八雲の言葉が落ちるや否や、不動産屋は興奮気味に契約書を探し始め、めくりながら口を開いた。「やっぱり彼氏さんはお客様のことを大事にしてるんですね」葵はぽかんと八雲を見つめ、数秒ためらった後、慌てて反対の意見を口にした。「八雲先輩、ちょっと待ってね。この部屋は私ひとりで借りるわけじゃないの。やっぱり水辺先輩に意見を聞かないと」そう言って、彼女は気まずそうに背景のように黙っていた私に視線を向け、緊張した声で尋ねた。「水辺先輩、どう思いますか?」とても礼儀正しい。しかし八雲は私に話す隙を与えず、すぐに口を挟んだ。「水辺先生の意見を伺う必要がない。隣の部屋は窓際だし、そこに葵のピアノを置くといいと思うよ」葵は驚いて口を開き、拒絶した。「それは駄目だよ、八雲先輩。私は水辺先輩とそう約束して……」言いながら、彼女はこっそりと私を二度ほど見やり、その瞳には申し訳なさが溢れていた。このとき八雲はようやく振り返り、視線を私の顔に落として尋ねた。「水辺先生は、この案をどう思う?」声は穏やかで、態度も誠実。私を見る目にさえ礼儀正しさが漂っていた。だが、なぜか挑発されているような錯覚を覚えた。「水辺先輩?」葵の呼び声で思考が引き戻され、私は気持ちを落ち着けて静かに答えた。「紀戸先生の案は、いいと思います」「本当に思いやりのあるお嬢さんですね」不動産屋は安堵の息をつき、急いで紙とペンを差し出して念を押した。「敷金一ヶ月、礼金三ヶ月分です。お支払いはどうされますか?」少女の顔に難しい表情が浮かび、小声で答えた。「その……こうしませんか?一度持ち帰ってから相談して……」「一括払いで買うよ」八雲は葵の言葉を遮り、ブラックカードを取り出した。「大家さんに電話してください。相場がいくらでも、二割上乗せします」不動産屋は呆然とし、渡されたブラックカードを恐る恐る受け取った。葵は慌てて止めた。「八雲先輩、それはさすがに……私も給料があるし、先輩に負担してもらうなんて……」角張った男らしい顔に、珍しく柔らかな表情が浮かんだ。「俺に、そんなによそよそしくするの?」少女は恥ずかしそうに視線を逸らし、頭を深く下げた。だが頬の紅潮は耳の先まで広がり、少女のあどけなさと羞恥を極限まで際立たせていた。手付金の支払いから署名まで、葵はわずか5分で終えた
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