All Chapters of 私が去った後のクズ男の末路: Chapter 921 - Chapter 930

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第921話

夕梨は車を走らせ、ホテルへ向かった。大晦日の前夜とはいえ、館内は思いのほか静かだった。部下たちへの指示をすべて終えると、夕梨は事務室に戻り、待機の時間つぶしにパソコンで簡単なミニゲームを開いた。夜九時に館内を一巡して見回りをすれば、その日の勤務は終わりだ。その折、お見合い相手の博仁から【正月は実家で食事でもどう?】というメッセージが届いた。二人はまだ交際には程遠い、ただ様子を見ている段階にすぎない。夕梨は、家に招かれるのは早すぎるとやんわり伝え、外で会うことを提案した。博仁は空気を読む男で、夕梨の意向をすぐに理解し、食事場所を外へと変更した。メッセージを閉じたあと、夕梨はふっと息をついた。――たぶん、彼とは長く続かない。博仁が悪いわけではない。むしろ完璧なくらい優秀だ。けれど、条件の良さとは裏腹に、心が灯るようなときめきはどうしても感じられなかった。それでも、とりあえずは試してみるつもりだった。そう考えた瞬間、ふと脳裏に寒真の顔がよぎる。あの人も言っていた――「試してみたい」と。椅子の背にもたれ、目を閉じる。――私は、本当にどうかしてる。そのとき、デスクに置いたスマホが震えた。出てみると、聞き覚えのある、けれどどこか距離のある声だった。「岸本さん、こんばんは。桐谷彩望です。今、ホテルにいるんです。ロビーのカフェで、お時間いただけますか?」彩望――トップ女優。寒真とパーティーに出席していた、あの女性。夕梨は一瞬迷ったが、会うことにした。五分後、一階の併設カフェへ向かうと、彩望はすでに席に着いていた。真冬とは思えないほど薄着で、黒のベルベットドレスに、肩へ流れるような輝石のショール。完全に「見せるための格好」だった。対して夕梨は、ホテルスタッフ用の制服スカート。向かいに座ると、彩望はちらりと夕梨の服装を見、それからカップの中身をゆっくりとかき混ぜながら、落ち着いた声で言った。「まさか、あなたが周防家と岸本家のご令嬢ですね。どうしてこんな場所で働いていますか?私なら、毎日きれいに着飾って、お見合い相手を待つだけでいいと思いますけど」夕梨は軽く微笑み、率直に返した。「桐谷さん、上流って、外から見るほど甘くないですよ。あの世界は広いようで狭いです。トップクラスの家同
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第922話

しばらくして、夕梨はぎこちなく顔を上げた。視線の先には、寒真が立っていた。いまでも彼女は、彼が自分に後ろめたいことをしたとは思っていない。ただ――あまりにも、立場がつらい。それだけだった。それでも夕梨は、最後の品位を守った。そっと息を整え、控えめな声で言う。「お二人のこと、お祝い申し上げます」ここでは自分はホテルスタッフで、目の前の二人は大切なゲストだ。夕梨は礼を尽くして会釈し、スタッフを呼んで彼らの後を引き継ぐと、まるで子どもが大人の世界から退場するようにその場を静かに離れた。外は底冷えする夜気が満ちていた。暖房が効いているはずなのに、廊下の一部はひやりとしている。夕梨は早足で歩いた。けれど気づけば、両腕で自分の体を抱きしめていた。ふと立ち止まり、胸の前で腕を組み、ゆっくりと顔を上げて壁灯を見つめた――そのとき。急いだ足音が、遠くから近づいてきた。寒真だった。二歩ほど後ろまで来ると、彼は歩みを緩め、静かに呼んだ。「夕梨」夕梨は数秒だけ、心の乱れを押し込める時間を取った。振り返ったとき、その顔には悲しみも怒りもない。ただ、仕事で身につけたような淡い微笑みが浮かんでいた。「朝倉監督。説明なんて必要ない。私たちの間に、もうそういう義理はない。それに……とっくに終わった関係なの。あなたが誰と一緒にいようと、誰と過ごそうと、それはあなたの自由。私が口を出す権利はない」声は穏やかだった。「嘘じゃない。本当に、もう……終わったの」そう言った瞬間、ふと思い出したように付け加える。「そうだ、あなたのコート、まだ事務室にある。持ってくる」寒真が何か言おうとしたが、夕梨はすでに踵を返していた。迷いのない歩みだった。――そう、これは恥ずかしい。恋とか未練とか、そんな話の前に。ただ一人の純粋な気持ちしか知らない少女が、芸能界の二人の大人に挟まれた。それだけで十分に羞恥だった。まして夕梨は、誰もが羨む家柄の娘なのだ。でも彼女は、泣きも、縋りつきもしない。ただ受け入れ、ただ手放す。そして、決して戻らない。夜の帳が降り、立都市の中心にある央筑ホテルでは花火大会が始まっていた。中庭には恋人たちが集まり、冬空に咲く光の奇跡に歓声を上げている。遠くから
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第923話

三十分後。寒真の黒いレンジローバーは、静かに朝倉家の本邸へと入っていった。古い煉瓦と赤瓦で建てられた、約千二百平米ほどの大きな邸宅。車が止まると、寒真は助手席に置いた黒いコートへ視線を落とし、しばらく呆然と見つめていた。やがてそれを手に取り、車を降りる。玄関に入ると、長年家を支えてきた老いた使用人が、目を丸くした。「寒真坊ちゃんがお戻りになるなんて……つい先ほどまで旦那様が大荒れでね、『家にも落ち着かず、まるで鳥みたいに飛び回って!』って。奥様が必死になだめても、全く聞く耳を持たれなかったんですよ」寒真は苦笑し、コートを預けた。「鳥って……相変わらずだな、親父は」「旦那様はね、『まったく、ふざけた坊主だ』とまでおっしゃっていましたよ」「はいはい」そこへ二階から、紀代がゆっくり降りてきた。息子を見つめる目は、叱りたい気持ちと心配が入り混じっている。「お父さん、今日は相当怒ってたのよ。少しは自重しなさい」寒真はソファに倒れ込み、背にもたれて天井を見上げた。「俺が家の名誉を傷つけてるって?どうせ親父は寒笙の方が可愛いんだろ。あいつが生きてたらな」紀代の胸に、古い傷が疼いた。二人の息子のうち、寒笙の死は、夫婦の心に深い影を落としている。だからこそ、余計に寒真に厳しくなるのだ。だが母にとっては、どちらもかけがえのない子。奔放な長男であっても、同じように愛おしい。だからこそ、寒真には良い結婚と明るい未来を願っていた。彼女は、寒真と夕梨のことが気がかりでならず、そっと問いかけた。「夕梨のところへ、ちゃんと行ったんでしょう?どうだったの?」息子の表情を見ただけで、うまくいかなかったことが分かった。寒真は細く目を開け、諦めのように言った。「母さん。俺、昔は彼女を大事にしなかった。再会してからも、ろくに向き合わなかった。感情ってものがよく分かってなかったんだと思う。でも……夕梨のことだけは違う。家庭を持つのも悪くないと思えた。子どもだって……ああ、うるさいガキも案外悪くないって思えた」紀代は一瞬ぽかんとし、次の瞬間、息子の肩をぽんと叩いた。「それが愛よ、寒真」「これが?」寒真は何度も呟くように繰り返した。そのとき、二階の方から乾いた笑い声が響く。「その愛とやら
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第924話

早朝。当直を終えたばかりの夕梨は、車に乗ろうとしたところで瑠璃から電話を受けた。「すぐ周防本邸に戻りなさい。大事なお客様が、祖父母にご挨拶に来ているの。ついでに若い者にも会いたいって。H市からいらした方で、曾祖父さまと深いご縁があるらしいのよ」H市から?曾祖父ゆかりの方?夕梨は首を傾げた。そんな人に会った記憶はない。――まさか、これが寒真が縁談を持ち込んだということだなんて。見合いも恋愛もすっ飛ばし、いきなりの縁談。想像すらしていなかった。……周防本邸は、朝から異様なほどの賑わいだった。晴臣は、ついでの顔では心許ないと考え、なんと夜のうちに、H市から自分の義父にあたる加賀谷仁政(かがや まさのり)を呼び寄せていた。その必死さで、どれほど長男を案じているかは一目瞭然だ。その仁政はH市でも名の知れた人物だ。司とは、生死を共にした戦友のような仲だったが、時代と距離のせいで交流が薄れ、若い世代で顔を合わせた者はほとんどいなかった。H市の加賀谷家が直接動くなど、まずあり得ない。それだけでも、この縁談の重みは計り知れない。周防家の男衆――寛も、当然若輩として控えめに座り、さらにその妻たちである女性陣は、周防寛の妻を除いて皆立ったまま応対していた。その中で、瑠璃はこっそり夫の輝の袖をつまんだ。「これはどういうことなの?」相手は、下手に逆らえば面倒なほどの大物で、しかも寒真は名うてのプレイボーイ。さらに家系をたどれば、夕梨とはひと世代違っている。瑠璃の不安は尽きない。輝もまた、どうすることもできずにいた。こんな席では、そもそも自分が口を挟める余地などない。それでも、瑠璃の不安げな表情に気づき、そっと声を落として慰めた。「心配するなよ。最終的に決めるのは夕梨だ」だが赤坂瑠璃の不安は消えなかった。なにせ朝倉家はほぼ家ごと乗り込んできている。用意された婚礼の品は、なんと九台分の車でびっしりと積まれていた。ざっと見積もっても、優に数十億円は下らない。とりわけ圧巻だったのは、仁政が手ずから用意した贈り物――H市でも名勝として知られる場所に関わる貴重な文化財で、金を積んでも手に入らず、多くの人間が喉から手が出るほど欲しがる代物だ。確かに、朝倉家の家柄は申し分のない
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第925話

夕梨は思わず目を瞬いた。――寒真が、縁談を持ってきた?何を考えているの、この人は。だが、ここまで大掛かりに儀式を整えて来られれば、周防家としても簡単には断れない。年若い夕梨でさえ、その力学を直感していた。まして加賀谷家という名門を背負う寒真の立場が、どれほど重いものかも。呆然と立ち尽くす彼女の肩に、琢真がそっと手を置いた。「俺がいる。怖がるな」……朝九時。琢真は妻子と夕梨を連れ、周防本邸へ入った。広間に足を踏み入れると、すぐに挨拶の声が飛び交う。寛は、孫婿の姿を見ると、舞にちらりと目配せし、機嫌を隠そうともしなかった。彼はすぐに席を増やさせ、琢真を朝倉家と同格の位置へ案内し、仁政の前で紹介した。「こちらが岸本家の当主……岸本琢真くんです。いやはや、若いのに見事な人物ですよ。お父上を越えたと言っても過言ではないです」仁政は鋭い目で琢真を見定め、短く頷いた。「才気と胆力を兼ね備えている。まさしく傑物というべき青年だ」寛の口元に、分かりやすい満足の笑みが浮かんだ。だが、その胸中には複雑な影があった。何しろ今日の縁談は、自分の大事な孫の茉莉にまで火の粉が飛びかねない話なのだから。加賀谷家と朝倉家が結託して押しかけてくる以上、亡き父の名誉を汚さぬためにも、表立って反対はできない。――でも、琢真が来てくれた。そう思った瞬間、寛は腹を決めた。彼はあえて琢真の前で、朝倉家の縁談を大いに褒めそやした。「いやぁ、これは実に良い話ですよ。輝や瑠璃も、娘のために即決すべきだろう。加賀谷さんのご厚意を無にしてはならんからね」ついでに寒真まで過剰に持ち上げ、褒め言葉の総動員である。寛の妻は思わず肩を震わせた。話を区切り、寛は孫娘へ優しく向き直った。「夕梨。お前はどう思う?お父さんもお母さんも、そして私も、満場一致で賛成だよ。あとは、お前の気持ちだけだ」夕梨の細い喉がきゅっと鳴った。彼女はそっと寒真の方を見た。今日の彼は、まるでパーティーに出席するかのようにきちんとした装いで、剃り上げた顎、引き締まった表情。それなのに、どこか見知らぬ人のようにも感じた。彼女が見つめると、寒真もまたじっと返す。深い眼差しの奥には、言葉にならない生涯を共にしたいという願いが宿ってい
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第926話

琢真の言葉が途切れた瞬間、場の空気はまるで裏返るように変わった。いくら加賀谷家の当主が顔の広い人物でも、周防家の前で岸本家の娘を横から攫うような真似はできない。――そこまで厚顔無恥ではいられまい。仁政は、不出来な孫へと渋い視線を投げた。いまの寒真は、まさに喉から手が出るほど欲しい逸材だ。本家に男子は二人しかおらず、寒笙は若くして命を落とした。残されたのは寒真ただ一人。他の妹たちはまだ幼い。ゆえに、加賀谷家と朝倉家――二つの家の未来は、否応なく彼一人の肩に託されていた。加賀谷家の事業は長くプロ経営者任せになっている。今回仁政がここへ姿を見せたのは、決して茶飲み話のためではない。孫の縁談をまとめること、そして芸能界から身を引かせ、加賀谷家の事業を引き継がせること――その二つが目的だった。加賀谷家は資源も人脈も潤沢だ。有色金属関連で、これから先は右肩上がりと見込まれている。誰もが食い込もうと必死なのに、肝心の後継ぎが歌だ踊りだと浮かれて、酒色に溺れているとは……仁政はため息をつくしかなかった。――家庭を持てば落ち着くかもしれん。そう思って今日ここへ来てみれば、周防家の娘はなかなかの器量よし。ところが、話を聞けば岸本家の娘だ。岸本家の御曹司は実に手強い。加賀谷家とは浅い縁しかなく、相手が誰であれ一切の遠慮をしない男だ。寒真は、祖父の視線だけで事態を悟った。――今日の縁談がもう望み薄だと悟っていた。琢真の意図も十分すぎるほど明白だった。だが、最初から成功するとは思っていなかった。ただ、夕梨に誠意を見せたかったのだ。周防家、岸本家と朝倉家という三家の前で、自分が遊びではなく、本気で結婚したいのだと示すために。寒真は夕梨へと目を向け、静かに問うた。「夕梨。お前の気持ちは?」周防家の広間には二十人ほどが座り立ちし、皆が夕梨を見守っていた。加賀谷家と朝倉家、どちらも名家だ。加賀谷家が持つ資源は周防家にも岸本家にもない。もし縁談がまとまれば三家は大いに潤うだろう。しかし、周防家の誰もが、そして岸本家の琢真までもが願っていたのは、ただ一つ。夕梨が幸せになること。夕梨は、雅彦が最後まで案じ続けたたった一つの心残り。琢真にとっては、自らが守るべき最愛の妹だ。夕梨自身も、それをよく分かっ
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第927話

夕梨はもちろん、誰かと約束していたわけではない。ただ早く帰って眠りたかっただけだ。だが、それを寒真に説明する必要などない。夕梨は薄く笑い、「そこまで朝倉監督に管理される筋合い、ないよ」と、静かに言った。寒真も同じように笑みを返す。「ええ、仰る通り。俺の口を挟むところじゃない」一歩下がりながらも、その声はどこか柔らかかった。「気をつけて帰って。そして、夕梨。新年、おめでとう」ドアノブを握っていた夕梨の手が、ほんのわずかに止まった。けれど結局、何も言わずに車へ乗り込む。エンジンの音が響き、車はゆっくりと寒真を置き去りにして走り去った。……三十分後、車は【夕梨邸】の門を抜けた。毎年大晦日は周防本邸で過ごすのが恒例だったが、夕梨邸もまた、立都市の冬らしい華やかさで飾りつけられていた。特に広間に置かれた赤い実をたわわに付けた万両の鉢は、一年の実りと繁栄を願う縁起物として、ひときわ目を引いた。その木いっぱいに、夕梨の好きなマスコットが所狭しと吊り下がっている。使用人が微笑ましく言った。「周防さんが、昨夜いらして……一つひとつ、ご自分の手で飾られましたよ」夕梨は一つ摘み取り、胸に抱きしめた。思えば彼女は幼い頃から愛情に恵まれて育った。寒笙の死だけが、人生で唯一の深い影だった。淡いピンクのいちごベアを抱えたまま階段を上り、軽くシャワーを浴び、薄手の浴衣に着替えて寝台へ。けれど眠りにつく直前、ふと昼間のことを思い出し、慌ててソファ脇の上着ポケットをまさぐった。――出てきたのは四つの箱。三つは加賀谷家からのもの。「加賀谷」の字が刻まれた金のプレート。どうやら加賀谷家の若い世代へ配る正月の縁起物らしい。そして、もうひとつ。寒真がそっと差し出したのは、手のひらにすっぽり収まるほどの細身の小箱だ。中には金のプレートと、細いネックレス。小さなハート型のフォトフレームが付いている。そっと開けると――中にはひとりの男の写真。ひげを剃ったばかりの、清々しく整った顔。寒真、その人だ。「自分大好きか」夕梨は呆れたように、小さく息をついた。だが、どうにも気になる。写真の雰囲気があの写真とよく似ている気がしたのだ。引き出しを開け、もう一つの細いネックレスを取り出す。
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第928話

夕梨の唇がかすかに震えた。寒真は、その瞳に滲んだ光を見逃さなかった。実のところ、彼はさきほどからそこに立っていた。博仁の言葉も、夕梨が泣きそうになった理由も――すべて、はっきりと聞いていた。低くかすれた声で、寒真は囁いた。「泣くな。泣きたいなら……外で泣け」夕梨が人前で泣くのを何より嫌うことを、彼はよく知っていた。夕梨は唇を結び、「放っておいて」とだけ言い、彼の手を振り払おうとした。だが、その時、博仁が追ってきた。ただ夕梨を追うつもりだったはずが、そこに寒真が立っているのを見た瞬間、目の色が変わった。まさか夕梨と寒真に接点があるとは思っていなかった。だが、寒真の祖父の仁政こそ、H市で最も影響力のある人物のひとり。博仁はそこに価値を見た。だから夕梨より先に寒真に媚びる。「夕梨、朝倉監督ってホテルでも重要なお客様だろ?ちょうど映画を観たんだし……ご一緒にどうかな?さっき、ほら、あの女優のスタイルが良くて演技が上手いって――」スタイルが良くて?演技が上手い?誰のことだ。彩望か?夕梨がそんなことを言うはずがない。寒真は、馬鹿げた嘘だと一瞬で察したが、博仁の前で夕梨との関係を明かすつもりはなかった。彼はただ淡々と微笑した。「岸本副総支配人が、ああいうタイプを好まれるとは思いませんでした」「誤解です!」夕梨は早口でそう言い切ったあと、もう博仁に気を遣うのもやめた。彼が何を狙っているのか、夕梨にはよく分かっていた。――自分を踏み台にして、寒真との縁をつなぎ、H市に通じる道を開きたいだけ。だからこそ、彼女は躊躇なく博仁に向き直った。「御巫さん、私たち、合いません。生活も、映画の趣味も、女優の話題も。それから――さっきの映画、最低でした」博仁は言葉を失った。寒真は、堪えきれず小さく笑った。夕梨はそのまま足早に去っていく。取り残された博仁は、焦ったように寒真へと頭を下げ続けた。「朝倉監督、本当に申し訳ありません。夕梨は文芸映画が苦手で……もしよければ、このあと食事でも――」寒真は即答した。「結構です。それと……」薄く笑いながら言う。「俺は夕梨の元恋人です。彼女が唯一、付き合った男です」博仁の顔が凍りついた。媚びようとした言葉が、すべて喉の奥
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第929話

「違う」夕梨はきっぱりと言った。博仁でもなく、ましてや――寒真でもない。彼の膝の上で身をよじり、羞恥に頬を染めて叫ぶ。「寒真、降ろして!こんなの強引以外の何でもない、恥知らず!」だが男は、ただ彼女の頬を優しく撫でるだけだった。声は驚くほど静かで柔らかい。「強引しているってこと?でも、何をする気もない。ただ話したいだけだ。お前が全然聞いてくれないから……こうして座らせてる方が、ちょっとは聞く耳持つだろ?」夕梨はきつく睨みつけた。だが、その端正な顔立ちは怒ってもどこか儚く、寒真には余計に可愛く映る。そしてふいに、彼は昔の記憶を思い出した。初めて彼女を抱いた夜。なぜあの一度だけが、記憶の底でこんなにも鮮烈なのか。彼女が芸能界の外にいるからなのか。それとも、最初からこういう人に弱いだけなのか。寒真にも、その答えは分からなかった。そして、寒真の声がすっと低く落ちた。「どうして俺を試さない?嫌だから?それとも怖いから?なあ、夕梨――お前は臆病者なのか?」夕梨は顔をそむけ、押し殺した声で言った。「したくないだけ」次の瞬間、寒真の手が彼女の細い腰を掴み、彼女の身体をぐっと抱き寄せる。結実した大腿筋の上に座らされていることを意識した瞬間、夕梨の頬は一気に紅潮した。二人は一度、深く分かち合ったことがある。その記憶が、津波のように押し寄せてくる。身じろぎするだけでも、何かを刺激してしまいそうで、怖くて動けなかった。その怯えを読み取り、寒真の腕が彼女を包み込む。そして――驚くほどやさしく、そっと唇を触れさせた。「朝倉寒真!」呼吸が震える。寒真はゆるやかに応え、そのまま唇を深く重ね、ゆっくり、何度も、味わうように啄む。やがて彼女が問い詰めようとした瞬間、逃さぬように抱き寄せ、深く、深く――口づけた。何度も押し寄せる熱に、夕梨の身体は震え、まるで初めて触れられた少女のようだった。だから寒真は気づいてしまう。この数年――彼女には、他の男がいなかったと。その事実が男の胸を異様に熱くし、昂ぶりが軋むほど満ち上がった。しかし、急いてはいけない。まだ彼女は頷いていない。だから寒真は、ただ額をそっと重ね、片手で夕梨の細い腰を支えながら、彼女の呼吸が乱れすぎないよう、ゆ
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第930話

その日を境に、夕梨はまた二人とお見合いをした。だが、どの相手も、第一印象で違うと分かった。深く話す気にもなれず、自然と縁は流れていく。そしてなぜか毎回のように、その場には寒真がいた。夕梨がお見合い相手と向き合っているすぐ脇の席で、まるで見張り役みたいに、お茶を飲んでいる。夕梨は腹の底から苛立ち、瑠璃でさえ、ついに我慢の限界に近づいていた。だが、仁政の孫となれば、誰も強く言えない。……この日の相手は、いわゆるマザコンだ。夕梨は一目で無理だった。瑠璃も眉をひそめる。それなのに先方は夕梨を気に入り、母子二人でぐいぐい押してきて、挙式の話まで勝手に盛り上がる始末。夕梨は「急な仕事が入って……」とでも言って逃げるつもりだった。ところが、言葉を発する隙もなく、隣の席にすっと影が落ちた。見上げれば、三つ揃いのスーツを纏った寒真がそこに腰を下ろしていた。普段の無造作な格好とは違う。完璧に仕立てられたスーツが、彼の体躯を際立たせ、精悍な顔立ちに野性味を添えていた。驚く夕梨と瑠璃の前で、先に反応したのは相手の母親だった。「どなた?」寒真は穏やかに会釈し、上品な笑みを浮かべた。「どうも、夕梨の恋人です。最近ちょっと喧嘩をしまして、彼女が腹いせにお見合いに来ていますが……別れてはいないので、これ以上被害者を増やさないためにも、お伝えしておこうと思いまして」――厚顔無恥にも程がある!三年前の関係を、まだ整理していないと自白しているようなもの。瑠璃は額を押さえ、そっと目をそらした。だが、あの母子の露骨な欲深さを思えば――ここは黙って寒真の肩を持っておくほうが得策だった。まだ話がまとまるどころか、交際の「こう」の字もない段階で、夕梨の抱える莫大な資産にまで口を出そうとするような連中なのだ。瑠璃は腹を括り、優雅にお茶を啜った。相手の母親は苛立ったように言う。「周防夫人、うちは両家の釣り合いを見て申し上げていますのに……娘さんに恋人がいますなら、こんな場に来るのは非常識では?」瑠璃は湯呑みを静かに置き、目元だけで笑った。「でも日下夫人、たしか一時間後にもお見合いがあるでしょう?若い人はいろんな相手に会うものですよ。本当に必要なのは『感情を守れる相手』と『財産を守れる相手』で、違いません
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