All Chapters of 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた: Chapter 201 - Chapter 210

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第201話

「あれだけ優しくて、本物だと思ってた愛情が……全部嘘だったんだ。俺をただの放蕩息子に仕立て上げるための、演技だったなんて……実の父親なのに、誰がそんなこと考えられる?あれは俺に、絶対に消えない心の傷を負わせた。おかげで俺は昔みたいに真っ直ぐじゃなくなって、この世の善意なんてものを、本能的に信じられなくなった。気づけば人生そのものを、俺に優しくしてくれる人間をみんな、疑うようになってたんだ。でも俺は、そんな暗い影を必死で心の奥に押し込めてたんだ!お前との出会いや愛は、絶対に本物だって!お前がくれる優しさは、絶対に嘘じゃないって信じようとしてた!だけど、抑えつければつけるほど、反動は大きくなるのかもしれないな……あの日、優花が……お前が優花に薬を盛ったっていう、あのビデオを見せられた時……優花から、『一葉は、あなたを奪うためだけに近づいてきたの。幼馴染だった私を苦しめるために。出会いも恋も、全部あの子が仕組んだことなのよ』って聞かされた時、俺の心は、完全に壊れちまったんだ。無理やり心の底に押し込めてた疑いの種が、一気に芽吹いて……空を覆うほどの、巨大な木になっちまった。お前に何も確かめずに、お前が俺を計算ずくで騙してたんだって決めつけた。親父みたいに、お前の優しさも全部嘘で、俺を馬鹿にしてるんだって。本当は分かってたはずなんだ。お前が俺を本当に愛してくれてることは。でも、当時の俺はきっとこう考えたんだろうな。『始まりは計算づくだったけど、後からうっかり本当に俺を好きになっちまっただけだ』って。もし本当に愛してなかったら、とっくの昔に俺みたいな馬鹿を弄んだ後、さっさと捨ててるはずだからな。そんな可能性を、俺は受け入れられなかった。始まりが愛じゃなくて、計算だったなんて……俺は、お前をあんなに愛してたから。愛してたからこそ、許せなかったんだ……だから、俺は、あんなふうに……」記憶が逆行した言吾は、未来の自分がしでかしたという所業を到底受け入れられずにいる。だが、目の前に突きつけられた事実は、彼が確かにそれを為したのだと告げていた。だから彼は、受け入れるしかなかった。そして、なぜ自分がそんな人間に成り果ててしまったのか、必死にその理由を分析するしかなかったのだ。一葉は、彼の言葉を静かに聞いていた。同じ人間なのだから、彼が
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第202話

言吾が何かを言い返そうとした、その瞬間だった。「一葉っ、あなたって人はなんて酷い人なの!言吾さんはあなたを助けようとして重傷を負ったのよ!それなのに、お見舞いにも一度も来ないばかりか、今度はこんな仕打ちをするなんて!」突如として、優花が二人の間に割って入ってきた。そして彼女は言吾の腕を引き、「言吾さん、こんな女に媚びる必要なんてないわ!離婚したいならさせてあげなさいよ!こんなに冷酷な人、本当はあなたのことなんて愛してなかったのよ!」「本当に愛してたら、あなたにこんなことできるはずがないわ!」優花は、流石に言吾と幼い頃から共に育っただけのことはある。彼の心の急所を、彼女は的確に突いてくる。若き日の言吾であろうと、後の言吾であろうと、彼女の言葉はいつも彼の心を疑念で満たさせ、一葉を疑わせるのだ。優花の言う通り、自分は本気で彼を愛してなんかいないのではないか、と。本当に愛しているのなら、なぜこんな酷い仕打ちができるのか、と。言吾が、まるで「お前は、本当に俺を愛してなんかいないんじゃないか」とでも言いたげな、傷ついた眼差しを一葉に向けた時、彼女は、思わず笑みがこぼれた。彼に心の傷がないかと言われれば、そんなことはないだろう。父親の仕打ちは、あれほど誇り高い男の心を折るには十分すぎる。そうでなければ、人前でここまで自分の心をえぐり出すような真似はしない。だが、心の傷のせいで誰も信じられず、全てを疑ってしまうのかと言えば、それもまた違う。彼はただの一度として、優花を疑ったことがないのだから。優花が何を言っても、彼はそれを信じる。これを真実の愛と言わずして、一体何だと言うのだろうか。一葉は、彼らとこれ以上言葉を交わすのも億劫になり、部屋へ戻ろうと身を翻した。その腕を、不意に優花が掴んだ。「お姉さん……」苛立ちのまま、一葉は反射的にその手を振り払った。怪我を負って以来、彼女は他人にむやみに腕を掴まれることを何よりも嫌っていた。ただ振り払おうとしただけだ。どれほどの力も込めてはいない。だが、優花はまるで突き飛ばされたかのように大袈裟に体勢を崩し、そばの壁へと倒れ込んだ。「ドンッ」という鈍い音が響く。その白い額は、見る間に赤く腫れ上がり、こぶができていた。その音に、今まで死ぬほどの苦悶に喘いでいた言
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第203話

あれが彼の誠意、あれが彼の必死の懇願の正体よ。事実が証明している。どんな誤解があろうとなかろうと、優花に何かあれば、彼は何の躊躇もなく、あなたを捨てていくの。夜になり、優花に大事がないと安心したのだろう。言吾が、またやって来た。しかし、警備員に阻まれて上には来られず、彼は一葉の部屋の窓の真下に立ち尽くしていた。真冬の夜は、凍えるように寒い。とりわけ今夜は猛吹雪で、風は刃物のように肌を刺す。彼は、そんな風雪の中に薄着のまま立っていた。あっという間に、その体は雪に覆われ、まるで生きる雪だるまのようになっていく。それでも彼は、身じろぎ一つせず、そこに立ち続けていた。一葉の部屋に灯りがついているのが見える。彼女が自分を見ていることを、彼は知っていた。そして事実、一葉は彼を見ていた。彼女は、窓際の寝椅子に気怠く体を預け、出来立てのツバメの巣のスープを手に、暖かく快適な部屋から、その姿をただ眺めていたのだ。彼が苦肉の策を使いたいというのなら、好きにさせればいい。この程度の吹雪も寒さも、自分が死にかけたあの山の夜の、万分の一にも及ばない。彼が自分にあれほどの苦しみを味合わせたのだ。少しは元を取らせてもらわなければ、割に合わないではないか。やがて眠気が襲ってきて、一葉は小さくあくびをすると、寝椅子からベッドへと移り、部屋の灯りを消して眠りについた。ここのところ、彼女の眠りの質はすこぶる良かった。その夜、けたたましいサイレンを鳴らして救急車がマンションの敷地内に入ってきて、言吾を運び去っていったことにも、彼女は全く気づかなかったほどだ。翌朝、目を覚ました一葉は、家政婦から言吾が夜中の三時に救急車で運ばれたと聞かされた。彼女は、ちっと舌打ちをする。本当に、役に立たない男。たったあれだけの時間も耐えられなかったなんて。結局、二人が穏便に協議離婚をすることは叶わず、一葉と言吾は法廷で対峙することになった。若かりし日に愛を誓い合い、永遠に続くと信じていた関係。それが、わずか数年で、これほどまでに無様な結末を迎えるとは、誰が想像できただろうか。この数日間、言吾は何度も一葉に会って話をしようと試みていた。だが、彼女は一度として応じなかった。彼が外でどんな苦肉の策を弄そうとも、会いに
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第204話

一葉の弁護士が、夫婦関係は既に破綻しているとして離婚を成立させるよう裁判官に求めた、その時だった。言吾は「異議があります」と声を張り上げ、強硬に反論した。夫婦関係は破綻などしておらず、すべては誤解によるものだと主張する。この世に身内はもう誰もいない、自分には一葉しかいないのだ、と。ただ、一葉だけを愛しているのだ、と。彼女なしでは生きていけない、死んでも離れられない、と。その陳述を聞きながら、一葉は思わず小さく舌打ちをした。どの口がそんなことを言えるのだろうか。ほんの数日前、あれほど必死な形相で優花を庇い、自分を罵倒し、彼女を抱きかかえて走り去ったばかりだというのに。よくもまあ、しらじらしく「一葉しかいない」「愛している」などと宣うものだ。それに、家族はいない?冗談ではない。口を開けば「妹だ」と主張していた優花は、仮にその「妹」という関係をやめたとしても、彼の継母でもある。れっきとした家族ではないか。その矛盾だらけの主張に、一葉は静かな怒りを覚えていた。一葉の冷ややかな舌打ちが聞こえたのか、言吾が縋るような、情のこもった眼差しを彼女に向ける。「一葉……!わかってる、前のことは全部俺が悪かった。君を誤解して、あんな酷い態度をとって……!もう二度としないと誓う!だから、もう一度だけチャンスをくれないか。お願いだ、一度でいいんだ!」言吾は、確かに類い稀なほど整った顔立ちをしていた。とりわけその双眸は、見つめられるだけで魂ごと吸い取られてしまいそうなほどに、蠱惑的な光を宿している。加えて、ここ最近の度重なる苦肉の策は、ただでさえ傷を負っていた彼の身体をさらに儚げに見せ、見る者の庇護欲を無意識に掻き立てるようだった。離婚裁判というものは、可能な限り和解を促すのが通例だ。言吾のこのあまりに情熱的で、悔悟に満ちた態度を目の当たりにした裁判官は、案の定、法廷外での和解協議を提案してきた。陪審員たちも口々に言う。「『袖振り合うも多生の縁』と申します。ましてや生涯を共にと誓ったご夫婦が、こうしてお会いできたのは計り知れないほど深いご縁があったからこそ。そう簡単に離縁などとおっしゃらずに」と。仏は美醜など皮一枚のもの、死ねばみな白骨となると説くが、それでもやはり、美しい皮袋はこの世において圧倒的に優位なのだと、一葉はどこか
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第205話

「それも、重傷の私をベッドから引きずり出して、彼の『可愛い妹』に謝罪させるためでした。私が原因で、彼女を風邪気味にさせてしまった、と。それが理由でした。私が警察に通報しても、私のカルテや生々しい傷跡を目の前に突きつけても、彼は信じようとせず、すべて私の芝居だと思い込み、挙句の果てには、私を救ってくれた病院を『カルテ偽造の責任を問う』と脅迫までしたのです。退院後、全身の傷は癒えず、体内にはまだプレートやボルトが埋め込まれたまま。数歩歩くだけで息が切れるほど衰弱していた私を、彼は無理やり連れ出し、彼の『妹』のために輸血させようとしました。そしてつい先日も、彼の『妹』が誘拐された時、犯人から身代金代わりに私を差し出すよう要求されると、彼はまたしても、ためらうことなく私の命を差し出したのです。そのせいで私は、あの深い山奥で殺されかけました。裁判官、そして陪審員の皆様にお伺いします。これが、本当に愛と呼べるものでしょうか。仮にこれが彼の真実の愛なのだとしても、ただ彼が私を愛しているという理由だけで、私はこの結婚生活を続け、いつか本当に殺される日まで耐えなければならないのでしょうか。私は……死ななければ、この結婚から、解放されることはないのでしょうか」血を吐くような、悲痛な問いかけ。凄惨な写真の数々を見て一変していた裁判官と陪審員の表情は、その言葉を聞き、もはや表現のしようがないほどに凍りついていた。その静まり返った法廷で、一葉はおもむろに襟元を乱し、さらに両腕の袖を捲り上げた。その白い肌に刻まれた、生々しい傷跡の数々を、裁判官と陪審員たちに見せつけるように。「このような傷跡が、私の全身を覆っています」「今もなお、毎晩のように疼いて、眠ることさえままなりません。ただ彼が私を愛しているから、これまでの仕打ちは全て誤解から生じたものだからという理由で、私は彼を許し、この結婚生活を続けなければならないのでしょうか」裁判官は、言葉を失っていた。陪審員たちも、ただ押し黙るばかりだ。こんな結婚生活、こんな夫。当事者である彼女が耐えられないのは当然のこと、第三者である自分たちですら、見ているだけで胸が張り裂けそうになる。一瞬にして、法廷中の全ての視線が言吾へと突き刺さった。あれほど憔悴しきった姿で、心からの悔悟を口にしていた
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第206話

26歳の言吾が犯した過ちの重さに、記憶が22歳のままの彼もまた、耐えられなかった。二人とも、耐えられないのだ。自分が彼女にあれほどの重傷を負わせ、そのことさえ知らなかったという事実に。これほどの重傷。一葉は言うまでもなく、彼自身でさえも。こんなことをした自分を、到底許すことなどできなかった。それに、彼女はあれほどの重傷で、二ヶ月以上も身動きが取れなかったのだ。動けるようになるまで、二ヶ月以上も!真実の愛があるのなら、たとえ間にどんな誤解が生じ、どれほど相手を憎んだとしても、ここまで無関心にはなれないはずだ。こんな仕打ちをしておいて、一葉や裁判官に自分の愛が本物だと信じてもらうなど、土台無理な話だ。いや、彼自身でさえ、自分の彼女への想いが真実の愛だったとは、もはや信じられずにいた。本当に愛していたのなら、どうしてこんなことになった?床に倒れたままの言吾が、絶望に満ちた瞳で一葉を見つめる。もう、何をしても無駄だということは、わかっていた。自分にはもう、何かをする資格さえないのだと。26歳の自分が、なぜこんなことができたのか、彼には理解できなかった。どうして、こんな真似ができた?あれほど、彼女を愛していたというのに。結婚式の日の緊張も、高揚も、胸の高鳴りも、誰にも分かりはしないだろう。自分の身体を百回刺したとしても、彼女の髪一本傷つけることなど考えられなかったはずなのに。どうして。どうして、こんな結末に?どうして、彼女を掌中の珠のように慈しみ、共に老いていく未来ではなく……彼女を、ここまで傷つけてしまったのか?耐えられない。こんな結末は、到底受け入れられない。彼の心は絶望に押し潰され、その絶望が、彼の呼吸を完全に奪っていく。その絶望が、彼を完全な暗闇へと引きずり込み、もう彼女の姿さえ見えなくなった。……人の世の喜びと悲しみは、相通じるものではない。彼は耐え難いほどの苦痛に意識を失った。だが、その倒れた姿を見つめる一葉の心には、一片の同情もなく、ただ苛立ちだけが募っていく。彼女はついさっき、この一回の審理で離婚を確定させるため、自らの最も深い痛みを衆目の前でえぐり出し、誰にも見せたくなかった傷跡さえも、袖を捲って武器として晒したのだ。さきほどの裁判官や陪審
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第207話

耳元で、かき消えそうな声が聞こえた。「……ごめん、姉さん……ごめん……」自分が来るのが、あまりにも遅すぎた。だから彼女は、あんなになるまで人に傷つけられてしまったのだ……彼女が結婚してからは、恐れ多くて連絡ひとつできなかった。その後、彼女が幸せに暮らしていると風の噂に聞いてからは、その消息を探ることさえ、自らに禁じていた。つい先日、彼女と言吾のことがネットで大騒ぎになっていなければ、彼女がこれほど不幸な日々を送っていたことなど、知る由もなかったのだ。旭の謝罪は、あまりに唐突で脈絡がなかった。だが、一葉には、彼が何に対して謝っているのか、不思議とすぐに理解できた。きっと彼は、法廷で自分の傷の写真を見て、自分が最も苦しんでいた時にそばにいてやれなかったことを、悔やんでいるのだろう。一葉は、彼の背中をあやすように優しく叩きながら、微笑んでみせた。「もう大丈夫。全部、終わったことだから」旭は何も言わなかった。ただ、その瞳を赤く潤ませるだけだった。これほど華奢な身体で、どうやってあの痛みに耐えたというのか、彼には想像もつかなかった。彼女がどれほどか弱く、痛みを怖がる人間だったか、彼はよく覚えている。それに、あれほどの重傷が、彼女の身体に一体どんな影響を……彼が何を心配しているのかを察した一葉は、努めて明るく笑って言う。「幸いなことに、骨が折れただけで、大事な内臓は傷ついていないって、お医者様が。だから後遺症の心配もないそうよ。それに、骨ってすごいのよ。一度折れてくっつくと、前より丈夫になるんだって」だから、完全に治ってしまえば、もうこんなに慎重になる必要もなくなるのだ。旭は、何か言いたげに一葉を見つめた。だが、しばらく彼女の顔をじっと見つめた後、彼はついに口を開いた。「叔父さんの会社が、すごく腕のいい美容クリニックを経営してるんだ。そこの傷跡を消す手術は完璧で、肌を元のすべすべの状態に戻せるって。離婚が成立したら、姉さんをそこに連れて行くよ」痛みを怖がる彼女のことだ、その身体に残る傷跡を見るたびに、あの時の激痛を思い出してしまうに違いない。どんなにもがいても、過去に戻って起きてしまったことを変えることはできないのだから、これ以上言葉を重ねても意味はない。自分にできるのは、ただ、彼女がその痛
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第208話

26歳の彼は、一葉に加えた全ての仕打ちをその身に記憶している。だから、その胸の痛みはより深く、より鋭い。もはや、どんな顔をして彼女と向き合えばいいのかさえ、わからない。だが、それでもなお、彼は彼女と向き合わねばならなかった。あれほど彼女を傷つけておきながら、ただ逃げ続けることだけは許されないのだから。言吾が一葉と二人きりで話がしたいと希望したため、藤堂は「私は隣の部屋にいるから、何かあったらいつでも呼んでくれ」と一葉に耳打ちすると、静かに部屋を出て行った。その去り際の言葉を聞き、言吾は自嘲するように小さく笑った。「一葉……君はもう、俺のことを、それっぽっちも信用してはくれないんだな」二人きりでいると、自分が彼女に危害を加えるとでも思っているのか、と。一葉は肩をすくめた。「あなたに薬を盛られたり、誘拐されたり、命を狙われたりするのは、もうごめんだもの」その言葉は、鋭い刃となって言吾の胸を抉った。彼の瞳が、みるみるうちに赤く染まっていく。「すまない、一葉……本当に……すまない……」一葉は、彼の言葉を容赦なく遮る。「謝るのはやめてちょうだい。あなたの『ごめんなさい』は、随分と安っぽく聞こえるから」「それに、本当に申し訳ないと思っているのなら、今すぐ離婚契約書にサインして」何も話したくない、ただ離婚したいだけ。その感情の欠片も宿さない瞳は、言吾の心臓を鷲掴みにした。馴染み深い、息もできなくなるほどの激痛が、再び彼の全身を苛む。彼は、ただ、ただじっと一葉を見つめた。赤く染まった瞳はますます色を濃くし、やがて、その表面に水蒸気の膜が張っていく。「すまない……一葉……本当に……すまない……」意識を取り戻した言吾の脳裏には、法廷での記憶が鮮明に焼き付いていた。警察に救助される一葉の姿。全身を管に繋がれた彼女の姿。ベッドの上で、まるでミイラのように包帯で固められた彼女の姿。そして、その傷ついた彼女の腕を掴み、「その血糊はどこで買ったんだ」「医療資源の無駄遣いだ」と詰問した、自分の言葉。その一つ一つが、肉を削ぐ鋭利な刃物となって、彼の心をじわじわと切り刻んでいく。その痛みは、もはや耐え難いものだった。謝罪の言葉など何の役にも立たないとわかっていながら、今の彼には、その言葉を繰り返すことしかできない。
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第209話

「そうなっていたら、あなたがこうしてここで私に謝罪することさえ、できなかったはずだわ」言吾のただでさえ青白い顔から、さっと血の気が引いた。その惨めな様に、もはや目を向けることさえ憚られるほどだった。何かを言おうとするが、唇がわなわなと震え、しばらく意味のある言葉にならない。そうだ。彼は、一度も彼女を害そうとは思わなかった。だが、その結果、彼は何度も彼女を死の淵へと追いやったのだ。言吾は自嘲の笑みを漏らした。その笑みと共に、彼の瞳がじわりと赤く染まる。今この瞬間ほど、自分が死に値する人間だと感じたことはなかった。どれほどやむにやまれぬ事情があったとしても、彼女をあのような危険に晒すべきではなかったのだ。自分は、本当に、万死に値する。苦痛と悔恨が、彼の存在そのものをひどく脆く、砕け散ってしまいそうなほどに見せていた。もしも以前の一葉がこの姿を見ていたなら、きっと胸を痛め、たまらずに彼を許してしまっていたことだろう。だが、今の彼女がこの様を見ても、冷たい笑いが込み上げてくるだけだった。遅すぎた愛情など、道端の雑草よりも価値がない。相手が死んでから墓の前で泣き崩れ、悲嘆に暮れてみせても、それは愛情などではない。ただの自己満足であり、吐き気をもよおすほどの欺瞞だ。一葉は、これ以上彼のような人間と話を続ける気はなかった。「もし、ただ謝りたいだけというのなら、これ以上お互いの時間を無駄にするのはやめましょう」「弁護士の方々に入っていただいて、事務的に話を進めましょ」まだ言吾が何かしらごねてくるだろうと、一葉は身構えていた。ところが。「わかった」そのあまりにあっけない承諾に、彼女は少し面食らった。だが、彼の心中を探ろうとはせず、すぐに藤堂を部屋に呼び入れる。それと同時に、言吾側の弁護士も入室してきた。今回は、藤堂も慎重に書類を精査した。加えて、以前、旭の叔父のルートで入手した調査資料もある。その結果、書類に何の問題もないことを彼は確信した。ただ一つ、不可解な点を除いては。「深水さん。この条項ですが……あなたがこの会社の最高経営責任者に就任し、かつ、永久に解雇されることはない、とは、どういう意味ですか?」藤堂は、株式譲渡契約書の最後の一文を指差しながら尋ねた。言吾は、藤
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第210話

優花は、言吾の秘書から電話を受けた。言吾が、本当に全財産を一葉に譲渡するつもりだと知った瞬間、彼女は半狂乱でここまで駆けつけてきたのだ。彼女が帰国し、言吾と一緒になりたいと望んだのは、彼に惹かれていたことも事実ではある。だが、それ以上に彼女が求めていたもの、それは金だった。だから、言吾がなし崩しに無一文になることだけは、断じて許容できなかった。とりわけ、事ここに至っては、自分と言吾が結ばれる可能性は潰えたも同然だと彼女は理解していた。ならばせめて、男も金も両方失うという最悪の事態だけは避けなければならないのだ。言吾が口を開くより早く、優花は小走りでその傍に駆け寄ると、彼の腕に必死に縋りついた。「言吾さん、この前の誘拐事件……あの事件の主犯は、お姉さんなの!彼女は水嶋秘書と結託して、あの誘拐事件を仕組んだのよ。ひとつは、私を傷つけるために。ふたつめは、お姉さんは分かっていたの。言吾さんがどれだけ私を大切に思っているか……だから、犯人の要求通り、必ずお姉さんを差し出して私を助けるに決まってるって。そうして自分は殺されかけた被害者だって偽りの状況を作り上げて、言吾さんに罪悪感を抱かせ、まんまと全財産を巻き上げる……!そういう筋書きなのよ!それどころか……!もしかしたら、お姉さんは言吾さんを殺すつもりだったのかもしれない!だってそうじゃなきゃおかしいわ!どうしてお姉さんは崖から飛び降りていなかったのに、水嶋秘書は飛び降りたなんて嘘をついて、言吾さんまで飛び降りさせるような事態になったの?それに、お姉さんは最初から言吾さんを本当に愛してなんかいなかったのよ!そうでなきゃ、こんな酷い仕打ちができるわけない!もし……もし本当に、ほんの少しでも愛情があったなら、こんなこと……!言吾さん、お願いだからお姉さんに騙されないで……!」幼い頃から共に育ち、言吾の寵愛に縋ることでしか贅沢な暮らしもままならなかった優花は、誰よりも言吾という人間を熟知している。彼の心の何を突けば最も響くのか、その術を骨の髄まで心得ているのだ。そうでなければ、過去にあんなことが起きるはずもなかった、と一葉は思う。一葉が優花に薬を盛ったとする偽造動画一本と、「あなたと一緒になったのは私を不幸にするためだ」という戯言だけで、言吾を信じ込ませることなど。自分たちの
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