All Chapters of 双子を産んで一ヶ月後、クズ元夫は涙に暮れた: Chapter 671 - Chapter 680

681 Chapters

第671話

その傷跡が、自分には温もりも幸せも似合わないと思い込ませる。それなのに、どうしようもなくその温もりを求め、手に入れたいと願ってしまうのだ。部屋に戻った慎也は、明日の朝一番で、二人が籍を入れることを思った。自分が、一時的とはいえ、彼女の法的な伴侶となる。そう考えただけで、心臓が激しく高鳴り、いくら深呼吸を繰り返しても、鎮めることはできなかった。結局、その高揚感で一睡もできずに夜が明けた。昇り始めた朝日がその顔を照らし、興奮状態から我に返った時、自分が子供のように胸を躍らせて一晩を明かしてしまったことに気づき、思わず苦笑が漏れた。我ながら、呆れてしまう。今の慎也の姿は、かつての彼が想像だにしなかったものだろう。恋をゲームのように楽しみ、負けを知らなかったはずの男も、愛という名の迷宮からは、抜け出すことができなかったようだ。一葉が目を覚ました時。慎也はキッチンで朝食を作っていた。ガラス窓から差し込む金色の陽光が、もとより漫画から抜け出てきたかのようなその男を、さらにこの世のものとは思えぬほどの美しさで包み込んでいる。美しいものを見慣れているはずの一葉でさえ、目の前の光景に思わず息を呑み、造物主のえこひいきに感嘆せずにはいられなかった。あれほど眉目秀麗な男が袖を捲って料理をする姿は、ありふれた、ともすれば億劫な家事をしているようには到底見えない。まるで一枚の美しい絵画を鑑賞しているかのようだ。ごく普通の鍋や食器でさえ、彼の手にかかれば芸術品のように輝いて見える。足音に気づいたのだろう、男が振り返る。一葉の姿を認めると、その口元に自然と柔らかな笑みが浮かんだ。「起きたか?顔を洗っておいで。もう朝食にするぞ」今こうして目の当たりにしていなければ、あの冷酷非情で知られる桐生慎也に、これほど穏やかな一面があるなど、一葉には到底信じられなかっただろう。いや、一葉が想像できなかったのも無理はない。他ならぬ慎也自身、自分がこれほど優しくなれること、そしていつの日か、こんなにも満ち足りた気持ちでキッチンに立つ日が来るなど、夢にも思っていなかったのだから。一葉が洗面所から戻ると、ちょうど慎也が出来上がった朝食をテーブルに並べているところだった。テーブルにずらりと並べられた豪勢な朝食は、どれもこれも一葉の好物ばかりだ。
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第672話

市役所にて。一葉は、慎也と共に手にしたばかりの、真新しい結婚証明書を眺めながら、どこか夢うつつの心地でいた。思い出したくもないのに、脳裏に蘇るのは、言吾と婚姻届を出したあの日のこと。あの日の自分が、言吾が、どれほど幸せで、どれほど胸を高鳴らせていたか……不意に、心臓を細い針で突き刺されたかのような痛みが走り、瞬く間に胸全体へと広がっていく。生涯を共にすると、あれほど固く信じていた二人が、こんな結末を迎えるなんて、いったい誰が想像できただろう。彼は、別の女との間に子供をもうけ、そして私は、別の男と籍を入れた。……情報を隠すどころか、むしろ世間に広く知らしめる意図があった。特に、石川という大物が慎也を完全に信用するよう仕向けるために。慎也と一葉が籍を入れ、結納の証として彼が持つ全財産を一葉に譲渡したというニュースは、瞬く間にネット全体に知れ渡った。慎也が自身の全財産をこともなげに一葉へ譲ったという記事を目にした紫苑は、またしても感情の堤が決壊した。トップクラスの名家の生まれである彼女は、常に人を見下す立場にあり、これほどまでに誰かを妬み、他人の幸福を許せないと思ったことはなかった。どうしても理解できなかった。何もかも自分が一葉より優れているはずなのに、なぜ、あの女ばかりが、自分がどんなに望んでも手に入れられないものを、いとも容易く手に入れるのか。どうして?なんであの子ばっかり!あの女の人生は、どうしてこんなにも簡単なわけ?そのどす黒い嫉妬に、もう少しで飲み込まれそうになった、その時だった。一葉がもうすぐこの社会から消え去る運命にあることを思い出し、紫苑はフン、と鼻で笑って冷静さを取り戻した。そうよ……もうすぐ永遠に籠の中から出られなくなる女に、嫉妬する必要なんてどこにあるというの?獅子堂家の大権を一日も早く掌握せんと、がむしゃらに働いていた言吾が、一葉と慎也の入籍を知ったのは、彼が事故のあった工場から戻った直後のことだった。工場で起きた深刻な事故の対応に追われ、三日三晩、一睡もしていない。ようやく事態を収拾させ、車に乗り込んだ彼は、疲れ切った心身を癒そうと、一葉の写真でも見ようとスマートフォンに手を伸ばした。だが、画面に表示されたのは、プッシュ通知で届いた一葉と慎也の結婚を報じるニュース……その見出
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第673話

目の前で言吾が倒れるのを目の当たりにした高木は、恐怖に目を見開き、震える声で叫んだ。「社長っ!」雲都――人の喜びと悲しみは、決して交わることはない。言吾が耐え難い苦痛の果てに意識を失っていた、その頃。一葉は自宅で、慎也とシャンパンの栓を開けていた。慎也の示した「誠意」を見た石川が、ついに彼らとの協力を承諾したのだ。「これで、あとは蛇を巣穴から誘き出し、国内で奴らに手を出させればいい。そうすれば連中の戦力は大幅に削がれる。そこですかさず追撃をかければ、たとえ一網打尽とはいかなくとも、二度とお前に手出しをする余裕も能力もなくなるはずだ」そう言って、慎也はグラスを一葉の方へと掲げた。一葉もグラスを掲げると、真摯な眼差しで慎也を見つめた。「慎也さん、ここまでしてくれて、本当に感謝してる。これから先、もし私に出来ることがあったら、絶対に、何でも言って」たとえそれがどんな困難なことであろうと、自分にできることのすべてを懸けて応える、という決意を込めて。慎也は、一葉がどれほど言吾を愛していたかを知っていた。たとえ今、彼への想いを完全に断ち切ったとしても、前の恋愛から完全に立ち直ってはいないことも、そして新たな恋を始めるつもりなど毛頭ないことも、すべてお見通しだった。だから、焦りはない。一葉の、どこか一線を引いたような、礼儀正しい感謝の言葉にも、少しも心を痛めたりはしなかった。彼は笑みを浮かべたまま一葉とグラスを軽く合わせると、言った。「ああ。その時は、遠慮なくお前の力を借りるとしよう」その口調は真摯そのもので、彼女からの感謝を受け止め、いざという時には本気でその恩を返してもらうつもりだということが、はっきりと見て取れた。そんな慎也の姿に、一葉はまた一つ、彼への好感を深めるのを禁じえなかった。桐生慎也という男は、共に過ごす時間を、これほど心地よく感じさせてくれる、素晴らしい人間なのだ。夜、一葉が床に就こうとしていた時、高木からの電話が鳴った。「青山さん。こんな夜分に申し訳ありません、お邪魔すべきでないことは重々承知しております。ですが、社長のご容体が……深刻なのです。あなたと桐生さんがご結婚されたというニュースをご覧になって、突然……意識を失われ、それきり目を覚まさないのです。お願いです、どうか、一度だけでも会いに来てはい
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第674話

しかし、計画というものは、常に変化の波に晒される。彼らの計画が本格的に始動するよりも前に、紗江子が――一葉の祖母が、大変な事態に巻き込まれた。実験室にいた一葉のもとに、祖母が病室から忽然と姿を消したという知らせが届いた。その瞬間、まるで雷に打たれたかのように、彼女の頭の中はブン、という音と共に真っ白になった。理性が戻ると同時に、巨大な恐怖の波が彼女を飲み込んだ。以前、紫苑が紗江子の病室に押し入り、心ない言葉を浴びせて以来、警備は格段に強化していたはずだった。一葉が手配した警護の数は多く、その配置は、蚊一匹たりとも病室に近づけさせないほど厳重だったはずだ。それなのに……今……祖母が……誰にも気づかれずに、連れ去られてしまったというのか。祖母の体は、もともと弱っている。もし、万が一のことがあったら……その考えが、彼女の体を制御不能なほど震わせる。恐怖のあまり、立っていることさえままならず、その体がぐらりと傾いた瞬間、一対の逞しい腕が、彼女を力強く支え、懐へと抱き寄せた。「怖がるな。俺の部下が既におばあ様の足取りを追っている。すぐに居場所を特定できるはずだ」認めざるを得ない。桐生慎也という男は、やはり規格外の傑物だ。ここは雲都であり、彼の本拠地である本港市ではない。にもかかわらず、彼は知らせを受けるや否や、即座にすべてを手配し、最も有効な情報を手に入れていた。一葉は元来、慌てふためき、恐怖に苛まれるほど、かえって冷静になれる人間だった。だから、倒れ込みそうなほどの恐怖に襲われながらも、彼女はすぐに自分を無理やり落ち着かせた。慎也が既に祖母の足取りを掴んでいると聞き、極限まで張り詰めていた恐怖の糸が、少しだけ緩むのを感じる。彼女は、心の底から慎也に感謝していた。一葉は科学研究の分野では類稀な才能を持っているが、ビジネスの世界や、このような危機的状況への対処となると、まったくの素人だ。経験もなければ、知識もない。もし、慎也がこのように迅速に対応してくれていなければ、たとえ彼女が冷静さを取り戻せたとしても、ここまで的確な初動を取ることは到底できなかっただろう。だから、本当に、感謝してもしきれなかった。祖母は、一葉にとって何よりも大切な家族だ。彼女に何かあること、ましてや自分のせいで危険に晒されることなど、到底耐
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第675話

どのような不測の事態であろうと、彼はそれを瞬時に自らの計画の一部へと組み替えることができるのだ。その隣で、彼の指示のすべてを聞いていた一葉は、尊敬の念に満ちた瞳で慎也を見つめていた。桐生慎也という男は、本当に、とてつもなく強い人間だ。……一葉は誘拐犯の指示通り、たった一人で指定された場所へと向かった。相手があの犯罪組織であること、祖母を攫った目的が自分の身柄と研究成果であることは、百も承知だった。だから、建物に入るや否や、彼女は玉座に腰掛け、仮面をつけた男に向かって、真正面から言い放った。「おばあちゃんを無事に解放しなさい。そうすれば、私はあなたたちに従う」祖母の安全をより確実なものにするため、一葉は間髪入れずに言葉を継いだ。「おばあちゃんが無事でさえいてくれるなら、私は何だってするわ」玉座の男は、その言葉を聞いて片眉を吊り上げた。「ほう、そうかい」一葉は揺るぎない眼差しで答える。「ええ」男はくつくつと喉を鳴らした。「いいだろう。ならば青山さん、君が開発したスマートブレインチップの、全研究プロセスをこちらに引き渡してもらおうか」一葉は、はっと息を呑んだ。彼らが自分の研究成果を狙っていることは分かっていた。だが、開発が成功したという事実は、恩師である桐山と自分しか知らないはずだった。まだ外部には一切公表していない。だから、犯罪組織は自分が「開発に成功した」とは知らず、自分を彼らの拠点に連れ去り、研究を続けさせるつもりなのだろうと踏んでいた。研究が完成するまでは、自分にも、祖母にも、本気で危害を加えることはないだろう、と。だから、一葉と慎也はこう計画していた。まず彼女が組織に投降し、祖母が無事に家に戻ったのを確認してから、本格的な攻撃を開始する、と。それなのに……まさか、この犯罪組織が、既に開発が成功している事実を掴んでいたとは。身柄を拘束するのではなく、直接、研究成果そのものを要求してきた。情報漏洩を恐れ、研究室の仲間たちにさえ知らせていなかったというのに。彼らはどうやって、単なる「大きな進展」ではなく、「開発成功」だと知ったのだろうか。「どうした、青山さん。まさか、渡したくないとでも言うのかい」一葉は何も答えなかった。ただ、体の両脇で、拳を無意識に固く握りしめる。研究成果が惜しいわけではない。祖
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第676話

だから、どれほど心臓が恐怖に凍りつき、すべてを投げ出して祖母を救いたいと叫んでいても、彼女は奥歯を強く噛み締め、言った。「どうしてもおばあちゃんの命を奪うというのなら、こちらも相打ち覚悟よ!」そう言うと彼女は、万が一のために袖に隠し持っていたナイフを取り出し、自らの首筋に突きつけた。「研究成果は、すべて私の頭の中にしかない。おばあちゃんに万が一のことがあれば、あなたたちがその成果を永遠に手にすることはできなくなるわ!」仮面の男の眼光が、ぞっとするほど険しくなった。彼は冷たく一葉を見据え、何かを言いかけた。しかし、その前に一葉が畳み掛ける。「おばあちゃんを家に帰せとまでは言わないわ。ただ、あの方をここへ、私の隣へ連れてきて。それさえしてくれれば、すぐに研究成果を渡す!」「あなたも分かっているはず。私は本当に一人でここに来た。この状況で、あなたの目の前で、おばあちゃんが隣にいたところで、私一人に何ができるというの?私にできることなど何もない。あなたは、ただおばあちゃんをここまで連れてこさせるだけで、一番欲しいものがすぐに手に入るのよ!」仮面の男は一葉をじっと見ていたが、やがて、彼女の言葉に心を動かされたのか、あるいは何か別の考えがあったのか、紗江子をここまで連れてくることに同意した。紗江子は一葉の姿を認めると、すぐさま「うー、うー」と呻き声を上げ、目で合図を送ってきた。自分のことは構うな、どうにかしてここから逃げろ、と。もう十分に生きた年寄りだ、いつ死んでも悔いはない、と。数々の修羅場をくぐり抜けてきた紗江子は、たとえ自らの命が危険に晒されようとも、さして怖気づいてはいなかった。それどころか、孫娘がこんな連中にいいようにされてなるものか、という反骨精神が、彼女を奮い立たせていた。その眼光は、病院で静かに療養していた時よりも、むしろ鋭く炯々と輝いている。その気丈な姿に、どうしようもなく不安と恐怖に揺れていた一葉の心は、いくらか落ち着きを取り戻した。しかし、だからといって、祖母の言う通りに彼女を見捨てて逃げることなど、できるはずもなかった。そもそも、今のこの状況で、逃げたいと願ったところで逃げられるものでもない。ふと、慎也が立てたプランBが脳裏をよぎる。不測の事態までも想定に入れていた彼の周到さに、彼女は改めて
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第677話

一葉の、体の両脇で握り締められた拳に、さらに力が籠もる。十分では、慎也は到底間に合わない。しかし、この十分間で成果物を渡してしまえば、自分も祖母も間違いなく殺される。何としても、時間を稼がなければならない。だが、どれだけ頭を高速で回転させても、これ以上時間を引き延ばすための有効な手立てが、どうしても思いつかなかった。「青山さん、そんなにぐずぐずしてんのは、先にその婆さんを始末してほしいってことか?」仮面の男の言葉が終わると同時に、傍にいた角刈りの黒服の男が、再び紗江子の首に刃を突きつけた。一葉の目が真っ赤に充血し、握りしめた掌を爪が突き破らんとした、その瞬間だった。突然、紗江子を押さえつけていた黒服の男が、ドサリと床に崩れ落ちた。そして、現場の者たちが何事かと反応する暇もなく、特殊装備に身を固めた一団が雪崩れ込んできた!状況のあまりの激変に、不意を突かれた仮面の男は言うまでもなく、慎也の計画を知っていたはずの一葉でさえ、驚きのあまり一瞬呆然としてしまった。慎也がこれほど速いとは、まったくの想定外だったのだ。誘拐犯どもは慎也を辱めようと、これみよがしに紗江子の居場所を漏らしたが、彼らが知る由もなかった。慎也がとっくに計画を練り上げていたこと、そして、彼らの突発的な行動さえも、即座に自らの計画の一部へと組み込んでしまったことを。彼らが最初から一葉と共に突入しなかったのは、ただ一つ、戦闘の混乱の中で紗江子を傷つける可能性を、完全に排除したかったからに他ならない。紗江子の絶対的な安全を確保するため、当初の計画を変更し、一葉を単身で向かわせ、紗江子の無事な帰宅を確認した後に攻撃を開始する、それがプランAだった。そして、万が一、プランAが機能しなかった場合に備え、当初の突入計画をプランBとして残してあったのだ。多少のリスクと、確実な死。選ぶべきは、言うまでもなく前者だ。ただ、そのプランBでは、一葉からの合図を受けてから慎也が部隊を率いて潜入する手筈になっていた。音もなく突入するには、どうしても時間が必要となる。幾度もの計算の結果、一葉が計画変更の合図を送ってから慎也たちが潜入するまで、最短でも二十分はかかると見込まれていた。それなのに、今、彼女が合図を送ってから、まだ三分も経っていない。一葉が我に返った時、慎也は既
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第678話

目の前で慎也が倒れるのを目の当たりにした紗江子は、驚きのあまり、その場に立ち尽くしていた。慎也のことは知っている。自分の孫娘に好意を寄せていることも。でなければ、あれほど孫娘を想う甥の気持ちを振り切ってまで、結婚などしまい。だが、いくら好かれていると知っていても、まさか、これほどまでとは……あれほどの地位にある男が、孫娘のために、この老婆を、命を賭して守るなど。こ、これは……とっくに死ぬべきだったこの老婆に、それほどの価値など、ありはしないというのに。慎也のやり方は、常に二重三重の安全策が講じられている。今回の件でも、彼は自らの部隊に加え、石川の部隊とも連携していた。潜入時は発見を避けるために少人数で行動したが、一度中にさえ入ってしまえば、その制約はなくなる。彼らが潜入を開始するのと同時に、第二陣はいつでも出動できるよう待機していた。そして、慎也たちが突入に成功したのを確認すると、すぐさま現場へと向かったのだ。慎也が倒れてから、仮面の男の部下たちが取り囲むよりも早く、慎也の増援部隊が周囲を包囲した。瞬間、戦局は再び、劇的な逆転を遂げる。もはや一葉たちを殺している場合ではない。仮面の男は、慌てて撤退を命じた。しかし、彼らの拠点は国外にある。ここは、彼らにとって完全なアウェイだ。そして、敵は慎也だけではない。彼らのような犯罪分子に対して、一切の容赦をしない国の特殊機関もまた、敵に回っている。彼らは死に物狂いで抵抗したが、結局、望むものは何一つ手に入れられず、一人残らず殲滅された。関係する犯罪分子が全員逮捕されたという知らせを受けた時、一葉は緊急治療室の前を、不安げに行き来していた。この数日で心身ともに疲れ果てているはずの紗江子もまた、休むことを頑なに拒み、治療室の扉の前でじっと待ち続けていた。一時間が過ぎ、二時間が過ぎ、そして三時間が経っても、治療室の緊急ランプは灯ったままで、手術が終わる気配はない。手術時間が長引けば長引くほど、リスクは高まる。その事実が、一葉の呼吸を少しずつ奪っていくようだった。今のこの気持ちを、どう表現すればいいのか分からない。ただ、息苦しさだけが、刻一刻と増していく。慎也は最初から、明確に告げてくれていた。「お前が好きだ」と。結婚を望んだのも、その気持ちからだと。だが、彼女は
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第679話

これ以上、一歩も踏み出す資格など、自分にはないと思った。慎也と一葉の結婚の裏に、どのような真実が隠されていようと、関係ない。慎也は、一葉が何よりも大切に想う祖母を救い、そして、あの犯罪組織という脅威をも、彼女のために取り除いてみせたのだ。それに引き換え、自分は……何もしていない。俺は、なんて無力なんだ。この数日、言吾が死に物狂いで働き、獅子堂家の実権を一日も早く掌握しようと足掻いてきたのは、何よりも、一葉を守るための、より大きな力を手に入れるためだった。彼女を脅かすあの犯罪組織を、この手で排除するために。だが、自分が何かをする間もなく、その脅威は慎也によって取り払われてしまった。それどころか、紗江子が攫われ、危険に晒された時ですら、俺はそばにいなかった。身を挺して彼女の祖母を救ったのは、慎也だ。こんな俺に、何の資格がある?彼らの邪魔をする権利など、あるはずがない。挙句、これほどの一大事に、一葉は俺に連絡しようとさえ思わなかった。認めたくはない。だが、認めざるを得ないのだ。かつて、誰よりも近しい存在だった俺たちは、今や、完全に袂を分かってしまったのだと。これから先、二人の道が交わることはなく、ただ離れていくだけ。そして最後には、何の繋がりもない、赤の他人になる。その想像が、言吾の心臓を、まるで切れ味の悪い鈍器のようなもので、滅多打ちにする。一打ち、また一打ちと、死にたくなるほどの痛みが襲うのに、死ぬことさえ許されない。その痛みに、もはや耐えきれない。だが、耐えられないからといって、どうなるというのだ?この状況を招いたのは、すべて自分自身。すべては、自業自得なのだ。……紗江子は、もともと旭のことがたいそう気に入っており、一葉が彼と結ばれることを心から望んでいた。だが、慎也に命を救われてからは、そのお気に入りの座はすっかり彼のものとなっていた。紗江子の目には、慎也が、見れば見るほど、知れば知るほど魅力的な青年に映った。何から何まで非の打ち所がなく、この世に彼以上に素晴らしい殿方はいないとさえ思うほどだった。その心境の変化は、かつて一葉に旭との仲をせっついたのと同じ熱量で、今度は慎也と一緒になるよう勧めるという行動に繋がった。とりわけ紗江子を感服させたのは、その後の慎也の振る舞いだった。自分が彼
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第680話

そう分かっていながらも、慎也は口にせずにはいられなかった。彼は、これほど純粋に、心から誰かを好きになったことがなかった。だからこそ、彼女への愛はどこまでも真実で、どこまでも純粋なものでありたかった。その愛に、一片の曇りもつけたくなかったのだ。彼が欲しいのは、彼女の身体だけではない。彼女の心からの愛だった。一葉は顔を上げ、男の真摯な愛に満ちた瞳と視線を交わした。心臓が、とくん、と音を立てて跳ねるのを確かに感じた。桐生慎也という人間は、本当に、とてつもなく魅力的な人だ。特に、まるで人間界を気ままに遊ぶ神のように、誰に対しても超然と振る舞う彼が、ただ自分一人のために頭を垂れ、持てるすべてを差し出してくれる。その特別さに抗うことなど、到底できそうになかった。こんな慎也を前にして、一葉は思う。本当に、前を向くべきなのだ、と。もう一度だけ勇気を奮い起こし、全身全霊で、誰かを愛してみるべきなのだ、と。そんな想いを抱き、慎也との未来を望むようになってから。一葉の彼に対する感情は、確かな変化を遂げようとしていた。その変化に気づかない慎也ではなかったが、彼はここぞとばかりに攻め立てるような真似はしなかった。むしろ、これまで以上に穏やかに、ゆっくりと、時間をかけて彼女の心に寄り添った。ほんの少しのプレッシャーも、彼女に与えたくなかったからだ。その後、言吾はあるルートから、紫苑が身籠っている子が自分の子ではないという事実をやっとのことで突き止めた。あの夜、彼が肌を重ねたのが紫苑ではなく、一葉であったことも。狂喜にも似た一縷の望みを胸に、言吾が一葉のもとへ駆けつけた時――彼女の心は、すでに慎也のものだった。もはや、どんなにあがいても彼女を取り戻すことはできなかった。一葉が慎也に向ける、かつては自分だけに向けられていたあの笑顔を。星を散りばめたように瞳をきらめかせながら、慎也を見つめる彼女の姿を。かつて彼女がくれた、たった一つの特別な想いが、今ではすべて慎也へと注がれているという現実を目の当たりにして。かつては自分だけを映していた彼女の瞳に、今では慎也しかいない光景を見つめながら、言吾はその場に立ち尽くす。心臓を無数の獣に食い千切られるような、息もできないほどの激痛が全身を苛んでいた。以前の彼であれば、この耐え難い苦痛にきっと狂乱
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