All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 1221 - Chapter 1230

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第1221話

涼香は首を横に振った。「いいえ……ただ、少し見ていただけです」彰人はようやく顔を上げた。まだどこか血の気の薄い顔色だったが、表情には以前よりもはっきりとした生気が戻っている。彼はじっと涼香を見つめた。その視線は彼女のわずかな表情の揺れさえ見逃すまいとするようで――涼香は思わず視線を逸らし、目を潤ませながら小さな声で言った。「氷室さん、私……辞めたいんです」――辞める?彰人はわずかに眉を寄せた。ノートパソコンを閉じ、背をソファに預けると、軽く手を上げて彼女に座るよう促す。彼の中で涼香は単なる看護師でも秘書でもなかった。半ば妹のようであり、家族に近い存在だった。涼香はそっと腰を下ろし、膝の上に手を揃える。まだどこか緊張が抜けきらない。やがて呼吸を整え、静かに口を開いた。「……はい。辞めさせていただきたいんです。私ももう若くありませんし、地元に戻って……結婚して、子どもを持って……普通の暮らしをしたいと思って……これ以上、ここに居続けるわけにはいかないんです」言葉を選びながら、ゆっくりと続ける。「これまでいただいたお給料で、当面は困りません。本当に……申し訳ありません。もしよろしければ、代わりの秘書と看護師は私のほうで手配いたします」彰人は黙って彼女を見つめた。「本気か?いつ、発つつもりだ」……涼香は視線を落としたまま、答えた。「本気です……明日には、発とうと思っています」言い終えた瞬間、また目が赤くなる。――本当はこんなにあっさり離れたいわけじゃない。離れたくない。ここに残りたい気持ちも、確かにある。彰人は彼女にとって、ただの雇い主ではなかった。半ば恋にも似た感情であり、同時に、どこか頼るべき年長者でもあった。――それでも、行かなければならない。このことに関してだけは、涼香ははっきりと線を引ける人間だった。彼女は相手を思うからこそ、きっぱりと身を引くことを選んだ。彰人はなおも彼女を見つめていたが――やがて視線を落とし、手元の書類に目を戻すと、ぽつりと言い放った。「わざわざ探さなくていい。看護師だけ手配すればいい」少し間を置いて、さらに続ける。「それから――行き先は知らせろ。結婚するときは家を一つ用意してやる。どこにいてもな」
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第1222話

夕暮れ時――彰人は自ら足を運んだ。空は高く澄み渡り、茜色の雲が一面に広がっている。庭には生命の気配が満ち、柔らかな風が草木を揺らしていた。彰人が到着したとき、清席は庭で百年物の梅の木に水をやっていた。小さな体はじょうろとほとんど変わらないほどで、その隣では使用人が微笑みながら見守っている。冷たい水をかぶってしまわないよう、そっと気を配りながら。車が見えた瞬間――清席は手にしていたものを放り出し、一目散に駆け出した。車を降りた彰人に、勢いよく飛びつく。「パパ、パパ!」彰人はそのまま息子を抱き上げ、強く抱きしめて頬に口づけた。「どうだ、清席は背が伸びたかな?」清席は父の首に腕を回し、嬉しそうに笑う。ひとしきりじゃれ合ったあと、彰人は軽く咳払いをした。「ママは?」清席はそのまま抱きついたまま、あどけない声で答える。「ママはね、上で本読んでるよ」彰人は息子を抱いたまま家の中へと歩き出し、さりげなく問いを重ねる。「この数日、ママは怒ったりしてないか?」清席は首をかしげ、少し考えてから――「ううん、ないよ!」それから、ふと思い出したように続けた。「でもね、先週ね……ママ、急に泣いちゃったの。清席、なんで泣いてるかわからなかったけど……すごく悲しそうだった」そして無邪気に尋ねる。「パパ、ママ、なんで泣いたの?」……彰人の口元に浮かんでいた笑みがわずかに止まった。――分かっている。おそらく陽斗が婚約発表の前にすべてを打ち明けたのだろう。だから願乃は泣いた。それでも彼女は何一つ口にしなかった。彼に対しても、何も。それどころか――そのあと、一度顔を合わせている。何事もなかったかのように。――あのとき、彼女はどんな気持ちだったのか。リビングに入ったそのとき、ちょうど願乃が二階から降りてきた。彰人の姿を見ても、ただ淡々と一言。「来たの?」彰人は小さく頷いた。そして清席の頭を軽く撫でる。「外で遊んでいなさい」清席は父と母を見比べ、何かを感じ取ったのか――静かに腕をほどいて床に降り、そのまま外へと駆けていった。子どもの姿が消えたあと、彰人は願乃を見つめる。その目はわずかに赤い。ゆっくりと近づき、低い声で問うた。「泣い
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第1223話

張り詰めた空気のまま、互いに動けずにいた――そのとき。清席がびしょ濡れのまま駆け込んできた。どうやら、じょうろをひっくり返してしまったらしい。清席はそのまま彰人の手を引いた。「パパ、清席、お風呂入りたい!」彰人は一瞬だけ視線を落とし、すぐに息子を抱き上げた。そのまま急いで階段を上がっていく。頬には、まだはっきりと叩かれた跡が残っていたが、それを気にする様子はない。途中、清席がふと手を伸ばし、彰人の頬をつまんだ。にこにこと笑いながら言う。「パパ、元気出して?」彰人は一瞬きょとんとしたが、すぐに気づいた。――わざとだ。この子はわざと自分を濡らした。この場を収めるために。……本当に、賢いのか、無邪気なのか。彰人は苦笑した。清席は相変わらずにこにこしている。体は冷えているはずなのに、それでも嬉しそうだった。――パパがもう叩かれなくて済むように。そんな気持ちがその笑顔に滲んでいた。やがて彰人は清席を浴室へ連れていき、温かい湯船にゆっくりと浸からせた。冷えないよう、少し長めに温めてやる。体がしっかり温まってから、そっと抱き上げ、柔らかなタオルで包み込み、そのまま寝室へ運んだ。願乃はすでに部屋にいた。どれだけ怒っていても、息子のことを放ってはおけない。そして――母である彼女には、すぐに分かっていた。清席がわざと濡れたことも、彰人を庇おうとしたことも。……どうやら、二人とも父親が好きらしい。あれだけ長く離れていたのに、それでもなお、その想いは揺らいでいない。彰人は清席をベッドの上に降ろした。小さな体をタオルにくるまれたまま、清席はごろごろと転がり、最後には裸のまま願乃に抱きついた。「ママ〜」そのまま頬をすり寄せ、甘える。清席はパパが好きで――ママのことも大好きだった。冷えないよう、彰人はすぐにその体を引き離し、軽くお尻をぽんと叩いて抱き寄せる。小さくて柔らかな体を腕に収めながら、服を着せ始めた。その様子を見て、願乃が言う。「濡れてるじゃない。風邪ひかせるつもり?」彰人は顔を上げた。黒い瞳で、静かに彼女を見つめる。何も言わない。ただ――その視線には、言葉以上のものが宿っていた。露骨ではない。けれど、この空間には
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第1224話

彰人は思い通りに事を運び、そのまま二階へと上がって着替えに向かった。本来なら客室を使うべきだったが、ふと足を止め、進む方向を変える。そのまま、主寝室の扉を開けた。今の彼には何の遠慮もなかった。自分も願乃も、もう独り身なのだから。――数発平手打ちを食らったくらいで、何だというのか。むしろ、どこか満たされている自分がいる。ほんのわずかでも望みがあるのなら、誰が愛する人を手放したいと思うだろうか。……一方、願乃は清席を寝かしつけたあと、自分も濡れてしまった体を着替えようと部屋へ戻った。何気なく扉を開けた、その瞬間、視界に飛び込んできたのは裸の男の姿だった。あまりのことに、扉を閉めることも、目を逸らすことも忘れ、ただ、そのまま立ち尽くしてしまう。彰人はそんな彼女をじっと見つめていた。その眼差しはどこか深く、読み取れない。――最後に彼と関係を持ったのはいつだったか。おそらく、五年前。清席が生まれてから、彼はずっと、自分を抑えてきたのだ。しばらくして。彰人はゆっくりとズボンを履きながら、落ち着いた声で言った。「もう見終わったか?満足したか」その言葉に、願乃はようやく我に返る。平然を装い、視線を逸らした。「別に。見慣れてるし」そう言い捨てると、彼の横をすり抜け、クローゼットへと入っていく。何事もなかったかのように。だが、扉を閉めた瞬間。背中を板に預けたまま、動けなくなった。頭の中には、さっきの光景が何度も繰り返し浮かぶ。そのせいで、顔がじわじわと熱を帯びていく。……本当に、最低だ。あんな見せ方、絶対にわざとだ。しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻し、着替えを選び始める。セーターを脱ぎ、新しい服を頭からかぶろうとした、そのとき――クローゼットの扉が、音もなく開いた。彰人が当然のように中へ入ってくる。願乃は驚いて振り向いた。「何してるの?」思わず唇を噛む。彰人は答えない。ただ、じっと彼女を見つめる。上から下へと、ゆっくりと視線を滑らせながら。そこには、成熟した男特有の余裕と引力があった。やがて、彼は扉にもたれ、長い脚を自然に伸ばしたまま、低く問う。「どうして着ない?」願乃は苛立ちを覚え、手にしていた服をかぶろうと
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第1225話

すべてが終わった頃には、もう九時近くになっていた。彰人が腕を緩めると、願乃は一瞬、羞恥と苛立ちを滲ませ――再び手を振り上げる。だが今度は、その手首を掴まれた。彰人はじっと彼女を見つめる。怒りを含んだその顔をどこか愛おしむように。やがて、口元にゆるやかな笑みが浮かんだ。低く、掠れた声で問う。「さっき、気持ちよくなかったか?」願乃はなおも彼を睨みつける。――本当は違う。気持ちよくなかったわけがない。十年の結婚生活。彼は彼女の身体を知り尽くしている。望めば、いくらでも満たせる。……それでも。そんなこと、口が裂けても認められない。願乃は両手で彼の肩を押し、顔を逸らしたまま、小さく言う。「離して。お腹すいた」その一言に、彰人の表情が柔らいだ。確かに、少し強引だったかもしれない。五年ぶりだったのだ。抑えきれなかった。腕を離すと、願乃の足元がわずかにふらつく。体勢を整えてから、慌てて服を着始める。だが、着替え終えても、どこか違和感が残る。自分の体に、汗の匂いと彼の気配がまだ残っている。彰人が静かに言った。「シャワー、浴びたほうがいい」そして、さらりと続ける。「俺は清席を見てくる」服を整え、そのまま出ていこうとしたところで――願乃が彼の袖を掴んだ。「あなたも、浴びてきて」このまま出ていけば、使用人に余計なことを言われる。その意図を察してか彰人は低く笑った。――今さら、隠せるような時間じゃない。同じ部屋に二時間もいれば、何をしていたかくらい、誰だって分かる。だが、彼女のそういうところを無視するわけにはいかなかった。願乃は主寝室の浴室へ。彰人は客室へ向かう。距離を取ったのは気まずさではない。――これ以上一緒にいれば、また抑えが効かなくなるからだ。五年という時間は一度や二度で埋まるものではなかった。やがて二人はそれぞれ身支度を整え、ほぼ同時に階下へ降りる。顔を合わせた瞬間――願乃はわずかに視線を逸らした。どこか落ち着かない。また手を上げたくなる衝動もあったが、さすがに今は気まずさのほうが勝った。……リビングでは、清席がまだ起きていた。ソファに座り、積み木で遊んでいる。彰人の姿を見つけるとぱっと顔
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第1226話

言葉を聞いた瞬間、願乃は信じられないというように彼を見つめた。しばらくして、ようやくゆっくりと口を開く。「彰人……私に、しがみつくつもり?」彰人は手を上げ、自分の頬にそっと触れた。――こんなに腫れるほど、叩かれたのに。自分がここを去る理由なんてあるのか。願乃が言い返そうとした、そのとき――「清席、パパと一緒に寝たい。ママとも一緒がいい。クラスのみんなも、パパとママと一緒に寝てるもん。清席もそうしたい!」澄んだ声が響いた。願乃の胸がきゅっと締めつけられる。――断れない。何も言わないことがそのまま承諾だった。けれど、それは決して本心ではない。彰人は願いを叶えたはずなのに、胸の奥にはどうしようもない空しさが広がっていた。――もう、愛されてはいないのだ。夜は静かに深まっていく。本来なら、清席はもう眠る時間だ。願乃は彼を抱き上げ、主寝室へ運ぶと、小さな服を脱がせ、寝かしつけようとした。そのとき、父親である彰人が、湯気の立つ茶を手に、窓際に立って外を見つめていた。そして、ふと呟く。「雪だ」その一言で、清席の目がぱっと輝いた。小さな毛布にくるまりながら駆け寄り、あっという間に父の腕によじ登る。「一緒に見る!」彰人はその温もりを抱き寄せ、小さな頭に口づける。胸の内がじんわりと満たされていく。大きな窓の向こう、音もなく細やかな雪が降り続いていた。細い雪はまるで針のように夜空を刺し、黒を淡く白へと染めていく。一面、雪だった。清席は片手で父の首にしがみつきながら、無邪気に歓声を上げる。こんなふうに雪を実感するのは初めてだった。しかも――父と一緒に。ふいに振り向き、彰人の頬にちゅっと二度キスをする。「パパ、だいすき!」そのあと、急に照れたのか、身体をもじもじさせながら父にしがみついた。――こんな子を嫌いになれるはずがない。彰人もまた、彼の額に口づけると、少し前へ歩み寄り、もっとよく見えるようにしてやる。――清席。これはパパとお前の最初の冬だ。――願乃。これもまた、俺たちの最初の冬なんだ。ベッドのそばに立つ願乃は小さな服を手にしたまま、その父子の姿を見つめていた。胸の中には確かな怒りがある。――許せない。どうしても、許せない。
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第1227話

願乃はじっと彰人を見つめていた。彼が非を認めたところで、心が軽くなるどころか――むしろ、余計に苦しくなる。別れてから、もう長い。その間に、彼女には新しい相手もできた。それなのに、彼はまた同じことを繰り返す。もし清席がいなければ――本気で引っ越してでも、彼から離れていただろう。けれど、年齢のせいか。もう、そんなふうに何もかもを投げ出すだけの気力は残っていなかった。争うことすら、疲れてしまったのかもしれない。しばらくして、願乃は小さく首を振った。何も言わず、そのままクローゼットへ入る。扉を閉めた瞬間、そっと顔を覆った。涙が静かにこぼれ落ちる。ぽたり、ぽたりと、床へ落ちていく。拭おうともせず、ただそのまま――感情を流していく。ついさっきまで、この場所で。彰人と身体を重ねていたことが、余計に胸を締めつけた。やがて落ち着きを取り戻し、寝室へ戻ると、彰人はすでに清席とともに横になっていた。彼の視線はずっと子どもの顔に注がれている。――そうだ。四、五年も戻らなかったくせに。帰ってきた途端、すっかり「いい父親」だ。願乃はその姿を見つめながら、胸のざわめきを抑えきれなかった。やがて、男が掠れた声で言う。「足、だるいんだろ。こっち来て、横になれよ……願乃。俺たち、ちゃんと話すの、何年ぶりだ」……願乃はベッドの縁に腰を下ろし、独り言のように呟く。「陽斗と付き合ってるからって……普通に話せないわけ?この前の食事会だって、楽しそうだったじゃない。彰人……最初から、何か企んで戻ってきたんでしょ?涼香は?あんたの彼女じゃなかったの?どうして手放せるの?ほんと、最低なことばっかりするのね」やがて、寝室の灯りが落ちる。残されたのは小さな読書灯のやわらかな光だけ。そこには三人の影。清席は何も知らずにすやすやと眠っている。彰人は手を伸ばし、願乃をそっと引き寄せた。子どもを起こさないよう、静かに。二人の身体は隙間なく寄り添う。願乃はもう抵抗する気にもならなかった。横向きに寝そべり、腕を枕にして、窓の外の雪を見つめる。背後からは懐かしい体温と気配。そのとき、彰人がそっと顔を寄せ、低く囁いた。「俺と、あいつ。どっちがいい?」大人同士だ。その
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第1228話

翌朝、彰人は目を覚ますと、窓辺へと歩み寄った。一晩で、外はすっかり雪に覆われている。庭では数人の使用人が雪かきをしていた。積もった雪はふくらはぎほどの高さまで達している。――あの夜と同じだ。あれほどの吹雪の夜。同じ雪景色。あのときは失った。そして今は手に入れた。室内は暖かく、清席はまだぐっすりと眠っている。寝返りを打ちながら、ぽつりと寝言をこぼすその姿は柔らかく愛らしく、思わず胸が緩む。そのとき、願乃も目を覚ました。ベッドの上で身体を起こすと、黒く長い髪が腰まで流れ、どこか儚げな雰囲気をまとっている。彰人は歩み寄り、そっと彼女の口元に口づけた。願乃は反射的に避けようとするが、後ろ首を抱き寄せられる。深くは触れない。何も言わず――ただ、じっと見つめる。――ようやく、取り戻した。そのとき、清席が目を覚ました。小さな身体をぐっと伸ばし、両手を広げて「だっこ」を求める。父親はその期待を裏切らない。そのまま抱き上げ、布団から引き出すと、傍らの服を手に取り、着替えさせていく。小さな口が止まらない。「パパ、いっしょに雪だるま作る?すっごく大きいの、作りたい!」……彰人は穏やかに笑った。「いいよ」その様子を願乃は静かに見ていた。――やっぱり。彰人が戻ってきてから、清席は明らかに明るくなった。前はこんなふうに無邪気におしゃべりする子ではなかった。どこか、結代に似てきた気がする。――父親という存在はそれほどまでに大きいのだ。そう思いながら、願乃はちらりと彰人を見た。――図々しい男。けれど、ここにいることをもう否定しきれなかった。朝食を終えると、彰人は清席を連れて庭へ出た。厚く積もった雪を見た瞬間、清席は歓声を上げる。その無邪気さに、使用人たちも思わず笑みをこぼした。誰かがニンジンを持ってきて、さらに囲碁の黒石を二つ。彰人は小さなスコップでざっくりと土台を作り、形を整えていく。雪だるまはどんどん大きくなり、清席二人分ほどの高さにまで膨らんだ。頭と胴体ができあがると、清席はその周りをくるくると回って喜ぶ。彰人は彼を抱き上げ、黒石を目に、ニンジンを鼻に押し込ませる。さらに、誰かが赤い帽子を持ってきた。青いマフラーを巻い
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第1229話

ここ数年で、モナはすっかり世話焼きのおかん役になっていた。年齢もあってか、体力は昔ほどではない。そのうえ、手のかかる上司までいる。とはいえ、年収はそれなりに高い。涼香と同じくらいだったが、今は彼女が退職してしまったため、実質ひとりで二人分の仕事を抱えている。――そろそろ、昇給の話をしてもいい頃だろう。そんなことを考えつつ、雪の中を医師とともにやって来た。深く踏み込めばずぶりと沈み、浅く踏めば足を取られる。まさに、苦労人の上級サラリーマンである。玄関に入ると、濡れた靴下を脱ぎ、室内用のスリッパに履き替える。医師も同様だ。一階では、願乃がソファに腰掛け、雑誌を眺めていた。使用人が近づき、静かに告げる。「願乃様、氷室様の秘書の方がお医者様をお連れになっています。上へご案内してよろしいでしょうか」願乃は顔を上げ――モナの姿を認めると、小さく頷いた。声はどこか淡々としている。「ええ。彰人なら二階の客室よ」そう言うと、再び視線を雑誌へ落とした。モナは軽く瞬きをする。少しだけ意外で――そして、どこか馴染めない。以前なら、どちらかが体調を崩せば、もう片方は必死になって世話を焼いていた。医者を上に行かせて、自分は下で雑誌を読む――そんなことはなかった。けれど。長く離れていたこと。そして彰人がしてきた数々のことを思えば――これでも、十分に優しいのだろう。そう思うと、モナはすっと気持ちを切り替えた。医師を連れて、二階へ向かう。……客室のリビングで、彰人はソファに横たわっていた。どこか満足げな顔で、頬には不自然な赤みが差しているが、見た目の調子は悪くない。だが、体温を測れば、四十度。驚くほどの高熱だった。病気になってから、体調を崩すとこうなる。モナはふと、庭にあった雪だるまを思い出す。誰の仕業かは言うまでもない。ため息まじりに言った。「もう少し、ご自愛ください。先生にも言われているでしょう。できるだけ運転は控えて、身体を冷やさないようにって。それなのに、外で雪だるまですか?ここが立都市だからまだいいものの、山奥だったら医者も呼べませんよ」彰人はかすかに笑った。「清席がやりたがってたからな。まだ小さいし……こういうの、なかなか叶えてやれな
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第1230話

願乃はさほど気にしていなかった。彰人は大人だ。自分のことは自分で面倒を見られる人間だと思っていたからだ。それに、体調を崩している以上、清席とは距離を取らせるべきだ。その夜、願乃は清席の世話に専念していた。――まさか。夜中に、再び高熱を出すとは思いもしなかった。しかも今回はかなりひどい。明け方には、ほとんど意識が朦朧としていた。それを見つけたのは朝になってからの使用人だった。……願乃は清席に絵本を読んでいた。そこへ、ノックの音。扉が開くと、使用人が青ざめた顔で立っていた。「願乃様、大変です……氷室様のご様子が悪くて……お声をかけても反応がありません。すぐに病院へお連れしたほうがよろしいでしょうか?」願乃ははっとする。――どうして?これまで彰人は体調を崩しても一晩寝れば回復していたはずだ。悪化するなんて――ありえない。清席を落ち着かせるとすぐに客室へ向かった。中へ入ると、彰人は完全に熱にうなされ、意識も定かではない様子だった。願乃は迷わなかった。モナへ連絡する余裕もなく、すぐに車の手配をする。庭師と運転手に手伝わせ、彼を運び出した。車に乗せ終えると、少し考え、願乃もそのまま乗り込んだ。走り出した車の中。胸の奥がひどくざわつく。やはり、モナに連絡を入れた。――今の彰人はあの人が管理しているのだから。電話の向こうで、モナはしばらく沈黙し――やがて静かに言った。「病院でいいと思います」どこか引っかかる言い方だった。だが、願乃は深く考えなかった。雪が降って二日。道路にはまだ雪が残っている。車は慎重に進む。凍結していないのが、せめてもの救いだった。やがて到着したのは立都市でも屈指の総合病院。しかも、顔なじみの医師を頼った。母――舞の知人である、萩原医師だ。萩原医師は彼らを迎え入れ、すぐに診察に入った。検査を終え、電子カルテを確認する。そして――ふと、動きを止めた。ゆっくりと、願乃に問いかける。「願乃ちゃん。君と彰人くんが別居して長いのは知っているが。彼がこの数年で大きな手術を二、三度受けているのは……知っていたかい?」願乃は眉をひそめた。「手術?」「肝移植が一度。それから脳の手術が一度。どちらも
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