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第144話

Author: 青山米子
家路を辿る途中、まだ自宅にも着かないうちに、言吾から電話がかかってきた。

「一葉、何もそこまでしなくてもいいじゃないか……」

言葉を濁してはいたが、その疲弊しきった声色で、彼が何を言いたいのかは手に取るように分かった。

優花が、待ちきれんとばかりに彼に泣きついたのだろう。

そして彼は今、愛する幼馴染のため、そしてかつての義母のために、一葉を諌めようとしているのだ。

一葉は冷ややかに笑った。「私が、どうしてもこうしたいと言ったら?」

言吾は、いっそう声を弱らせて懇願する。「一葉、どう言おうとだな……」

彼が言い終える前に、一葉は冷たく遮った。「『どう言おうと彼女は私の幼馴染だ』なんて、聞きたくもないわ。あなたが彼女を可愛い幼馴染だと思うのは勝手。でも、私にそれを押し付けないで」

その言葉を聞くと、虫唾が走る。

「彼女は幼馴染なのだから」――その一言で、彼女が犯したすべての罪が見逃されるべきだとでも言うのだろうか。

「一葉、過去のことは、すべて誤解だったんだ。だから、もう水に流してはくれないか?」

「流せないわ。あれは誤解なんかじゃない、明確な悪意をもって仕組まれた罠よ。私は、過去のすべてを追及する。あなたがそれに耐えられるなら耐えればいい。耐えられないなら……優花を選びなさい」

なおも何かを言おうとしていた言吾が、ぴたりと口を噤んだ。

彼も分かっているのだ。優花を選ぶことが、すなわち全財産を失い、一葉と離婚することを意味するのだと。

そして、おそらく気づいたのだろう。一葉がなぜ、ここまで頑なに優花を追い詰めるのか。

これは、彼に離婚を決断させるための、最後通牒なのだ。

長い沈黙の後、電話の向こうから、痛々しいほど傷ついた声が聞こえた。「……一葉。君は、そんなにも俺と離婚したいのか?」

一葉は、一瞬の迷いもなく答えた。「ええ」

その、あまりにも簡潔な肯定の言葉は、まるで冷え切った刃のように、電話の向こうにいる男の心臓を深々と貫いたに違いなかった。

痛みのあまり、息もできなくなるほどの、決定的な一撃。

彼が次に何かを言う前に、一葉は無慈悲に通話を切った。

今の彼女の心は、分厚い氷の下に沈んだ石のように、どこまでも冷たく、硬かった。

家に帰れば、すぐにでも風呂に入って眠れるものだと思っていた。

しかし、玄関の前に門番のように立つ
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