祭やシエルを守るために剣を振るうべきだった。 そう言い拳を握るジョセの姿に、一同は思わず押し黙る。 延々と続きそうな重苦しい沈黙を破ったのは、先程から無言で立ち尽くしていたペドロだった。「……実は、昔シエルが正気をどのようにして取り戻したのかを聞くことができたのですが、それを取りに行こうとして、ジョセ卿にみつかってしまったんです」 正気を取り戻させた鍵となったものが存在したと言うわけだ。 ジョセはうなずき、懐からあるものを取り出した。 卓の上に置かれたそれは他でもない、常にシエルと共にあった古びた短剣だった。「彼の失われた家族の、唯一と言ってもいい形見です。殿下がこれを見せたとき、シエルは突如として正気を取り戻したらしいです」 ペドロの言葉に、一同は鍵となるかもしれない短剣をじっと見つめた。「今の状況では、これに賭けるしかありません。ペドロから聞く限りでは、おそらくシエルには祈りの言葉は届かないでしょう」『あの時』もそうでした、とジョセは悲しげに告げる。 
last updateLast Updated : 2025-12-04
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─24─ 攻防

「……確かにこれは父上の字に間違いない。けれど、それにしても……」  フリッツ公イディオットが持参した件の日記帳を一読したミレダは、ことの真実を知り深々とため息をついた。  無理もない、妻の侍女を見初め関係を持ち、それが妻に知られそうになったため弟に押し付けたのだから。  けれど、予想通りの反応だったのだろう、イディオットは苦笑いを浮かべている。 「誰もが聖人君子というわけではありませんよ。こと、先帝陛下は婚礼当日までお相手の顔を見ることがなかったそうではないですか」 「確かに、そうだったらしいけれど……」  未だに納得のいかないような表情で、ミレダは目の前のイディオットをじっと見つめている。 「いかがなさいました?」  思わず首をかしげるイディオットに、ミレダはためらいがちに問う 「この間、従兄殿は心に決めた女性以外は后にするつもりはないと言っていたけれど、それは……」 「ああ、その言葉には嘘偽りはありませんよ」  即答し、にっこりと笑うイディオットに、ミレダは安堵の息をつく。  そして日記帳を閉じるとイディオットに向けて差し出した。 「議会を黙らせるにはこれで充分だろう。でも、そうすると従兄殿は……」  皇帝に即位しなければならなくなる。  そう不安げな視線を向けられて、イディオットは日記帳を受け取りながら答えた。 「証拠が出た以上、従わざるを得ないでしょう。それに、皇家の重さをお二人に背負わせてしまったという引け目もありますし」  本来ならば妾腹の生まれではあるが、男子である自分が矢面に立つべきだったのに。  そういうイディオットに、ミレダは首を左右に振る。 「いや。万一従兄殿が兄として生まれていたら、今頃は……」  先帝の皇后は美しく聡明で家柄も良いのだが、唯一の欠点がその嫉妬心の強さだった。  正妃である自分よりも先に妾腹の子が生まれるとあってはどうなるか、想像に固くない。  だからこそ先帝は自らの子を身ごもった侍女を弟に娶らせ、二人の命を守ろうとしたわけだ。  やれやれとでも言うように息をついてから、ミレダは足を組み直す。  そして上目遣いにイディオットを見やると、おもむろにこう切り出した。 「……ところで従兄殿、私に隠れて一体何をしているんだ?」  突然今までとはうって変わった鋭い口調でミレダから問
last updateLast Updated : 2025-12-06
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