All Chapters of 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた: Chapter 291 - Chapter 300

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第291話

一葉の眼差しが、すっと冷たくなった。礼には礼を尽くすのが彼女の信条だが、無礼を重ねられれば、こちらも相応の態度を取るまでだ。「獅子堂夫人。それほど私を信用できないというのでしたら、治療はお断りしますわ」文江は、まさかそんな言葉が返ってくるとは思ってもみなかったのだろう。信じられないといった様子で目を見開く。「……自分が何を言っているか、分かっているの?」一葉は、一言一句、はっきりと繰り返した。「それほど私を信用できないというのでしたら、治療はお断りします、と申し上げました」文江の眼差しが、ぞっとするほど昏く沈む。だが、一葉は怯まなかった。獅子堂家がどれほどの権勢を誇ろうと、ここは法治国家なのだ。その時、紫苑が眉をひそめた。彼女は一葉を国外へ追い払うつもりだったが、その計画を一時中断していたのだ。一葉のチームからの報告で、治療機器の微調整を行えるのは一葉だけであり、言吾の脚を完治させるには彼女が不可欠だと知ったからである。彼の脚が治った後に、改めて追い出す算段だった。一葉が言吾の正体を疑っている限り、彼女は全力で治療にあたるだろうと踏んでいた。まさか、その一葉自身が治療を放棄するなど、全くの想定外だった。紫苑は思考を切り替え、一歩前に出ると、親しげに一葉の腕を取った。「青山さん、これ以上詳しく調べなくとも、この瓜二つのお顔を見れば、あなたのご主人と私の夫が双子だということは、もうお分かりでしょう?理屈の上では、あなたは私のことを『義姉さん』と、そしてお義母様のことを『お義母さん』とお呼びになるべき間柄……私達は、もう家族も同然なのですわ。家族なのですから、少しの誤解は、話し合えば解けるものですよ」紫苑という女は、実にしたたかな女だった。内心では一葉のことなど、いつでも潰せる虫けら程度にしか思っていなくとも、利用価値のあるうちは、こうして親しげに腕を取り、「家族」だと言ってのける。だが、一葉にとって、彼女たちは断じて家族などではない。一葉は、紫苑の腕からすっと自分の腕を引き抜いた。「奥様。私のことをお調べになったのなら、ご存知のはずですわ。私と言吾は、とうの昔に離婚しています」獅子堂家の跡継ぎに嫁ぐ紫苑もまた、名家の出身である。物腰は柔らかく、いかにもか弱げに見えるが、その実、非常に怜悧で抜け目がな
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第292話

「烈の脚を治してくれたなら、獅子堂家は、必ずや相応の礼はさせてもらう」一葉とて、本心から言吾の治療を拒んでいたわけではない。獅子堂家の当主自らがここまで言ってくれるのなら、これ以上意地を張る理由もなかった。「獅子堂様、恐れ入ります」……獅子堂家の一行が去っていくのを、一葉は複雑な思いで見送った。ついさっきまで、今の獅子堂烈が本当に言吾なのか、その一点だけを確かめたい一心だったというのに。それがはっきりした今、途端に何を考え、どうすべきか分からなくなってしまった。なにより、彼の今の身分は深水言吾ではなく、獅子堂烈なのだ。一葉の思考が、冷静に事態を分析し始める。獅子堂家が言吾を烈だと強引に言い張るのは、本物の烈に何かがあったに違いない。あのような大財閥の跡継ぎに万一のことがあれば、対外的にも、そして組織の内部にも、計り知れない混乱が生じるだろう。株価の大暴落は避けられない。会社の動揺を防ぐため――それが、獅子堂家が言吾を烈だと偽っている理由。そう考えれば筋が通る。そんな状況で、自分が「彼は獅子堂烈ではなく深水言吾だ」と声高に主張すれば……自分だけではない。言吾の立場こそ、非常に危うくなるだろう。ある考えが浮かび、一葉は慎也に電話をかけた。近いうちに食事でもどうかと誘いをかける。電話の向こうで、慎也はふっと鼻で笑った。だが、彼はその誘いを断ることなく、明日の夜に時間を設けてくれることになった。電話を切り、一葉は椅子に深く腰を下ろす。頭の中は混乱を極め、思考がまとまらなかった。獅子堂家の書斎。獅子堂宗厳(ししどう むねひろ)は人参茶を一口すすると、手にしていた湯呑みをテーブルにガチャンと叩きつけるように置いた。妻の文江に冷え冷えとした視線を向け、静かに、しかし有無を言わせぬ声で問い詰める。「一体どういうつもりだ。そもそも、お前の今日の行いがどれだけ品位を欠くものだったかはさておき……烈の足が、まだあの女の治療を必要としていることを知らんわけではあるまいな?」夫からの厳しい叱責に、文江の元々険しかった表情が、さらに歪んだ。「あの子が……烈の記憶を取り戻させてしまうのではないかと、気が気でなかったのですわ!この間、あの子と一度会っただけで、烈はあれほど彼女を気にして! 彼女のせいで頭痛を起こ
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第293話

「それに文江、忘れたわけではあるまいな。あいつもまた、お前が腹を痛めて産んだ子だ。生まれたばかりのあの子をお前が捨てて顧みなかった……それだけでもう十分すぎるほど、あの子に対して非道な仕打ちをしている。これ以上、あからさまなえこひいきはやめてくれんか」同じ腹から生まれた双子で、瓜二つの容姿をしているというのに。宗厳には、妻がなぜこれほどまでに長男ばかりを溺愛するのか、まるで理解できなかった。何の躊躇もなく次男を捨てたばかりか、長男が亡くなった今となっても、そのすべてを長男の子に遺そうと固執する。次男のことは、ただの使い捨ての労働力としか見ていない。これでは実の母親ではない。まるで仇敵だ。「私がえこひいきですって?偏っているのはあなたの方でしょう!烈がどれだけあなたのことを想っていたか!どれだけ孝行だったか!何かにつけて真っ先にあなたのことを考えていたあの子が……!それなのに、あの子が亡くなってまだどれほども経っていないというのに、あなたはもう烈のことを忘れて、あの子のものを他の誰かに与えようとなさる!宗厳さん……あなた、どうしてそんなに酷いことができるの!」文江のヒステリックな声に、宗厳の頭痛はさらにひどくなる。酷いのはどちらだ。息子が死んだ悲しみを乗り越え、今は獅子堂グループの未来を考えなければならない時なのだ。紫苑の腹の子が無事に生まれてくるかも定かではない。ましてや、その子が将来、獅子堂家という重責を担える器である保証などどこにもない。それに引き換え、次男はどうだ。今の、記憶さえ定かではないあの状態で、会社の業務をいとも容易く、かつ見事に処理してみせている。自分が手ずから丹精込めて育て上げた長男よりも、明らかに一枚上手なのだ。この男に会社を託さずして、一体誰に任せろというのか。これ以上、妻との不毛な言い争いを続ける気はない。宗厳は顔をこわばらせ、冷たく言い放った。「知っているはずだ。獅子堂家では、車椅子の者が跡を継ぐことは許されん」「だから、お前がどう考えようと知ったことではない。あいつの足が治るまでは、二度と青山一葉に手を出すな!さもなくば……目の中に入れても痛くない可愛い孫に獅子堂家のすべてを、などという甘い夢は諦めることだな。それどころか、お前自身が何も手にできなくなるぞ!」なおも食い下がろうと
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第294話

慎也の答えは、あまりにも直接的だった。「死んだ。深水言吾を救うためにな」「獅子堂家の人間で、あの豪華客船の爆破事件から生き延びた奴の話によると……例の犯罪組織はあんたとあんたの師匠を拉致しただけじゃない。本物の獅子堂烈もまた、話があるとかで客として招いていたらしい。だが獅子堂烈は奴らとの共謀を拒絶し、揉め事になった。ちょうどその時だ。あんたを助けようとした深水言吾が、組織の連中に囲まれてた。瀕死の深水言吾を見た獅子堂烈は……同じ腹から生まれた実の弟を救うために、自らを犠牲にした」「……」あまりに衝撃的な真実に、一葉は言葉を失った。「じゃあ、獅子堂家が深水言吾を獅子堂烈だと言い張るのは、跡継ぎの不祥事で株価が暴落するのを恐れて?」慎也は「少しは頭が回るじゃないか」と言わんばかりの視線を一葉に投げかけると、続けた。「それだけじゃねえ。獅子堂の先代当主は死ぬ間際に、持ち株の三十パーセントを獅子堂烈に譲り、奴を正式な後継者とした。株を外部に流出させないためだ。獅子堂家の財産は、未来永劫、獅子堂家の男たちのもの。獅子堂家の女……嫁であろうと、娘であろうと、株を相続する権利は一切ない。獅子堂家の男が死ねば、その持ち株は、獅子堂家の他の男たちに分配される仕組みになってる。父親や実の兄弟が大半を相続するが、それでも、一族の他の男たちにも幾ばくかは渡る。例えば、獅子堂烈が死に、深水言吾が獅子堂烈に成り代わらなかった場合。ただの双子の弟として獅子堂家に戻ったとしたら、獅子堂烈名義の三十パーセントの株は、父親に十パーセント、実の弟である言吾に十パーセント、そして残りの十パーセントが、獅子堂家の他の男たちに分配されることになる。獅子堂家の株、十パーセントがいくらになるか、想像つくか?」具体的な額は分からない。だが、ざっと計算しただけでも、自分の全財産をはるかに超えるであろうことは容易に想像できた。「しかも、株が分散されるだけじゃ済まねえ。跡継ぎの座だって、獅子堂烈の家系が維持できるとは限らねえんだ」慎也は、言葉に一層力を込めた。「だから、対外的にも、対内的にも……獅子堂家にとって、深水言吾は、この先ずっと獅子堂烈であり続けるしかねえんだよ」この先、言吾は他の誰かとして生き続け、二度と彼自身に戻ることはない。そう思った瞬
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第295話

言吾は、あれほど激しく自分だけを求め、愛してくれた。そして、あれほど冷酷に自分を傷つけた。何度も殺されかけた。そして、何度も命を懸けて救われた。記憶を失くしていた頃は、彼から受けた傷だけを覚えていた。ただ、彼を憎んでいた。記憶が戻り、彼が注いでくれた愛情と、彼が与えてくれた救いを思い出した時、愛したくても愛せず、憎みたくても憎みきれず、どうすればいいのか、全く分からなくなった。でも今は。生と死を前にして、愛なんてものは、あまりにもちっぽけで、重要ではなくなってしまった。今はただ、彼の足をきちんと治そう。足が治ったら、それで私たちの貸し借りは終わり。その先、彼には彼の輝かしい人生があり、私には私の目指すべき未来がある。結婚した時に誓ったように、ずっと一緒に、生涯幸せに、とはいかなかったけれど。でも。よく考えてみれば。これが、私たちにとって一番良い結末なのかもしれない――そう、頭では理解し、無理やりに自身を納得させようとした。だが、その決意とは裏腹に、彼女の心はどうしようもなく、ずきずきと痛むのを止めることができなかった。……獅子堂家当主である宗厳の鶴の一声があったからだろう。再び言吾の治療に訪れた一葉を、獅子堂家の人間は丁重に迎えた。前回のように紫苑が言吾の傍にぴったりと張り付き、まるで泥棒でも見るかのような目で睨みつけてくることもない。だが、肝心の言吾が変わってしまっていた。彼は、氷のように冷たくなっていた。この間、慎也と一緒にいるところを見て嫉妬に満ちた言葉を口にした彼とは、まるで別人だった。あの時は、夜更けにもかかわらず、治療を始めると言えば素直に応じ、服を脱いでと言われれば、ためらうことなく脱いだ。文江に殴られそうになった時には、無意識に彼女を庇おうとさえしてくれた。今の彼は、一葉のことを見ても、ただ認識しているだけ。そこに、前回感じられた本能的な感情の揺らめきは、もはや一片も残っていなかった。こうなったのは、きっと催眠をさらに深くかけられたせいだ。そう思い至り、一葉の胸にチクリとした痛みが走った。これが最善の結末なのだと、自分に言い聞かせ、覚悟を決めたはずだったのに。彼の、あまりにも冷たく、他人行儀な眼差しを向けられると、やはり心が乱れてしまうのを抑えきれない
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第296話

「そして、俺が汚れたら……誰かが、もう二度と俺を求めてはくれなくなる」獅子堂家で初めて会った時、言吾が冷たく「あんたを呼んだのは、俺のカルテを見てもらうためだ。俺の顔を鑑賞するためじゃない」と言い放ったのは、そのためだった。一葉を見た瞬間、その顔を見ただけで、車椅子を乗り出してでも、強く抱きしめたいという衝動に駆られたからだ。あの時の彼は、まだ自分を獅子堂烈だと信じ、妻がいる身だった。そんな自分が、初対面の女に欲情するような男だとは到底認められなかった。だからこそ、あんなにも冷たい態度を取ってしまったのだ。だが今なら分かる。あれは単なる色欲などではない。愛の本能だったのだと!言吾のその言葉は、一葉の脳裏に、かつて結婚した時に交わした会話を鮮やかに蘇らせた。あの時、一葉は言ったのだ。「人の一生なんてあっという間だけど、それでも長いのよ。特にあなたみたいに素敵な人には、これから数えきれないほどの誘惑があるわ」と。「もし私を愛せなくなったら、正直にそう言って。それで離婚しましょう。でも、浮気だけは絶対にしないで。他の女の人と何かあったりしないでね。あなたが汚れてしまったら、私は絶対にあなたを許さない。もう二度とあなたの元には戻らないし、きっと、仕返しだってしたくなるから」あの時の彼女は、本気だった。その決然とした言葉を、彼は心の奥深くに刻みつけていたのだろう。突然、言吾は一葉の手を握る力を強め、子犬のように哀れな瞳で彼女を見上げた。「なあ……俺たちの間に何があったのかは分からない。でも、君は俺が誰なのか分かってるはずだ。なのに、どうして知らないふりなんかするんだ」「俺に分かるのは、今、自分がものすごく恐ろしい毎日を送ってるってことだけなんだ!怖いんだよ……ッ!あいつらは毎日俺に催眠をかけて、俺のものじゃない記憶を頭に詰め込んで……俺を、完全に別人間に作り変えようとしてる。俺を……消そうとしてるんだ。でも、俺は消えたくない!別人になんてなりたくない!トゥルーマン・ショーみたいな世界で生きたくないんだ!自分の意思もない操り人形になんて、絶対になりたくない!」だからこそ彼は、毎回催眠術にかかったふりをしながら、痛みで意識を保つために、密かに鋭い刃物で自身を突き刺し続けていたのだ。獅子堂家の者に感づかれぬよう、彼らの
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第297話

「どうしてそう言い切れるの……?」慎也の話では、獅子堂家の人間が、烈が言吾を庇って死ぬのをこの目で見たというのに。「君が最初に俺に会った時の、あの驚きようからして、俺に双子の兄がいたことも、そいつが獅子堂家の人間だったことも、君は知らなかったはずだ。俺にとって一番近しい君が知らないってことは、当然、俺自身も知らなかった。つまり、俺はその双子の兄とやらには一度も会ったことがないんだ。人間ってのは、本来利己的な生き物だろ。君は思うか?本物の獅子堂烈が、会ったこともない弟のために、自分の命を投げ出すなんて。特に、獅子堂家みたいなエリートで冷血な教育を受けてきた人間なら、なおさらな!」獅子堂家で過ごしたこの短い期間で、言吾は彼らという人間をある程度理解していた。見ず知らずの弟のために命を懸けるような人間が、あんな家で育つはずがない。言吾はそう確信しているようだった。「理屈は……そうかもしれないけど……でも、生き残った獅子堂家のボディガードが、獅子堂烈はあなたを助けるために死んだと、はっきり証言しているのよ」「だとしたら、ますますあり得ないな。どこの世界に、いざという時にボディガードを下がらせて、自分から前に出る大物がいる?」「……」一葉は、返す言葉もなかった。「百歩譲って、仮に本物の獅子堂烈が俺を助けて死んだとして、俺が彼の責任を負うべきなんだとしよう。だとしたら、俺は彼の妻子をしっかり守ってやるべきだ。だが、俺自身が彼になって、彼の妻子まで相続するなんてことがあるか?それに、もし本物の夫婦の間に愛情があったなら、どう思う?命懸けで助けた弟が、自分の妻と子供、自分の家庭を乗っ取るなんて……獅子堂烈本人がそれを許すと思うか?」一葉は、ただ黙って彼の言葉を聞くしかなかった。「俺だったら、怒りのあまり墓から這い出してでも殴りつけてやる!」自分という存在がありながら、最愛の女を他の男に触れさせることなど、彼には到底許せることではないのだ。言吾のその言葉に、一葉は返す術を持たなかった。「……いや、万が一、億が一、本物の獅子堂烈がそれを望んだとしよう。俺が彼の妻も子供も引き継ぐことを、あいつが望んだとしてもだ。だからって、どうして俺を催眠術で「彼」に変えちまう必要がある?俺は、俺自身のままでいちゃいけないのか?
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第298話

でも、そんなことは許されない。彼は命懸けで自分を救ってくれた。けれど、同じその彼が、自分を深く傷つけたこともまた、紛れもない事実なのだ。過去のすべての裏切りを水に流し、以前のように彼を愛する?もうあんな思いはしたくない。彼を信じるのが怖い。怖いのだ。それなのに、この腕を振り払うことができない。記憶を失くしていた頃の一葉には、到底理解できなかっただろう。どうしてあんなにも恋に溺れることができたのか、自分があれほど愚かなはずがないとさえ思っていた。でも、今なら分かる。深く愛したことのない人間には、決して分からないだろう。あれほど深く愛した人を、完全に断ち切ることがどれほど難しいことか。とりわけ、その相手が、ただ自分を傷つけるだけの男ではなかったからこそ、余計に厄介なのだ。彼もまた、かつては命を懸けるほど、ひたむきに、熱烈に、自分を愛してくれていた。「なあ、待っててくれ。この足が治ったら……獅子堂家を片付けたら……そしたら、俺たちは堂々と一緒になれるんだ!」言吾は、入ってきた時の冷酷さが嘘のように、少年のように瞳を輝かせながら一葉を見つめた。彼を見つめ返す一葉は、何と答えるべきか分からなかった。複雑な感情が渦巻く中、一葉は言吾を見送った。彼が去った後、治療器具を片付けてホテルに戻ろうとした、その時だった。カツ、カツ……若い女が、目も眩むような高さのクリスタルのハイヒールで硬質な音を立てながら、部屋に入ってきた。一葉の姿を認めると、女がちらりと視線を送る。それだけで、背後に控えていた黒服の男二人が、瞬時に一葉の両腕を押さえつけた。一葉は眉をひそめ、何かを言おうとする。だがそれより早く、女は分厚い書類の束を一葉の眼前に投げつけた。そして、心底見下しきった、女王様然とした態度で言い放った。「この書類にサインなさい。そうすれば、生かしてあげるわ」書類に目を落とした一葉は、それが株式譲渡契約書であることに気づいた。しかも、彼女が持つ二つの会社の全株式を、「獅子堂凛(ししどう りん)」という名の人物へ譲渡させる、という内容だ。あまりの理不尽さに、一葉は呆れて顔を上げた。「あなたが……獅子堂凛?」名を呼ばれた若い女――凛は、汚らわしいものを見るかのような目で一葉を睨みつけた。「あんた
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第299話

「わたくしが誰か分かったのなら、理解できるはずよ。このわたくしこそが、深水家の正当な後継者!深水家の会社……つまり、あんたが持っているあの二つの会社は、すべてこのわたくしのものなの!今すぐわたくしに会社を返しなさい。さもなければ、どうなっても知らないわよ!」凛は獅子堂家令嬢という立場ではあるが、家は極端な男尊女卑。たとえ取り違えがなかったとしても、彼女の手に渡る財産はごく僅かだった。ましてや、今は血の繋がりすらないのだ。だからこそ、自分が生まれた時に深水言吾という男と取り違えられたと聞かされると、凛はすぐにその男の身辺を調査した。そして深水家が相当な資産家であることを突き止めると、すぐさまこうして乗り込んできたのだ。取り違えさえなければ、自分が深水家の唯一の後継者として、その富をすべて手にしていたはずなのだから。一葉は、この女は本気でどこかおかしいのではないかと感じた。「凛さん、一度ご自身で調べてみてはいかがです?私のこの二つの会社は、深水家とは一銭たりとも関係ありませんわ」「関係なくなんてないでしょう!?深水言吾は、今まで深水家に育てられてきたのでしょう?深水家が育ててやらなければ、あいつが大人になれたとでも?こんな大金を稼げたとでも言うの!?いいこと? あいつのものは深水家のもの。そして深水家のものは、このわたくしのものなのよ!さっさと会社を渡しなさい!」そのあまりに理不尽な物言いに、一葉は思わず鼻で笑ってしまった。「凛さん。お帰りの際は、そちらを左に曲がってくださいな。すぐに立派な精神病院がありますから、一度その頭を診ていただいてはいかがです?」凛はカッと頭に血が上り、顔を真っ赤にして叫んだ。「青山ッ……!わたくしがこうして穏便に話してやっているのに、それを無下にするというのなら、容赦しないわよ!」「ええ、お待ちしておりますわ」一葉はボディガードたちに目で合図し、彼女を追い出すよう促した。ボディガードに腕を掴まれながらも、凛は悪態をつくのをやめない。「青山!わたくしに渡さなければ、その会社を守り通せると思っているのなら、大間違いよ!夢でも見てるんじゃないわよ!」「今、素直にわたくしに差し出せば、機嫌次第ではした金くらいはくれてやってもいい。一生、食うに困らない程度にはね。でも、もしこのまま恩を仇で返すとい
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第300話

「ほう……」慎也はただ一言、そう意味深に呟くと、すぐに「では、我々は急ぎますので」と話を切り上げた。まだ何か言いたげだった凛は、悔しそうに地団駄を踏むしかなかった。ようやく巡り会えた憧れの慎也様と、交わせた言葉はたったこれだけ。そればかりか、先ほどの品のない罵り声を聞かれてしまったかもしれない。慎也の心の中の自分のイメージが損なわれた。そう思うほど、凛の一葉に対する憎しみは、黒く、激しく燃え上がった。あいつが大人しくあの書類にサインさえしていれば、こんなことにはならなかったのに、と。車内に、静かな時間が流れる。一葉が、これから診るという患者のカルテについて慎也に尋ねようとした、まさにその時だった。唐突に、彼が口を開いた。「あんた、言吾に教えたのか。自分が獅子堂烈ではなく、深水言吾だ、と」一葉は一瞬息を呑み、次いで驚愕に目を見開いた。なぜ、彼がそれを知っているのか。まさか、あの仕事部屋に監視カメラでも仕掛けていたというの?あそこで言吾と話していた時、部屋には二人きりだったはずだ!一葉の思考を見透かしたように、慎也は鼻で笑った。「あんたの顔には、考えていることが全部書いてある。監視カメラなんぞ、仕掛ける必要もない」「……」一葉は言葉に詰まった。桐生慎也とは、本当に恐ろしい男だ。この若さでトップに君臨し、その地位を揺るぎないものにしている。それには確かな理由があるのだと、一葉は改めて思い知らされた。不意に、沈黙が破られる。「それほど、あいつが好きなのか。あれほどあんたを傷つけた男を、それでも許せるのか。あいつが少しでも苦しむのが、我慢ならないと」その問いに、どう答えるべきか。今の自分が、言吾に対してどのような感情を抱いているのか、一葉自身にも分からなかった。だから、彼女は黙っていることしかできなかった。一葉が答えあぐねているのを見て、慎也はそれ以上は追及しなかった。ただ、静かに告げる。「以前、俺が言ったことを覚えておけ。獅子堂の人間は、誰も彼も一筋縄ではいかん」その言葉を口にして、慎也は内心、少しばかり後悔していた。彼は生来、情の薄い男だ。他人の事情に首を突っ込むことなど、これまで一切なかった。目の前で誰かが死のうとも、その亡骸を跨いで先へ進むだけの男。たしかに青山一葉
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