優花の心にあるのは、ただ一つの目的だった。言吾に自分を庇護させ、彼の力で、あの女――一葉を完膚なきまでに叩き潰させること。そのための涙であり、訴えだった。以前の言吾であれば、優花がこれほど打ちひしがれている姿を見れば、迷うことなく一葉に詰め寄り、罰を与えていたに違いない。だが、今の彼にそれはできなかった。一つには、一葉との関係修復を心の底から望んでいるが故に、これ以上彼女を失望させるような行動は取れない。そして二つ目には……こうして白日の下に晒された事実を改めて考えると、いくつかの点に疑念を抱かざるを得ないのだ。彼は愚か者ではない。むしろ、並外れて頭の切れる男だ。優花への盲信が消え去った今、考えればすぐに分かる矛盾がいくつも浮かび上がる。そのせいで、彼が優花に向ける視線には、知らず知らずのうちに複雑な色が混じっていた。したがって、言吾は優花を庇って一葉を責めるどころか、彼女の腕を掴むと、無理やりその場から連れ出した。プライドが高く、人一倍自尊心の強い彼には、周囲から向けられる憐れみと軽蔑の視線に耐えられなかったのだ。その様子を見送りながら、一葉は確信していた。きっと、そうなのだ。彼が世間の目に耐えきれず、優花が実の父親と関係を持った女だという事実を受け入れられないからこそ、異常なまでに彼女を甘やかし、溺愛し、庇護してきた。にもかかわらず、彼自身は彼女を愛していないと思い込んでいるのだ、と。個室に入って席に着くと、一葉は旭に向かって、申し訳なさそうに微笑みかけた。とんだ災難だった。彼まで巻き込んであらぬ疑いをかけさせてしまい、食事の前にかえって嫌な思いをさせてしまった。「若い頃の過ちよ。人を見る目がなかっただけ。今、別れようと頑張ってるところなの」その言葉に、目の前の精悍な青年はふと目を伏せる。長い睫毛が影を落とし、その表情から感情を読み取ることはできなかった。彼は静かに一葉の湯呑みにお茶を注ぐと、ぽつりと言った。「なんで『頑張ってる』んだ?あいつが離婚したくないってごねてるのか?」言吾との現在の状況を思うと、一葉は思わずため息を漏らした。「彼がごねているのもあるし……私の方も、すぐには別れられない事情があるのよ」言吾の仕掛けた罠は、それほどまでに悪辣だった。旭は、的確に核心を突いてく
言吾が、まるで獲物を睨むかのように旭を見据えている。その刺すような視線に気づき、一葉は本能的に一歩前へ踏み出し、旭の前に立ちはだかった。見違えるほど逞しくなったとはいえ、この子は守るべき大切な存在に変わりない。自分の問題に巻き込んで、彼を傷つけるわけにはいかないのだ。一葉の、あからさまに旭を庇うその仕草は、言吾の瞳をみるみるうちに赤くさせた。長年、何があっても自分の味方だと信じて疑わなかった妻が、今、どこの馬の骨とも知れぬ若い男を守るため、自分と真っ向から対峙している。その信じがたい光景が、彼の心を激しく揺さぶっていた。「一葉、お前……ッ」怒りに任せて声を荒らげようとした言吾だったが、その言葉は続かなかった。そもそも、過ちを犯したのは自分の方だと思い至り、彼の声は一瞬にして力を失う。「……一葉。俺は、あいつに何かしようとなんて思ってない」「何もしないつもりなら、あなたたちはあなたたちで、私たちは私たちで食事をするわ」冷たく言い放ち、一葉は旭を促して予約していた個室へと踵を返した。藤堂弁護士の言葉が脳裏をよぎる。彼を訴える決定的な証拠を掴むには、この一触即発の関係を少しでも和らげるべきだ、と。しかし、自分をあれほど巧妙に、そして冷酷に陥れた男だ。憎しみで腸が煮え繰り返る思いがするのに、どうして冷静でいられよう。彼と和やかに言葉を交わすなど……少なくとも、今の感情では到底できそうになかった。何かを言いかけた言吾だったが、自分の腕に縋りつく優花の姿を見て、言葉を飲み込んだ。彼女が隣にいる限り、何を言っても無駄だ。その事実は、言吾自身が一番よく分かっていたのだ。優花を遠ざけ、彼女との関係を完全に断ち切らない限り、一葉との間に平穏が訪れることはないだろう。一葉が他の男と一緒にいる光景は、確かに嫉妬で胸をざわつかせた。しかし、それでも彼は一葉という人間の品性を信じている。夫婦である限り、彼女が道を踏み外すようなことは決してしないし、他の男を本気で近づけたりはしないはずだ、と。だから言吾はそれ以上何も言わず、その場を去ろうとした。だが、優花が一葉を見逃すはずがなかった。彼女はわざとレストラン中に響き渡るような大声で叫んだ。「お姉さん、いつの間にそんな『弟』ができたのかしらぁ?」「私もお姉さんと
どうせその金も、右のポケットから左のポケットへ移しただけの、見せかけに過ぎないのだから。一葉の疑いの眼差しに気づいたのか、言吾は必死に言い募った。「これは俺が肩代わりしたんじゃない!全部、優花が自分で用意した金なんだ!」その言葉が落ちるのと同時に、まるで刃のような殺意のこもった視線が、優花から一葉へと突き刺さった。その眼差しから、一葉は悟る。この金は、本当に彼女が自ら工面したものなのかもしれない、と。一葉は意外に思い、軽く眉を動かした。あれほど金に執着する優花が、一度手にした金を素直に手放すとは……言吾がさらに何か弁明しようとするより早く、優花の甲高い声がレストランの空気を切り裂いた。彼女は、一葉の隣に立つ旭をまっすぐに指差す。「お姉さん、その男は誰?もしかして、そいつがいるから、そんなに言吾さんとの離婚を望んでるわけ?」得意の責任転嫁だった。たったひと言で、二人の関係が破綻した原因のすべてを、一葉の不貞という形でなすりつけようとする。その言葉で、言吾もようやく一葉の隣に立つ旭の存在をはっきりと認識したようだった。そして、旭が一葉のバッグを手にしているのを見た瞬間、彼の端正な顔からすっと表情が消える。さっきまで必死に許しを乞うていた瞳が、一瞬にして恐ろしいほど冷酷な光を宿した。「一葉……そいつは、誰だ」言吾の脳裏に、目の前の光景が焼き付く。一葉という女は、他人との間に決して侵させない境界線を引く女だ。異性の友人に、自分のバッグを持たせるような気安さを、彼女が見せるはずがない。彼はそれを、誰よりも知っている。それなのに、今。この見知らぬ若い男は、平然と彼女のバッグをその手に提げている。その詰問するような声色に、一葉はこらえきれず、ふっと笑い声を漏らした。「言吾、あなたに私をそんなふうに問い詰める資格があるとでも思っているの?」反射的に何か言い返そうとした言吾。しかし、彼女の射抜くような嘲りの視線を受けて、言葉に詰まった。こちらはただバッグを持ってもらっただけ。それなのに、まるで不貞でも働いたかのように激昂するなんて。自分と優花の親密すぎる関係を棚に上げて、よくも言えたものだ。そのあまりの身勝手さに、一葉の胸中を渦巻いていた怒りは、いつしか冷え冷えとした諦観へと変わっていた。「お姉さ
駐車場に着き、一葉が運転席に乗り込もうとすると、トランクに荷物を入れ終えた旭がさっと前に回り込んだ。「姉さん、オレが運転するよ」一葉は面白そうに眉を上げる。「あら、どうして?私の運転じゃ信用できないってわけ?」悪戯っぽくからかうと、旭はにっと笑った。「まさか。こんな良い車、乗ったことないからさ。運転してみたくて、羨ましかったんだよ」男の子は本当に車が好きなのだなと微笑ましく思い、一葉は素直に助手席へと回り込んだ。車が走り出すと、護衛の隊長から入電があった。すべて手筈通りに進んでいる、との報告だった。「……ええ。でも、くれぐれも気をつけて。皆さんの安全が第一よ」空港へ来る際に乗っていた車は、今頃、護衛チームが運転し、尾行者たちを引きつける囮となっているはずだ。敵が仕掛けてきた瞬間を狙い、一網打尽にする――「袋のネズミ」を捕らえるための作戦。彼らはプロフェッショナルだが、それでも心配は尽きない。通話を終えると、ハンドルを握る旭がルームミラー越しにちらりと視線を送ってきた。「姉さん、『みんなの安全が第一』って……何かあったの?」「ううん、なんでもない。ちょっとした用事よ」一葉が微笑んでそう答えると、旭はそれ以上何も尋ねなかった。自宅に着く頃には、手配しておいた向かいの部屋の準備は、アシスタントがすべて済ませてくれていた。旭に、歓迎されていないと誤解されないよう、一葉は丁寧に説明する。「ごめんね、姉さん今、結婚してるから、さすがに一緒には住めないの」「でも、あなたの部屋は真向かいだから。すごく近いでしょ?何かあったらいつでもすぐに来られるから、何も怖がることはないわ」「うん、わかった。ありがとう、姉さん」旭は、実に素直に頷いた。その様子に何のわだかまりもないことを感じて、一葉は安堵する。昔の癖で、よくやったと褒めるように、彼の頭を撫でようと手を伸ばした。だが、その手は空を切る。彼の頭は、もう、昔のように簡単には届かない場所にあった。一葉が何をしようとしたのか、すぐに察したのだろう。長身の青年は、ふっと笑みを浮かべると、すっと腰を屈め、彼女の手が届くようにその頭を優しく差し出した。その、昔と少しも変わらない素直で愛らしい仕草に、彼との間に感じていた八年分の隔たりが、ふっと溶けていくような気がした。
――違う。十数年ではない。負った傷のせいか、あまりに長い年月が過ぎ去ったような錯覚に陥っていたが、よく考えれば、彼が高校一年で実家に戻ってから、まだ八年しか経っていない。「オレだよ、姉さん」人の心を惑わす魔性的な美貌を持ちながら、旭はまるで自らの持つその破壊力に無自覚であるかのように、無垢で、人懐っこい笑みを浮かべた。その笑顔を見て、一葉は深く感嘆の息を漏らす。男の子というのは、本当に化けるものだ。以前の彼は、まだ背も低く、食べ盛りのせいで少しふっくらとしていて、思春期特有のニキビが顔を出しているような、ごく普通の少年だった。今の彼と昔の彼とでは、面影があるのは、その真っ直ぐな瞳くらいのものだ。先ほどまでサングラスをかけていたのだから、気づけなかったのも無理はない。高校時代の三年間、一葉はほとんどの時間を親友である千陽の家で過ごしたため、旭のことは弟のように見守ってきた。昔は、それなりに親しかったはずだ。だが、八年という歳月は、やはり二人の間に確かな隔たりを生んでいた。かつてのような気安さを、すぐには思い出せそうになかった。彼の驚くべき変貌への感嘆が落ち着くと、八年という歳月がもたらした気まずい沈黙が二人の間に流れた。一葉は、ひとまず彼の滞在先を尋ね、そこまで送ってから食事にしようと口を開きかけた。その時だった。「姉さん、早く帰ろうよ。十何時間も飛行機に乗ってたから、もうくたくただよ」まるで八年間の空白などなかったかのように、旭は昔と変わらない親密さで一葉に甘えてみせる。だが、一葉の方はと言えば…………帰る?どこへ?戸惑う彼女の思考を遮るように、親友の千陽から電話がかかってきた。「一葉ちゃん!ごめん言い忘れたけど、うちの弟、あんたの家に住まわせるからね!」「……は?」「あの子、知ってるでしょ?超がつく人見知りで臆病だから、寮生活は無理だし、一人暮らしもできないのよ!だからお願い!戻ったら豪華ディナー奢るから!」一方的にまくし立てられ、一葉は言葉を失う。確かに、そうだった。幼い頃に何かあったのか、この子はひどい人見知りで、普通なら友達とつるんで手がつけられないほどやんちゃな十三、四の頃でさえ、不登校気味で家に引きこもり、誰とも交流しようとしなかった。一人でいるのが平気かと思
だが、その突き刺さるような視線に気づくまで、そう時間はかからなかった。そして、一葉が高額で雇ったボディガードたちは、彼女よりも早くその不穏な気配を察知していた。インカム越しに寄せられた報告は、簡潔かつ的確だった。例の集団は、一葉が家を出た瞬間から尾行を続けており、敵対的な意図を持つ者と見て間違いない、と。報告を聞き、一葉はすっと眉を動かす。やはり……あの優花が、あれほどの屈辱を受けて黙っているはずがない。一葉があそこまで優花を追い詰めたのは、単に言吾との離婚を成立させるためだけではない。本当の目的は、精神的に追い詰めた優花に、再び自分を襲撃させること。最初の襲撃に関わった水嶋秘書の尻尾がどうしても掴めない以上、二度目の犯行、その動かぬ証拠を押さえるしかない。彼女が過去に犯した罪の代償は、必ずその手で支払わせる……!元より優花は、一葉の死を望んでいる。そこへもってきて、これ以上ないほどの恥辱を与えられれば、その殺意はより一層、燃え盛るはず。手段を選ばず、必ずや次の手を打ってくると読んでいた。案の定。彼女は、まんまとこの罠にかかったのだ。一葉はスマートフォンを取り出し、画面を覗き込むふりをしながら、インカメラで周囲の様子をさりげなく窺った。――一人、ではない。挙動不審な人影が複数、そこかしこに散らばっているのが見て取れた。ふっ、と一葉の口元から冷たい笑みが漏れる――『心から愛している』『君を失うことなどできない』……あの男、深水言吾はそう繰り返した。それなのに。春花を海外へ送るという約束も、彼女に渡した大金を返させるという約束も、なにひとつ守られてはいないじゃない。それどころか、言吾が与え続ける金で、あの女は殺し屋を雇い、この私を殺そうとしている。……これが、彼の言う「真実の愛」?笑わせないでほしい。馬鹿馬鹿しいにもほどがあるわ。まさか、優花が私を殺そうとしているなんて知らなかった、とでも言うつもりかしら。そんな言い訳が通用するはずがない。第一、この私を殺すために殺し屋を雇った水嶋秘書が逃亡しているというのに、あれほど親密だった優花との関係を、言吾のあの怜悧な頭脳と獣じみた勘が見抜けないはずがないのだから。優花が水嶋と共謀して私を殺そうとした可能性に気づいていながら、それでも