All Chapters of 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた: Chapter 641 - Chapter 650

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第641話

そんな一葉の様子に、部屋に入ってきた言吾はすぐに気づいた。彼女がスマートフォンを手に呆然としていること、その画面に慎也との通話終了の表示が出ていることを見て、全てを察したのだろう。彼は、一葉の不安を打ち消すように、静かに言った。「心配するな。悪い知らせじゃない。尾白家との戦いの、勝敗を決する重要な一手だ」この半年の間、言吾の指揮のもと、獅子堂家はかつての勢いを取り戻し、さらなる隆盛を極めていた。そして、慎也との協力関係を深める中で、彼の仕事の内情についても、一葉以上に詳しく把握していた。彼女が何かを言う前に、言吾は言葉を続ける。「慎也さんから、もう聞いたんだろう。旭くんが無事だという話を。……信じろ。旭くんだけじゃない。慎也さんも、絶対に無事だ」「桐生家は、必ず尾白家を完全に叩き潰す」言吾が「必ず成功する」と言ったことは、これまで一度も外れたことがない。その確信に満ちた言葉は、一葉の心を不思議と落ち着かせる力を持っていた。彼女の中の漠然とした不安や恐怖が、すうっと薄れていくのを感じる。スマートフォンをテーブルに置くと、一葉は重い体を支えるようにしてゆっくりと立ち上がった。少し、庭を散歩しようと思ったのだ。出産が近いこともあり、医師からは安産のためにできるだけ歩くようにと勧められていた。そのため、毎日三十分ほど庭を歩くのが彼女の習慣となっていた。しかし、立ち上がったまさにその瞬間、腹部にただならぬ気配を感じた。何かを口にする間もなく、太腿の間を、生温かいものがつうっと流れ落ちていく感覚があった。出産に関する知識をひと通り学んでいた一葉は、すぐにそれが何を意味するのかを理解した。破水だ。陣痛が、始まる……!一葉の異変にいち早く気づいたのは、言吾だった。彼は慌てて彼女の体を支えると、すぐさま大声で人を呼んだ。「誰か来い!すぐに医者を呼んでくれ!」別荘に常駐していた医療チームが瞬く間に駆けつけ、彼女は常々検診を受けていた病院へと緊急搬送された。妊娠期間中の徹底した栄養管理と適度な運動のおかげだろうか、病院に着いてからほどなくして、伝説に聞くような、この世のものとは思えないほどの陣痛を味わう暇もなく、彼女はあっという間に男女の双子を安産した。そのあまりのスムーズさは、数々の出産に立ち会ってきた医師たちでさえ、「双子の出産でこ
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第642話

高級私立病院に勤める彼らは、これまでにも数多くの富豪たちを相手にしてきた。患者の家族から、感謝の印として破格の謝礼を受け取ることも決して珍しくはない。しかし、言吾ほど桁外れの人間には、誰も出会ったことがなかった。病院の職員全員に、家を一軒。「さすがは当代一の大富豪……!」と、誰もが舌を巻いた。言吾のこの破天荒な大盤振る舞いは、当然ながら病院中のスタッフの士気をこの上なく高めた。その結果、一葉と子供たちが受けるケアは、以前にも増して手厚く、心のこもったものになった。母親である一葉本人以上に、彼らの方が赤ん坊たちの些細な変化に気を配っているほどだった。生まれたばかりの赤ん坊というものは、日に日に顔つきが変わっていく。数日も経つと、まるで皺くちゃの小さなおじいさんのようだった二人の小さな命は、透き通るような白い肌をした、見る者の誰もが頬を緩める愛らしい天使へと姿を変えていった。二人は、まるで示し合わせたかのように、一葉と言吾の美点だけを見事に受け継いでいた。まだ目鼻立ちもはっきりしないうちから、人を惹きつけてやまない魅力があった。誰もが口を揃えて、この子たちは将来、とんでもない美男美女になるだろうと言った。他人でさえそうなのだから、父親である言吾の溺愛ぶりは、もはや言うまでもない。彼は、仕事など何もかも放り出して、一日中この二人の天使を抱きしめていたいと本気で思った。しかし、そうもいかない。特に、愛しい娘の顔を見るたびに、彼は決意を新たにする。世界一の富豪になって、この世の誰にも、この子を指一本触れさせはしない、と。そして、娘が生まれてからというもの、彼はある想像に苛まれるようになっていた。かつて自分が一葉にしてきた数々の残酷な仕打ちを思い出すたびに、もし、どこかの男が、自分の娘に同じことをしたら、と。その瞬間、彼は自分自身を殺してやりたいほどの激しい自己嫌悪に襲われた。自分の娘が同じ目に遭わされたなら、相手を許すことなど万に一つもない。必ずこの手で地獄へ送ってやるだろう。かつて一葉が味わった痛みを、彼は今、身をもって理解し始めていた。自分がどれほど愚かで、許されざる罪を犯したのかを。もはや、許しを乞う資格など、自分には微塵もない。残りの人生のすべてをかけて、罪を償うこと。それが、今の彼にできる唯一のことだった。新生児という
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第643話

その考えに、我に返った千陽は愕然とした。自分は本当に病気なんだわ。どうしてこうも何度も、あの男の肩を持つような考えが浮かんでくるの!クズはクズよ。今さらどんなに必死に償ったって、クズはクズのままなんだから!そんな風に葛藤する千陽の様子に、ベッドに身を横たえる一葉は、思わずくすりと笑みを漏らした。「そんなに悩まないで。頭がおかしくなったなんて思わなくていいのよ。今の言吾は、もう昔のあの人じゃない。だからあなたが今の彼を見て、いい人だとか、可哀想だとか、許してあげたいって思うのは、ごく自然なことよ」「仏様の教えにもあるじゃない。『過ちを認めて改めることは、何より善いことだ』って。人が本当に過ちを悔いているなら、許したいと思うのは当然のことよ」一葉の言葉に、千陽はたまらず反論する。「でもっ、彼はあなたをあんなに傷つけたのよ!もし簡単に許しちゃったら、あなたの今までの苦労は何だったのって話じゃない!」「それに、もしあなたが許した途端に、また昔の彼に戻ったらどうするの?」そこまで言って、千陽自身も直感的に「それはない」と感じてはいた。今の言吾が、再び一葉を傷つけるようなことをするとは、どうしても思えなかった。だが……それでも、そう考えずにはいられないのだ。それこそが、癒えない傷跡というものなのだろう。今の言吾がどれほど善良であろうと、過去の彼が一葉と、そして親友である千陽の心につけた傷は、決して消えることはない。だからこそ、どんなに今の彼を「良い」と思っても、心の底から彼を許し、過去の痛みを完全に忘れ去ることなどできないのだ。「今の彼がいいと思えれば、それでいいのよ。未来のことを思い悩む必要もないし、過去を振り返る必要もない」人は、「今」を生きればいい。今の一葉が望むのは、ただ子供たちが健やかであることだけ。彼は子供たちにとって良い父親でいてくれる。ならば、彼女も子供たちのために、彼という「良い父親」がいてほしいと、そう思うだけだ。もし将来、彼が疲れたり、心変わりしたりして、子供たちに優しくできなくなったとしたら、その時はまた捨てればいいだけのこと。何も怖がる必要はない。千陽は一瞬、言葉を失った。一葉の言っている意味が、うまく理解できない。「ええと……ちょっと待って。それって結局、彼を許したの?許してないの?どっちなのよ」
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第644話

電話に出た途端、一葉は慎也の声が弾んでいるのに気づいた。もしかして旭くんのことではと、一葉が問いかけるよりも早く、慎也が口を開いた。「旭くんの正確な居場所を突き止めた。これから一緒に、あの子を迎えに行かないか?」一葉は思わず声を弾ませた。「うん、行く!いつ出発するの?場所はどこ?」「支度をしていてくれ。すぐにそちらへ着く」慎也がそれほど堂々と迎えに来ると聞いて、一葉は瞬時に悟った。これは、ただ旭を見つけたというだけではない。きっと、尾白家を完全に打ち負かしたのだ、と。そうでなければ、あれほど彼女の身を案じていた彼が、こんなにも大っぴらに姿を現すはずがない。ましてや、旭を迎えに行くのに自分を同行させるなど、あり得ないことだった。はっと我に返り、一葉は思わず問いかけた。「尾白家は……片付いたの?」「ああ。完全に、な」慎也のその確信に満ちた声に、一葉は感嘆の声を漏らした。「慎也さん……すごすぎるわ!」一葉の慎也に対する尊敬の念は、もはや感嘆を通り越して畏敬の念すら抱くほどだった。彼は本当に、とてつもない人物だ。尾白家と桐生家が長年争ってきたことを考えれば、彼が傑物であることは疑いようもなかったが、それでもこの抗争はまだ数年は続くと一葉は思っていた。それがまさか、たった半年余りで完全に終止符を打ってしまうとは。「これほど早く尾白家を終わらせられたのは、言吾の協力が大きかった」言吾とは恋敵の関係にあり、特に子供たちが生まれてからは、彼が自身の後半生の幸福における最大の障壁であることは慎也自身が一番よく分かっていた。にもかかわらず、慎也は言吾の功績を隠そうとはせず、一葉の前でこうして正直に口にしたのだ。彼が求める幸福は、策略によって手に入れるものではなく、心から愛し愛されること。慎也は目的のためなら手段を選ばない冷徹さを持ち合わせている。彼が本気で望めば、その策略で手に入れられないものなどない。だが、その狡猾さを、心から愛する女性にだけは使いたくなかった。慎也の言葉に、一葉は一瞬、虚を突かれた。言吾と慎也が協力関係にあることは知っていたが、それはあくまで互いの利益のためのものだと思っていた。まさか、彼がただ純粋に、慎也が尾白家を打ち倒すのを手伝っていたとは。我に返った一葉は、余計なことは何も言わず、ただ家で待っていると
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第645話

こちらの視線に気づいたのだろう。隣にいる妊婦の汗を拭っていた大柄な青年が、ふと顔を上げてこちらを見た。四つの目が交錯する。彼の瞳に浮かぶ、こちらに向けられた完全な「無知」。その眼差しが、彼が生きていながら連絡を絶っていた理由を、一葉に確信させた。彼は、記憶を失っているのだ。その時、慎也の腹心の部下が歩み寄り、旭の詳しい状況を報告し始めた。「お坊ちゃまは、車から飛び降りた際に頭部を強打し、ご自身の記憶をすべて失っておられます。怪我が回復した後、当時お坊ちゃまを助けた女性――つまり、お隣の妊婦の方と、時を重ねるうちに愛情が芽生え、一緒になられたとのことです。お腹の子はお坊ちゃまのお子さんで、現在妊娠四ヶ月と聞いております」報告された内容は、概ね二人が予測していた通りだった。旭は記憶を失ってはいたが、長年の訓練で培われた鋭い勘は、鈍ってはいなかったらしい。何かを本能的に察知していたのだろう。一葉たちが彼の前に進み出て「家族だ」と名乗っても、彼はさほど驚いた様子を見せなかった。ただ、隣にいる妊婦の腕をそっと引き寄せ、まっすぐにこちらを見据えて言った。「彼女は、オレの妻だ。オレに帰ってきてほしいなら、この人を受け入れて、大切にしてくれるのが条件だ」一葉たちの身なり、纏う雰囲気、そして周囲に控える者たちの様子から、自分を迎えに来たこの一行が、そして彼自身の家が決して平凡なものではないと、旭は察していた。対して、彼の妻はごく普通の農家の出身だ。自分の家族が、身分の低い妻を受け入れてくれないのではないか。彼はそれを案じていたのだ。テレビドラマではよくある筋書きだ。そして、物語は現実を映す鏡でもある。目の前の彼らは顔をしかめ、不承不承、妻を受け入れるのだろうと、旭は思っていた。だからこそ、一葉たちが満面の笑みで彼女を歓迎するとは、夢にも思わなかったのだ。旭は少し戸惑ったが、特に何も尋ねてはこなかった。ドラマで見るような高慢な態度で妻を拒絶しないのであれば、その理由が何であれ、今はただ、妻を快く受け入れてくれるだけで十分だと考えた。血の繋がりというものなのだろうか。それとも、元々の彼の善良な気質、そして叔父である慎也とどこか通じるものがあるせいか。旭は、心のどこかで疑問を抱きながらも、本能的に慎也を信じていた。だから、それ以上は何
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第646話

慎也は、人の心を見透かすような、並外れて聡明な人物だった。一葉が会いたいと告げただけで、彼はこちらが何を言いたいのか、とうに察していたに違いない。いざ彼を前にすると、その瞳に吸い込まれそうになる。まるで満天の星空を閉じ込めたような黒い瞳。魂を絡め取られるほどに深く、美しい。その瞳に見つめられると、一葉は、切り出すはずだった言葉を咄嗟に呑み込んでしまった。だが、どれほど言いづらくとも、伝えなければならないことだった。「慎也さん。私たちの協力関係としての婚約は、もうとっくに終わっているけれど……以前のあれは、尾白家のことがあったから。だから、改めてきちんと、お話をすべきだと思ったの。これまで、本当にお世話になりました。感謝しています。今後、何か私に手伝えることがあれば、遠慮なく声をかけてください」「そこまで言って、自分の言葉があまりに他人行儀すぎたことに、一葉は気づいた。気まずさをごまかすように、彼女ははにかんだ。「……なんだか、すごく他人行儀ね。でも、これまでのことを考えれば……聡明なあなたなら、私の本当に言いたいこと、分かってくれるでしょ?」これまでの間に、慎也と一葉は多くのことを乗り越えてきた。その絆はもはや、戦友と呼んでも差し支えないほどに深いものだと一葉は感じていた。改めて言葉にするまでもなく、彼がいつか自分を必要とすることがあれば、力の限りを尽くすだろう。そう信じていた。一葉がさらに何かを言い募る前に、慎也が、ただひたすらに愛情深く、ひたむきな眼差しで彼女を見つめて言った。「お前の言いたいことは、分かっている」「だが、お前も分かっているはずだ。俺がお前と契約を結び、力を貸したのは、そんな見返りが欲しかったからじゃない。俺がずっと欲しかったのは、ただお前、その人だけだ」彼の瞳は、ただでさえ魂を捕らえるほどに美しい。その瞳で、こんなにもひたむきな愛情を湛えて見つめられたら、誰だって我を忘れてしまうだろう。そして何より、こんなにも美しい瞳を、自分のせいで少しでも曇らせたくない、と切に願ってしまうのだ。彼の視線に耐えきれず、一葉は目を伏せた。「あなたの気持ちは、分かってる。でも……慎也さん、私たちは釣り合わない。あなたは、もっと素敵な人にふさわしいわ」一葉は、決して自分に価値がないと思っているわけではない。むしろ、自分はどの分
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第647話

一葉と出会うまで、彼女と共にありたいと願うまで、慎也はずっと独りで生きていくと決めていた。数多の経験を積んできた彼だからこそ、断言できるのだ。一葉がどんな過去を持っていようと、他のどんな女性が素晴らしい条件を備えていようと、自分が望むのはただ彼女一人だけなのだと。「俺にとっては、お前がどんな過去を経験していようと、子供がいようといまいと、何人いようと、そして、俺がお前を愛するのと同じ熱量で俺を愛してくれなくても、そんなことは一切重要じゃない。お前がただ、俺のそばにいてくれるだけでいい。それだけで、俺は世界一の幸せ者だ。お前の子供は、俺の子供だ。俺はあの子たちにとって、実の父親以上の存在になってみせる。それ以下になるつもりはない」慎也の言葉に嘘はなかった。彼は元々、自分の子供を望んではいなかったし、あの小さな二人のことを心から愛おしいと思っていた。もし一葉と共に生き、あの子たちの父親となる機会を得られるのなら、彼は本当に、持てる力のすべてを注いで二人を慈しむだろう。慎也の言葉が本心であることは、一葉にも痛いほど伝わってきた。彼ほどの実直な人間が、これほどの覚悟を口にしたからには、必ずやり遂げるだろう。正直に言えば、これほど真摯な想いを向けられて、心を揺さぶられないと言えば嘘になる。感動しないわけがない。もし自分に子供がいなければ……彼のこの真情に触れたなら、あるいは、もう一度だけ勇気を出して、本気で誰かを愛することに挑戦できたかもしれない。だが、今の彼女には子供たちがいる。彼女の心のすべては、今や子供たちに注がれていた。何かを決める前には、まず子供たちのことを第一に考えてしまうのが、もはや習い性となっていた。今の慎也は信じられる。彼は本心から語っており、口にしたことすべてを本当に実行するだろう。しかし、時が経てば……人は、変わるものだ。今の真心が、未来永劫続くとは限らない。彼の人間性を疑っているわけではない。そうではなく、それが「人の性」というものだからだ。例えば、喉から手が出るほど欲しい、とても高価なバッグがあったとする。それを手に入れるために食事を切り詰め、すべてを投げ打つ。手に入らない間は、夢にまで見るほど焦がれる。そして、ようやく手に入れた暁には、それはもう宝物のように大切にするだろう。雨
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第648話

実際、一葉は自分の言葉通り、慎也にはもっと全身全霊で彼を愛せる人がふさわしいとずっと思ってきた。だから、彼と自分が結ばれるなどと考えたことは、一度もなかったのだ。一葉の言葉は、あまりに決定的だった。もう二人に未来はないのだと、慎也ははっきりと理解した。彼の理性は、これ以上何を言っても無駄だと告げている。普段の彼であれば、ここで潔く引き下がっただろう。だが、これは他のこととは訳が違う。生まれて初めて、これほどまでに一人の人間を渇望したのだ。唯一、手に入れたいと願った存在。その想いの深さが、いつものような冷静な判断を許さなかった。望みがないと分かれば、きっぱりと諦め、次善の策を見つける。それがこれまでの彼だったというのに。彼の低く、掠れた声が響いた。「……子供たちのために、言吾と復縁するつもりか」今の彼女が、子供と仕事しか見ていないことを、彼は知っていた。「今は、そのつもりはないわ」子供たちが成長するにつれて、将来どうなるかは、一葉自身にも分からなかった。普通の家庭を望む子供たちのために、言吾と復縁する日が来るかもしれない。未来のことは断言できない。ただ、少なくとも「今」は、そのつもりがないということだけは確かだった。「だとしたら……俺がお前を想い続ける、その権利まで奪わないでくれないか」その言葉に、一葉が何かを言い返そうとした、その時。慎也は静かに続けた。「時間はまだ十分にある。未来がどうなるかなんて、誰にも分かりはしない。いつかお前の考えが変わる日が来るかもしれないし、あるいは、俺の方がきっぱりと諦める日が来るかもしれない」「俺の時間を無駄にさせているなんて、思わないでくれ。これはすべて、俺自身が望んでいることなんだ。少しも無駄だとは思っていない。一葉。時として、良かれと思ってしたことが、相手にとっては迷惑になることもある。分かっているよ、お前は善意から、俺のために、今のうちにきっぱりと関係を断とうとしてくれているんだろう。だが、それは、必ずしも俺が望む『優しさ』じゃない」反論しようとしていた一葉は、彼の言葉に黙り込んだ。彼の言うことには一片の真理があり、ぐうの音も出なかった。関係を完全に断ち切ろうとしたのは、確かに、彼女の独り善がりな「優しさ」だったのかもしれない。「俺がどんな人間か、お前も知っているだろう。
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第649話

あれほど真摯に想いを告げられて、それでもなお、きっぱりと拒絶するのは、あまりにも忍びなかった。もはや、この問題の解決は、時間に委ねるしかない。時の流れが、いつか彼の心から、自分の存在を消し去ってくれる日が来ることを、今はただ願うだけだった。……一葉が家に帰ると、言吾は書類に目を通しながら、娘を抱いて室内をゆっくりと歩き回っていた。男女の双子だというのに、兄と妹の気性は正反対だった。兄・颯(そう)の方はどこに寝かせても手がかからずご機嫌でいてくれるのだが、妹・凪(なぎ)の方は抱っこが大好きで、誰かに抱かれていないと気が済まない。それも、ただ抱かれているだけでは駄目で、歩き回っていてもらわなければならないのだ。少しでも歩みを止めたり、座ろうとしたりする気配を察した途端、火がついたように泣き叫ぶ。おまけに人見知りも激しく、言吾に抱かれて揺られている時しかご機嫌でいてくれない。育児は親をやつれさせる、とはよく言ったものだ。一葉は目の前の光景を眺めながら、その言葉を改めて実感していた。子供たちが生まれて以来、言吾のやつれようは尋常ではなかった。あれほど彼を毛嫌いしていた親友の千陽でさえ、同情を隠せないほどなのだから。今の言吾がどれほどの苦労を強いられているかは、火を見るより明らかだった。本来なら、これほど手のかかる娘よりも、息子のほうに愛情が傾いてもおかしくない。だが、言吾は明らかに凪を溺愛しており、彼女が少しでも涙を見せるのが耐えられないようだった。言吾がそうやって泣くたびに抱き上げて甘やかすものだから、小さな我が儘姫は、ますます彼の腕の中から離れられなくなってしまったのだ。その結果、彼はオンライン会議中だろうが、こうして書類仕事に目を通している間だろうが、常に娘を抱きかかえていなければならない羽目になっていた。一葉の姿を認めると、言吾の目がぱっと輝いた。その足音と気配に気づいたのか、彼の腕に抱かれた凪も、くるりと首を巡らせて母親の方を見る。母親の顔が目に入ると、小さな手足をばたつかせて喜びを表現した。もともと大きな瞳が、今はさらにきらきらと輝いて見える。たとえ父親に抱かれるのが好きでも、この子にとって一番大好きなのは、やはり母親である自分なのだ。一葉は、ささやかな優越感を胸に感じていた。それに、言吾が抱いたま
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第650話

どうしようもなくこじれてしまった結婚生活を、終わらせるか、続けるか。その決断は、結局本人にしかできない。どれだけ親しい友人であろうと、口出しできる問題ではないのだ。かつて一葉自身が言吾への想いを断ち切れずにいた時、千陽が何も言えなかったように。今の自分もまた、千陽の夫婦関係に干渉することはできない。ただ、彼女の最も頼れる味方でいようと心に誓うだけだ。これから先、何があろうと、彼女が助けを求めるなら、自分はどんな障害だって取り除いてみせる。一葉は思考の海から意識を引き上げると、大股で歩み寄り、腕を伸ばして愛しい娘を抱きしめた。言吾は、何か言いたげに一葉を見つめたが、ふと思いとどまったように口を閉ざした。自分がどこへ行っていたかなど、一葉は一言も話していない。しかし、日に日にその権勢を取り戻していく彼には、言わなくてもお見通しなのだろう。慎也さんとの関係にけじめをつけてきたのか、と。喉まで出かかったその問いを、彼は寸でのところで飲み込んだ。今の自分に、そんなことを尋ねる資格などないと思い知ったからだ。ただ唇をわずかに動かしただけで、結局、彼は何も言わなかった。彼が何を考えているかは分かっていた。だが、一葉は何も答えず、ただ娘を抱いたまま自室へと戻っていく。二人は毎日顔を合わせ、同じ屋根の下で暮らしている。それでも、交わす言葉は子供のことばかりだった。彼がいる空間に、一葉はできるだけ一緒にいないようにしていた。過去に受けた心の傷をどう乗り越え、彼と向き合えばいいのか、一葉にはまだ分からなかった。だから、今はただ避けるしかない。彼との接点は、限りなく少ない。子供たちが日ごとに成長するにつれ、最初はどこか現実味のなかった我が子への想いが、日に日に深く、確かな愛情へと変わっていくのを感じていた。子供たちが父親からの愛情を受ける権利を、自分が妨げたくはない。それに、どれだけ大金を積んで優秀なベビーシッターを雇ったとしても、深い罪悪感と償いの念に駆られ、ただひたすらに子供たちを愛そうとする実の父親の献身には敵わないだろう。だから、言吾が望むままに、子供たちの世話はすべて彼に任せている。ただ、それだけ。それ以上のものを、彼に与えることはできなかった。一葉の姿がドアの向こうへ消えた途端、言吾の瞳から光が消え、深い影が落ちた。以前の
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