All Chapters of 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた: Chapter 181 - Chapter 190

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第181話

彼の口からほとばしったのは、抑えきれない怒声だった。だが、その怒りは言吾自身に向けられたものでも、彼を止められなかった部下たちの不手際を責めるものでもない。ただ一人、崖から身を投げたはずの一葉へと向けられていた。「あの疫病神が……!死ぬなら勝手に一人で死にやがれ!なんで言吾さんまで巻き込むんだ!」見つけ次第、ただではおかない。その殺気立った罵声に、一葉はさらに身を固くした。洞穴から出るわけにはいかない。絶対に。呼吸の音すら殺し、全神経を研ぎ澄ませて気配を探る。自分が飛び降りた(と彼らが信じ込んでいる)だけで、これほどの憎悪を向けられているのだ。もし、自分が無傷でここにいることが知られ、一方で彼の敬愛する兄貴が崖から落ちて生死不明だなどと知られたら、隼人がどう出るか。想像するだけで、全身の血が凍るようだった。幸いにも、隼人の意識は言吾の安否にしか向いていなかった。彼は悪態をつきながらも、すぐさま救助活動を指揮するため、再びヘリへと駆け足で戻っていった。崖の上の喧騒が完全に静まり返ったのを息を殺して待ち、一葉はようやく、こわばりきった体をゆっくりと動かし始めた。そして、崖とは反対の斜面を、一歩一歩、慎重に下りていく。陽が落ちるにつれ、気温は急激に下がり、容赦のない寒風が肌を刺すように吹き付けた。崖から飛び降りたように見せかけるため、自ら切り裂いたダウンジャケットの破れ目からは、風に煽られるたびに中から白い羽毛が抜け落ちていく。その羽はまるで、彼女の命が少しずつ零れ落ちていくかのように、ひらひらと闇に舞っては消えた。やがて、背中の生地は薄い裏地一枚きりになり、凍てつく空気が直接肌にまとわりつく。状況は絶望的だった。だが、彼女の心を満たしていたのは不思議な安堵感だけだった。生きている。ただそれだけで、今は十分だった。崖の上から、遠くに高層ビル群のシルエットが見えた。ビルがあるということは、そこに街があり、人がいるということだ。山を下りたら、あの光を目指して歩けばいい。しかし、山中で見る景色ほど当てにならないものはない。歩いても、歩いても、歩いても、周囲は深い闇に閉ざされたまま。街の灯りは一向に近づいてこず、希望の光は見えてこなかった。泣きっ面に蜂とは、このことだろうか。い
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第182話

一葉が崖から身を投げたと聞いた瞬間、言吾の頭の中は真っ白になった。自分の計画は完璧で、絶対に問題は起きないと、あれほど彼女に豪語したというのに。その計画は破綻し、あまつさえ彼女を崖から飛び降りるまでに追い詰めてしまった。自分は……脳が思考を拒絶し、ズン、と重い衝撃だけが響く。終わった。何もかも、すべて。一葉はもう二度と、自分を許しはしないだろう。ただでさえ、自分たちの関係は粉々に砕け散っていたというのに、さらにこんなことになってしまっては。……いや、そんなことはどうでもいい。問題はそこではない。彼女は極度の寒がりだ。こんな凍える日に、あれほど冷たい水の中に飛び込んで、彼女の体が耐えられるはずがない。以前、プールに落ちただけで溺れかけた彼女の姿が、脳裏に焼き付いて離れない。言吾は、ほとんど無意識のうちに崖下へ身を躍らせていた。彼女を見つけるには、これが一番早く、確実な方法だと信じて。この崖は、それほど高くはない。登ってきた斜面は険しかったが、こちら側は緩やかで、谷底よりも標高が高い。水深も十分にあるはずだ。寒ささえ乗り切れば、命に別状はない。その程度の高さだ、溺れる心配さえなければ、きっと助かる。彼はそう信じて疑わなかった。だが、実際に水面に叩きつけられた瞬間、彼は己の考えがいかに甘かったかを思い知る。その程度の高さ、ではなかった。常軌を逸した高度からの着水。それは水に飛び込むというより、固いコンクリートの壁に全身を叩きつけられるような、凄まじい衝撃だった。一瞬、脳が揺さぶられ、意識が飛びそうになる。自分ですらこの有様なのだ。自分よりも遥かに華奢な彼女が、この衝撃に耐えられたのだろうか。その想像が、言吾の全身を恐怖で震わせた。ふと、彼の脳裏に別の光景が過る。以前、拉致犯に二者択一を迫られた、あの崖。ここよりも、さらに高かったはずだ……その事実が、言吾の心臓をさらに締め付けた。自分はあまりにも彼女を軽んじ、無関心でいすぎた。その油断と傲慢さが、ごく基本的な常識さえも彼から奪っていたのだ。高さだけを雑に見積もり、あの程度の高さなら水に落ちても死にはしない、彼女は泳げるのだから、と。それ以上のことを、彼は考えようともしなかった。あれほどの高さから叩きつけら
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第183話

なのに……そんな病院嫌いの彼女が、優花を追い出すためだけに、重傷を装って病院に居座っているのだと、自分は本気で信じていたのだ。この瞬間の彼は、己を愚かだと感じていた。どうしようもなく、救いようもなく。まるで脳みそが、どこかへ消えてしまったかのような、愚か者だと。一体、自分はどうしてしまったのだろう。あれほど病院を嫌っていた一葉が、三ヶ月以上も家に帰らずに居座り続けるなどという馬鹿げた話を、なぜ自分は信じてしまったのか。崖から落ちた彼女を捜索させた際、水嶋が「奥様はご無事です」と報告してきたからか。それなのに彼女は、優花への謝罪を拒絶し、逆上して電話口で罵詈雑言を浴びせてきたと聞いたからか。それとも、見舞いに行った優花が、逆に一葉に殴られて気を失ったと泣きついてきたからか。あるいは、彼女の両親が「一葉は何ともない、放っておけば飽きて騒ぐのもやめる」と、そう告げてきたからか。そうだ、彼らのせいだ。本当に、心の底から、すべての責任を彼らに押し付けてしまいたかった。自分は、一葉に近しい人間たちの言葉に、惑わされただけなのだと。すべての過ちは、彼らにあるのだと。そう思いたかった。だが、できなかった。彼には分かっていた。はっきりと、分かっていたのだ。元凶は、他の誰でもない、自分自身だと。本能的に彼女を信じなかったのは、彼自身だった。だからこそ、周りの人間が吹き込む彼女への悪評を、いとも容易く信じ込んだ。あまりにも傲慢で、脆い自尊心を持っていたせいだ。出会いそのものが、彼女が仕掛けた罠だったという思い込み。狩人が獲物を陥れるように、自分は計算ずくで愛させられたのだという被害妄想に耐え切れず、彼女を苦しめたいと願った。だから、周囲の人間が彼女を虐げ、辱めるのを黙認した。優花が執拗に彼女を陥れ、貶めるのを、見て見ぬふりをした。決して、彼女を信じようとしなかった。たとえ、ミイラのように包帯でぐるぐる巻きにされ、ガーゼから生々しい血が滲んでいるのをその目で見てもなお、彼女が本当に傷ついているという事実から目を逸らし続けた。愛しているのに、うまく愛せない。憎んでいるのに、手放せない。そんな矛盾した感情のままに、彼女を追い詰めた。そうだ。すべて、自分のせいだ。すべて、この俺の、過ちだったのだ―
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第184話

一葉は彼を見つめ、心からの笑みを返す。「大丈夫よ、すごく元気」生きていること以上に素晴らしいことなど、この世にはない。再び目を開け、呼吸ができる。その単純な事実が、彼女の心を純粋な喜びに満たしていた。体の隅々まで、温かい血が巡っている感覚が本当に心地よかった。数年間、共に過ごしただけあって、旭は彼女のことをよく理解していた。彼女がなぜ笑っているのか、その理由をすぐに察したのだろう。それが作り笑いではなく、心からの喜びから来るものだと分かると、彼もまた、安堵したように柔らかな笑みを浮かべた。一葉の興奮が少し落ち着くのを待って、旭が再び口を開く。「姉さん、お粥、食べる?」丸一日以上何も口にしていなかった彼女は、生還の喜びに続いて、強烈な空腹感を覚えていた。こくこくと、子どものように何度も力強く頷いてみせる。旭はそんな彼女の様子に楽しそうに笑い、サイドテーブルに置かれた保温ポットから、温かい粥を椀によそった。生死の境を一度でも彷徨えば、分かることがある。人生で最も大切なのは、生きていること。そして二番目に大切なのは、温かい食事でお腹を満たすことだ。とろりとした粥が胃に流れ込むと、体の芯から命が蘇ってくるような感覚がした。一葉は心地よさに、思わず満足のため息と共に目を細める。その満ち足りた表情を見て、旭の口元の笑みも、自然と深まっていった。腹も心も満たされ、人心地がついたところで、一葉はふと疑問を口にした。「旭くん、どうやって私を見つけたの?」意識を失う直前、誰かが自分を呼ぶ声を聞いた。それはとても聞き慣れた、旭の声によく似ていた。あの時は死の間際の幻聴だと思ったが、今こうして目の前に彼がいるということは、あれは幻ではなかったのだ。しかし、まだ学生である彼が、自分と連絡が取れないというだけで、夜中にあの荒れ山まで探しに来られるものだろうか。一体どうやって。しかも、正確に自分の居場所を突き止めるなど、普通に考えてできることではない。旭は、彼女が食べ終えた椀を片付けながら、落ち着いた声で答えた。「警察の人たちと一緒だったんだ。姉さんを見つけたのは。姉さんに電話が繋がらなくなって、何だかすごく嫌な予感がしたから、警察に通報したんだ。そしたら、警察の方でちょうど無言の通報があって、そ
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第185話

柳警部が去った後も、一葉は退院を急がなかった。以前の彼女であれば、動けるようになればすぐにでも病院を抜け出していたはずだ。だが、医師からの入院観察の勧めを、彼女は素直に受け入れた。再び死の淵を彷徨い、それも、これほどまでに捻じれた生死の狭間を経験したことで、何よりも「生きていること」、そして「健康に生きていること」が重要だと痛感していた。健康に生きられることに比べれば、多少の不快感など、いくらでも我慢できた。彼女の身体は、やはり以前と同じではなかった。目覚めてからたいして時間も経っていないというのに、すぐにまた疲労を覚え、とろとろと眠気が襲ってくる。旭は、彼女の疲労を見て取った。「眠いなら、無理せず寝なよ」医者も、今はとにかく休養が必要だと言っていた。安心して眠ってほしい、と。「大丈夫。オレがずっとここにいるから」そう言って、彼は真っ直ぐに彼女を見つめる。その眼差しには不思議な力があり、そこにいるだけで無条件に安心させられるような、頼もしさがあった。かつては臆病で、停電しただけで一人では眠れなかったあの旭が、今ではすっかり臆病風を克服したばかりか、真冬の吹雪の夜に人命救助に駆けつけるほどになり、こんなにも頼もしく、立派に成長したのだ。一葉は愛おしさが込み上げ、思わず彼の頭を優しく撫でた。「うちの旭くんは、本当に大きくなったわね。お姉ちゃんを助けてくれたから、あなたに一つ願い事を許してあげる。将来、欲しいものができたら何でも言いなさい」旭は事もなげに話していたが、彼女には分かっていた。救出がいかに過酷な状況下で行われたかを。彼のあの執念がなければ、自分は今頃、あの荒れ山の雪の中で、とっくに冷たくなっていたことだろう。旭は素直に腰をかがめ、一葉が自分の綺麗な髪をくしゃくしゃにするのを、されるがままになっていた。将来、欲しいものは何でも叶えてやる、という彼女の言葉を聞いた途端、彼の目は瞬時に輝きを増す。まるで、骨を見つけ出した大きな子犬のようだった。そのあまりに無邪気な様子に、一葉は思わず笑みをこぼした。どれだけ大きくなっても、この子は結局、昔のままなのだ。ご褒美を約束されると、キラキラと目を輝かせるところが。以前、旭が自身の恐怖を乗り越えるたびに、一葉はいつも褒美として、彼が
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第186話

確かに、大手術には家族の同意書が必要だと言われることが多い。だが、緊急を要する場合、その限りではない。現に、あの時の自分がそうだったではないか。誰もサインをする者がいない状況で、病院は緊急の合同手術を行い、自分の命を繋ぎ止めた。ましてや今の言吾には、身元を保証し、手続きの一切を引き受けてくれる隼人と蓮がついている。知る者が誰一人いなかった、あの時の自分とは比べ物にならないほど恵まれている。だから、一葉の心に罪悪感など微塵もなかった。この判断が彼の死に繋がるかもしれないなどという懸念も、一切抱いていない。あれほどの重傷を負った自分が死ななかったのだ。彼が、この程度で死ぬはずがない。そして、その予想は的中した。彼の容体は、まさに一葉が予測した通りだったらしい。手術は無事に成功し、命に別状はないという。一葉がその事実を知るに至ったのは、他でもない。言吾の親友である蓮が、罵詈雑言を吐き散らすために病室まで怒鳴り込んできたからだった。彼が病室のドアを乱暴に開け放った時、一葉はベッドの上で、温かいチキンスープをゆっくりと味わっていた。旭の気遣いは、実に細やかだった。一葉の好みをわざわざ尋ねずとも、彼が用意する食事はいつも彼女の口にぴったりと合う。本当に頼りになる弟へと成長したものだ。手術への立ち会いを断っておきながら、当の本人がここで悠然とスープを啜っている。その光景は、もとより腹の虫が治まらなかった蓮の怒りに、火に油を注ぐ結果となった。「青山一葉ッ、この悪女が!言吾はお前を助けようとして、怪我したんだぞ!なのにてめえ、なんて非道い真似を……!手術のサインすら断りやがって!」蓮には到底、理解できないだろう。彼女がどれほど「非道」になれるのか。手術の同意書。それは確かに重要なものだ。ましてや、彼は自分を助けようとして重傷を負ったのだから、妻であれば駆けつけないはずがない――常識で考えれば、だが。「元々ろくな女じゃないとは思ってたが、ここまで外道だったとはな!覚えとけよ一葉、このままじゃ済まさねえからな!これは立派な殺人未遂だ!もし言吾が目を覚まさなかったら、てめえを刑務所にぶち込んでやる!」蓮は言吾の幼馴染であり、上辺だけの付き合いの友人たちとは違う。心の底から彼の身を案じているのだ。だか
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第187話

言吾が何の躊躇もなく一葉を差し出して、優花を救おうとした光景が、蓮の脳裏をよぎる。途端に、彼はまた言葉を失った。その時だった。「優花ちゃんが攫われて、危険な目に遭ってたんだぞ。あんたが助けに行くのが当然だろうが。それが筋ってもんだろ?一葉、てめえが被害者みたいな顔すんじゃねえよ。そもそもあんたが最初に優花ちゃんに酷いことしなきゃ、言吾さんも俺たちも勘違いなんかするわけなかったんだ。あんたが受けた仕打ちは全部、当然の報いなんだよ!」病室に踏み込んできた隼人はそう言い放つと、傍らの蓮を鋭く一瞥した。この性悪女一人に言い負かされるとは、とんだ役立たずだ――その視線は、雄弁にそう語っていた。隼人も蓮も、言吾の幼馴染だ。つまりは、彼らは優花とも幼い頃からの付き合いということになる。言吾が優花を掌中の珠のように可愛がっていたから、彼らもまた、優花を実の妹同然に扱ってきた。彼らの歪んだ正義を前に、一葉の脳裏にはこれまでの屈辱的な日々が次々と蘇ってくる。優花は常々、義理の姉である自分がどれだけ彼女を虐げているかと、彼らに涙ながらに訴えていた。一葉を悪者に仕立て上げることで自らの悲劇性を演出し、彼らの同情を一身に集めていたのだ。だから彼らは、一葉が言吾と知り合うずっと前から、優花の義姉を心底憎んでいた。一葉が言吾と付き合い始めた当初、彼らはまだ敬意を払い、「一葉さん」と呼んでいた。だが、彼女こそが、あの優花を苦しめていた「性悪な義姉」その人だと知るや否や、その態度は一変した。こんな悪女が、言吾に相応しいはずがない、と。以前は言吾がいた手前、あからさまな態度は取れず、陰で悪口を言う程度だった。しかし、例の「薬物混入ビデオ」の一件で言吾の態度が豹変してからは、彼らはまるで檻から解き放たれた獣のように、一葉を攻撃し、貶め、辱めるようになった。彼らにとって、一葉がどんな目に遭おうと、それはすべて自業自得。犬畜生にも劣る、死んで当然の存在なのだ。かつての自分は、どうしてこんな仕打ちに耐えてこられたのだろうか。今の彼女には、もう一瞬たりとも我慢などできなかった。一葉の口から、冷たい笑いが漏れた。「私が優花に酷いことをしたですって?仮にそうだとしても、断罪されるべきはあなたたちの方じゃないかしら」「あなたたちは
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第188話

だが、彼の指が一葉に触れることはなかった。まるでその瞬間を待っていたかのように、屈強な体躯の男たちが病室へと流れ込み、あっという間に隼人を取り囲んだからだ。彼女が高給で雇った、ボディガードたちである。隼人は眉を顰めた。「一葉、てめえ、何のつもりだ」何のつもり、だと?一葉は冷笑を浮かべ、ボディガードたちに命じた。「叩き出して。安心していいわ、怪我させても責任は私が取るから」かつての自分が、なぜ一人の男を愛したがために、これほどまで自分を殺していたのか。今の彼女には、もう理解できない。今の自分は、やられたら、やり返す。そういう人間だ。彼らから受けた数々の屈辱は、記憶からは薄れていても、あの日記には克明に記されている。受けた分は、一つ残らず、すべて返させてもらう。隼人は信じられないというように目を瞠った。「一葉、てめえ、本気か!」この女は気でも狂ったのだろうか。自分に逆らうばかりか、あろうことか、人を寄越して自分を殴らせるなどと。一葉はもはや彼に言葉をかけることなく、ボディガードたちに視線で実行を促した。彼女にとって、彼らはもはや道端で吠えかかる犬に等しい。犬に吠えられたとて、いちいち吠え返す人間はいない。ただ黙らせるために、棍棒で半殺しにすればいいだけだ。「一葉、てめえ、気でも狂ったのか!正気じゃねえぞ!」隼人と蓮は、屈強な男たちに殴られながら引きずり出されていく道すがらも、呆然と一葉を見つめている。彼らには、今の一葉が狂人か、あるいは何かに憑りつかれた姿にしか見えなかった。そうでなければ、説明がつかない。自分たちが知る彼女は、彼らに強い口調で何かを言うことすらできなかった女だ。あの犬のように卑屈で、言いなりだった女が、こんな風であるはずがない。目の前の光景は、断じてあるべき姿ではなかった。ドアの外へと引きずり出される、まさにその瞬間。隼人はようやく悟ったようだった。目の前の女は、もはや自分の知っている青山一葉ではないのだ、と。それまでの傲慢さや高圧的な態度は消え失せ、彼の口調は懇願するようなものに変わっていた。「一葉……!どんな形であれ、あんたと言吾さんは深く愛し合った仲だったろ。頼む、あいつに会いに行ってやってくれ!あいつは今、ICUにいる。医者が言うには、生きようとする
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第189話

一葉はふと首を傾げた。これほどしっかりしているのに、どうして千陽は「あの子は気弱で人見知りだから寮は無理」なんて言っていたのだろう。自分に預けた理由と、目の前の旭の様子が、どうにも結びつかない。その問いに、旭は途端に言葉に詰まり、気まずそうに視線を彷徨わせた。隼人たちが引きずり出され、ようやく静かになるかと思ったのも束の間だった。旭が返答に窮していると、その答えを遮るように、廊下から今日子の甲高い怒声が響き渡った。「優愛!なんて酷いことをしてくれたの!」一葉は眉をひそめた。旭にドアを閉めてもらおうと思った矢先、今日子が凄まじい剣幕で病室に飛び込んできた。心底、顔も見たくない相手だった。「優愛、よくも!よくも逃げ出してくれたわね!あなたが逃げたせいで、優花ちゃんがどんな目に遭ったか分かってるの!あの子が……あの子が……っ、男たちに……!」今日子は、その先を口にするのもおぞましいというように、わなわなと唇を震わせた。隣に立つ一葉の父──国雄は、もはや言葉もなく、ただ殺意の籠もった目で一葉を睨みつけている。彼らが掌中の珠のように慈しみ、些細なことで傷つくことさえ許さなかった大切な優花。その娘が、誘拐犯たちに蹂躙されたのだ。その事実は、彼らの心臓をえぐるほどの痛みに違いなかった。怒りは当然、逃げ出した一葉へと向かう。この娘さえいなければ。いっそ、生まれた時にその手で絞め殺しておけば、自分たちの宝物がこんな目に遭うことはなかったのに──その顔には、そんな悍ましい後悔と憎悪がはっきりと浮かんでいた。普段は温厚な兄の哲也までもが、今回ばかりは激しい怒りを露わにしていた。「一葉、お前のやったことはあんまりだ!どんな理由があろうと、優花は俺たちの妹だろうが!」「どうして途中で逃げたりしたんだ!お前のせいで、優花はあんな目に……ッ!」彼らにとって、一葉が誘拐犯から逃げ出したことこそが、優花が蹂躙された原因なのだ。言吾が一葉の命を差し出して優花を救おうとしたのは当然のことであり、彼女は黙ってその身を捧げ、彼らの宝物が無事に戻ってくるための生贄になるべきだったのだと──国雄も、今日子も、そして哲也までもが、そう信じて疑っていない。生きるために逃げた。その行為が、彼らの目には「残忍」で「悪辣」で、
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第190話

「優花は昔から体が弱いんだぞ、分かってるのか……今、あの子がどんな状態で……っ」哲也は、心の底から優花を好いているわけではなかった。ただ、実の妹である一葉への抑えきれない嫉妬心から、優花に優しくすることが、妹を苦しめる何よりの手段だと考えていただけなのだ。常に、ただそれだけのために、彼は優花に尽くしてきた。だが。たとえ本心からの愛情でなくとも、彼女のあまりに痛ましい姿を前にして、同情を禁じ得ずにいた。あんなにもか弱く、可憐な少女が、男たちに蹂躙されたのだ。これから一体、どうやって生きていけばいいというのか。その行き場のない憤りは、いつものように一葉へと向けられる。残忍で、人の心がない女だと。同じ女なら、女としての尊厳がどれほど大切なものか分かるはずだろうに。どうして、あんな目に遭わせるような真似ができたのか、と。そんな兄の偽善的な憐憫を目の当たりにして、一葉は思わず冷たい笑いを漏らした。自分が、優花の一生を台無しにした?一体、何をしたというのだろう。優花が自分の命を欲しがった時に、大人しく差し出さなかったから?自分を辱めようとした連中に、なされるがままにならなかったから?自分は聖人君子か何かか。それとも、救いようのない大馬鹿だとでもいうのか。他人に首を差し出せと言われ、黙って差し出す人間がどこにいる。優花が悲惨な目に遭ったのは事実だ。だが、それは一体誰のせいなのか。邪な心で虎と手を組んだ結果、その虎に食われた自業自得ではないのか。どう考えても、この件で自分が責められる筋合いはどこにもない。まともな思考の持ち主なら、誰も自分を責めはしないはずだ。以前の彼女であれば、きっと必死で弁解しただろう。優花が自分の命を狙っていたのだと。逃げなければ、自分も蹂躙された上で殺されていただろうと。今の自分の体は、ほんの少しの傷さえ命取りになりかねないのだと。だが、もう昔の自分ではない。今の彼女に、そんなことを説明する気など毛頭なかった。それに、言ったところで無駄だと分かっている。この家族にとっては、自分が死んででも優花を救うのが「正解」なのだ。何を言おうと、自分は「残忍」で「悪辣」な存在でしかない。だから一葉は何も釈明せず、ふと哲也へと視線を向けた。その声は、氷のように冷え切ってい
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