All Chapters of 離婚まであと30日、なのに彼が情緒バグってきた: Chapter 1601 - Chapter 1610

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第1601話

執事がそっと問いかけた。「旦那様、何かお伝えになりたいことがございますか」新井のお爺さんは、まだうまく話せない。口を開くことさえ思うようにいかず、ここ数日の回復を経ても、せいぜい指先をわずかに動かせる程度だった。やがて新井のお爺さんは、ひどく苦労しながら指を持ち上げ、病室の扉の方を指した。視線もそちらへ斜めに流れている。その瞬間、執事には何となく意図が分かった。新井のお爺さんは、今日はなぜ蓮司が見舞いに来ないのかと尋ねているのだ。普段なら、蓮司は一日に何度も病室へ顔を出す。たとえ新井のお爺さんが嫌そうな顔をし、まともに相手をしなくても、蓮司が顔を見せない日はなかった。執事は穏やかな声で答えた。「若旦那様はお体の具合が少しよくなられましたので、仕事に戻られました。本日は会社へ出ておられます」ほかの理由を作るわけにはいかなかった。外出していると言っても、検査を受けていると言っても、この時間まで一度も姿を見せない理由にはならない。だから、会社へ行ったと答えるしかなかった。病床の上で、新井のお爺さんは、あの手のかかる孫が顔を出さないのは会社へ行ったからだと知り、ようやく扉から視線を戻した。そしてまた、まばたきを一つした。今度は会社の状況を尋ねたかったのだが、執事にはそこまで読み取れない。新井のお爺さんも、それ以上伝えることを諦めるしかなかった。全身が麻痺するというのは、本当に厄介なものだ。いっそ単なる身体障害のほうが、まだましだっただろう。単なる障害なら、せいぜい『動けない』というだけで済む。だが今の新井のお爺さんは、頭以外、体のどこひとつとして使い物にならないのだ。夜が少しずつ深まり、時刻はもう八時を回っていた。外はすっかり暗い。病室の外では、警備員が何度も報告に来ていた。記者を追い払ったという報告もあれば、見舞いを口実にやって来た取締役会側の人間を止めたという報告もある。博明も面会を求めて来たが、同じく門前で止められていた。執事はそのたびに細かく指示を出した。警備員にはあらかじめ断り文句も伝えてある。今は、誰であろうと面会は一切受けないことになっていた。執事が警備員に尋ねた。「若旦那様はまだお戻りではないか。車は見ていないか」警備員はすぐに答えた。「まだです。社長のお車が病院へ入られましたら、す
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第1602話

「その口頭での指示は、要するに新井グループの未来を託すという意味合いでした。一族ではなく、あくまでグループの利益を最優先に考えた内容です。もっとも本物らしく聞こえるのは、『必要とあれば社長を解任し、取締役会が意思決定権を握ってもかまわない』と言っていた点です。悠斗様や博明様を後任に据えろとは、ひと言も口にしていません。発言のすべてが、会社を第一に考えた視点に立ったものでした。グループの長期的な発展を考えていて、新井家という一族の私益には一切触れていない。今申し上げた内容は、すべて録音が残っています。だからこそ、取締役たちも完全に信じ込んだんです」大輔の説明を聞き終え、執事はその場で言葉を失った。客観的に見れば、新井のお爺さんのその言葉はたしかに筋が通っている。会社の立場から考えれば合理的で、しかも悠斗や博明を後継者として指名していない。だからこそ、彼らが仕組んだという疑いを巧妙にそらす形にもなっていた。だが――「それでも、旦那様がそのようなことをおっしゃったとは信じられません。その録音データはあるのですか。こちらにも送ってください。専門家に鑑定させます」執事はきっぱりと言った。「まだ手元にはありません。社長に確認して、有力取締役側から入手できないか聞いてみます。もちろん、いちばん早くて確実なのは、会長様ご本人に直接確認することです。いまのご容体はどうですか?」「旦那様はまだお声を出せません。まぶたを動かすのがやっとです」それを聞いた大輔の声に、深い憂いがにじんだ。「それで社長は、すぐに会長様へ確認を取らなかったのですね。聞いたところで、詳しい事情を聞き出すことは不可能だと分かっていたから」「確認が取れない状態だからこそ、博明様たちが先に手を打ったという可能性はないのか?」「ですが、問題の電話があったのは、会長様が倒れられる前です。その時点で、あとから倒れて意思表示ができなくなることまで正確に予測するのは不可能です。『あとから倒れること』を前提にした罠だと考えるには、少し飛躍しすぎています」執事は黙り込んだ。しかし、すぐに別の疑問を口にした。「当時、旦那様が本当に取締役たちに電話をしていたというのなら、なぜ今になってそれを持ち出した?それまで一切話が出なかったのはおかしいだろう」「録音の最後に、こうい
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第1603話

「それに、有力取締役たちは、まだ社長に一度だけ猶予を与えるつもりでいます。今回の海外プロジェクトの件だけで、社長に完全な引導を渡したわけではありません。この騒ぎを無事に乗り切れれば、あの口頭指示の件も、取締役たちは蒸し返さないはずです」つまり、録音の真偽を証明するのは後回しでいい。今はまず、会社側の問題を片づけるべきなのだ。大輔が以前口にした、取締役たちは社長の味方ではないという話は、あくまであの録音に対してのものだった。蓮司が今回の危機をきちんと収めれば、録音などそもそも問題にならない。執事は大輔の説明を聞き、取締役会が今すぐ蓮司を降ろそうとしているわけではなく、警告を入れてきただけなのだと理解した。とはいえ、新井のお爺さんの通話記録と録音は、やはり片づけておかなければならない。放っておけば、いつ爆発するか分からない時限爆弾になる。通話を終えると、執事は大輔から録音データが送られてくるのを待った。十分ほどしてファイルが届き、執事はイヤホンを取り出して再生した。録音の中から聞こえてきたのは、たしかに新井のお爺さんの声だった。話し方も口ぶりも、普段の新井のお爺さんそのものだ。取締役たちが疑いもしなかったのも無理はない。新井のお爺さんに何十年も仕えてきた執事でさえ、どこにも綻びを見つけられないほどだった。執事は深く眉を寄せた。まずは録音ファイルを専門家に回し、鑑定させるしかない。それでも真偽が分からなければ、その時は新井のお爺さんご本人に直接確認するしかない。今の蓮司は、会社の状況を新井のお爺さんに知らせて心配をかけたくないのだろう。ならば執事も、ひとまずこの件は伏せておくべきだ。執事が病室へ戻ると、ちょうど医師が新井のお爺さんへの注射を終えたところだった。入口の足音に気づき、医師が顔を上げた。手にしていた注射器をワゴンに置こうとしたその瞬間、手元が狂い、注射器が床に落ちた。医師はすぐに腰をかがめて拾い上げた。一瞬瞳の奥によぎった後ろめたさと動揺を、その動作で誤魔化すように。そして何事もなかったかのように、ワゴンを押して出て行こうとした。「お待ちください」不意に執事の声がかかり、ワゴンの取っ手を握る医師の指がこわばった。執事は静かに尋ねた。「今回の薬も、これまでと同じ量ですか。それとも少し減らしましたか?」
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第1604話

執事としては筋の通った推測をしたつもりだった。だが返ってきたのは、新井のお爺さんの何とも言えない、呆れた視線だけだった。――寝返りを打ちたいわけでも、用を足したいわけでもない。新井のお爺さんは胸の内で呻いた。こんな日々は、いったいいつまで続くのだ。まさかこの先何年も、このまままともに戻らないなどということはないだろうな。晩年になって、これほど惨めな姿になるとは思わなかった。病床に横たわり、尊厳も、自分の意思で動く自由も、何もかも奪われている。考えれば考えるほど、やりきれなかった。新井のお爺さんは、いっそ目を閉じた。いずれ海外から、まばたきで意思を伝えられる機器を取り寄せさせよう。少なくとも、今のように何一つ伝わらない状況よりはずっとましなはずだ。その傍らで、執事は椅子に腰を下ろし、病床のそばに控えていた。新井のお爺さんが用を足したくないのなら、しばらく待てばいい。ただ、新井のお爺さんが本当は何を伝えようとしていたのか、執事には分からなかった。分からないものは仕方がない。しかも、執事の頭の中には別の懸念が残っている。執事はそのまま、意識をそちらへ向けた。新井のお爺さんが亀裂骨折で入院した時、自分は世話をするためにずっと付き添っていた。では、新井のお爺さんはいったいいつ、あの取締役たちへ電話をかけたのだろうか。そこまで考え、執事は大輔にメッセージを送って確認した。大輔から返信が届き、執事は示された時刻を見た。通話は夕方に集中していた。執事はスマホのメモを開き、以前つけていた自分の行動記録を確認した。ちょうどその日、その時間帯、執事は蓮司のいる病院へ向かっていた。さらに、大輔が送ってきた通話記録のスクリーンショットを見ると、すべての通話時刻が、執事がそばを離れていた時間帯にきれいに収まっていた。つまり新井のお爺さんは、自分を避けて電話をかけていたのだ。そこまで考えたところで、執事は顔を上げた。眉をひそめ、病床で目を閉じている新井のお爺さんを見やる。本来なら、あり得ない。新井のお爺さんが自分に何かを隠すはずがない。だが、もしも……蓮司を会社に残すかどうかに関わる重大な話だからこそ、新井のお爺さんは自分を信用しなかったのかもしれない。自分が知れば、事前に蓮司へ知らせると警戒したのだろうか。そう思うと、
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第1605話

「お爺様、今日の具合はどうだ?どこか苦しいところはないか?」蓮司は病床のそばの椅子に腰を下ろし、声を落として尋ねた。新井のお爺さんはまばたき一つせず、ただ蓮司をじっと見据えている。視線がぶつかったまま、濁りを帯びた老いた瞳が、蓮司を逃がさないように捉えて離さない。何もかも見透かされているような気がして、蓮司の胸に拭い去れない後ろめたさが広がる。だからこそ、蓮司は口元の笑みをさらに深くした。できるだけ明るく、何事もないように努めて続ける。「医師が、明日から本格的にリハビリを始められると言っていた。明日も晴れるそうだ。高橋に車椅子を押させて、外で少し気分転換でもしよう……」蓮司は一人で話し続けた。声は穏やかで、わざと軽い。だが、相手は新井のお爺さんである。老いて体が動かなくなったからといって、頭まで鈍ったわけではない。蓮司が明らかに話題を逸らしていることくらい、見抜けないはずがなかった。蓮司をここまで疲れさせる悩みが、透子に関わることだとは考えにくい。透子のことなら、蓮司は疲労を見せるより先に、傷つき悲しむはずだ。今日は会社にも行っている。ならば十中八九、会社で何か起きたのだ。新井のお爺さんは胸の内でそう結論づけ、目つきをさらに鋭くした。会社でいったい何が起きた。博明が裏で手を回し、蓮司の悪い噂でもまた掘り返したのか。そうでもなければ、あの愚かで凡庸な息子に、蓮司の足を引っ張れるような手があるとは思えない。商売に関して言えば、博明は体ばかり大きくて頭の回らない男だ。また世間を巻き込むような騒ぎでも起きたのか。だが、会社の広報部も飾りではない。これまで何度か起きた炎上騒ぎも、結局はすべて収めてきた。なぜ今回は、まだ片づいていないように見えるのか。新井のお爺さんはそう思考を巡らせながら、口が利けないぶん、厳しい目で蓮司を見据え続けた。その老練な視線には、探りを入れるような、無言で問い詰めるような強い圧がある。蓮司は話しているうちに、無意識に目線をわずかに逸らしてしまった。病に伏して衰えていても、会長は会長だ。かつて一族を統べた者の威厳は、いまだ消えていない。新井のお爺さんにそう見つめられると、蓮司の体は反射的に強張った。膝の上に置いた両手も、いつの間にか固く握りしめられている。平静を装い、何とか病室に十
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第1606話

蓮司は低い声で現状を告げた。「俺のほうでも、ハッカーに録音を解析させている。合成音声かどうかを調べているところだ。だが、これはかなり難易度が高い。決定的な証拠を掴むのは難しいし、仮に何か見つかったとしても、法廷で証拠として認められる可能性は低い。高橋はもう気にしなくていい。会社のことは俺が片づける。お前はお爺様のそばについて、しっかり様子を見ていてくれ」執事は無言で頷いた。蓮司には、義人という強力な味方もついている。決して独力で頑張っているわけではないのだ。蓮司は背を向け、自身の病室へ戻ろうとした。二歩ほど歩み出したところで、執事がその背中に声をかけた。「若旦那様。もし、どうしても行き詰まるようなことがございましたら、わたくしにお申し付けください。橘家のほうへ伺い、お力添えをお願いしてまいります」「必要ない。何も解決できないことはない」蓮司は振り返らずに一蹴した。よほどの事態に陥らない限り、蓮司は橘家に借りを作りたくなかった。それに、今回の件は自力で十分に片づけられる。取締役たちが聞いたというあの通話が、仮に本物だったとしても、彼らは今すぐ蓮司を失脚させるつもりはない。今回はあくまで警告を入れてきただけだ。もちろん、蓮司は今でもあの通話は偽造されたものだと疑っている。もし本当に新井のお爺さんが倒れる前にそんな指示を出していたのなら、なぜ会社の法務部へ直接連絡し、正式な手続きを踏ませなかったのか。まさか、蓮司がすでに社内を掌握しており、法務部が公証したところで握り潰されるとでも恐れたというのか。もしそうなら、新井のお爺さんは蓮司を警戒していたことになる。だが、そんなことはあり得ない。蓮司の瞳には、揺るぎない決意と、冷酷な光が宿っていた。この件は必ず最後まで洗い出す。もし博明と悠斗の仕業だと判明すれば、あいつらには残りの人生をそっくり塀の中で過ごさせてやる。……一方、橘家の邸宅では。新井グループで起きている騒動は、この二日ほどで瞬く間に界隈へ広まっていた。当然、祥平の耳にも入っている。雅人はこの日、ようやく仕事を終えて帰宅したところだった。祥平はすぐさま彼を書斎へ呼び出し、この話題を切り出した。「知っている。父さんがわざわざ僕に話すということは、あちらに手を貸せという意味か?」雅人が尋
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第1607話

「新井グループの取締役会は、蓮司をトップから引きずり下ろす方向で動いているらしい。しかも内部では、それが新井のおじ様の意向だという話まで出ている」それを聞いた雅人は、すぐに眉を寄せた。あり得ないと思った。海外プロジェクトで一つトラブルが起きたからといって、それだけでトップの首をすげ替えるというのか。しかも、相手はただの役員ではない。グループ全体の意思決定を担う実質的なトップだ。今回の件だけを理由にするには、あまりにも無理がある。それとも、新井グループ内部ではもともと蓮司を引きずり下ろす動きがあり、今回のトラブルをただの口実にしているだけなのか。「新井のお爺様の意向ということは、本人が今回のトラブルを知ったうえで、新井を降ろせと命じているという意味か?」雅人は祥平を見た。「だが、新井のお爺様は重病で病室に寝たきりだろう。口もきけない状態のはずだ。どうやってそんな指示を出したんだ」祥平は説明した。「以前、新井のおじ様が倒れる前に出していた命令だそうだ。新井が重大な過失を犯した場合は、トップの座をすげ替えるという内容らしい」「なら、その命令は今この状況には適用できない。今回のトラブルは『重大な過失』には当たらない」雅人はそう言い、そこで一秒ほど言葉を切った。「新井グループの内部がこれを口実に新井を排除したいとして、代わりに誰をあの席に座らせるつもりなんだ。博明と、あの隠し子か」あの二人のうち、一方は平凡で無能、もう一方は目立った実績すらない。そんな二人が表舞台に出てくれば、今回の交代劇は自分たちが仕組んだクーデターだと世間に宣言しているようなものだ。世間の人間も、取締役たちも、そこまで鈍くはない。「取締役会はもう開かれたのか?全会一致で決めたとでもいうのか?」雅人は続けて尋ねた。「あの連中は、博明親子の無能さを本当に分かっていないのか。それとも裏で買収でもされたのか」あの二人がトップに立てば、新井グループは確実に傾く。最終的に割を食うのは、取締役たち自身の利益のはずだ。「新井グループ内部の詳しいことまでは、こちらも分からない。今言ったのは、あくまで耳に入ってきた話だ」祥平はそう言った。雅人は小さく頷いた。「心配する必要はない。結局のところ、新井のお爺様はまだ生きている。最終的な決定権は彼の手にある
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第1608話

「その後の数日も、新井さんのほうから姿を見せることはなかった。今日も会っていない」それを聞いて、雅人の張り詰めていた顔つきがようやく少し緩んだ。「新井も、そこだけは分かっているらしいな」雅人は唇を引き結んで言った。透子は祥平へ視線を戻し、最初に聞かれたことへ答えた。新井のお爺さんは、このところ新井グループで起きている騒ぎを知らない。執事からも、新井のお爺さんの前でうっかり口を滑らせないよう頼まれているのだ。祥平はそれを聞き、眉をわずかに寄せた。「新井のおじ様がご存じないのなら、なぜ新井グループの内部では、あれがおじ様の意向だという話になっているんだ」「分かりきったことだ。連中がそこを突いている」雅人が横から言った。透子は父と兄の会話を聞き、思わず尋ねた。「何かあったんですか?」「何でもない。大したことじゃない」雅人は短く答えた。透子の前で、蓮司に関わる話を少しでも出したくなかった。透子は小さく頷いた。祥平と雅人は、もう遅いから早く休むよう透子に言い、部屋の前を離れた。扉が閉まると、透子は眉をひそめて考え込んだ。父も兄も、何かを隠している。こういう時は、新井家の人間に直接聞くのが一番早い。透子はスマホを手に取った。だが、画面の時刻を見て、執事へ送ろうとしたメッセージを消した。明日、病院へ行った時に直接聞けばいい。……翌日。透子が午後に病院へ向かうより前、理恵からSNSで話題になっている投稿が送られてきた。透子が開いてみると、映っている場所は新井グループ傘下のプライベート病院だった。フェンスの外側を記者たちが取り囲んでいる。横断幕まで掲げられ、現場からは生配信も行われていた。画面越しでも、騒ぎが大きくなっているのが分かる。横断幕を持っている人間をよく見ると、その中に見覚えのある顔があった。蓮司の父親、博明だ。動画の中で、博明は片手で横断幕を握り、もう片方の手で拡声器を持っていた。フェンスの内側へ向かって、大声を張り上げている。「蓮司!孫の分際で何様のつもりだ!実の息子であるこの俺を親父に会わせないとは、どういう権限があってのことだ!親父が重病で倒れているのに、身内を外へ締め出すとは何事だ!親の容態すら俺に隠し立てする気か!病床の親父に尽くす、息子の務めまで邪魔する権利が、お前にあ
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第1609話

記者たちは口々に声を張り上げ、現場は収拾のつかない騒ぎになっていた。画面越しにその様子を見て、透子は眉をひそめた。執事に電話をかけようとしたが、今ごろ彼も対応に追われているはずだ。透子は電話をやめ、スマホを手に取って部屋を出た。「栞、どこへ行くの?」リビングで焼き菓子を作っていた美佐子が、急いで玄関へ向かう透子に気づき、顔をのぞかせた。「ちょっと出かけてくる。お昼前には戻るから」透子は足早にそう答えた。「どこへ行くの?お母さんも一緒に行こうか?」美佐子はそう尋ねたが、返事はなかった。玄関の外に、もう透子の姿はない。「あの子ったら、あんなに急いで何をしに行ったのかしら」美佐子はひとり言のようにつぶやいた。「奥様、お嬢様はもう立派な大人でいらっしゃいます。きっとご自分のご用事がおありなのでしょう。お昼にお戻りになってから、お聞きになればよろしいかと」そばにいた家政婦が笑みを浮かべてフォローした。美佐子は小さく頷き、少し沈んだ声で言った。「分かっているわ。栞がもう大人になったことくらい。でも、私はあの子と二十年も離れていたでしょう。どうしても、まだ小さな子のままのように思えてしまうの。だからつい口うるさくなるし、どこへ行くのかもいちいち聞きたくなってしまうのよ」その頃、邸宅の外では。雅人は透子に専属の運転手をつけていた。二十四時間いつでも動けるよう待機させている運転手だ。透子は外へ出ると、そのまま病院へ向かうよう告げた。病院にいるのは、今は執事ひとりのはずだ。蓮司は会社側の対応に追われていて、病院の警備にまで手が回らないかもしれない。新井のお爺さんが今回の騒ぎを知れば、刺激を受けて容体が悪化するおそれがある。だから、あの記者たちを必ず外で食い止めなければならない。少しの噂も、病室へ入れてはいけない。病院の近くに着くと、運転手は車を路肩に停めた。フェンスのあたりに人が押し寄せ、怒号が飛び交っているのを見て、運転手は言った。「お嬢様、中へ入らないほうがよろしいかと存じます。巻き込まれてお怪我をされるかもしれません」透子はそう言った。「大丈夫。通用口がないか見てみる」運転手は止めきれず、車を降りて透子のそばについた。人に囲まれないよう、すぐ隣で周囲に目を配る。幸い、透子に気づく者はいなかった。メディアの
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第1610話

透子は胸の奥を冷やしながら、新井のお爺さんの病室へ向かおうとした。その時、背後から博明がこちらへ回り込んできた。人垣の隙間から透子の姿を見つけるなり、博明は目を見開き、大声で叫んだ。「橘栞!」透子は息をのんだ。名前を呼ばれれば、誰でも反射的に振り返ってしまう。その一瞬の反応で、博明は透子の身元を確信した。すると、わざと周囲へ聞こえるように声を張り上げた。「みんな、こっちへ来い!彼女は橘栞だ!俺の息子、新井蓮司の元妻だ!」記者と配信者たちの注意が、一斉に透子へ向いた。人の波がこちらへ傾く。手には手持ちの小型カメラがあり、目立たないペンの先にまで配信用の隠しレンズが仕込まれている。無数の黒いレンズが、次々と透子へ向けられた。「橘栞さん!今回の件についてコメントをいただけますか!新井グループはなぜ、海外プロジェクトの事故について公式な謝罪や説明をしないのでしょうか!」「橘栞さんは新井社長の元妻ですよね!すでに法的には新井家と無関係のはずですが、なぜ今日この病院へ来られたのですか!」「今日ここへ来たということは、新井社長との関係が修復されつつあるということでしょうか!復縁、あるいは再婚の可能性はありますか!」「新井グループが新井会長の病状を隠蔽していると言われています!橘栞さんが今ここへ来たのは、会長が危篤だからですか!もう危険な状態なのですか!」……質問が一斉に飛んできた。彼らの追及の矛先は、新井グループの海外プロジェクトの危機や内部紛争から、いつの間にか新井社長と元妻のゴシップへと移っていた。少し前、蓮司と元妻の離婚騒動は世間で大きな話題になった。蓮司が元妻を取り戻そうとして起こした一連の派手な行動も、ネット上で散々騒がれている。そのうえ、元妻である透子は、世界的企業である橘グループの唯一の令嬢だ。これだけの条件が揃えば、話題性は十分すぎる。ネットの関心は、堅苦しい企業トラブルよりも、新井社長と橘グループの令嬢の愛憎劇のほうへ流れやすい。数字が取れるのはどちらか。現場にいる記者や配信者たちは、その嗅覚をよく心得ていた。通用口の内側で、透子は博明の一声によって完全に身元をさらされた。記者たちの質問攻めに対し、透子は本来なら一切答えるつもりはなかった。そのまま背を向けて病棟へ向かえばいいだけのことだ
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