All Chapters of 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた: Chapter 281 - Chapter 290

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第281話

言吾の名前を出され、一葉は思わず考えてしまった。もし、彼が生きてここにいたら、きっと会社を守り抜くことができただろう、と。他のことはどうあれ、ビジネスにおける彼の才覚は本物だった。人にはそれぞれ専門分野というものがある。彼の対人関係のスキルや人間性がどうであろうと、優花の一件で彼がどれだけ愚かな判断を……いや、それでも、彼のビジネスにおける天賦の才が失われるわけでは……その時だった。何かが、一葉の脳裏で閃いた。彼女の瞳が、ぱっと輝きを取り戻す。考えれば考えるほど、そのアイディアは確信に変わっていった。一葉は、もはや居ても立ってもいられない気持ちになった。「申し訳ありません、桐生さん。急用を思い出しましたので、これでお暇させていただきます!」そう言い放つと、一葉は踵を返し、逸る心を抑えきれない様子で部屋を出ていこうとした。だが、慎也の横を通り過ぎようとした瞬間、腕を掴まれた。「本当に、会社のことはいいのか?」一葉は彼を振り返り、きっぱりと言った。「ええ。会社を救う方法を思いつきましたから。桐生さんのお手を煩わせるまでもありません!」つい先ほど、彼女は解決の糸口を掴んだのだ。慎也が、すっと目を細める。彼が何を考えているのか、一葉には読み取れなかった。一葉が何かを言いかける前に、彼が腕を離した。そして、笑みを浮かべて言った。「では、青山さんのご幸運を祈るとしよう」……一葉が反撃の準備を進める、まさにその時だった。思いがけない人物が、彼女のために声を上げた。兄の哲也である。彼は、一葉が幼い頃から非常に優秀であり、その成績は全て彼女自身の実力で勝ち取った本物であると断言した。両親があのような発言をしたのは、彼らの精神が正常ではないからだ、と彼は続けた。二人は養女である優花を異常なまでに偏愛しており、彼女がどれほど大きな過ちを犯そうと、それを決して認めようとはしなかった。それどころか、その養女が実の娘である一葉の命を幾度となく狙い、警察に逮捕された後でさえ、彼らは養女こそが正しく、実の娘は悪だと信じて疑わなかった。そして、優花が事故で亡くなったことさえも、全て一葉のせいだと決めつけているのだ、と。「両親の心は、もはや常軌を逸しています。彼らの言葉は全て、憎悪から生まれた妄言に過ぎ
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第282話

その注目度の高さから、この日のライブ配信の視聴者数は、数億人という前代未聞の数字を記録していた。世界には、他人に決して奪うことのできないものが三つあると言われている。一つは、胃に収めた食物。二つ目は、胸に秘めた夢。そして三つ目は、頭に叩き込んだ知識。その三つ目こそが、脳に刻まれた知性であり、その人が持つ技術そのものなのだ。嵐は、全ての実験データを知っているが故に、研究成果は自分のものだと主張することができた。だが、彼は知らない。ある段階から次の段階へと実験を進めることができた、その理論的根拠を。それはちょうど、数学が不得手な者が、答えだけを盗み見ても、その解法を全く説明できないのと同じだった。一葉は、この一点を突くことで、自分がプロジェクトの真の主導者であり、彼がただ答えを盗んだに過ぎないことを証明するつもりだった。サミットの参加者は皆、科学研究の分野で頂点に立つ人々だ。誰をも納得させるため、一葉はその中でも特に権威のある重鎮たちに協力を仰いだ。彼らに実験のプロセスに関する質問を投げかけてもらい、それに一葉と嵐がそれぞれ答える。もし、重鎮たちが投げかける難問に一葉が全て答え、嵐が答えられないのであれば……もはや、言葉を尽くす必要などないだろう。この方法で実験の主導者を決めると聞かされた瞬間、嵐の顔がさっと青ざめた。「怪我を……私は怪我をしているんだ……」彼は負傷による記憶障害を言い訳に、この場を逃れようと試みた。だが、一葉が複数の権威ある医療機関から取り寄せた診断書は、彼の脳にはいかなる損傷も見られないことを、無情にも証明していた。それに、本当に自分が主導した研究であれば、よほどのことがない限り、答えられないはずがない。もはや、彼に逃げ道はなかった。嵐は、硬い表情で腹を括るしかなかった。この方法は、結果が火を見るより明らかで、極めて有効だった。重鎮たちからの専門的な質問に対し、嵐が答えられたものはごく僅かだったのに対し、一葉はその全てに、淀みなく答えてみせたのだ。もはや、他に何かを証明する必要などなかった。彼女こそが、この実験の真の主導者であることは、誰の目にも明らかだった。自らの完全な敗北を悟り、もはや何を言っても無駄だと理解した瞬間、嵐の中で何かが弾け飛んだ。彼は感情を制
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第283話

言吾は素早く、彼女が掴んだ布団の端を押さえつけた。「俺は寝相が悪いんだ。妊娠してる君に、万が一怪我でもさせたらどうする」気を失い、目覚めてからというもの、この妻と過ごした多くの記憶が頭に流れ込んでくるようになった。だが、それでも、何かがおかしいという感覚が拭えない。言吾は、この妻と必要以上に親密になりたいとは思えなかった。身体が本能的に、彼女との接触を拒絶している。なぜかはわからない。彼女は、紛れもなく自分の妻であるはずなのに。それなのに、心の奥底で何者かの声が告げているのだ。――彼女に触れさせてはならない。――触れれば、お前は穢れる、と。そんな言吾の葛藤をよそに、紫苑は微笑んで彼を見つめた。「大丈夫よ」彼女が、なおも無理やり布団を剥がそうとした、その瞬間。言吾の眼差しが、すっと昏く沈んだ。「出ていけ!」これまで誰にもそんな冷たい声で扱われたことのなかった紫苑は、瞬く間に瞳を潤ませた。「烈さん、私はただ、夜の間に何かあったら、そばにいてあげたいだけなの。私たち、夫婦でしょう?」言吾は、彼女の言うことが正しいと分かっていた。二人は夫婦であり、彼女が共に寝たいと望むのは当然のことだ。だが。どうしても、本能がそれを受け入れないのだ。「すまない。怪我をしてから、どうも人と一緒に寝るのが苦手になってしまったんだ。もう少し待ってくれ。この足が治ったら……」足が回復し、この奇妙な感覚の正体を突き止めた後でなら――たとえ彼女との記憶が完全に戻らなくとも、夫として果たすべき責任は果たすつもりだった。紫苑は、ひどく傷ついたような顔でしばらく彼を見つめていたが、やがて布団から手を離し、潤んだ瞳のまま言った。「……わかったわ」彼女が枕を抱き、素直に部屋を出ていく姿を見送り、言吾は安堵の息を漏らすと同時に、去りゆくその背中に強い罪悪感を覚えた。二人の婚姻届は、この目で確認している。彼らは法的に認められた夫婦なのだ。夫である自分が、どんな理由があれ、彼女にあのような態度を取るべきではなかった。「すまない、紫苑。……回復したら、必ず埋め合わせはするから」ドアの前で立ち止まった紫苑が、振り返る。その瞳はまだ赤く潤んでいたが、懸命に微笑みを作って彼に向けた。「ええ」紫苑は、その名の通り、秋風に咲く花のように儚
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第284話

とはいえ、一葉がいくらかの資産を持っていたとしても、獅子堂家の巨大な権力の前では無力に等しい。彼らが会わせないと決めれば、無理に押し入ることはできないのだ。今はまず、人に調査を依頼するのが精一杯だった。手元の仕事を片付けた一葉は、上着を手に取ってある約束の場所へと向かった。相手は神堂市大学の物理学教授で、今回の事件で科学界の権威に証言を依頼できたのは、ひとえに彼の尽力のおかげだった。個室へ向かおうとしたその時、ふと見知った後ろ姿を捉えた。店の支配人に恭しく案内され、別の個室へと消えていく。桐生慎也──旭の叔父だった。思わず声をかけようとしたが、この前の別れ際の気まずさを思い出す。それに、また会えば旭との茶番めいた「恋愛ごっこ」を勧められるかもしれない。そう思うと足がすくみ、結局そのまま見送ることにした。そのために一葉は知る由もなかった。その個室で慎也を待っているのが、あの烈の、妊娠中の妻であることなど。一葉が自分の席に着いた頃、慎也もまた、目的の個室で席に着いていた。目の前では、秋風に揺れる薄紫の花のように儚げで美しい女が、しおらしい仕草で優雅に茶を淹れている。その姿に、慎也は思わずフッと鼻で笑った。茶を淹れていた紫苑は、その嘲笑を聞きつけ、すっと顔を上げる。「桐生さん、何か?」慎也は笑みを浮かべたまま答える。「いや、別に」彼は気だるげに椅子の背にもたれると、いつもの癖でポケットに手を入れた。煙草に指が触れたが、相手が妊婦であることを思い出し、舌打ちしそうなのを堪えて指を離す。相当なヘビースモーカーである彼にとって、腰を据えた途端に禁煙を強いられるのは軽い拷問に等しい。苛立ちを隠しもせずに、本題を切り出した。「それで、紫苑さん。何の御用ですかな」紫苑は淹れたての茶を慎也の前に静かに差し出しながら、口を開いた。「桐生さん。あなたのお甥ごさんに、いつ青山さんを連れて国外へ発たせるおつもり?」慎也は差し出された茶には目もくれない。「その話は無しだ。青山一葉は甥にそんな気はさらさらない」「それに、彼女は俺の助けなど借りずとも、自力であの状況をひっくり返した。大したもんだ」そう口にする慎也の声音には、彼自身も気づかぬほどの、確かな感嘆の色が滲んでいた。あの絶体絶命の状況。抜け出すには自分の力を借りるしかな
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第285話

慎也が何か言う前に、彼女はたたみかける。「恩に着せて何かを要求しようなんて、そんなつもりは毛頭ございません。ただ……『命の恩は、たった一つの要求と引き換えにできる』。そうおっしゃったのは、桐生さん、あなたご自身ですわ」慎也はしばらく手の中のライターを弄んだ後、不意にその動きを止め、口の端を吊り上げた。「俺は道徳的な人間じゃねえ。だから、ああ言ったが……約束なんざ、いつでも反故にできる」紫苑は、絶句した。「……」にわかには、彼の言葉の意味が理解できなかった。あれほどの地位にある男が、一度口にした約束を反故にするなど……大物というのは、己の言葉に責任を持つものではなくて?これでは、あれほど苦心して彼の「命の恩人」という切り札を手に入れた意味が、まるでないではないか。かつて、南の島の海で慎也を救ったのは、本来なら一葉だった。そしてその場には、優花の他に、もう一人の目撃者がいたのだ。それが、紫苑である。同じ島で休暇を過ごしていた彼女は、一葉が慎也を救助し、助けを呼びに走り去り、その隙に優花が現れて慎也を連れ去るまでの一部始終を目撃していた。当初は他人事だと舌打ちして立ち去るつもりだった。だが、男の顔をはっきりと認め、彼が東和大陸の裏社会を牛耳る桐生慎也その人だと気づいた瞬間、彼女の心は翻った。紫苑はすぐさま海へ飛び込んで全身を濡らし、わざと監視カメラのある場所を選んで歩き、さらに一葉が助けを求めた警備員を金で買収した。全ては、「自分が桐生慎也を救ったにもかかわらず、春雨優花に手柄を横取りされた」という偽りの筋書きを完璧に仕立て上げるためだった。まさに、漁夫の利。彼女こそが、慎也が調査の末にたどり着いた、真の「命の恩人」となったのである。これほどの大物を救ったのだ。この恩は、いずれ彼女が成功への階段を駆け上がるための、最大の切り札となるはずだった。だというのに。その当の本人が、恩など知らぬと、いとも容易く切り捨てる。こんな結末、誰が予想できただろうか。もちろん、真っ向からぶつかり合えば、獅子堂家が桐生慎也に劣るわけではない。だが、そのために払う代償はあまりにも大きく、割に合わない。何より、彼を敵に回せば、予測不能なリスクが格段に増えるだろう。しばしの沈黙の後、紫苑はいくぶん語調を和らげた。「桐生さ
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第286話

その冷酷な言葉に、慎也は眉をひそめた。本能が、一葉に対してそのような卑劣な手を使うことを拒んでいた。「桐生さん。あの日あなたをお救いしたせいで、私はお腹の子に障り、一月以上も病床に縛り付けられたのですわ。何もしてほしいとまでは申しません。ただ、私が青山さんに対処する間、どうか見て見ぬふりをしていただきたいのです。手出しは無用ですわ。ご安心くださいまし。彼女の身体を傷つけるような真似は、決して致しませんから」慎也は紫苑を見つめた。彼を救ったせいで、一月以上も病床にいた、と彼女は言った。その言葉に、彼の瞳に複雑な色が過った。海に沈みゆく中、意識は完全には途切れていなかった。朦朧とする意識の中で、誰かが必死に自分を岸へ引き上げようとしている感覚だけが、やけに鮮明だった。非情を信条として生きてきた彼が、見ず知らずの自分を救おうとするその必死さに、柄にもなく心を動かされたのだ。特に、応急処置を施された時に感じた柔らかな温もりと、ふわりと漂う清らかな香り。目覚めたら、相手がどんな女であろうと、一度くらいは恋というものをしてみるのも悪くない。うまくいけば、生涯独り身と決めていた自分が、家庭を持つこともあるのかもしれない──そこまで思ったほどだった。だが、現実はどうだ。自分を救ったのは、身重の女。それも、見た目は儚げで美しいが、その実、底意地の悪い、腹黒い女だった。あの献身的な救助者と、目の前の女が、どうしても結びつかない。しかし、何度調べ直しても、彼を救ったのは紫苑であるという事実に変わりはなかった。結局、あの時の感動は、ただ海の水で頭がおかしくなっていただけなのだと、そう思うことで無理やり自分を納得させるしかなかった。この女と深く関わる気は毛頭ない。だが、彼女が自分を救うために払った代償と、非情に染まった己の人生でただ一度だけ感じたあの温もりを思うと……やはり、この借りを返さないままでは、どうにも寝覚めが悪い。「……いいだろう」彼女が一葉の身体に直接危害を加えない限り、自分は手を出さない。慎也は、そう決断した。その言葉を聞き、紫苑は安堵の息を漏らした。目の前の男に向かって、感謝を示すように、そっと茶碗を掲げてみせる。しかし、慎也はその茶を飲むどころか、一瞥もくれることなく、無言で席を立ち、部
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第287話

だが、驚いていたのは二人だけではない。その言葉を発した言吾自身も、なぜそんなことを口走ったのか分からず、はっと息を呑んでいた。自分でも全くの無意識だった。あんな言葉が、ただ、口をついて出た。我に返った慎也は、片眉を上げた。やはり、催眠などというものは当てにならん。心の中で、そう嘯く。一方、一葉もはっと意識を取り戻すと、本能的に言吾の方へ歩み寄っていた。「言吾……」その無意識の呼びかけに、車椅子に座る男の眼差しが、すっと険しさを増す。あまりにも冷たく、見知らぬ他人のようなその瞳に、一葉は現実に引き戻された。衝動のまま彼へと向かおうとしていた足が、ぴたりと縫い付けられたように止まる。言吾が生きているかもしれないと知った直後から、彼女は生死をさまようような事態に巻き込まれ、ゆっくりと思いを巡らせる暇などなかった。それが今、こうして突然目の前に現れたのだ。あの見知らぬ人のような瞳を向けられ、一葉の心臓は、まるで細い針でちくりと刺されたかのように痛んだ。今この胸に渦巻く感情を、どう表現すればいいのか分からない。あまりにも複雑で、自分自身でさえ、その感情が何を求めているのか掴めずにいた。若き日の恋、互いが初恋の相手。人生で最も純粋で輝かしい時間は、すべて彼と共にあった。言吾への愛は、とうに彼女の骨の髄まで染み渡っている。記憶を失い、彼を忘れていた頃は、受けた仕打ちへの憎しみと嫌悪しかなかった。どんな手を使ってでも離婚したいと、そればかりを願っていた。記憶を取り戻した今、以前のように彼なしでは生きられないという、無条件の愛はもうない。けれど。かといって、彼を忘れていた時のように、完全に情を断ち切ることもできずにいた。彼の顔を見ると、どうしても自分に向けられた優しさを思い出してしまう。己の命を投げ出してまで、自分を救おうとしたあの日の姿を。どう考え、どう行動すべきか、全く分からない。混乱の末、一葉はひとまず心を固めた。まずは彼が本当に言吾なのかを確かめること。そして、彼の脚を治すこと。他のことは、すべてそれからだ。そう結論づけると、一葉は意を決して一歩前に出て、呼び方を変えた。「獅子堂さん」しかし、どういうわけか、彼女がそう呼び直しても男の表情は少しも和らがなかった。彼はただ、一
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第288話

彼の背中には、大学二年の時、火災現場で崩れ落ちてきた梁から彼女を庇った時にできた火傷の痕――そして、クルーズ船で、彼女の身代わりとなって受けた銃弾の痕が、あるはずだった。命を懸けて自分を救ってくれた時の光景が、脳裏に鮮やかに蘇る。そう、あんな記憶を思い出してしまえば、記憶を失っていた時のように、彼を冷たく突き放すことなど、到底できそうになかった。かつての一葉は、言吾にすべてを捧げ、自分自身よりも彼を大切に想っていた。だが、彼もまた、自分自身よりも一葉を大切にしてくれていたのだ。でなければ、あれほど深く彼を愛することなどなかっただろう。一葉のあまりに性急な言葉に、二人の男は同時に虚を突かれた顔をした。そして、ほとんど同時に、全く逆の言葉を発する。「いいだろう」「駄目だ」承諾したのは、言吾だった。拒んだのは、慎也だ。先ほどの言吾の剣幕からして、たとえ記憶を失っていたとしても、自分に対して何か本能的なものを感じているに違いない。一葉はそう感じていた。だから、彼が治療を承諾したことに驚きはない。意外だったのは、慎也の、あまりにきっぱりとした拒絶だった。慎也と知り合ってからそれなりの時間は経つが、頻繁に会うような間柄ではない。彼の突然の強い反対は、一葉を困惑させた。その時、慎也が一葉のすぐそばまで歩み寄る。「一葉、奴が今どういう立場か忘れたわけではあるまい」彼女が何かを言う前に、言吾が口を開いた。「俺の立場がどうした。俺は病人だ。彼女に治療してもらう。何か問題でもあるのか」慎也は言吾に視線を向け、その声に冷ややかな色を滲ませる。「治療に問題はない。だが、もう夜も更けている」「夜更けだと?病院は夜が遅いからといって、患者を門前払いするのか。それに、お前たちはこんな夜中に二人きりで飲みに行けて、この俺が治療を受けることは許されないとでも言うのか」車椅子に座ってはいるものの、言吾の生まれ持った不遜な気性は、その威圧感において少しも慎也に引けを取らなかった。慎也の眼差しが、すっと鋭さを増す。刹那、二人の間に火花が散るかのような緊張が走り、その場の空気が張り詰めた。一葉は慌てて慎也の腕を引き、今すぐにでも言吾を治療し、彼の正体を確かめたいのだと目で訴えた。慎也は、ぞっとするほど深く、
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第289話

そして、その背中があらわになる。そこには、紛れもなく、あの火傷の痕があった。さらに、心臓に近い位置には、新たについた弾痕の大きさの傷痕が、はっきりと見て取れた。その事実を目の当たりにした瞬間、一葉の瞳から、予兆もなく涙がぽろぽろと零れ落ちた。嗚咽がこみ上げてきて、どうしても抑えられない。あまりにも突然で、あまりにも激しい感情の奔流が、彼女の理性をいとも容易く押し流していく。一葉の涙を見て、言吾は本能的に手を伸ばし、その涙を拭ってやりたい衝動に駆られた。自分でも、どうしてしまったのか分からない。彼には妻がいる。その妻と過ごした記憶もある。それなのに、どうしても妻に触れられることを受け入れられないのだ。一方で、目の前の女性には、無意識のうちに惹きつけられ、近づきたいと願ってしまう。脚を治療すると言われれば、それがどんな時間であろうと、ただ彼女について行きたいと思う。上着を脱げと言われれば、何の躊躇もなく、言われるがままに脱いでしまう。何もかもが、理屈に合わないことばかりだ。しかし、どういうわけか、彼女が言うことなら、何でもその通りにしたいと思ってしまうのだった。言吾が、なぜ泣いているのかと彼女に問いかけようとした、その時だった。仕事場の扉が、凄まじい音を立てて蹴破られる。続けざまに、黒服の男たちが数人、部屋になだれ込んできた。彼らが左右に分かれて道を開けると、圧倒的な威圧感を放つ貴婦人と、その傍らに寄り添う妊婦が姿を現す。貴婦人は、上半身を露わにした言吾が、まさに目の前の女に手を伸ばそうとしているのを目に留めると、その顔からすっと血の気が引いた。彼女はためらうことなく大股で歩み寄り、何の予告もせず、一葉の頬を思いきり平手で打ち据えた。不意を突かれた一葉は、その衝撃でぐらりと首が傾ぎ、ようやく現実へと引き戻される。貴婦人が再び手を振り上げ、そのしなやかな指が再び一葉の頬を打とうとした瞬間、一葉は表情を凍らせ、その腕を力強く掴み取った。手首に走る鋭い痛みに、貴婦人の顔が苦痛と屈辱でさらに歪む。生まれながらにして尊い地位にあり、神堂市最大の旧家の当主へと嫁ぎ、その頂点に君臨してきた彼女にとって、痛みを与えられることなど論外、不遜な顔つきをされることすら許しがたいことであった。それな
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第290話

「私も、そう思いますわ。ですから、もしかしたら、と……お義母様が当時お産みになったのは、男女の双子ではなく、男の子の双子だったのではないでしょうか。そして、出産時の混乱で、どなたかの子と取り違えられた……とか」紫苑は、言吾と烈が瓜二つであるという事実には、いずれ何らかの説明が必要になることを理解していた。だからこそ、敢えて二人が双子である可能性を口にしたのだ。だが、双子でありながら共に獅子堂家で育たなかったという本当の理由だけは、決して外部に漏れてはならない。あくまで、出産時に取り違えられた、という筋書きでなければならなかった。そして、死んだのは深水言吾であり、今ここに生きているのは獅子堂家の跡継ぎ、獅子堂烈でなければならないのだ!……血の繋がりもないのに、瓜二つの人間がこの世にいるはずがない。それは、一葉もまた、同感だった。だからこそ、言吾が烈として現れたのを初めて見た時から、二人は一卵性の双子ではないかと疑っていたのだ。それゆえ、今、彼女たちがそう口にしても、一葉に驚きはなかった。だが。「出産時の取り違え」という、あまりに安直な説明には、到底納得できなかった。そもそも雲都と神堂市は何千キロも離れている。それに、獅子堂家ほどの名家が、赤ん坊の取り違えなどという初歩的な失態を犯すはずがない。そして、続く紫苑の言葉が、その疑念を確信へと変えさせた。これは単なる取り違えなどではない。何か別の、もっと根深い理由があるはずだ、と。「青山さん、ご主人を亡くされたお悲しみ、お察ししますわ。でも、烈さんは本当にあなたのご主人ではないのです。もし、あなたのご主人が烈さんの双子の弟君なのだとしたら……あなたは烈さんのことを、お義兄さんとお呼びになるべきですわ」一葉はそっと目を伏せた。ほら、おかしい。もし本当に出産時に取り違えられただけなら、なぜ彼女は、烈が兄で、言吾が弟だと断言できるのだろうか。紫苑は文江に向き直る。「お義母様。もし本当に、あの時取り違えがあったのだとしたら、こちらの青山さんもまた、お義母様のお嫁さんということになりますわ。彼女はただ、行方の知れないご主人を想うあまり……」「どうか、今回だけは大目に見て差し上げてはいただけませんこと?」文江は、ふんと冷たく鼻を鳴らした。「嫁ですって?双子か
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