All Chapters of 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた: Chapter 651 - Chapter 660

681 Chapters

第651話

子供たちが三歳になった頃、千陽が二人に尋ねたことがあった。「パパとママが一緒になるのと、慎也おじさんとママが一緒になるの、どっちがいい?」と。幼い頃からずば抜けて聡明だった二人は、顔を見合わせて「どっちでもいい」と答えたという。ママが好きなら、自分たちはどちらでも構わない、と。二人は物心ついた時から常に一葉の気持ちを最優先してくれた。自分がどちらをより好んでいるかではなく、ただひたすらに母親が望むものを選んでくれる。その健気で、あまりにも愛おしい真心に触れるたび、この世に生を受けてから経験したすべての苦難は、この子たちに出会うためにあったのだと、一葉は心の底から思うのだった。三年にわたる弛まぬ努力の末、一葉が開発したスマートブレインチップが、ついに完成の時を迎えた。半身不随で寝たきりだった患者たちが、このチップによって少しずつ身体の自由を取り戻していく。その姿を目にするたび、苦しみから解放されていく人々を見るたび、この世は生きるに値すると、一葉は改めて思うのだった。自分の人生は、子供たちと、そしてこの研究のためにこそあるのだ、と。今のこの人生が、一葉は心から好きだった。変えたいなどとは、微塵も思わない。言吾に対しては、何の負い目もなかった。彼は子供たちの父親なのだから、彼らを慈しむのは当然のことだ。だが、慎也には、どうしても心のどこかで申し訳なさを感じてしまう。彼はいつも、「お前を好きなのは俺自身の問題だ。すべて俺がしたくてしたことだから、君が負い目を感じる必要などない」と言ってくれる。それでも、一葉の心から、彼に対する負い目が消えることはなかった。その想いにどうにかして応えたい一心で、一葉は完成したばかりのスマートブレインチップのグローバル特許ライセンスを、破格の低価格で旭に提供することにした。今や誰もが喉から手が出るほど欲しがり、血で血を洗う争奪戦が繰り広げられている最新技術だ。それを提示された時、これまでの人生で数々の修羅場をくぐり抜け、何事にも動じなくなっていたはずの旭でさえ、思わずといった体で、驚愕の表情を浮かべて一葉を見つめた。「……これがどれほどの利益を生むか、分かっているのか」一葉は彼に静かに微笑み返し、ええ、と頷いた。どれほどの莫大な利益になるかは理解している。けれど一葉にとって、
Read more

第652話

自分にできる最大限の形で慎也への恩返しもできた。肩の荷が下りたような清々しい気分だった。進行中だった研究も一段落し、次のテーマもまだ決まっていない。今は少し羽を伸ばして、子供たちを連れてどこかへ休暇にでも行こうか。そんなことを考えていた。……災厄というものは常に、何の前触れもなく、人の想像を超えて襲いかかってくる。激しい揺れに襲われた瞬間、誰もが本能のままに建物の外へと殺到した。一葉の傍にいたボディガードも、ベビーシッターたちも、例外ではない。普段はあれほど献身的に尽くしてくれる彼らも、命の危機に瀕したその瞬間、考えることはただ一つ。己の身を守るため、一刻も早く外へ逃げ出すことだけだった。だが、言吾だけが違った。建物の外にいた彼は、揺れを感じるや否や、凄まじい形相で家の中へと駆け込んできたのだ。天地が揺れる感覚に、一葉もすぐさま地震だと気づき、外へ逃げようとした。だが、娘の凪を抱き上げ、さらにベビーシッターに置き去りにされた息子の颯をも腕に抱きかかえて走り出そうとした時には、もう手遅れだった。凄まじい揺れが、頑丈なはずの天井をいとも容易く引き裂き、崩れ落ちてくる。逃げ場を失った一葉は、とっさに二人の子供たちを胸に掻き抱き、その小さな体を自分の体で覆いかぶさるようにして守った。頭上から巨大な鉄骨が落下してくるのがスローモーションのように見えた。一葉は死を覚悟し、固く目を閉じる。愛しい我が子たちの顔が浮かび、諦めの涙が頬を伝った。しかし、鉄骨が叩きつけられるその瞬間、想像していた衝撃と痛みはなく、代わりにくぐもった呻き声がすぐ傍で聞こえた。たとえ目を開けずとも、この極限状況の中で恐怖に竦んでいても、一葉にはその声の主が誰なのか、本能で分かってしまった。長年連れ添った、彼の声だ。それが言吾だと確信し、何かを叫ぼうとするよりも早く、力強い腕が瓦礫ごと一葉を抱え上げ、外の光へと向かって猛然と走り出した。彼らが外へ駆け出した、その直後。背後で凄まじい轟音が響き、別荘が完全に崩れ落ちた。地を揺るがすような崩落音に、二人の子供は体を強張らせ、次の瞬間にはわっと泣き出した。一葉はとっさに二人を強く抱きしめ、宥めようとする。だが、それよりも早く、震える声が響いた。「大丈夫だ、颯、凪……もう、大丈夫だからな」言吾が、瓦礫ごと
Read more

第653話

言吾が崩れ落ちる姿に、一葉の頭の中がブーンと音を立てて、真っ白に染まった。だが、不意に足首を掴む強い力に、はっと我に返る。恐る恐る視線を下ろすと、血を吐きながらも、必死の形相でこちらを見上げる言吾がいた。かつて、あれほどまでに自信に満ち溢れていた少年。その面影は今やなく、口から溢れる血が彼の顔を汚している。休暇に備えていたせいで、最近は染める暇もなかったのだろう。両の鬢に白いものがはっきりと見え、それがやけに目を刺した。「一葉……俺は、もう……お前たちと……一緒にはいられない、かもしれない……昔のことは……忘れてくれ……勇気を、出して……慎也さんを……受け入れてやれ……あいつは……お前に……相応しい……」かつては、死ぬなら一葉も道連れだとまで言った男が。まさか、自らの死を悟ったその最期に、一葉に他の男と結ばれるよう懇願する日が来るなど、誰が想像できただろうか。彼が自分に与えた傷のせいで、一葉が再び誰かを愛することを恐れていると、言吾は知っていた。だからこそ、最後の力を振り絞って、過去を乗り越え、もう一度幸せになる勇気を持てと、そう伝えたかったのだ。一葉は彼を見つめ、何かを言おうと口を開くが、声にならない。ただ、堰を切ったように涙が溢れ落ちるだけだった。心の底から、ずっと、ずっと願っていた。言吾に、ただ健やかでいてほしい、と。かつて心の奥深くに刻まれた、自分にとっての救いだった人。彼にはただ、幸せに生きていてほしかった。これ以上、自分のために彼が傷つくことなど、決してあってはならないのに。運命は、なぜいつもこうも残酷なのだろうか。最後の言葉を紡ぎ終えると、言吾の腕がだらりと力なく垂れ下がり、頭ががくりと項垂れた。その光景に、二人の子供たちの泣き声は、さらに悲痛なものへと変わった。言吾は、本当に良い父親だった。二人の子供たちは、そんな父親のことが大好きだったのだ。パパは昔、ママを傷つける大きな過ちを犯したから、他の子たちのパパとママみたいに一緒に住んでいないのだと、そう聞かされていた。二人は、両親が一緒に暮らしていないという事実を受け入れていた。だが、パパがいなくなることだけは……それだけは、到底受け入れられなかった。一歳を過ぎた頃から並外れた知能の高さを見せていた兄妹は、たとえ転んで血を流そうと滅多に泣く
Read more

第654話

それでも、二人は眠ることも、この場を離れることも望まなかった。ただここで、父親が目を覚ますのを待ち続けたいのだ。慎也は二人を説得することを諦め、そして一葉もまた休めるはずがないことを察すると、何も言わずに彼らの傍らで共に待ち続けることを選んだ。慎也がいつもそばにいてくれたおかげで、子供たちは彼に深く懐き、信頼を寄せていた。それまで母親の服を固く掴んでいた二人が、慎也が来てからは、疲れが限界に達すると、彼の腕の中にすっぽりと収まるようになった。慎也が纏う絶対的な安心感と、普段、子供たちの前で見せる頼もしさが、二人に小さな希望を抱かせたのだろう。息子が、潤んだ瞳で彼を見上げた。「慎也おじさん……パパは、絶対に目を覚ます……よね?」慎也は、そんな彼らの瞳をまっすぐに見つめ返した。「ああ。必ずだ」これまで、慎也が「必ずできる」「大丈夫だ」と言ったことは、本当にその通りになってきた。その一言が、子供たちの恐怖に怯える心を、ほんの少しだけ和らげた。二人は慎也の腕の中へとさらに深く体を埋め、小さな体を寄せ合った。普段はあれほど活発で、怖いもの知らずで、天をも壊さんばかりの勢いで家中を駆け回り、何人もの大人が交代で面倒を見ても疲れ果ててしまうほど、有り余る元気を持て余していた子供たち。そんな彼らが、今はこんなにも萎れてしまっている。その姿に、慎也は胸を締め付けられ、思わず二人を強く抱きしめた。恋敵という関係ではある。それでも、慎也は言吾にこの危機を乗り越えてほしいと、心から願っていた。たとえ彼が目を覚まし、一葉たち家族四人と幸せに暮らすことになったとしても、自分に二度とチャンスが訪れないとしても、ただ、言吾に生きていてほしいと、そう願わずにはいられなかった。慎也は、決して善人ではない。かつての彼であれば、この世に真実の愛など存在しないと、誰よりも嘯いていただろう。そんな自分が、いつかこれほどまでに、ひたむきな想いを抱くことになろうとは、夢にも思わなかった。医師が告げた言葉は、残酷なものだった。「危険な状態は72時間。この間に意識が戻らなければ、最良のケースでも植物状態に……生存できる可能性は、極めて低い。覚悟をしておいてください」医師の言葉に、自分がどう返事をしたのか、一葉には記憶がなかった。ただ、頭の中がキーンと鳴り響き、真っ白
Read more

第655話

だが、一葉がどれだけ言い聞かせ、正しい方向へ導こうとしても、たとえ心理カウンセラーの助けを借りても、効果はなかった。時の経過は彼らの心の傷を癒すどころか、子供らしい天真爛漫さを取り戻させることもなかった。二人はますます口数が少なく、年齢にそぐわないほど落ち着き払うようになっていった。四歳の誕生日、二人が願ったことはこうだった。兄の颯はスーパー科学者に、妹の凪はこの世で一番の医者になること。将来、科学と医療の力でパパを目覚めさせるのだと。世の子供たちが勉強を嫌がる中、この二人に限っては、もっと先生を、もっと学ぶものをと、一葉にせがむのだった。まだ四歳の子供が、毎日どう遊ぶかではなく、どうすればもっと早く成長できるかだけを考えて、必死に勉強に打ち込んでいる。一葉は、子供たちにそんな重荷を背負って生きてほしくなかった。子供らしい子供時代を奪いたくなかった。だが、どんな手を使っても無駄だった。子供が賢すぎるというのも、考えものだ。彼らは、一葉の考えていることなど、すべてお見通しなのだ。これ以上母親に心配をかけまいと、二人は一葉をまっすぐに見つめて言った。「ママ、私たちのことは心配しないで。辛い人生を送ってるなんて思わないでほしいの」「パパがいなかったら、私たちはとっくに死んでた。死ぬことに比べたら、今の方がずっといいでしょ。だからママ、元気出して。私たちは、今のままで十分幸せだから」二人の言う通り、命があるだけましなのだ。だが、母親というものは、常に子供たちに、今より少しでも良い暮らしを、もっと幸せな人生をと願ってしまう生き物だった。一葉は、子供たちの小さな背中を見つめながら、はっきりと分かっていた。彼らが心の重荷を下ろし、屈託なく笑えるようになるには、言吾が目覚める以外に道はないのだと。子供たちが毎日、言吾に会いに病室へ通うのとは別に、一葉もまた、時間を見つけては彼の傍らを訪れていた。手厚い看護のおかげだろう。一年以上もベッドに横たわっているとは思えないほど、彼の姿は健やかだった頃と何ら変わりないように見えた。その顔立ちは今もなお整っており、見回りに来た若い看護師が、思わず視線を奪われてしまうほどだった。その若々しく端正な顔立ちと、染める間もなく生えてきた白髪との取り合わせは、ひどく不釣り合いに見えた。その白い髪
Read more

第656話

子供たちが成長し、自分たちの家庭が他の家とは違うと理解した時、もし、パパとママに一緒にいてほしいと願うのなら、子供たちのために言吾と復縁すべきではないか、と考えたこともあった。本心では望まない選択だったが、日に日に増していく子供たちへの愛情を思えば、それも厭わない覚悟だった。幸いなことに、一葉の子供たちは驚くほど物分かりが良く、そして母親を深く愛していた。自分たちの家庭の特殊な事情を理解してからは、どれだけ父親のことが好きでも、常に一葉の幸せを第一に考え、復縁を迫るようなことは決してなかった。その健気さ、その優しさが、一葉の胸を締め付ける。この子たちにだけは、何不自由なく、ただ幸せに、のびのびと育ってほしい。毛染めの道具一式を準備させると、一葉は言吾のベッドサイドの椅子に腰掛けた。眠り続ける彼に静かに語りかけながら、白くなった髪を一房ずつ、丁寧に黒く染めていく。何を語りかけても、その体に触れても、彼は何の反応も示さない。日に日に勉学に打ち込むあまり、子供らしさを失っていく二人の姿が脳裏をよぎり、一葉の目頭がじわりと熱くなった。「ねえ、言吾、目を覚まして。お願いだから、早く目を覚ましてよ。目が覚めたら、もう一度やり直しましょう。私たち、また一緒になるの。あなただって、そうでしょう?あの子たちに、ただ幸せに、笑って育ってほしいって、そう思ってるんでしょう?だから、ねえ……一緒に、あの子たちの成長を見守ってあげましょうよ。目を覚まして、お願い……私たち四人で、また……お願いだから……」深水言吾の視点……地震のあの日、一葉に慎也を受け入れろと言い残し、暗闇に飲み込まれた時、俺は本気でもう助からないと思った。もう、あいつらのそばにはいてやれないんだ、と。名残惜しさはあったが、悔いはなかった。むしろ、俺のような死んで当然の人間が、ようやく死ねるのだとさえ思った。大学で再会した時、一葉は俺が彼女を助けたことなどとうに忘れていると思っていたようだが、忘れたことなど一度もなかった。俺がそのことを黙っていたのは、命の恩を理由に、俺と一緒になってほしくなかったからだ。そもそも、俺が彼女を知ったのは、助けるよりずっと前のことだ。中学の時の化学コンテストだった。俺は化学なら常に学年でトップだったし、あのコンテストも当然、金賞は俺のものだ
Read more

第657話

だが、俺は違う。俺は自己中心的で、愛し方もどこまでも自分勝手だ。「君が幸せならそれでいい」なんて、そんな殊勝な人間じゃない。持てる全てを捧げて愛し、もし彼女が俺を傷つけるようなことがあれば……俺は彼女を道連れに地獄へ堕ちてやる!俺はそんな歪んだ考えのまま、一歩、また一歩と道を誤っていった。一葉が俺と優花の関係を気にしていると分かっていながら、俺はわざと優花の肩を持ち続け、彼女の心をじわじわと痛めつけた。そんな意地の悪い行為を繰り返すうちに、彼女を無視し、冷たくあしらうことが当たり前になっていった。次第に自分が彼女をぞんざいに扱っているという自覚さえ麻痺し、何もかも彼女のせいだと決めつけ、何かあれば無意識に優花を庇うのが癖になってしまったのだ。そして、ついに。あんなにも豊かに、溢れるほどだった彼女の俺への愛を、……俺はすっかり枯渇させてしまった。彼女が俺を許す日は、永遠に来ないだろう。分かっている。他でもない、俺自身が、自分を許せないのだから。俺のような人間は、死んで当然だ。いっそこのまま死んでしまった方が、どれだけいいか。だが、子供たちが俺に生きてほしいと願っているのを聞いて、俺のために必死に大きくなろうとしているのを知ってしまって……死にたくないと、そう強く思った。特に、娘がか細い声で泣きながら、目を覚ましてと懇願する声が聞こえた時、心臓を鷲掴みにされて引き裂かれるような激痛が走った。あの子は、俺が、あんなにも愛し、目に入れても痛くないほど可愛がってきた、たった一人の、俺の宝物だ。普段なら、少しでもむくれる顔なんてさせたくない。それなのに、どうして、あんなに悲しい思いをさせてしまったんだ!父が自分たちを助けるために死んだんだと、自分たちのせいで父は死んだんだと、あの子たちに思わせてしまうなんて!あの子たちの心に一生消えない影を落として、伸び伸びと、幸せに育つはずの未来を奪ってしまうなんて、どうしてできる!俺は死ぬべき人間だ。だが、それでも、俺は、どうしようもなく……生きたかった。本当に、本当に、生きたかった。もう一度、あの子たちをこの腕で抱きしめたい。ただ、会いたい。「ろくでなしは千年生きる」とはよく言ったものだ。俺は……また、生きてしまった……目が覚めると、一葉が、復縁したいと言った。子供たちと
Read more

第658話

幼い頃から、俺は計算高い子供だった。兄夫婦は心から俺を可愛がってくれたが、俺はその真心を信じたことがなかった。裏では俺の死を望んでいるのではないかと疑い、常に彼らを警戒し、利用することばかり考えていた。あの二人が、俺を救うために何のためらいもなく命を投げ出した、その時になって初めて、俺は彼らの真心に気づいたんだ。だが、すべてが手遅れだった……心から俺を愛してくれた実の兄夫婦さえも死なせてしまった俺にとって、この世で旭と柚羽の他に、守るべきものなどあっただろうか?この数年、俺は利用できるもの全てを利用して、ここまで来た。俺の人生は暗闇の中にあり、その手は汚れ、心は黒く染まっていた。旭と柚羽に最高の暮らしをさせること、彼らのために巨大な商業帝国を築くこと。それ以外に、何も考えたことはなかった。あの南の島で、彼女に助けられたあの日までは。長く続いた俺の暗い人生の中で、初めて温もりというものを感じた。この温もりを、どうしても手放したくなかったんだ。かつて俺は、旭の執念深さを笑ったことがある。暗く苦しい過去の中で一度女に救われたというだけで、いつまでも忘れられないなんてな。世の中に、あそこまで愚かで、惚れた腫れたにうつつを抜かすような男がいるものかと。まさか。あいつにも、吹っ切れる日が来るとは。だが、そんなあいつを笑っていたこの俺には、いつまで経っても吹っ切れる日など訪れなかった。俺のような、腹黒くて何事も自分のことしか考えない人間が。チャンスがないと分かっている女一人を、いつまでも引きずるなんて真似はしたくなかった。理性も、俺の全てが、きっぱりと諦めて前に進めと告げている。だというのに、どうしても、前に進めない。いつも自分に言い聞かせていた。来年、来年こそ、もし言吾が一葉に今と変わらず尽くしているなら、その時こそきっぱり諦めよう、と。だが、一年、また一年と経っても、言吾は変わらず一葉に尽くし、家族四人は、ただ幸せそうに歳月を重ねていった。俺だけが、一年、また一年、さらに一年と、……何も変われずにいた。俺が九十になり、言吾と一葉が白髪頭になっても、死を目前にしても、……俺はやはり、諦められなかった。俺があまりに人でなしで、生涯で犯した悪事が多すぎたせいだろうか。生まれてこの方、欲しいも
Read more

第659話

食事の最中、食卓に並んだ魚の匂いを嗅いだ途端、一葉は突然こみ上げてきた吐き気に耐えきれず、洗面所へと駆け込んだ。「あらまあ!」料理をしていた家政婦の木下は、持っていたお椀を慌てて置くと、心配そうに後を追う。一葉が便器に突っ伏して激しくえずき、胃液まで吐き出しているのを見て、彼女は気が気でない様子だった。「一葉さま、どうなさったんですか、急に……!?私、食材は一番新鮮なものを厳選して使っておりますのに……!」一葉は気前が良かったので、木下はいつも市場で最高級の食材を選んで買っていた。食あたりのはずがない。次から次へと吐き気がこみ上げてくる一葉は、木下の言葉に答える余裕もなかった。木下は、それまで美味しそうに食事をしていた一葉が、自分が魚料理を運んだ途端に席を立ったことを思い出し、思わず口を開いた。「一葉さま、もしかして……ご懐妊では?」そう口走った瞬間、彼女ははっとして、慌てて自分の口元を押さえた。「も、申し訳ありません、一葉さま!で、でしゃばったことを……わ、私は……」気まずさと混乱で、何を言えばいいのか分からない。一葉が独り身で、研究所と家の往復だけの真面目な生活を送っていることはよく知っていた。どう考えても、身に覚えなく妊娠するはずがないのだ。「咽頭炎!そうですわ!一葉さま、きっと咽頭炎ですのよ!喉が炎症を起こしていると、魚の生臭い匂いが刺激になって、吐き気を催すことがあるんです!」木下は、自分を納得させるように必死に言葉を続けた。しかし一葉は、木下の「ご懐妊では」という言葉が頭から離れなかった。考えれば考えるほど、全身から血の気が引いていくのが分かる。確かに、ひどい咽頭炎なら魚の匂いで吐き気を催すこともあるかもしれない。だが、彼女は……月のものが、もう二十日以上も遅れているのだ。そして何より、一ヶ月と少し前……彼女は、言吾とあんなことがあったのだから。妊娠しているかもしれない——その可能性を考えれば考えるほど、一葉は恐ろしくなった。食後、彼女は混乱した頭で薬局へ向かい、数種類の妊娠検査薬を買い求めた。結果を待つ数分間、一葉の心は千々に乱れていた。彼女は確かに、体外受精で子供を授かることさえ考えていた。だが、言吾と再び関わり、しがらみの中に身を置くのは、もうごめんだった。あの関係を完
Read more

第660話

そんな自分に気づいたからこそ、理性が、彼との関係を完全に断ち切れと叫ぶのだ。欲しい、でも欲しくない、そんな堂々巡りの苦しみに、これ以上自分の人生と時間を浪費したくはなかった。妊娠検査薬だけでは確信が持てず、一葉は念のため病院で血液検査も受けることにした。病院から結果が出て、妊娠ではなく、急な吐き気はやはり咽頭炎によるものだと確定した時、彼女は心の底から安堵のため息をついた。胸に燻る不謹慎な感情を無理やりねじ伏せ、帰路につこうとした、その時だった。千陽からの電話が鳴ったのは。「一葉ちゃん!ちょっと、ニュース見て!深水言吾と獅子堂紫苑のやつ、子供ができたって!」電話の向こうで、親友が怒りに震えているのが伝わってくる。「あのクソ野郎!あんたには未練がましく付きまとっておきながら、裏じゃ獅子堂紫苑と子供まで作ってたなんて!なんなの、マジでありえない!キモい! 吐き気がするわ!」千陽は、今にも人を殺しそうな剣幕だ。一方、一葉は、ただ呆然と立ち尽くし、何も考えられなかった。どれくらいそうしていただろう。千陽が何度も名前を呼ぶ声で、ようやく我に返った。「一葉ちゃん、あんた大丈夫?」千陽が本気で心配している。「……大丈夫よ」一葉は俯き、ふっと力なく笑った。これで、やっと、完全に諦めがつく。どうやら、天さえも、二人がこれ以上関わることを望んでいないらしい。きっぱりと断ち切ってしまえと、そう言っているようだった。一葉がどれほど言吾を愛していたかを知っている千陽は、その「大丈夫」という一言で安心するどころか、かえって不安を募らせた。「一葉ちゃん、辛かったらちゃんと言ってよ。無理して、一人で抱え込まないで……」「ううん、本当に大丈夫。むしろ、なんて言うか……すごく、すっきりした。あいつに、獅子堂紫苑との子供ができたって聞いて……」その言葉と、親友の性格を考え合わせて、千陽は、一葉が本当に吹っ切れたのかもしれないと思い、ようやく安堵の息をついた。「そっか!そんなめでたい話、お祝いしなくちゃね!待ってて、一葉!すぐにそっちに戻って、盛大にお祝いしてあげるから!」そうは言ったものの、やはり一葉の顔を見て、そばにいてやりたかった。どれほど深く愛していたかを知っている。たとえ本当に諦めがついたとしても、それは身を切られる
Read more
PREV
1
...
646566676869
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status