All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 1231 - Chapter 1240

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第1231話

モナは上司の顔をちらりと見た。彰人はすでに眠りに落ちている。願乃は小さく息をつき、声をひそめた。「しばらくは……目を覚まさないと思う」モナは少し考え、それからキッチンの流しへ向かった。手際よく温めたミルクをカップに注ぎ、願乃の前にそっと置くと、自分はソファに腰を下ろす。やがて、静かに記憶をたどりはじめた。その表情は迷いに満ちている。――思い出すにはあまりにも痛い過去だったからだ。傷ついたのは彰人だけではない。彼女自身も、そして涼香も――しばらくの沈黙のあと、モナはようやく口を開いた。「あの年のこと、覚えていますか。願乃様が身ごもっていた頃――結代ではなく、小さなあの子をお腹に宿していた年です。あの冬は大雪でした。クリスマスの夜――氷室さんは涼香にきちんと話をつけて、お金も清算して、彼女を帰そうとしていました。『家庭に戻る』って……あの日の氷室さんはまるで生まれ変わったみたいで、本気でやり直そうとしていたんです。願乃様と結代のために、プレゼントまで用意して……帰ろうとしていたそのとき、突然、激しい頭痛に襲われて――私が駆けつけて病院へ運びました。診断は……肝臓の再発。それに、脳にも腫瘍が見つかって……あの夜――初めて、氷室さんの顔に絶望を見ました。これまでにも、メディアグループを引き継いでから何度も危機はありました。でも、どんなときでも冷静で……取り乱すことなんてなかったです。しかし、あの夜の表情だけは一生忘れられません。そのあと、氷室さんは願乃様のもとへ戻って……涼香とやり直したとおっしゃったのです。でも本当は違うんです。あれは――ご自分が病気だと悟ったからです。本気で心変わりしたと、そう思わせる方がいいと……そう考えたんです。もし自分が死んだら、願乃様が深く傷ついてしまうからです。その後、舞様が事情を知って、氷室さんをベルリンへ連れて行かれました。半ば強引に、療養させるために……その数年間、莫高チップの経営の大半は願乃様のお父様が担っていました。氷室さんはとても仕事どころではなくて……ずっと治療を続けていたんです。ひどいときには髪もすべて抜け落ちて……身体は衰弱しきって……あの状態で会社を回すなんて、命を削るようなものです。願乃様、氷室さんにとって、大切なのは願乃様とお子様たち
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第1232話

病室の外は刺すような寒さだった。けれど――願乃はそれをまるで感じていなかった。コートを肩に羽織り、窓の外の冬景色をぼんやりと見つめる。雪はまだ溶けきらず、枝には氷の粒がきらきらと残っている。向かいの屋根の上では、鳥たちが餌を探し、見つけると嬉しそうに羽をばたつかせていた。その光景を見ているうちに、願乃の目に静かに涙がにじんでくる。……彰人は昔からそうだ。いつだって、自分で勝手に決める。妊娠させたのも彼なら、病気になったからと離れようとしたのも彼だった。あの夜――彼は彼女を抱き寄せて、「俺と陽斗、どっちがいい?」と聞いた。意地を張って、「陽斗のほうがいい」と答えた。けれど彼は、涼香との関係について何一つ説明せず、ただ淡々と話を流しただけだった。――あのまま、ずっと誤解させておくつもりだったの?自分が裏切ったと思わせたまま。彼女に他の男がいたのなら、自分もそうだったと思わせれば、少しは気が楽になるとでも?……そんなふうに思ったの?願乃の唇がわずかに震える。――ばかにしないで。どうして、自分が引け目なんて感じると思ったのか。彼とはもう、とっくに離婚している。新しく恋人を作るなんて、何もおかしいことじゃない。それなのに――どうして、視界がこんなにも滲むのか。どうして、胸の奥がこんなにも痛むのか。――どうして、こんなに苦しいのか。約三十分ほどして、願乃はようやく病室へ戻った。モナはすでに片づけを終えていて、彼女の姿を見ると軽く会釈し、少しだけ間を置いてから、理由をつけて部屋を出ていく。二人きりの空間が静かに残された。差し込む冬の日差しさえ、どこかやわらかい。願乃はベッドのそばに立つ。彰人は上体を起こし、ベッドにもたれながら彼女を見上げていた。高熱のせいでまだ顔色は悪く、どこか弱々しい。それでも――彼女が怒っている、その表情を見つめて、どこか安心したように微笑む。……怒っている顔が見られることすら、嬉しいのだろう。けれど――女性がいつまでも怒っているのはよくない、と思ったのか。彼はそっと手を伸ばし、彼女の手を引いた。「座れよ。立ってると、足が疲れるだろ」願乃は動かなかった。それでも彼は、穏やかに彼女を引き寄せ、無理やりではなく、自然にベッドへ座
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第1233話

夕方になると、京介と舞がやってきた。続いて澪安夫妻も、思慕と恩夕を連れて顔を出す。さらに澄佳と一ノ瀬も合流したが、芽衣と章真は年齢的に合わないと判断して、今回は遠慮したらしい。結果、病室は一気に家族の場へと変わった。なんとそのまま、室内に簡易コンロを持ち込み、鍋まで始めてしまう。手際よく動いているのは京介と一ノ瀬だ。慕美も手伝おうとしたが、舞に腕を引かれ、「いいからこっち」と子どもたちの見守り役に回された。一ノ瀬はやけに張り切っていて、食材もやたら豪華だ。しかも用意されたもののほとんどが――彰人の体では食べられない物。鍋はぐつぐつと音を立て、香ばしい匂いを部屋中に広げていく。完全に――嫌がらせだった。「……おい、一ノ瀬。わざとだろ」ベッドにもたれたまま、彰人が数メートル先を見やり、ぼそりと呟く。彼の前に置かれているのは湯気の立つ白い粥が一椀だけ。一ノ瀬はというと、そんな視線など気にも留めず、脂ののった肉を箸でつまみ、満足そうに口へ運ぶ。「そりゃそうだろ。願乃の代わりに、ちゃんと仕返ししてやってんだから」その一言に願乃の頬がぴくりと揺れた。彰人はそれ以上何も言わなかった。ただ、静かに――やわらかな目で彼女を見つめる。その視線の甘さに、一ノ瀬は思わず顔をしかめ、無言で肉をかき込んだ。……重いんだよ、この空気。彰人もいい年だというのに、まるで若い頃の恋人同士のような顔をしている。とはいえ――陽斗との関係をあっさり壊したあたり、やはり侮れない。この男、腹の中は相当黒い。涼香のことだって、本当にすべてが成り行きだったのか――その答えは彰人本人しか知らない。ただ、あえて説明しないことで、彼女の名誉を守るという選択をしたのもまた事実だ。今、すべての非難は彼一人に向けられている。それでいい、と彼は思っているのだろう。願乃とのことは――もう、そこは問題ではない。部屋の中は笑い声と湯気で満ちていた。こうして自然に集まり、食べて、笑っている。それはつまり――周防家が彰人を受け入れたということでもあった。もともと彼はずっとこの家に関わり続けてきた。ただし病人という、曖昧で不安定な立場で。半ば消えかけた存在のように、静かにそこにいた。それが今――ようやく、本来あ
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第1234話

しばらくのあいだ、モナは完全に思考が止まっていた。――理解が追いつかない。これはあまりにも想定外すぎる。「早く行け。午後には届いてないと困る」彰人は当然のように指示を飛ばす。――今夜は同じ部屋で過ごすつもりなのだ。そう思うだけで、機嫌がいい。モナはこっそりと白い目を向け、気づかれないように小さくため息をついたあと、別の車に乗り込んだ。シートに腰を下ろしても、なお文句が止まらない。……あの年で、もう少し落ち着こうとか思わないんですかね。色気で押すにも、限度というものがある。若い子と張り合う年齢じゃないでしょうに……とはいえ、命令は命令。どれだけ納得がいかなくても、従うしかない。モナはそのまま屋敷へ向かい、荷物の運び出しに取りかかった。服も、絵画も――彼のセンスを象徴するものすべて。そして何より、願乃の気を引きそうなものを片っ端から。その様子を見送ったあと、彰人は満足げに息をつき、自分の車に乗り込む。隣には願乃。どうにか機嫌を取ろうと、軽く咳払いしてから口を開いた。「今日、香水変えた?いい匂いするな」願乃はノートパソコンを開き、仕事のデータに目を落としたまま、わざと視線を向けない。「彰人、今のあなた、かなりくどいよ」……わざとだな。心の中で、彼は確信する。俺の気を引こうとしてる。――勝手な解釈である。だが一度そう思えば、もう気にならない。むしろ気分は上々。体調は回復したばかりだというのに、顔つきはどこか春の陽気のように明るい。前で運転しているドライバーですら、その上機嫌に気づくほどだ。同乗している雅南はただ黙って視線を外した。……見てられない。せっかく願乃が年下の恋人といい感じになっていたと思ったのに。――結局、戻ってきたのはこの人だ。余計なことは言わない。ただ静かに息を潜めていた。車はゆっくりと走り、やがて別荘へ到着する。すでに使用人たちは事情を聞いていた。彰人が遊び歩いていたわけではなく、ずっと療養していたことも。病が癒えた今、こうして戻ってきたことも。――それなら話は別だ。すっかりいい話として受け止められていた。玄関前には、清めの塩と小さな盛り塩が用意されている。厄を落とし、無事に戻ってきた
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第1235話

願乃は二階に上がると、そのまま書斎へ向かった。彰人のように、のんびりしていられる立場ではない。年末休暇に入っているとはいえ、年度末が近づき、会社の業務はむしろ忙しさを増していた。ほどなくして、メディアグループの中堅幹部たちが何人か訪れる。すべて、願乃と業務の打ち合わせのためだ。面談を終え、彼らが帰ろうとしたとき――主寝室のドアが開いているのに気づく。中をちらりと覗くと、リビングスペースで、ひとりの男が雑誌をめくりながらくつろいでいた。……その男は彰人だった。かつての、そして今もなお絶対的な上司。彼らの顔色が一瞬で変わる。――まるで幽霊でも見たかのように。それでも、見て見ぬふりはできない。ぎこちなく足を進め、頭を下げる。「氷室様」……うわ、戻ってきた……心の中では、完全に修羅場だった。この数年、願乃のもとで多少なりとも「手を抜いたり」、「私利を挟んだり」した者たちは冷や汗が止まらない。……後で全部、整理しないと……バレたら、降格どころじゃ済まない……最悪、終わる……一人、また一人と現れ。そして、一人ずつ送り出されていく。――すべて、願乃の計算通りだった。彰人は見せる男だ。だからこそ、あえて彼らをここへ呼びつけた。あの人が戻ってきたと、目で見せるために。揺さぶりをかけるために。動かせないわけではない。調べられないわけでもない。ただ――母の顔を立てて、これまで踏み込まなかっただけ。今は違う。彰人という圧を借りて、少しでも引き締める。それだけでも、十分な効果がある。一通りの対応を終え、願乃は書斎で、軽くこめかみを押さえた。……どうして、こうなったんだろう。気づけば、すっかり商売人の顔をしている自分がいる。……全部、あの人のせい。小さく息を吐いた。そのとき、外の庭からざわめきが聞こえてくる。願乃は窓際へ歩み寄り、下を覗いた。……トラックが何台も入ってきている。引っ越し業者だ。しかも、かなりしっかりした業者に見える。……頼んだ覚え、ないけど。違和感を覚え、そのまま一階へ降りる。そして、現場を見て言葉を失った。彰人がまるで当然のように指示を出している。衣類、装飾品、絵画、書類――すべてを分類しながら、次
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第1236話

やがて、願乃の瞳はじんわりと潤んでいった。――どうして、つらくないはずがあるのだろう。この数日間、彰人の空白だった年月について、彼女は一言も問いたださなかった。けれど――彼の電子カルテを手に入れていた。すべて英語で書かれた専門的な記録だったが、彼女は夜を徹して目を通した。冷静な医学的記述のはずなのに、その一文一文が胸を締めつけてくる。どれほどの痛みだったのか、どれほど耐えがたかったのか――想像するだけで、息が詰まりそうだった。長年、夫婦として過ごしてきた二人だ。願乃の様子を見れば、彰人にはすぐ分かる――彼女が自分を案じていることなど。ただ、素直になれないだけだ。男は一歩近づき、そっと彼女の頬を包み込むように持ち上げた。指先で目尻の涙をやさしく拭い取り、かすれた声で囁く。「泣くな、願乃。もう……全部、終わったことだ」願乃は顔を上げたまま、ぼんやりと彼を見つめている。心は過去に囚われ、抜け出せずにいた。その様子に、彰人もまた抑えきれず――彼女の目尻に軽く口づけ、続いて白く柔らかな頬へと唇を落とす。年月を重ねても、願乃はよく手入れされていて、肌は滑らかで瑞々しい。若い娘にも引けを取らず、それどころか、成熟した艶やかさを纏っていた。頬から鼻先へ、そして――やがて、湿り気を帯びた唇へと。そのすべてが、彼を強く惹きつけてやまない。彰人はもともと遠慮する性格ではない。それに、このクローゼットは、かつて何度も二人が身体を重ねた場所でもあった。彼が願乃をソファへと導こうとしたそのとき――彼女はようやく我に返る。まだどこか呆然とした表情のまま、彼の胸を強く押し返した。「だめ……彰人、だめなの」熱を帯びた声がすぐに返る。「どうしてだめなんだ?前だって……ここで、三回も――覚えてるだろ?お前、自分から離れようとしなかった。願乃、認めなくてもいいが……身体はちゃんと覚えてる」言葉は次第に際どさを増していく。願乃はとても耐えきれず、唇をきゅっと噛みしめた。声はかすれ、途切れ途切れになる。「もう……言わないで……彰人、やめて……」だが、男は言葉だけで終わるつもりなどなかった。ここで――今、この瞬間に。彼女を抱き寄せ、深く口づけていく。重なるたびに、息を奪うほど濃くなっていく。
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第1237話

願乃は自分が彰人に対して冷たすぎたのではないかと感じていた。――やはり、まだ気にかけているのだろう。あるいは、数年という空白のせいで距離が生まれてしまったのかもしれない。簡単に元通りには戻れない。けれど、それでも日々は静かに流れていく。そんな中、ほどなくして――彰人は周囲を驚かせる決断を下した。莫高チップを売却したのだ。病に倒れたときも手放さなかった。これまで一度も売らなかった。それを今になって――すべて売却した。企業価値は二兆円を優に超えていた。その全株を手放したのだ。年末前には、残金の入金も完了していた。その日、願乃はまだ会社にいた。今日はメディアの忘年パーティーで、帰りは遅くなる予定だった。夕方、彰人はモナと数名の幹部を呼び、書斎で面談を行っていた。幹部たちは一部株式を保有したまま、引き続き莫高に残ることになっている。だが彰人は彼らに深い感謝を抱いていた。自分が病に伏していた数年間、彼らは職責を全うし続けてくれた。そうでなければ、今の莫高がどうなっていたか――想像に難くない。その思いから、彰人は彼らを呼び寄せた。一人につき、二百億円。それは彼なりの「けじめ」だった。もう働かなくとも、一生安泰に暮らせるだけの額だ。幹部たちは顔を見合わせた。そして何度も問いかける。「新しいプロジェクトはないのですか」「もしあるなら、ぜひまたご一緒させてください」だが彰人は穏やかに微笑むだけだった。「もう事業はやらない。資産を管理しながら……ゆっくり余生を過ごすつもりだ」その言葉に、彼らは落胆の色を隠せなかったが、それでも彼の意思を尊重し、それぞれ金を受け取って去っていった。本来なら新会社に出資し、再び大きな成功を狙うつもりだったのだが――それも叶わなくなった。幹部たちを見送ったあと。モナが書斎の扉を閉め、上司を見やる。――やれやれ、復帰して立都市に戻ってきたと思ったら。自分の会社も、自分の居場所も、消えてしまった。あの年収一千万は……これからどうなるのだろう。彼女が口を開く前に、彰人は一枚のカードを放り投げた。煙草をひと吸いし、すぐに火を消すと、淡々と言う。「中に十億円入っている。立都市で一番いいマンションが買える額だ。その気があ
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第1238話

場は依然として静まり返っていた。願乃もまた、まっすぐに彰人を見つめている。手には、古株の幹部から差し出されたグラスがあった。まだ口はつけていない。何度も断ったが、すでにかなり飲まされていたのだ。静寂の中、彰人が歩み寄ってくる。――あの男が戻ってきた。周囲の心の声が、ひしひしと伝わってくるようだった。響くのは革靴の乾いた音だけ。一歩、また一歩と、願乃へと近づき――やがて目の前に立つ。長い指がすっと伸び、彼女の手からグラスを取り上げた。そのまま視線を巡らせ、ぴたりと一人の男に定める。「これは……周防社長に?」その声に、名指しされた田島副社長は肩を震わせた。古参中の古参。舞の時代から、彰人の時代、そして今の願乃まで仕えてきた男だ。それなりの権限も持っている。願乃も情に引かれ、これまで手をつけずにいた存在だった。だが――彰人に名を呼ばれた瞬間、その男の顔色が変わる。「は、はい……私が社長に……」彰人は微笑んだ。シャンデリアの光を受けたその顔は、白く整っている。だが同時に、圧倒的な威圧感を放っていた。かつて、メディアで彼のやり方を知らぬ者はいない。何の後ろ盾もなかった若者が、わずか数年で社長にまで上り詰めた――その裏にある手腕の恐ろしさは誰もが知っている。田島の足が震え始める。――終わった。心の奥底で、そう確信していた。彰人に目をつけられたら、ただでは済まない。以前は、彼が莫高のトップである以上、メディアには手を出さないだろうと高を括っていた。だが、彼は莫高を売った。次はメディアかもしれない。彰人は赤ワインのボトルを取り、さらに小ぶりの酒器を手に取る。自ら、田島の杯に酒を注いだ。「古株なんだろう?なら、礼にも作法があるはずだ」穏やかな声。だが逃げ場はない。「この一杯を社長に差し出す前に――三杯は飲むべきだな。そういうものだろう?年長者として、周囲に手本を示さないといけない」わずかに間を置き、名を呼ぶ。「田島副社長」その顔はもはや血の気を失っていた。逃げられない。どんなに無理でも、飲むしかない。男は歯を食いしばり、酒をあおる。一杯。二杯。三杯。それだけで、十分すぎる量だった。彰人は顔色一つ変えず、淡々
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第1239話

車に乗り込むと、願乃は少し飲みすぎていた。肩にかけていた彰人のコートをそっと脱ぐ。それが彼の不満を引き起こした。「俺のコート、そんなに不快か?」願乃は目を伏せたまま、わざと刺すように言う。「ええ、すごく不快」薄手のコートは脱いでも膝の上に置いたまま、彼女は後部座席にもたれかかる。彰人はわざと意味をねじ曲げた。「やっぱり着てる方がいいな。もっと近くで見せてくれってことか?」願乃は横目で睨む。「いつからそんな軽口叩くようになったの?」男はわずかに笑う。軽薄さなど微塵もない。先ほどのはただ彼女をからかっただけだ。車は静かに走り出す。外は冷え込み、夜は深く静まり返っている。だが車内は春のような暖かさに包まれていた。彰人は無理に距離を詰めることもなく、そっと彼女の手を探し、以前と同じように掌の中に収める。この先の人生は長い。だが、明日がどうなるかは誰にも分からない。だからこそ――共にいられるこの瞬間をただ大切にしたかった。願乃は一度だけ手を引こうとしたが、振りほどけず、やがて諦めた。窓の外では、細かな雪が舞っている。乾いた雪が夜風に乗って、静かに漂う。美しい光景だった。愛する人と同じ車に乗っているだけで、それはさらに特別なものになる。――このまま、時間が止まればいい。そんな思いがふと胸をよぎる。だがそれではいけない。子どもたちはこれから成長し、それぞれの人生を歩んでいく。出会い、愛し、家庭を築いていく。ならば、自分は願乃と共に年を重ねていけばいい。静かな夜の中で、彰人はふと低く呟いた。「願乃……周防本邸の蝋梅、咲いてるらしい。時間があったら、一緒に見に行こう」願乃は顔を背けたまま、窓の外を見つめる。返事はない。聞こえていないのか。それとも――あえて答えないのか。どちらでもよかった。彼女がそばにいる、それだけで十分だった。――幸せだ。そんな思いを胸に車は邸宅へと戻っていく。車を降りるとき、願乃はきちんとコートを羽織り直した。彰人はそっと彼女を守るようにして中へと導く。清席はすでに眠っていた。屋敷の中は静かで、穏やかな空気に包まれている。使用人が近づき、小声で報告する。清席は子ども部屋で眠り、専
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第1240話

部屋には、淡く湿った空気が満ちていた。照明は落とされ、どこか言葉にできないほどの艶やかさが漂っている。何度も重ねたあと――ようやく彰人は満ち足りた様子で息をついた。願乃は頬を枕に押し当てたまま、ゆっくりと擦りつけるようにして、しばらく動けずにいた。息が整うまでに、かなりの時間がかかる。――いったいどこからあの体力が出てくるのか。四十を過ぎ、しかも大病を二度も乗り越えたはずの男とは思えない。本当に、限界まで振り回された。ようやく落ち着いてから、バスタオルを体に巻きつけ、浴室へ向かう。その背に、ふいに腕が回された。「一緒に入る」……願乃は拒まなかった。もう一度相手をする気力は残っていなかったからだ。やがて二人でベッドに横になる。疲れているはずなのに、不思議と眠れない。隣には慣れ親しんだ体温――けれど、どこか微かに異なる気配も混じっていて、心が落ち着かない。そのとき、耳元で低い声がした。「まだ足りないのか?もう一回、いくか?」願乃は無言で寝返りを打つ。相手にする気はない。男はくすりと笑い、後ろから彼女を抱き寄せた。わざと耳元に顔を寄せ、囁く。「昔みたいに、話でもしてやろうか。新婚の頃、お前、俺の話を聞くの好きだったろ」その一言に、願乃は思わず顔をしかめる。あの頃、彼女はまだ二十二歳。何も分からないまま、彼に惹かれていった。結婚してからも、まるで子ども扱いされるように、やさしくあやされていた。――あの頃は本当に幸せだった。ふいに、胸が痛んだ。目の奥がじんと熱くなり、鼻先まで赤くなる。まるであの頃の自分に戻ってしまったかのように――まだ、彼をまっすぐに好きだった頃の感情が、ふっと蘇る。けれどそれは、甘さではなかった。ただ、苦いだけの感情。今の願乃はもうあの頃の少女ではない。どんな感情であれ、簡単に表に出すことはない。苦しさも、寂しさも、すべて押し込める。黙ったまま動かない彼女を見ていれば、眠っているようにも見えるだろう。だが彰人には分かっていた。――彼女は眠っていない。心が揺れている。男は何も言わなかった。ただ腕を回し、彼女を抱き寄せる。顔をそっと首筋に埋める。――願乃、ごめん。静かな夜だった。
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