All Chapters of 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた: Chapter 321 - Chapter 330

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第321話

その物言いはあまりにもか弱く、傷つき、一点の曇りもなく無実を訴えているように見えた。だが、言吾には分かっていた。目の前の女が、どれほど恐ろしい人間かということを。こんなにも儚げで、哀れな姿を見せながらも、その言葉の裏には、「たとえ証拠があって、私が子供に問題があることを知りながら故意に青山さんを陥れたと分かったところで、それが何だと言うの?」という、冷たい刃が隠されている。そんな証拠を突きつけて、私を罪に問えるのかしら。そんなもので、青山さんが私を突き飛ばしていないという、無実の証明になるとでも?——と。言吾は、体の両脇で垂らしていた拳を、強く握りしめては、また緩めた。「……何が望みだ?」その問いに、紫苑は彼の忍耐が尽きかけていることを察した。これ以上、哀れな女を演じ続ければ逆効果になりかねない。彼女は芝居がかった素振りも、涙も見せることなく、淡々と切り出した。「この数日で、私のことも調べ上げたのでしょう。私の家の事情も、ご存じのはずよ」言吾は、確かに知っていた。「あの継母の残忍さを考えれば、もし私の夫が死に、子供までいなくなれば……獅子堂家の次期当主の妻という立場どころか、私はこの家で何の価値もない存在になる。あの人が、私を見逃してくれると思う? 根絶やしにしようとするに決まっているわ」言吾は黙って聞いていた。紫苑もそれ以上は語らず、本題に入った。「あなたにはこれからも『獅子堂烈』でいてもらう必要があるの。私の夫として。そして私は、今まで通り、獅子堂家で最も愛される、唯一の若奥様のままでいなければならない!」言吾が何かを言う前に、彼女は畳み掛けた。「一生『烈』でいろと言っているわけじゃないの。本当の夫になってほしいわけでもない」「ただの協力関係よ。夫婦を演じるの。私が実家の実権を取り戻せば、この協力関係は終わり。もし……あなたが一日でも早く、私が実権を取り戻すのを手伝ってくれるなら、私たちの偽りの結婚生活も、それだけ早く終わらせることができるわ。あなたが同意さえしてくれれば、青山さんはすぐにでも、何事もなかったかのように出てこられる。私の問題が片付けば、あなたと青山さんは、また仲睦まじい夫婦に戻れるのよ。それに……実のところ、私のためでなくとも、あなた自身にも『獅子堂烈』という身分は必要なはず
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第322話

言吾はすぐには答えなかった。一葉が住む部屋に戻り、彼女がもう一度同じ問いを投げかけるまで、彼は口を閉ざしていた。やがて、重い沈黙を破って、彼が言った。「……彼女と、ある条件を呑んだんだ」「条件って?」「引き続き、『獅子堂烈』を演じること。そして、彼女が実家を掌握するまで、名目上の夫婦であり続けることだ」そう言うと、言吾は病院で紫苑と交わした会話の概要を話した。彼の話をすべて聞き終えても、一葉はすぐには言葉を見つけられず、ただ黙り込んでいた。不意に、言吾が彼女の手を強く握りしめた。「一葉……待っていてくれないか?」彼はこれから「獅子堂烈」となり、戸籍上の妻を持つ男になる。それは、もう二度と一葉と親密な関係にはなれないことを意味していた。彼は、紫苑が権力を手にするのを助け、そして自らが獅子堂家を完全に掌握し、誰にも脅かされることのない未来を手に入れるまで、待っていてほしいと懇願しているのだ。——けれど、待つべきなのだろうか。一葉の中に、その選択肢はなかった。待ちたくない。待つことなど、到底できはしない。むしろこれは、ためらい続けていた自分の背中を、天が押してくれているのではないか。これ以上、言吾と共に歩むなという、最後通告なのではないか。一葉は、そう感じていた。だから、彼女はそっとその手を振りほどき、まっすぐに言吾を見つめて告げた。「あなたを待つつもりはないわ」「私たち、もうここで終わりにしましょう」一葉がそんな言葉を口にするとは、夢にも思っていなかったのだろう。言吾は衝撃に目を見開き、その瞳がありありと傷ついた色を浮かべた。「どうしてだ……?一葉、なぜなんだ?」彼の驚愕を、その痛みを目の当たりにすれば、やはり一葉の胸も疼いた。だが。その疼きは、ほんの一瞬のこと。その痛みは、もはや彼女の決意を鈍らせ、翻意を促すほどの力を持ってはいなかった。同じ人間であるはずなのに。記憶を失った言吾に対しては、最後まで非情になりきれなかった。それなのに、彼が記憶を取り戻したと知った途端、こんなにも強く、心を鬼にできる。おそらく、一葉が愛していたのは、いつだって過去の深水言吾だったのだ。自分のことだけを見つめ、純粋な愛だけを注いでくれた、あの頃の彼を。彼女が手放せずにいたのもまた、その純粋だった彼へ
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第323話

言吾の瞳が、みるみるうちに赤く染まっていく。「一葉……俺たち……ついこの間まで、上手くいっていただろう?」記憶を失っていた、ほんの短い間。二人の時間は、確かに穏やかだった。「俺の脚が治ったら、もう一度やり直すことを考えるって、言ってくれたじゃないか。彼女の条件を呑んだのは、本当に、どうしようもなかったんだ!「お前のためだったんだ、一葉……」その声には、どうしようもない悔しさが滲んでいた。お前を助けるためだったのに。そのために、こんな条件を呑んだのに。助け出されたお前は、俺を捨てると言うのか。——と。「言吾、あなたに助けられたからといって、感謝はしないわ。だって、この理不尽な災難は、元を辿ればあなたのせいだから。もし、私のために犠牲になったとでも思って不満なら、約束を破っても構わない。彼女に言って、また私をあそこに戻させればいいわ。あなたに頼らなくても、私には出る方法があるもの。あなたに、私のために何かを犠牲にしてもらう必要なんて、これっぽっちもないのよ」彼女がそう言い切れるのには、理由があった。一葉が弁護士を通じて連絡を取らせていた相手から、すでに返事は届いていたのだ。海外の巨大複合企業の研究所へ行くことを承諾しさえすれば、彼らが無罪放免のために手を尽くしてくれる、と。初めて留置場に入れられた時、恩師である桐山教授に言われた言葉が、一葉の脳裏をよぎる。「君が誰にも揺るがせないほどの高みに立てば、簡単には打ち負かされない。何かあっても、君を必要とする多くの人間が守ってくれる」一葉の卓越した研究成果は、ある海外の大企業グループの目に留まり、研究所への参加を熱望されていたのだ。だが、彼女が求めているのは金銭ではない。自分の国に貢献し、国内の医療業界を発展させること。それが一葉の願いだった。高額な医療費に苦しむ人々や、最先端の医療機器を使えない患者たちが、より便利な生活を送れるようなスマートデバイスを届けたい。だからこそ、その誘いを一度は断っていた。留置場に入ってから、慎也も言吾も、必ず助け出すと言ってくれた。しかし、誰かに頼るよりも、自分自身を頼るべきだ——そう考えた一葉は、万が一に備え、すぐさま弁護士に命じて件の企業に連絡を取らせていたのだ。言吾に頼らずとも、彼女は出られる。その代償は、海外の研
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第324話

「兄さんは俺という弟に会ったことなんて一度もなかった。でも……多分、血の繋がりがそうさせたんだろうな。俺が自分と瓜二つだと知り、俺の正体に気づいた瞬間、兄さんは、何の躊躇いもなく、俺の身代わりになったんだ」そのことを口にしながら、言吾の脳裏には当時の光景が蘇っていた。本物の烈が自分を庇い、身代わりとなって死んでいったあの光景が……彼の目には、知らず知らずのうちに涙が滲んでいた。幼い頃から裏社会の闇の中で生きてきた慎也のような、冷徹な人間とは対照的に、温かい家庭で蝶よ花よと育てられてきた言吾は、企業のトップに立ち、様々な苦難を経験した後でさえも、その性質の根底にはどこか子供っぽい純粋さがあり、情に厚く、誠実な男だった。人から受けた恩は、必ず返そうとする。それが命の恩であれば、尚更。ましてや今回は、実の兄が相手なのだ。「兄さんは死ぬ間際、俺にあんなにも頼んできたんだ。妻と子のことを頼むって……俺が『獅子堂烈』になって、紫苑が実家の実権を取り戻すのを手伝うのは、兄さんへの恩返しでもある。兄さんがいなかったら、俺はとっくに死んでたんだ」自分の行動を理解してほしいと、言吾は必死に訴えかけてくる。その気持ちは、一葉にも痛いほど分かった。もし誰かが、自分の命を犠牲にしてまで助けてくれたのなら、自分だってその恩に報いたいと、きっと願うだろう。だが。一葉は、これを機に、彼との関係にけじめをつけたいと、強く思っていた。愛したいのに愛しきれず、手放したいのに手放せない。彼の優しさを思い出しては胸が温かくなり、彼から受けた傷を思い出しては息もできないほど苦しくなる——そんな日々に、もう終止符を打ちたかった。ただ、言吾のあの執着の強さを考えると、今ここで無理やり関係を断ち切ろうとすれば、彼は後先を考えず、無茶な行動に出るかもしれない。一葉はしばらく考え込んだ。「こうしましょう。私は待つわ。あなたが、やるべきことをすべて終わらせるまで。私たちのことは、それから改めて話し合いましょう。でも、その間……あなたが『獅子堂烈』でいる間は、もう二度と会わないこと。すべてが片付いてから、また話しましょう。私が心変わりするんじゃないかなんて、心配しなくていい。当分どころか、この先の人生で、もう誰かと恋に落ちるつもりなんてないから
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第325話

恩師である桐山教授は療養中の身だ。今回、自分が拘留されたことなど、とても知らせることはできなかった。留置場の冷たいベッドの上で一葉が最も案じていたのは、明日に迫った先生の退院日に、自分が迎えに行けないことだった。何も知らずに一人で退院する先生が、要らぬ心配をしてしまうのではないか……そのことばかりが胸に重くのしかかっていた。こうして外の世界に戻れた今、その心配は綺麗に消え去っていた。安堵からか、その夜は本当に久しぶりに、一葉は朝まで深く眠ることができた。翌朝、一葉は早くから身支度を整え、桐山教授を迎えに病院へと向かった。しかし、病院のロビーに足を踏み入れた途端、思いがけない人物と顔を合わせることになる。紫苑だった。元々細い体つきの彼女だが、今は一陣の風にも吹き飛ばされてしまいそうなほど、一層弱々しく、そして儚げに見えた。今回の騒動では、この人も相当な代償を払ったということか……一葉がそんなことを考えていると、相手が先に気づいた。紫苑は、一葉に向けて力なく唇の端を歪める。「青山さん……少し、お話ししませんこと?」「結構ですわ」彼女と交わす言葉など何もない。一葉はきっぱりと断った。そして、無言で背を向け、その場を立ち去ろうとした、その時だった。背後から、絹を引くようなか細い声が追いかけてくる。「今回の教訓……これだけではまだ、何もお分かりになりませんこと?」謂れのない罪で自由を奪われたのだ。心の底から湧き上がる怒りを、無視することはできなかった。一葉はゆっくりと振り返り、冷たい光を宿した瞳で紫苑を真っ直ぐに見据える。「あなたご自身がお体を張って仕組んだ芝居で、私が捕まっていたのはたったの一日半。どう計算しても、割に合わないのはあなたのほうじゃありませんこと?紫苑さん」「伺いましたわ。昨日、あなたは大変な目に遭われたとか。大出血で、命を落としかけたそうじゃありませんの」「人として、やはり善良であるべきですわね。でないと……」一葉はそこで言葉を切り、嘲るでもなく、憐れむでもない、ただ事実を告げるだけの声で続けた。「天罰というものは、案外すぐに下るものですから」紫苑の顔色が見る間に険しくなる。自分が見下しているこの女が、まさかこんな口の利き方をしてくるとは、夢にも思わなかったのだろう。「青山さん、少しでも賢い方なら、
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第326話

科学技術サミットの後、一葉が研究開発したスマートチップとデバイス周波数治療技術は、多くの国から注目を集めていた。そうなると、もはや研究室で数個を試作するような小規模な段階は終わったのだ。これからは、大規模な量産体制へと移行しなければならない。誰の目にも明らかな金のなる木だ。サミットの直後から、提携を申し出る企業が後を絶たなかった。一度はパートナーを決め、製造を委託したのだが、その企業は品質こそ良かったものの、たった三回の納品を終えただけで、マージンの引き上げと単価の値上げを要求してきたのだ。早々に足元を見るような企業と、長期的な関係が築けるはずもない。ちょうど新たな提携先を探し始めようと思っていた矢先だった。まさか、それを慎也が知っているとは。驚きを隠せずにいる一葉に、目の前の男はふっと笑みをこぼす。そして、手にしたワイングラスを一葉の方へ軽く掲げてみせた。「ビジネスの世界では、情報が命だからな。俺と組むというのは、どうだ」その提案は、さらに一葉を驚かせた。これまでの親しい付き合いを考えれば、もし彼にその気があるなら、もっと早い段階で声がかかってもおかしくなかったからだ。きっと、とうの昔に提携関係を結んでいただろう。一葉の心の内を読み取ったかのように、慎也が言葉を続ける。「以前は、関連する工場を持っていなかった。だが、つい最近、数社ほど買収してな。品質は、俺が保証する」一葉は、慎也という人間を二年近く見てきた。その人柄も、そして能力も、深く信頼している。だからこそ、何の迷いもなかった。彼女は手の中のグラスを、目の前の男に軽く掲げてみせる。「よろしくね、慎也さん」その言葉を受けるように、慎也はグラスに残っていたワインを一息に飲み干した。普段から、その胸の内を窺い知ることのできない深淵のような男。だが今日の一葉には、その瞳の奥に宿る色が、いつも以上に深く、そして暗いものであるように感じられた。ワインを飲み干してから、慎也は何も話さない。重く沈んだ空気が、まるで肺を締め付けるかのように息苦しい。何か……何か話さないと……一葉は内心で焦っていた。スマートフォンでも見ていようかと思ったが、それはあまりに失礼な行為に思えてためらった。ふと、彼の腕に巻かれた一連の数珠が目に入る。「慎也さんって、仏教を?」祖母が熱心な仏教
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第327話

一葉の指が刃に触れようとした、まさにその刹那。突如、目の前の女が、凄まじい勢いで蹴り飛ばされた!常軌を逸した力と、目で追うことさえできない速さ。一葉には、ただ目の前で何かが一瞬揺らめき、女の体が宙を舞ったようにしか見えなかった。直後、一葉の手が力強く掴まれた。その手を隅々まで確認し、どこにも傷がないことを見て取ると、鬼のように険しかった男の貌が、僅かに和らぐ。「馬鹿か、お前は!素手で刃物を掴もうとする奴があるか!」「その手に傷でもついたら、どうするつもりだった!」まるで本当の馬鹿を叱りつけるように、慎也は一葉の手を握りしめたまま怒鳴った。「……」あまりに切迫した状況だったのだ。一葉にしてみれば、彼の命と自分の手、どちらが大事かなど、考えるまでもないことだった。それにしても、この怒鳴り方はあんまりではないか。「なによ、そんなに怒らなくてもいいじゃない。一応、あなたの命を助けようとしたのに」慎也はふ、と冷笑を漏らす。「俺の命を?俺が、お前のような女を肉壁にするとでも思ったか」襲撃者が彼の間合いに入った瞬間、慎也はその危険を察知していた。ただ、彼が予測できなかったのは、一葉が自らの命を顧みずに飛び出してくること、それだけだった。一葉は不満げに唇を尖らせる。「どっちにしても、善意からの行動だったでしょう?」なおも彼女の愚かさを責めようとした慎也だったが、その少し潤んだ瞳と視線がかち合い、それ以上言葉を続けることができなかった。ただ、胸の内に得体の知れない感情が渦巻くのを感じていた。彼のために命を懸ける人間は、これまでにも数多くいた。だが、その全てが、何らかの利益を計算しての行動だった。打算も何もなく、ただ純粋に彼を救おうとして、無謀にも身を投げ出す人間など、初めてだった。本当に、救いようのない馬鹿だ、と彼は思う。そして、そんな彼女の姿が、かつて海で何者かに救われた時の、あの感覚を不意に蘇らせるのだった。そこへ、車を回してきた運転手とボディガードが駆けつける。彼らは、まだ地面から起き上がれずにいる襲撃者に容赦なく蹴りを一発食らわせた。その衝撃で、女のかぶっていたウィッグが勢いよく吹き飛ぶ。長い髪の下から現れたのは、男の短い髪だった。女装した男。どうりで、あれほど背が高かったわけだ。
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第328話

一葉が何かを言う前に、慎也が口を開いた。「子供は、誰かが警察に引き渡す」そう言うと、彼は運転手に発車を命じた。車がしばらく走り、空港の喧騒から離れた頃、慎也は一葉に向き直った。「もし俺が、あの男の言う通り、意図的にあいつの一家を破滅に追い込んだとしたら……お前は、俺が死ぬべきだと思うか」一葉は息を呑んだ。慎也がそんな問いを投げかけてくるとは、思ってもみなかったからだ。なかなか答えられずにいる一葉に、慎也が「ん?」と促す。彼が真剣な答えを求めているのが伝わってきた。一葉はしばらく黙って考え込んだ後、ゆっくりと口を開いた。「あなたが死ぬべきかどうかなんて、私には判断できない。でも、私にとって、慎也さんはいい人よ。あなたが育てた旭くんも、すごくいい子だし。そんなあなたが、わざと誰かの家族をめちゃくちゃにするような人だとは思えないわ。それに、もし本当にわざとだったとしても、きっと、あなたなりの理由があったんだと思う」慎也は、ふっと自嘲するように笑った。「俺がいい人、か」まるで、生まれて初めてそんな言葉をかけられた、というような響きだった。「分かってるはずだ。俺がお前を助けるのは、全て旭くんのためだ」利益なくして動く男ではないのだ、と彼は言外に告げている。「旭くんのためだとしても、関係ないわ。あなたは私を助けてくれた。私にとっては、それだけで十分、いい人よ」慎也は興味深そうに片眉を上げた。「つまり、お前はこう言うのか。俺がお前を助けさえすれば、俺は『いい人』だと。たとえ俺が、他の誰かにとって極悪非道、万死に値する人間だったとしても、か?」それは、あまりに鋭い問いだった。人の道徳心を試すような、残酷なまでの問いかけに、一葉は再び言葉を失う。しばらくの沈黙の後、彼女は意を決したように顔を上げた。「私は、そんなに高尚な人間じゃないわ。人より強い道徳心があるわけでもない。私がいつも基準にしているのは、ただ自分の心に恥じないかどうか、それだけよ。あなたは私を助けてくれた。だから、私はあなたのことをいい人だと思う。もしあなたが困っていたら、今度は私が助けたいと思うわ」「私には、赤の他人の立場に立って、あなたのことを考えるなんてできない。そして、あなたが死ぬべきだなんて、到底思えないの」慎也はそんな一葉をじっと見つめ、その
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第329話

一葉は一瞬、息を呑んだ。視線を上げると、文江の憎悪に満ちた鋭い眼光と真正面からぶつかった。嫌な予感が、背筋を駆け巡る。案の定。壇上へと上がった文江は、その威圧的な空気を隠そうともせず、マイクを握りしめると言い放った。「この青山一葉への授賞を、私は拒否いたします!」その一言で、会場は瞬く間に騒然となった。以前、科学技術サミットで鮮烈なデビューを飾った一葉は、今や時の人だ。その彼女が受賞者の一人だとあって、今回の授賞式には普段より遥かに多くのメディアが詰めかけていた。その多くが生中継を行っている。ニュースを扱う者たちが何よりも渇望するもの――それは「爆弾」だ。時の人である天才科学者の受賞。それ自体が格好のニュースだ。だが、その授賞をプレゼンターが公然と拒否するとなれば――それは、比べ物にならないほど巨大な「爆弾」となる。だからこそ、我に返った記者たちは、一斉に前へと押し寄せ、その目は興奮に爛々と輝いていた。正気を取り戻した司会者が、慌ててその場を取り繕う。「し、獅子堂夫人、ご冗談でしょう?これはその……」司会者の言葉を、文江は冷え冷えとした声で遮った。「冗談などではありません。本気で言っていますのよ。科学者にとって、研究成果もさることながら、最も重要なのは人品だと、私は考えます」「しかしてこの青山一葉という女、人品など皆無に等しい!この女は、私の息子の治療を名目に近づき、まんまと誘惑したのです。そればかりか、嫁への嫉妬心から、妊娠五ヶ月だった嫁を故意に突き飛ばし、お腹の子は死産、嫁自身も大出血で死の淵を彷徨いました!このような人間が、栄えある賞に値するはずがない!いえ……生きている価値すらないのです!」文江が言い終わるやいなや、彼女の背後にあった大型スクリーンが切り替わった。それまで一葉の輝かしい功績を映し出していた画面は、彼女が深水言吾の脚を治療していた際の、親密さを窺わせる様々な写真へと差し替えられたのだ。さらに、高柳家の誕生日パーティーで撮影されたという監視カメラの映像が流される。そして、紫苑が大量に出血し、純白のドレスを真っ赤に染め上げた、衝撃的な写真。監視カメラの映像は、まるで一葉が紫苑を突き飛ばしたかのように見えた。そして、血に染まった紫苑の白いドレスは、あまりにも痛ましく、目を覆いたくなる
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第330話

つまるところ、この悲劇は一葉のせいでも、義母のせいでもなく、全ては母親である自分のせいなのだと。自分の至らなさが招いた結果なのだと、彼女は涙ながらに語るのであった。動画の中で、元より秋風に咲く花のように儚げで美しい顔立ちの紫苑は、純白のドレスを身に纏い、その姿はいっそうか弱く、清らかに見えた。彼女は目を赤く潤ませながら、すべては母親である自分の過ちだと語る。その釈明動画を見た者は誰もが、思わず涙を誘われた。彼女の境遇に同情し、その健気さに胸を打たれたのだ。そして、あまりにも「善い人」すぎる、と。監視カメラの映像では、どう見ても一葉が突き飛ばしているように見えるにもかかわらず、彼女は自分自身が体勢を崩して転んだのだと言い張るのだから。子供を失った悲劇の全責任を、自ら一人で背負い込んでいた。なんて……あまりに善良な人なのだろう!一瞬にして、ネット上の同情はすべて紫苑へと集まった。彼女こそ、この世で最も心優しい人間だと、誰もがそう信じて疑わなかった。そんな賞賛の声がネット上を席巻する中、ある疑問が投げかけられる。以前、青山一葉は夫の深水言吾ととっくに離婚しているという話ではなかったか?それも、裁判沙汰になるほど揉めたと。その問いかけに、すぐさま別の誰かが答えた。その通りだ、と。一葉と言吾はとっくに離婚しており、しかも、かなり泥沼化した離婚だった。夫が過去に何をしでかしたのかは不明だが、あれほど彼が過ちを認めて許しを請うたにもかかわらず、一葉は断固として離婚を突きつけ、彼の全財産を奪い取ったのだ!その答えは、さらなる疑問を呼んだ。あれほど断固として言吾を許さず、離婚までした女が、なぜ、彼と瓜二つだというだけの獅子堂烈に、今になって執着するのか?本人が目の前で跪いて許しを請うても決して靡かなかったというのに、身代わりにはあっさりと靡いた。その理由として考えられるのは、ただ一つ。深水言吾よりも、獅子堂烈の方が遥かに裕福だからだ。夫から奪った全財産だけでは飽き足らず、今度は獅子堂家の富を狙っているのに違いない――それ以外に、理由など見当たらない!この見解は、瞬く間に全ての人々の賛同を得た。誰もが、こう結論付けたのだ。一葉は烈の脚を治療する過程で、彼が元夫よりも遥かに富裕であると知るや、「元夫と瓜二つ」
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