All Chapters of 離婚まであと30日、なのに彼が情緒バグってきた: Chapter 1621 - Chapter 1630

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第1621話

その頃、処置室の外にある花壇のそばで、透子は理恵からの電話を受けていた。理恵はネット上の反応をリアルタイムで透子へ伝えている。一通り重要な話を終えると、最後に呆れたような愚痴をこぼした。「いやもう、顔さえ良ければ何でも許されると思ってる人って本当にいるのね。あんな動画なのに、新井の顔だけで推してる人まで湧いてるんだけど。ほんと無理よ、透子。あんたにも見せたいくらいだわ、あの節操のないコメント欄。新井は顔がいいとか、最後に目を赤くして一番きつい言葉を吐くところが最高だとか、迫力がすごい、オーラ全開とかね。あれが芝居だったら映画賞を総なめできる、なんてことまで言われてるのよ」理恵のぼやきを聞きながら、透子の頭には、理恵が転送してきた動画の最後の場面が自然と浮かんでいた。あの時の蓮司の言葉は、本心から出たものだった。黒幕に向けた怒りも憎しみも、作り物ではなく、あまりにも濃く、まっすぐだった。透子が理恵に返事をしようとした時、斜め後ろから音もなく人影が近づいてきた。「誰と電話しているんだ?」透子は反射的に振り返り、思わず答えてしまった。「理恵よ」言い終えてから、目の前に立っている相手に気づく。まさに今、電話の向こうで理恵が散々こき下ろしていた本人、蓮司だった。透子はわずかに黙り込んだ。今のは、あまりにも口が先に動きすぎた。本来なら、蓮司の問いに答える必要などなかったのだ。まるで二人が穏やかに会話できる関係に戻ったように見えてしまう。けれど実際には、透子は蓮司とこれ以上関わりたくなかった。透子は立ち上がり、その場を離れて距離を取ろうとした。だが、体を起こしきるより先に、手の中のスマホを蓮司にあっさり抜き取られた。透子は眉をひそめ、蓮司を見た。スマホを返すよう言うより早く、蓮司は画面を操作して通話をスピーカーに切り替えた。理恵の声が、その場にそのまま流れ出す。「……ねえ透子、あの人たち本当に目がおかしいんじゃないの。新井なんて見た目だけ取り繕ったクズなのに、どれだけまともな男を見てこなかったら、あんなのを有り難がれるわけ?ゴミを見て喜んでるようなものじゃない」透子は無言になった。蓮司も無言になった。数秒の沈黙のあと、蓮司は無表情のまま口を開いた。「理恵さん。俺がどれだけ最低な人間だろうと
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第1622話

「透子、俺は何か間違ったことをしたか?理恵さんを怒らせるようなことはしていないはずなのに、どうして理由もなく俺の悪口を言われなきゃならないんだ」蓮司は透子に尋ねた。声は落ち着いている。けれど、その瞳には傷ついたような色があり、かすかな哀しみまでにじんでいた。「たしかに、俺にはほかにも間違っていたところがあるかもしれない。けれど、少なくとも俺は、先に彼女を攻撃していない。それなのに、なぜ彼女は先に俺を攻撃するんだ?」蓮司は本当に分からないというふうに問いかけ、自分が何もしていない被害者であるかのように見せた。「それだけじゃない。彼女は、俺の心の病まで持ち出した。君も知っているだろう。俺は昔から深刻な心の問題を抱えていた。高校の頃は性格もひどく陰鬱で、暗い世界の底に沈んでいた。そこから俺を引き上げてくれたのは、君だった……」蓮司は同情を誘う手に出た。瞳の色を柔らかくし、甘く、切なげなまなざしで、二人の高校時代の思い出へと話を運んでいく。電話の向こうで、理恵は一瞬言葉を失った。何なの!何それ!この新井蓮司、今度はいったい何に取り憑かれたの!だが次の瞬間、理恵はすべてを察した。こんなレベルの低いぶりっ子すら見抜けないようなら、自分の目は節穴どころではない。本当に呆れる。真正面から口喧嘩を仕掛けてくるなら、まだいくらでも受けて立つ。だが今の蓮司は違う。理恵を踏み台にして、透子の同情を引こうとしている。理恵を悪者にし、自分を傷ついた哀れな男に見せて、透子の気持ちを揺らそうとしているのだ。理恵は怒りで歯がきしみそうになった。やってくれるじゃない、このクズ、本当に最低ね。「あらあら、そういえば新井の高校時代って、すごかったわよね。あの頃、朝比奈とずいぶん仲が良かったんじゃなかった?たしか、初恋同士みたいな扱いだったわよね。いいわねえ、真実の愛が見つかって」理恵は強引に話題へ割り込み、蓮司の深情けぶった語りと同情狙いを叩き切った。高校時代の話をするのか。なら、いくらでもしてやる。「ああ、透子って本当に可哀想。あんた、朝比奈を透子に重ねて、そのあと透子をあんなにひどく扱って……」理恵は止まらなかった。口を挟ませる隙も与えず、一気に畳みかける。今日ここで蓮司の同情狙いを成功させるくらいなら、理恵の名を返上
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第1623話

「過去のことは、もうとっくに終わっています。私も忘れました。新井社長も、いつまでも過去に浸っていないで、前を向いてください」その言葉を聞いた瞬間、蓮司の胸は止めようもなく痛んだ。それでも、蓮司はもう追いかけられなかった。遠ざかっていく透子の背中を見つめることしかできない。指を握りしめては、また力なくほどく。瞳には、深い落胆と痛み、そしてどうにもならない敗北感が沈んでいた。その後も、処置室の表示灯は赤く灯ったままだった。透子は廊下の端で待っていた。蓮司は反対側に立ち、できるだけ透子のそばへ近づかないようにしている。透子はすでに、新井のお爺さんの状況を祥平と美佐子へメッセージで伝えていた。一方、蓮司もただ待っているわけにはいかなかった。新井のお爺さんの容体を案じながらも、次々とかかってくる電話に応じ、会社側の対応を遠隔で進め、関係者へ指示を飛ばしている。執事も動いていた。義人の協力を得て警察と連携し、病院周辺にある監視カメラの映像を、一つ残らず洗い直している。やがて、その映像の中からドローンが飛び出した方向が特定された。だが、操縦者の正面の顔は、どの映像にもはっきり映っていなかった。執事はすぐにそう断じた。「これは間違いなく計画されたものです。背後に指示した者がいます。そうでなければ、あれほど都合よく死角を選べるはずがありません。自分の姿がカメラに映らないよう、わざと角度を選んで動いています。それに、洗い出した不審人物の中では、サングラスと帽子で顔を隠した人物が最も疑わしい。意図的に顔を隠し、素性を見せないようにしているのです」執事の声には、抑えきれない怒りがにじんでいた。できることなら映像の中へ飛び込み、その場で相手を捕まえたいほどだった。執事の分析は筋が通っていた。その時、義人は警察側の担当者たちと一緒にいた。電話越しに執事の話を聞き、全員が同じ見立てに頷いた。警察側の担当者が言った。「新井社長の周囲に、強い恨みを持つ人物はいますか。そこから調べるのが早いかもしれません。容疑者を追って身柄を確保するには、どうしても時間がかかります。相手は顔を隠し、監視カメラを避け、手慣れたやり方で犯行に及んでいます。狙いも極めてはっきりしています。逃走ルートも用意しているはずです。すでに京田市を離れている可能性
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第1624話

だが今、警察側の言葉を聞き、博明はようやく事態の重さを理解した。自分にとんでもない濡れ衣を着せられている。しかも、父を意図的に死なせようとした疑いまでかけられているのだ。博明は目を血走らせ、さらに大きな声で怒鳴り返した。「ふざけるな!俺はやってない!誰も殺そうなんかしていない!あれは俺の父親だぞ。実の父親だ!俺がどうして父を殺さなきゃならないんだ!お前ら、ものを考えてから口を開け!そんな頭でよく警察なんかやっていられるな。使えない連中ばかりだ。給料泥棒の役立たずどもが!」博明の怒りは、先ほどとは比べものにならないほど膨れ上がっていた。感情のままに体を揺らすたび、手錠が椅子に当たって、ガチャガチャと耳障りな音を立てる。「新井博明さん、落ち着いてください。取り調べに応じてください」尋問を担当する警察官が、マイク越しに厳しい声で告げた。「こちらは、あなたが直接手を下したと言っているわけではありません。あなたが人を使い、ドローンで新井会長を刺激し、容体を悪化させた疑いがあると言っているのです」「だから俺じゃないって言ってるだろうが!俺はただ父に会いたかっただけだ!ドローンなんか俺は知らない!」博明は激しく吠えた。「俺がやったのは、せいぜい十数社の記者を呼んで病院を囲ませ、世論で圧をかけて中へ入ろうとしたことだけだ。それ以外は何もしていない!何でもかんでも俺に押しつけるな!お前らを訴えてやる。弁護士を呼べ!俺を出せ。お前らに俺を留めておく権限なんかない!」ガラスの外側では、尋問に当たっていた警察官たちが、怒りで完全に我を失っている博明を見て、しばし沈黙していた。長年、容疑者の取り調べをしてきた経験がある。声の調子、表情、体の動き。そのどれを見ても、博明の反応は演技には見えなかった。警察官の一人が少し離れ、壁際に立っている義人へ声をかけた。「水野さん。新井博明氏は重要な容疑者ではありますが、現時点ではドローンの件について直接的な証拠がありません。本人も強く否認しています。このままでは、罪を認めさせることはできません」「では、記者たちを集めて病院前で騒ぎを起こした件で、ひとまず身柄を留めてください」義人は表情を変えずに言った。「証拠はこちらでも引き続き探します。今ここで外へ出せば、証拠を隠す可能性があります」警察
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第1625話

そう言い終えると、義人は軽く頷き、大股でその場を離れた。あとは助手を残し、警察側との連絡を任せる。義人と執事は、午前中にドローンを飛ばした容疑者の行方を追っていた。執事が推測した通り、相手は事前にかなり周到な準備をしていた。すぐに身元を特定できるような隙は、ほとんど残していない。一方、警察側では、義人の助手が提出した資料をもとに、新井家という上流一族の内部で起きている争いの構図を整理していた。資料を見れば見るほど、博明が新井のお爺さんに手を出す可能性は、決して荒唐無稽ではないと分かる。しかし、取調室の中では。警察官たちがその資料に基づいて博明を問い詰めても、博明は相変わらず強い口調で否定し続けた。感情はまったく落ち着かず、弁護士を呼べと何度もわめいている。この状態では取り調べを続けられない。警察側は、ひとまず博明を留置場へ移すしかなかった。「お前らを訴えてやる!俺をこんな所にぶち込む権利がどこにある!いったい何の罪で俺を拘束してるんだ!」留置場の中でも、博明はまったく協力する気配を見せず、大声で怒鳴り続けた。「弁護士を呼ばせろ!それは俺の権利だろうが!これは違法拘束だ!」博明の脅しに対し、責任者の警察官は冷静に告げた。「まず、あなたを一時的に留めておくことは、こちらの権限の範囲内です。あなたは病院前の通行と秩序を乱し、メディア関係者を集めて騒ぎを起こしました。弁護士を呼ぶ申請は認めます。ただし、弁護士が来たとしても、あなたは最低でも5日間はここに留まることになります。さらに、あなたには新井会長の発作を意図的に誘発した疑いがあります。新井会長は現在も処置を受けており、危険な状態です。疑いが晴れない限り、こちらにはあなたを監視下に置く理由があります」博明は、充血した目で警察官たちを睨みつけた。腹が立って仕方がない。これ以上ないほどの濡れ衣だ。ここまで理不尽な目に遭わされる筋合いはない。親父が刺激を受けたことが、どうして自分のせいになるのだ。まだ親父の前にすら出ていない。もし本人の目の前で何かを言い、それで親父が倒れたというのなら、まだ認めようもある。だが顔さえ見ていないのに、なぜ何もかも自分のせいにされなければならないのか。博明は怒りで頭が沸騰しそうだった。それでも、警察相手に力ずくでどうこ
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第1626話

今日の午前中に自分が仕掛けた押しかけ騒ぎは、ただ新井のお爺さんに一目会うためのものだった。そもそも、まだ自分の言い分すら相手に伝わっていない。ドローンの件にしても、あれは自分が誰かに命じてやらせたことではない。明らかに、記者たちが勝手に考えた手口だ。自分には関係がない。そう考えると、博明の中に少しずつ妙な自信が戻ってきた。少なくとも、罪悪感はきれいに消えた。新井のお爺さんが刺激を受けたのは、自分のせいではない。その責任まで背負う必要はない。むしろ、ドローンを飛ばした記者には感謝してもいいくらいだ。自分の代わりに泥をかぶってくれたのだから。もし自分が直接、新井のお爺さんに話して倒れさせていたら、蓮司はまた、全部自分のせいだと責め立てていただろう。そこまで考え、博明は改めて弁護士へ細かく念を押した。とにかく、自分は悪くない。潔白だ。せいぜい病院前で騒ぎを起こした件で、数日ここに留め置かれるだけである。新井のお爺さんの件まで、自分に押しつけられてたまるか。「病院のほうは、できるだけ人を使って探ってくれ。親父が今どうなっているのか、ちゃんと確認してほしい」最後になって、博明はまだわずかに残っていた良心を思い出したように、綾子へ言った。綾子は頷き、弁護士とともに面会室を出た。その頃、病院では。新井のお爺さんが処置室へ運ばれてから、すでに二時間以上が過ぎていた。時刻は正午を少し回っている。透子は廊下の長椅子に座ったまま、処置室の赤い表示灯をじっと見つめていた。待てば待つほど、胸の奥に焦りと不安が積もっていく。その時、美佐子から電話がかかってきた。透子は通話に出て、小さな声で告げた。「お母さん。お父さんと先にお昼を食べて。私はお昼には戻れそうにないから」電話の向こうで、美佐子は何か言いかけた。けれど結局、何も言わずに短く答える。「分かったわ」通話を終えた頃、ちょうど執事がやって来た。透子の言葉を耳にして、そこで初めて腕時計を見る。ずっと対応に追われていたせいで、もう十二時を過ぎていることにも気づいていなかった。栞お嬢様は客人でありながら、ずっと旦那様のためにここで待ってくれている。そんな彼女を、食事もなしに放っておくわけにはいかない。「栞お嬢様、こちらで店を手配いたします。先にお食事をなさってください」透
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第1627話

執事の案内に従い、一行は控室へと移った。蓮司もその後を追う。祥平と美佐子が透子に食事を届けに来たついでに、自分の分まで用意してくれていたことに、蓮司の胸には言葉にできない感謝が込み上げた。「橘おじ様、橘おば様、ありがとうございます」蓮司は礼を言い、保温弁当箱を受け取った。当然のように透子の隣に座ろうとしたが、美佐子がすかさず娘のそばへ腰を下ろした。祥平も一番端の椅子を引き、蓮司へ視線を向けた。「蓮司は、ここに座りなさい」ここまで露骨に意図を示されて、気づかないほど蓮司も鈍くはなかった。本当は透子の隣に座りたかった。だが、彼女の両親が揃っているうえに、食事まで持ってきてもらったのだ。これ以上望むのは贅沢というものだ。蓮司はテーブルの一番端に座った。透子と同じ側ではあるものの、彼女はずっと奥に座っており、その間には美佐子と三、四席の空席がある。蓮司が横目でそっと視線を送ると、美佐子が体を斜めにして娘の姿をすっぽりと隠してしまっていることに気づいた。隙間ひとつなく、透子の髪の毛一本すら見えなかった。美佐子は透子の世話をするために残り、祥平は執事に新井のお爺さんの容態を尋ねるため、部屋を出て行った。しばらくして、手術室の扉が開いた。祥平と執事は同時に首を向け、出てきた医師を見つめた。医師の険しい表情を見た瞬間、執事は嫌な予感に襲われ、震える声で尋ねた。「だ……旦那様のお加減は、いかがでしょうか?」祥平も眉をひそめ、医師が救命処置の結果を口にするのを待った。医師は重い口を開いた。「新井会長のバイタルサインはどうにか維持しています。ですが、強い刺激を受けたことで血圧が急上昇し、突発性の脳梗塞を引き起こしました。以前にも二度、脳卒中で倒れられており、お体はすでに限界に近かったのです。現在、脳幹は機能していますが、大脳皮質には重度の損傷が見られます。つまり……植物状態に近い状態です」専門用語と分かりやすい言葉を交えた説明のあと、医師は事実を告げた。植物状態。その四文字は、執事の頭を重いハンマーで殴りつけるような衝撃を与えた。──旦那様はようやく回復に向かい、リハビリを始めていたというのに。それが一瞬にして、まさか植物状態に陥ってしまうなんて……執事はその場に呆然と立ち尽くし、表情は虚ろになった。この現実をど
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第1628話

一見すると普通に歩き、考え、話すことができているようでも、目の下の濃いクマと瞳の奥に沈む疲労は隠しようがなかった。おそらく、この二日間ろくに食事も喉を通らなかったに違いない。だからこそ、せめてこの一食だけは邪魔をせず食べさせてやりたかったのだ。医師は祥平の提案に頷いた。そして手術室へ戻り、医療スタッフに新井のお爺さんを集中治療室へ移すよう指示を出した。その頃、控室では。十五分ほど経ち、蓮司は弁当箱の中身をきれいに平らげていた。本当は五分前に食べ終わっていたのだが、わざと時間をかけていたのだ。透子はまだ食べていた。美佐子が時折彼女に話しかけ、蓮司は気配を消し、黙ってその会話を聞いていた。だが、それも長くは続かなかった。入口のほうから足音が聞こえ、蓮司が顔を上げると祥平が立っていた。祥平は部屋には入らず、入口から蓮司を見つめて言った。「食べ終わったなら、ちょっと来てくれないか。医師から話があるそうだ」蓮司はすぐさま立ち上がり、美佐子と透子に一言挨拶をしてから、大股で足早に部屋を出た。透子は父の言葉を聞いて、手術が終わったのだと察し、立ち上がった。美佐子が言った。「栞、もう少し食べなさい。お父さんと蓮司が行ったんだから、あなたがそんなに急ぐ必要はないのよ」「大丈夫です、お母さん。もう十分食べましたから。片付けをお願いしてもいいですか?私は先に手術室のほうへ行ってみますね」透子はそう言うと、足早に部屋を出て行った。残された美佐子は立ち上がったばかりで、引き留める言葉を発する暇すらなかった。半分しか減っていない弁当箱を見つめ、美佐子は小さくため息をついた。そして、ふと考えた。──栞があんなに新井のおじ様の容態を気にかけるのは、おじ様本人を心配してのことなのだろうか。それとも……──蓮司への想いも入り混じっているのだろうか。病院の外が記者で溢れかえり、暴動のような騒ぎになっていると知りながら、真っ先に駆けつけていった娘の姿を思い出す。美佐子は眉をひそめた。自分が冷酷だとは思わないが、娘にはもう、これ以上新井家と関わってほしくなかったのだ。事態が落ち着いた後で見舞いに行くなら、それは義理を果たすことになる。だが、これほど危険な渦中に飛び込む必要はないのだ。美佐子は食器を片付けながら、蓮司が座っていた場所も
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第1629話

「本当に、ほかに手立てはないのでしょうか。少しでも回復させるか、命を延ばす方法は」透子は、祥平が主治医に尋ねる声を聞いた。「必要なら、最新の医療機器でも、海外の高額な薬でも、こちらで用意します」医師は祥平を見て、首を横に振った。「新井会長はもう八十を迎えようとするご高齢です。人としての自然な寿命を考えても……それに加え、これまでの度重なるダメージは不可逆的なものでした。お体は、とっくに限界を迎えていたのです」医師の言葉は残酷なほど明確だった。国内外のどんな名薬を使おうと、神仏が舞い降りて細胞を再生させ、若返らせでもしない限り、もうどうにもならないのだ。その瞬間、それまで何とか立っていた蓮司の体から、完全に力が抜けた。ゆっくりとうずくまり、両手で顔を覆った。彼は声は一切出していない。けれど、震える肩と、手の甲に浮き上がった青筋が、すべてを物語っていた。医師は言うべきことをすべて言い終えていた。今さらどんな慰めの言葉をかけても役には立たない。床にうずくまったまま、ひどい苦痛と悲しみに沈む蓮司を見て、医師は小さくため息をつくしかなかった。医師はその場を離れた。残されたのは、そばに立つ祥平と透子、そして柱にもたれ、ボディーガードに支えられながら、声を詰まらせて泣きじゃくる執事だけだった。二人の抑えきれない悲しみを前に、祥平はもう慰めの言葉を口にできなかった。ここまで来てしまえば、何を言っても虚しいだけだった。祥平は、新井のお爺さんの容態をまだ義人に知らせていないことを思い出した。今の執事と蓮司は、容態を伝えるどころか、口を開くことすら難しい状態だった。そこで祥平は中庭へ降りて、義人に電話をかけた。義人は電話口で新井のお爺さんの容態を聞くと、数秒ほど沈黙した。それから、ようやく口を開いた。「分かりました。少ししたら、そちらの病院へ向かいます。ところで兄さん、どうして病院にいるんですか。わざわざ行ってくれたんですか」祥平は答えた。「栞が午前中から来ていたんだ。私と美佐子は、あの子に昼食を届けに来た。ついでに、何か手伝えることがないか見に来たんだ」義人はそれで納得した。透子が午前中から病院へ来て手伝っていたことについて、義人はまだ礼を言えていなかった。今も監視カメラの確認や犯人の追跡に追われ、昼食
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第1630話

涙を流しすぎると、体内の水分と塩分が奪われる。早めに補給しなければならない。祥平が電話を終えると、美佐子もやって来た。二人は少しだけ言葉を交わし、それから廊下にいる娘へ目を向けた。美佐子は透子を連れて帰ろうと思った。新井のお爺さんの手術はもう終わっている。これ以上ここに残っても、透子にできることはない。透子は集中治療室の窓の前に立ち、中にいる老人を見ていた。骨ばかりに痩せ、もう生気もないように見える。その姿を見つめながら、透子は指をきつく握りしめた。執事はこの時には、すでに自分の悲しみをどうにか抑え込んでいた。まだ処理しなければならないことがある。真犯人を捕まえる手伝いもしなければならない。──若旦那様は、もうこの衝撃に耐えきれなくなっている。自分まで倒れるわけにはいかなかった。透子はひとまず執事に別れを告げた。祥平はボディーガードを二人残し、執事がいつでも手助けを頼めるようにした。透子はその場を離れた。角を曲がる直前、視界の端に、ボディーガードたちが蓮司を支えて立たせようとしている姿が入った。だが、蓮司はまったく立ち上がれない。極度の悲しみの前で力が抜けきり、糸の切れた人形のように見えた。角を曲がった瞬間、透子にはもう廊下の様子が見えなくなった。帰りの道中、透子は終始無言だった。病院の正面には、すでに騒ぎを起こしていた群衆の姿はなく、すべてがいつもの平穏を取り戻したかのように見えた。けれど、車に乗った途端、透子はとうとう堪えきれなくなった。目の奥が熱くなり、涙が止まらずあふれ出した。両脇に座っていた両親は、すぐに娘の異変に気づいた。祥平は慌ててティッシュを取り出し、透子へ差し出した。美佐子は急いで娘を抱き寄せ、髪を撫でながら、優しく背中をさすった。「新井のおじ様……本当に、すごく、いい方だったんです……」透子は母の胸に顔を埋め、嗚咽まじりに言った。「大学の頃から、お世話になっていて……とても優しくて、私のことを、認めてくれて……そのあと、卒業が近くなった頃に、先輩から、一緒に起業しないかって誘われたんです……その時、私は新井のお爺様に、投資をお願いしに行きました。私個人の実績もまだ足りなくて、会社も未熟だったのに、門前払いせず、直接会って話を聞いてくださったんです……」透子は泣きながら、途
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