All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 1201 - Chapter 1210

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第1201話

清席が一歳になった頃――彰人は一度、立都市へ戻ってきた。その頃には、彼の肝臓の状態は安定しており、見た目はすっかり健康な人間と変わらなかった。だが、病歴を知る者でなければ分からない。彼の脳にはなお腫瘍が残っていることを。それはまるで時限爆弾のように、いつ命を奪うか分からない存在だった。その日、周防家では清席の一歳の祝いが開かれていた。五十卓にも及ぶ盛大な宴。立都市の上流社会においては、この子が彰人の子であることは周知の事実だった。だが、誰もそれを口にはしなかった。彰人が若い女性と関係を持ち、願乃とは別れ、今は海外で稼いでいる――所在すら定かでない、という噂が広まっていたからだ。そして清席を見れば、一目で分かる。顔立ちはまさに彰人そのもの、まるで同じ型から抜き出したかのようだった。まだ一歳の幼子ながら、よちよちと数歩は歩け、言葉にならない声も発している。その愛らしさに、何家族もの人々が代わる代わる抱き上げては、手放せずにいた。宴が最高潮に賑わいを見せていたその時――不意に、会場のざわめきがぴたりと止まった。視線が一斉に、入口へと集まる。そこに立っていたのは他でもない、清席の実の父、彰人だった。外では、モナと涼香が待っている。彼は一人、そこに立っていた。黒と白のクラシックなスーツに身を包み、かつて幾度となく立都市の宴に出席していた頃と何一つ変わらない佇まい。耳元の髪一筋に至るまで乱れはない。ただ、以前よりもずっと痩せていて、その分、鼻筋の高さが際立って見えた。ゆっくりと歩みを進め、願乃の前へ。そして視線を落とし、清席を見つめる。「パパ――」結代が声を上げ、その胸に飛び込んだ。彰人は少女の頭をそっと撫で、じっと顔を見つめる。それから、願乃と清席へと視線を移した。その瞳はひどく明るく澄んでいた。まるで彼自身のようでありながら、どこか違う。彰人の幼い頃には、こんな賑やかな光景も、五十卓もの客に囲まれることもなかった。あったのは陰鬱で湿った空気と、這い回る鼠だけだった。願乃もまた、彼を見つめ返す。周囲のすべての客も、息を潜めて彼を見ていた。しばしの沈黙の後、彰人は低く問いかけた。「抱いてもいいか?」願乃は目を潤ませながら、静かに頷いた。
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第1202話

最初に口を開いたのは舞だった。彰人を見つめ、静かに言う。「彰人、どうぞ座って」その一言――「彰人」という呼びかけはどれほど彼の立場を取り戻したことか。それだけで、彰人と周防家の縁が完全に切れていないことが伝わる。舞の中では、彼はいまだに「半ば家族」として扱われているのだ。席に着くと、京介が軽く肩を叩き、結代を呼び寄せて父の隣に座らせた。少女は大喜びだった。なぜこんなにも長く帰ってこなかったのか――その理由は分からない。けれど、きっと理由があるのだと信じている。父が自分や清席を愛していないはずがない、と。小さな顔を上げて、無邪気に尋ねる。「清席、かわいいでしょ?毎日ね、ママと一緒に弟のお世話してるの」その言葉に、彰人の胸が鋭く痛んだ。本当は立都市に残りたかった。子どもたちのそばにいたかった。だが、自分は足手まといでしかない。この一年、断続的に体調を崩し、脳の腫瘍はさらに一センチ大きくなった。いつ発作が起きるのかも分からない。手術がいつできるのかも、そもそも手術台から生きて降りられるのかも分からない。考えなければならないことが多すぎた。結局、浮かんだのは苦い笑みだけだった。結代もまた、微笑む。まだ幼いながらも、どこか大人びた理解を見せていた。父を問い詰めることも、泣きわめくこともない。伯母が言っていた――人にはそれぞれ事情があるのだと。父にもきっと、どうしようもない事情があるのだろう、と。でなければ、こんなにも長く帰ってこないはずがない。自分や清席、そして母のもとへ。父はまだ、母のことを想っている。結代はそう感じていた。……周防家が受け入れる姿勢を示したことで、それまで彰人と距離を置いていた者たちも、次第に彼へと歩み寄ってきた。グラスを手に、次々と挨拶に訪れる。だが京介がそれを制した。「今日は清席の誕生日だ。あとで父子でゆっくり過ごす時間もあるだろうしな。飲みすぎは子どもに良くない」もっともらしい理由だった。――本当は彰人が酒を飲めないからだ。肝移植を受けた彼の身体はもはやアルコールを許さない。生き延びたいなら、なおさらだ。それでも彰人は一度立ち上がり、軽く言葉を交わしてから、再び席に戻った。卓は静まり返って
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第1203話

帰路は黒の専用車だった。運転席と後部座席は仕切られている。後部は広く、そして密閉された空間。そこに四人が座っていた。結代は彰人の腕にしがみつきながら、何気ないふりをして清席と遊んでいる。だが実際には、両親の様子に耳を澄ませていた。清席はようやく言葉を覚え始めたばかりで、まだうまく発音できず、「あー」「うー」と曖昧な声を出し、よだれも垂れてしまう。結代は慣れた手つきでその口元を拭き、車内で温めておいた哺乳瓶を取り出して、上手にミルクを飲ませた。清席は姉のスカートを握りしめながら、嬉しそうに声を上げる。その一方で――願乃と彰人の間には、どこかぎこちない空気が流れていた。一年以上も会っていなかった二人、明らかに距離ができている。人前ではまだよかったが、こうして二人きりに近い状況になると、どう接していいのか分からない。しばらくして、願乃が軽く咳払いをした。「あの子、ずいぶん安心してるみたいね」彰人が顔を上げる。「何が?」「ううん、なんでもない」願乃はそれ以上言おうとせず、視線を子どもたちへ落とした。一方、彰人はじっと彼女を見つめる。――安心してるって、何を指しているんだ。何に対しての安心なんだ。問いかけたい衝動が胸に込み上げる。だが結局、その思いは押し殺された。――自分には何一つ約束できないのだから。黒い車は静かに走り続ける。揺れに身を任せながら、三十分後――願乃の住む別邸へと到着した。そこはかつて彰人が彼女のために用意した場所だった。車が止まっても、彰人はしばらく動けなかった。あまりにも久しぶりだった。まるで夢の中にいるような感覚。再びこの場所に戻ってきた。願乃がいて、結代がいて、清席がいる場所に。視界がわずかに滲む。だが感情を抑え、先に車を降りると、車体に手を添えて願乃が降りるのを支えた。彼女は清席を抱いている。結代はすぐに彼の腕にしがみつき、離れようとしない。彰人はその小さな体を抱き寄せる。胸の奥に、さまざまな感情が入り混じる。この束の間の再会――どれほど自分は感情を抑え込んでいるのか。どれほど踏みとどまっているのか。……そうしなければ、きっとこの場を離れられなくなる。だが分かっている。自分が生きようと
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第1204話

言葉にできないほどの想いが宿った、その視線の中で――彰人はもう抑えきれなかった。低く、かすれた声で呼ぶ。「願乃」願乃は視線を落とし、息子をしっかりと彼の腕へと預ける。「気をつけて」その声は静かで、どこまでも落ち着いていた。なぜ彼が突然そんな温もりを見せたのか――願乃には分からなかった。だが、受け入れることはできない。もう別れたから。そして今、彼の傍には涼香がいる。たとえかつて夫婦であり、二人の子どもをもうけたとしても――今、彼の隣にいるのは涼香なのだ。その線引きを願乃ははっきりと自分の中で定めていた。激しく揺れた感情もやがて静まっていく。彰人もまた、徐々に我に返った。――そうだ。もう、終わった関係だ。別れを切り出したのは自分。他に好きな人ができたと告げ、その人と生きると決めた。願乃を自由にすると言ったのも自分だ。先ほどの衝動はあまりにも身勝手だった。二人は距離を取るように別れ、願乃は家の用事を整えるために階下へと向かった。――彼を避けるように。静まり返った寝室に、彰人と清席だけが残る。彰人は息子を抱き、優しくあやした。不思議なことに、さっきまで眠るか眠らないかの状態だった清席は今はぱっちりと目を開け、じっと彰人を見つめている。まるで、初めて出会った存在を確かめるかのように。やがて、小さな手で彼の顔を包み込み――柔らかな声でこう呼んだ。「パパ」彰人は一瞬、息を呑んだ。次の瞬間、視界が滲む。――この子の口から、その言葉を聞くことはもうないと思っていた。だが、一歳の子どもはもう呼べるのだ。彼は強く息子を抱きしめ、その柔らかな頬に何度も口づけた。涙がこぼれそうになるのを必死で堪えながら。――こんな自分にまだこんな時間を与えてくれるなんて。生きるか死ぬかも分からない身でありながら、周防家は受け入れてくれた。願乃とも、子どもたちとも、こうして過ごす時間をくれた。それはきっと――彼に残された、最後の温もりなのかもしれない。彰人はかつて運命を恨んだことがあった。だが同時に――運命はどれほど自分に優しかったのかとも思う。願乃に出会わせてくれたのだから。その時、寝室の扉がそっと軋んだ。結代が布団を抱えて入ってくる。足
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第1205話

月は静かに眠り、夜は深く沈んでいく。やがて結代は眠りに落ちた。その目尻にはきらりと一粒の涙が残っている。彰人はそれを見つめ、胸が締めつけられるように痛んだ。結代は聞き分けがよく、そして人の心に敏い子だ。きっと――すべて分かっている。彼女にあるのは、ただ純粋な親子の情だけ。だが願乃との間には、かつて夫婦だった時間がある。そこに涼香という存在が重なり、かえって曖昧になってしまった。――それでも願乃はまだ自分を想っている。そうでなければ、あの距離の取り方にはならない。気づかないはずがないのだ。彰人はそっと、結代の艶やかな黒髪を撫でる。大きくなるほどに、母に似てきた。気づけば――願乃ももう三十六歳。女として最も輝く時期を過ぎている。――そんな彼女を自分はどうしてこれ以上縛れるだろうか。どうして、これ以上不安の中に閉じ込められるだろうか。この一年あまり、舞と京介は何度も海外へ飛んできた。澪安や澄佳も、何度か訪れている。――すべては彼の病のために。最初に倒れた時、危篤通知が出された。身寄りのない彼はそれをモナと涼香に託すしかなかった。だが最終的に駆けつけ、処置にあたったのは京介と舞だった。二人は丸一日、手術室の外で待ち続けた。周防家から受けた恩。それはもう、返しようがないほど大きい。――それなのに、どうしてまだ願乃を巻き込めるのか。彰人の胸に、離れがたい想いが広がる。離れたくない。このまま時間が止まってしまえばいいとさえ思う。この瞬間のまま――世界のすべてが止まり、願乃と、結代と、清席と、ずっとここにいられたなら。どれほど、そう願ったことか。結代は彼に寄り添いながら眠っている。清席は穏やかな寝息を立てている。静まり返った夜。部屋には、幼い子ども特有の甘いミルクの香りが満ちていた。彰人はそっと、結代の額に口づける。――結代、愛してる。それから慎重に立ち上がり、少女をベッドへと運び、心地よく眠れるよう整える。しばらくその寝顔を見つめ、次に清席のもとへ行き、同じようにそっとキスを落とす。生まれた時から父を知らないこの子は、彼が無理に望んだ存在だった。願乃を引き留めるための、鎖のようなものだった。……それでも、結局守
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第1206話

夜はあまりにも短かった。けれど同時に、果てしなく長くもあった。近づくことの方が離れることよりも、こんなにも苦しいものだったなんて。一分一秒が彰人にとってはまるで煉獄のようだった。手放したくないという想いと、別れへの恐れが胸の中でせめぎ合う。やがて東の空が白み始める。彼は重く滲む目を上げ、――もう行かなければならないと悟った。最後に清席をそっと抱きしめ、結代の柔らかな頬に口づける。寝室を出るとき、その足取りはひどく重かった。客室の前で軽く扉を叩く。「願乃、もう行くよ」しばらくして、内側から声が返る。「わかった」それきりだった。彰人はしばらくその場に立ち尽くしたが、結局、扉が開くことはなかった。やがて静かに背を向ける。ゆっくりと一歩ずつ階段を下りていく。庭に出るころには、空はすっかり明るみを帯びていた。四月の朝の風が頬を撫で、かすかな冷たさを運んでくる。石段の下には、黒い高級車が停まっていた。モナと涼香が迎えに来ている。彰人はもう行かなければならない。午前十時発の専用機で、そのままベルリンへ向かうのだ。車に乗り込む直前、ふと足を止める。振り返り、二階を見上げた。書斎の大きな窓にはカーテンが垂れ、気配は見えない。それでも彼はしばらくじっと見つめていた。どこか、何かを失ったような表情で。やがて歯を食いしばり、車に乗り込む。ほどなくして、黒い車は静かに動き出し、屋敷の門を抜けていった。そのまま、遠くへ――完全に見えなくなるまで。その時になって初めて、二階の書斎のカーテンがそっと開かれた。願乃が部屋の隅から姿を現す。朝の光を浴びたその頬は透き通るように白く、淡く輝いていた。彼女は何も言わず、ただ遠くを見つめる。あの黒い車が視界から消えていく、その瞬間まで。背後から、小さな手が彼女に回される。「ママ……パパ、行っちゃったの?」結代の柔らかな声だった。願乃は静かにうなずく。「うん」彰人がもう戻ってくるのかどうか。いつ戻るのか。わからない。ただ――今回の別れが最後になるような気がしていた。理由はわからない。それでも、そう感じてしまう。目尻がわずかに濡れる。それでも彼女は涙をこらえた。人生は続
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第1207話

二年――ほとんど音沙汰はなかった。願乃はこの先もう二度と会うことはないのだろうと思っていた。生活がようやく落ち着きを取り戻し始めた、その矢先――彰人は再び彼女の前に現れた。ひとりだった。なぜか涼香の姿はない。以前より幾分、顔色は良く見える。だが、どこか違う。全身に、拭いきれない陰がまとわりついていた。思いがけない再会に、胸の内はひどく複雑に揺れる。願乃は呆然と、男を見つめていた。遠くから、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。やがて目の前に立ち――「願乃」その懐かしい呼び声を聞いた瞬間、我に返る。気づけば、視界は滲んでいた。完全に、取り繕うこともできずに。彰人は彼女の前に立ち、ただ見つめ合う。周囲の人影はまるで消えたかのように感じられた。残っているのは、互いの存在と、胸の奥に沈殿した記憶、そして拭いきれないわずかな未練。それが彼女のものなのか、彼のものなのか――もはや分からない。願乃は込み上げるものを押し殺し、静かに問いかける。「戻ってきたの?長くいるの、それとも一時的に?」彰人は淡々と答える。「結局、帰るべき場所に戻ってきた」願乃は小さくうなずく。「そう。いいと思う」彰人が何か言いかけた、その時だった。入国ゲートから、もう一人の長身の男が現れる。足早に願乃のもとへ来ると、自然に彼女を抱き寄せ、頬に軽く口づけた。「待たせたね」願乃は避けることなく、そのまま受け入れる。そして軽く彼を押し返し、二人同時に彰人の存在に気づいた。陽斗は芸能界の人間だ。彰人のことを知らないはずがない。海外育ちで、どこか自由な気質を持つ彼は願乃と付き合うと決めた時点で、過去にこだわるつもりなどなかった。むしろ、自然に手を差し出す。「藤宮陽斗。願乃の恋人です」彰人も落ち着いた仕草で手を差し出す。「氷室彰人です」短く握手を交わし、すぐに離れる。願乃は静かに口を開いた。「迎えは来てる?もしなければ、私たちの車で市内まで送るけど」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、後方からキャリーケースを押しながら涼香が現れた。願乃と、その隣に立つ陽斗の姿を見た瞬間、涼香の表情にわずかな不安がよぎる。彰人をちらりと見やる。取り乱さないかと、気が
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第1208話

自分の願乃だ。彼女は二十二歳のとき、彼のもとに来た。それを他人に渡せるはずがない。だが、どうしようもなかった。……車は小刻みに揺れながら、空港の地下駐車場を抜け出す。一時間後、静かに一軒の邸宅へと滑り込んだ。そこはかつて、彰人と願乃がともに暮らしていた場所だった。立都市に戻ってきた今も、彼はここを選んだ。使用人はすでに総入れ替えされている。涼香は現在、彰人の専属秘書として身の回りの世話を担っていた。体調は以前よりずっと安定し、脳の手術も無事に終えている。それでも彼女は離れなかった。自ら辞めるとは言わず、彰人もまた、彼女を手放そうとはしなかった。――とくに、願乃に恋人ができた今となってはなおさら。涼香はこの邸宅には住んでいない。少し離れた場所にあるマンションで暮らしている。通いやすいようにと、彰人が用意したものだった。この数年、涼香は彼を支え続けてきた。その献身はもはや他人とは呼べないほどで――二人は半ば家族のような関係になっていた。車を降りると、使用人たちが一斉に頭を下げる。「氷室様、お帰りなさいませ」「玉井様、お帰りなさいませ」……彰人は軽くうなずくだけで、そのまま二階へ上がっていった。涼香はその場に残り、細かな指示を出す。やがてすべてを終え、二階へ上がると――彰人はリビングにいた。ソファに座り、指先でその布地をなぞっている。まるで、何かを確かめるように。足音に気づき、彼は顔を上げることなく、静かに言った。「ここの家具、もう十年以上そのままだ。でも、替える気になれないんだ。願乃との思い出だから。なあ、涼香。願乃とあの男……藤宮陽斗との関係は長く続くと思うか?もし別れたら――その時、俺がもう一度彼女を追いかけたら……振り向いてくれると思うか?また、一緒にいられると思うか?」楓人は言っていた。彼の余命はあと二十年は問題ないと。その残された時間を彰人は願乃とともに生きたいと願っている。だが――その機会がまだ残されているのかは分からない。涼香の胸がぎゅっと締めつけられた。この三年間、彰人は一瞬たりとも楽ではなかった。ようやく帰国したと思えば、目の前にあったのは――願乃の新しい幸せだった。それでもなお、彼の想いは変わらな
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第1209話

夜。願乃のスマートフォンに、一通のメッセージが届いた。彰人からだった。ごく短い、そしてどこか事務的な文面――【清席と一緒に、食事でもどうだろう。都合はいい?】……秋の夜。願乃はその画面をただ静かに見つめていた。長い時間が過ぎてから、ようやく指を動かす。【いいよ。金曜の夜はどう?涼香も一緒に連れてきて】わざと――親しげに。彼女はあえて「涼香」と名前で書いた。そのメッセージを見て、彰人は小さく笑った。願乃が大人になったのか、それともまだ幼いままなのか――彼には判別がつかなかった。気にしていないふりをしている時ほど、本当は気にしている。その気持ちがかえって伝わってくる。それは男として、どこか嬉しくもあり――同時に、胸を重くもさせた。――彼女はもう他の誰かのものなのだから。画面越しに、二人はそれぞれ過去をなぞる。甘さも、苦さも、痛みも――すべてが一度に胸へ押し寄せてくる。……だが、金曜を待たずして――二人は再び顔を合わせることになる。その日、願乃は女性のクライアントと食事の約束をしていた。レストランに足を踏み入れた瞬間――目に入ったのは彰人と涼香の姿だった。同じ店で、食事をしている。彰人は雑誌に目を落とし、涼香はメニューを手に、丁寧に注文をしていた。細やかな要望を落ち着いた口調でウェイターに伝えている。長く彰人のそばにいたせいか――その所作には自然と成熟した気品が宿っていた。気づけば、もう三十代。あの頃のようなあどけなさはすでにない。二人はよく似合っていた。まるで――長年連れ添った夫婦のように。願乃は気にしてはいけないと分かっていた。ただ――胸の奥に、わずかな苦さが広がる。陽斗は優しい。関係も安定している。それでも、人には「一番愛した人」がいる。その人が「叶わなかった存在」になったとき――再会は嵐のように心を揺さぶる。どうして、平静でいられるだろう。ヒールの音を響かせながら、ゆっくりと歩く。すれ違うその瞬間――彰人がふと顔を上げた。逃げられないと悟り、願乃は微笑む。「偶然ね」彰人は何も言わず、ただ彼女を見つめる。願乃は奥を指し、唇だけで告げた。――約束があるの、先に行くね。男はゆっくりとうなず
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第1210話

だが、車のところまで来ると――願乃の車はすでになくなっていた。運転手の姿もない。願乃は電話をかけようとしたが、彰人が淡々と言った。「先に帰らせた。雨だしな。年寄りに運転させるのは危ない」願乃は思わず無言になる。――いや、その人、運転手なんだけど。彼が危ないなら、自分が乗るのは安全なのか。そんな理屈、通るわけがない。すると彰人はさりげなく車のドアを開け、ごく丁寧に言った。「ちょうど結代と清席に何か買おうと思っていてな。二人とも大きくなって、何を選べばいいか分からない。よかったら一緒に見てくれないか?」願乃は黒い車を見た。少し考え――結局、乗り込んだ。運転席には別のドライバー。彰人は後部座席に座り、落ち着いた様子で彼女を見た。そして、静かに尋ねる。「藤宮さんは?一緒じゃないのか」願乃は特に隠すこともないと思った。お互いに、もう新しい相手がいるのだから。自然な口調で答える。「地方で撮影中。最近、かなり忙しいの」彰人の視線がわずかに強まる。「忙しくて、お前に会う時間もないのか?」願乃の眉がぴくりと動いた。「詮索するのはやめて、彰人。私だって、あなたがこの数年どこで何をしてたか聞かないし、涼香との関係も探ろうとは思ってない。私たちは別れたの。それに私はできる限りの礼儀は尽くしたつもり。普通の関係でいられない?よくあるでしょ、離婚した夫婦が、子どものために表面上だけでも平和を保つって」彰人はただ静かに彼女を見つめる。何も言わなかった。彼が黙ると、願乃もそれ以上は話さない。――そもそも、悪いのは彼の方なのだから。車内は薄暗く、隣り合って座っているのにどこか遠い。やがて、男が低く口を開いた。「どうして結代をフランスに行かせた。まだあんなに小さいのに」結代の話題になると、願乃はきちんと答えた。「本人が行きたがったの。それに、向こうには付き添いも何人かつけてる。料理人もドライバーも、こっちから連れて行ってるし、もう半年くらい経つけど、すっかり慣れてるわ」結代が留学してから――そばにいるのは清席だけになった。子どもが一人になる分、楽ではある。だが同時に、結代には申し訳ない気持ちもある。あの子は小さい頃から、ほとんど自分で自分を支えてきた。
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