All Chapters of 3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた: Chapter 521 - Chapter 530

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第521話

一本の着信音が、静まり返った重苦しい空気を破った。浩賢は私に一言「ごめん」とだけ告げると、慌ただしく病室を出ていった。藤原夫人のスープはさすがの出来栄えで、香りだけで、その美味しさが伝わってくる。だが、ひと口飲もうとした瞬間、吐き気にも似た、覚えのある不快感だった。――胃の調子が、またおかしい。これは魚のスープで、生臭さもほとんど感じられないほど丁寧に下処理されている。それでも、ここ最近ずっと気分が優れないせいか、どうしても食欲が出ず、こうした違和感ばかり覚えてしまう。せっかくの美味しいスープなのに。藤原夫人の心遣いも、なんだか申し訳ない。そんなことを思っていると、スマホからLINEの通知音が鳴った。紬さま:【美人さん、どうしてまだお見舞いに来てくれないのですか?会えなくて気が狂いそうなんですけど】この子ったら。昼に「ここ数日は休みを取っているから、数日後に行くね」と伝えたばかりなのに、夜にはもう文句を言ってくる。私は返信した。【どう狂いそうなんですか?】紬さま:【今にも飛び跳ねて暴れたくなるくらいの狂い方】【その状態で、本当に飛び跳ねられますか?】彼女はつい数日前に手術を受けたばかりで、肋骨骨折に心臓の損傷まである。そんな状態で跳ね回れるはずがない。紬さま:【はあ……実は麻酔が切れて痛くてたまらなくて、飛び跳ねたいくらいってこと。美人さんが来てくれたら、少しは痛みも和らぐかもしれないのに……】なるほど、紬は痛みに耐えきれず、麻酔科医である私に来てほしいというわけだ。少し考えてから、保温容器を手に取り、病室を出た。紬の病室の前に着くと、彼女はまだベッドに横たわり、片手でスマホを握りながら小さくうめき声を上げていた。「美人さん、どうして返信くれないの?紬さまがおしゃべりすぎて嫌になった?」「一日中ふざけてばかりで、私とはろくに話もしないくせに、スマホを抱えて他人とはずっとおしゃべり。もう騒ぐのはやめなさい」ベッドの傍らに座っていた霜子が、一口サイズに切った果物を紬の口元へ運ぶ。「少しは果物を食べなさい」「もう食べたくないってば。お母さん、毎日アワビだの高麗人参だのばっかり食べさせるから、顔までむくんできたんだよ。お願いだから勘弁して。これから撮影もあるのに、アンパンマンみたいな顔になっちゃ
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第522話

紬と霜子の間に漂っていた張り詰めた空気は、一瞬にして霧散した。霜子はわずかに眉をひそめ、美しい瞳を細めて私を見つめる。その視線には、明らかな疑念と探るような気配が宿っていた。「なるほど……紬がずっと言っていた『美人さん』って、水辺先生のことだったのね?お二人、いつの間にそんなに親しくなったの?」初対面のときほどあからさまに冷たいわけではないものの、微笑みの奥にははっきりとした冷意が感じられる。どうやら、私と紬が親しくなることを、あまり歓迎していないらしい。「前回の回診のときに、紬さんと少しお話ししまして。その後、紬さんのほうからLINEを追加していただきました。明るくて可愛らしい紬さんは、とても魅力的な方です」私は礼儀正しく答えた。「そうなの?紬の方から水辺先生に?」霜子の視線は、もはや探るようなものではなく、完全に品定めするかのような鋭さに変わっていた。人の上に立つ者特有の圧迫感が、再び押し寄せてくる。ある程度覚悟していたとはいえ、こうした視線を真正面から受けると、やはり落ち着かない。そのとき、さすがに反応が早かったのは颯也だった。私の肩に置かれていた手がわずかに力を込め、私をそっと彼の後ろへ引き寄せると、彼はにこやかな笑みを浮かべて霜子に言った。「霜子おばさん、そんなこと聞くまでもないだろ?もちろん紬のほうからだよ。水辺先生の電話番号だって、俺から聞き出して、勝手に追加したんだ。毎日、早くお見舞いに来てって催促しているくらいで」「水辺先生は美人なだけじゃなくて、優しい人なの。私は一目で好きになっちゃったんだもの、当然こっちからアプローチしたのよ」紬もすぐに言葉を重ねる。霜子の眉間のしわは、わずかに緩んだ。何か言おうとしたその瞬間、スマートフォンの着信音が鳴る。画面を確認した途端、霜子の表情が一気に慌ただしくなった。颯也はそのまま霜子の肩を軽く抱くようにして、病室の外へと送りながら言う。「霜子おばさん、早く出たほうがいいよ。ここは俺と水辺先生がいるから、心配いらない」「そうそう、お母さん。今出なかったら、お父さんが乗り込んでくるかもよ。そうなったら私のこともバレるし、お母さんもかくまった責任を問われるでしょ?お父さんが許すと思う?これからこのまま何事もなく暮らせると思う?」枕にもたれたまま、紬がぼそり
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第523話

そう言いながら、颯也の指先がそっと伸びてきて、私の手首を軽く支えた。そして、意味ありげにちらりと私を見る。――なるほど、今の私の手首に負担がかからないよう気遣ってくれたのだ。胸の奥がじんわり温かくなる。颯也は、本当に気配りが細やかだ。「私だって美人さんに世話をさせたいわけじゃないの。ただ、会えたのが嬉しくて、もう少し近くにいたいだけ」紬が冗談めかして抗議する。「『美人さん』なんて呼び方はやめなさい。少し軽すぎて失礼だろう。『優月さん』と呼びなさい」颯也は彼女の手を軽く叩き、ベッド脇に腰を下ろすと、自分で紬にスープを飲ませ始めた。「優月さん」紬は意外にも素直に、言われた通り呼ぶ。だが次の瞬間、スープを飲んだ彼女は眉をひそめた。「この味……なんか……」私は思わずはっとした。このスープは私が作ったものではない。まさか何か問題でも?浩賢によれば、藤原夫人が自ら煮込んだものだという。普通なら、問題があるはずはないのだけれど。「どうした?」颯也も不思議そうに彼女を見て、自分でもひと口味見をする。表情が一瞬だけ曇ったが、すぐに平静を取り戻した。「美味しいよ。特に問題はない。もし気に入らないなら、俺が全部飲むけど」「飲む飲む!全部私が飲む!」紬は慌てて器を取り返した。私はほっと胸をなで下ろす。スープに問題がないなら、それでいい。飲み終えた紬は、すっかり満足した顔をしている。もう後で顔がむくんでカメラ写りがどうなるか、などという心配は頭にないらしい。彼女は私の手を握ったまま離そうとせず、楽しそうにおしゃべりを続ける。「優月さん、さっきのは嘘じゃないですよ。本当に痛くて、飛び跳ねたいくらいだったの。でもPCAポンプを追加してもらってから、少し楽になったんです。ただね、その麻酔科医が真っ黒な顔の男の人で、すごく怖かったんですよ。優月さんに代わってほしいなって思って……」「その『黒い顔の男の人』というのは、私の指導医の豊岡先生です。私はまだインターンに過ぎませんが、先生は経験豊富ですから、安心してください」私は思わず小声で訂正した。この子の物言いは、想像以上に率直だった。「でも見た目が怖いんだもん。ちょっと取っつきにくくて、話し方もぶっきらぼうだし、優月さんみたいに優しくない。それに、腕だって優月さんの方が劣ってい
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第524話

これまで紬は物言いがはっきりしている子だとは思っていたけれど、まさかあそこまで嫌味を言うとは思わなかった。豊鬼先生はもともと私にあまりいい感情を持っていない。ここ最近は私が代わりに手術に入っているとはいえ、周囲から評価されるほど、かえって彼の不満を刺激してしまうようだった。 紬の「青は藍より出でて藍より青し」なんて一言は、彼をさらに不機嫌にさせるだけだろう。私は思わず立ち上がり、その場を取り繕おうとしたが、豊鬼先生はすでに部屋を出て行ってしまっていた。看護師長が後を追いながら、慌てて声をかける。「豊岡先生!」桜井は少し遅れて出て行こうとしながら、私の耳元で小声でささやいた。「この患者さん、午後からずっと『痛い』って騒いでたの。心臓が痛いとか、肋骨が痛いとか言って、名指しで豊岡先生を呼んで……豊岡先生がPCAポンプを交換したのに効かないって言い出して、かなり振り回されてたよ。でも何も言えなくて……私たち、てっきり豊岡先生が唐沢家の人に何か失礼でもしたのかと思ったくらいよ。前はそんな扱いにくい人じゃなかったんだけどね」私は一瞬考え込み、桜井の肩を軽く叩いた。「たぶん違うと思うわ。早く仕事に戻って」桜井も慌てて後を追っていった。振り返ると、笑みを浮かべた二人と目が合った。颯也は唇の端を吊り上げ、どこか妖しげに人を惹きつける笑みを浮かべている。あの、思わず目を奪われるような雰囲気がまた漂っていた。一方の紬は得意げに笑い、誇らしげに顔を上げて言った。「優月さん、スカッとした?」つまり、やっぱりわざと豊鬼先生を挑発したのか。「豊岡先生も、専門的な腕は悪くないと思いますけど……」私はやんわりと言った。しかし、紬はすぐに言葉を遮った。「全然そう思わない!薬を替えてくれたときも、すごく感じが悪くて、その薬だって全然効かなかったの。そう言ったら信じてくれなくて、むしろ私がわざと困らせてるみたいな言い方するんだもん。で、颯也さんから聞いたの、優月さんの指導医っていつも優月さんに厳しく当たるんでしょ?だったらこの機会に、こっちも『ちょっと困らせてあげよう』って思ったの!」「紬は一部の麻酔薬に耐性があるんだ。彼女のカルテにも書いてあるはずだけど、あの豊岡先生は気づかなかったみたいで、投与量が十分ではなかった。それで紬は効
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第525話

「そんなの、わざわざ誰かに聞く必要もないだろう。俺の目は飾りじゃないさ」颯也はくすっと笑い、あの細長い狐のような目をわずかに細めた。廊下の天井灯が彼の右上から斜めに差し込み、長いまつ毛が頬に影を落とす。そのコントラストは、まるで真っ白な紙に濃墨を落としたかのようで、思わず息を呑むほど艶やかだった。それなのに彼は、あくまで何でもないことのように淡々とした口調で言う。「今、麻酔科は副主任が一人空いてるだろ?あの豊岡先生はね、君が頭角を現してきて、自分の昇進コースを奪われるのを恐れてるんだよ。だから仕事中だけじゃなくて、プライベートでも何かと君のことを悪く言ってる。この前の温泉ホテルのバーベキューでも、何度か聞こえてきたしね」私はその場で足を止めてしまった。歩くことすら忘れて、ただ振り返り、呆然と彼を見つめる。そのあまりの美しさに驚きながら、同時に――突きつけられた真実にも、言葉を失った。……そういうことだったのか。これまでずっと、豊鬼先生が私を気に入らないのは、単に基準が高くて厳しい人だからだと思っていた。けれど今、颯也の一言で、まるで霧が晴れたみたいに腑に落ちる。――そんな事情があったなんて。だからこそ、私が良い結果を出せば出すほど、豊鬼先生はますます不機嫌になっていたのだ。颯也は新雅総合病院の麻酔科主任。私よりも経験が豊富で、立場も上だ。だからこそ、物事の本質を見抜きやすいのだろう。それに比べて、私はまだただの新人に過ぎない。医者として、患者を救うことばかり考えていた。専門性を磨いて、より多くの人を助けることだけに意識が向いていて――「出る杭は打たれる」という当たり前の理屈を、すっかり忘れていた。「優月はさ、世渡りに関しては本当に初心者だね。見事なくらい無防備だ」颯也も足を止め、私を見下ろした。そのまま、長く白い指先が――不意に私の頬に触れる。軽く、つままれた。声は相変わらず気だるくて、からかうようなのに、その奥にはどこか柔らかい温もりが混じっていた。「こんな純粋なウサギちゃん、守ってくれる人がいなかったら……すぐにオオカミに食べられちゃうよ?」――また、この感覚。彼の指先が頬に触れた瞬間、まるで火傷でもしたみたいに、体の奥を電流が走った。思わず半歩後ろに下がって、その手から逃れる。
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第526話

……でも、それも当然のことなのだろう。八雲があの拉致犯との通話で言っていた通り、私――優月という存在は、彼にとって取るに足らない、どうでもいい人間にすぎない。最初から、彼は私のことをまともに見ていなかった。だから、心に留めることすらなかったのだ。たとえ同じ病院で働いていようと、それが何だというのだろう。職場で多少の冷遇を受けようが、理不尽な思いをしようと――彼にとってはどうでもいいこと。彼の大切な葵さえ傷つかなければ、それでいいのだ。八雲のことを思い出すと、今日見たあの怒りを含んだ瞳と、あの言葉が蘇る。――「俺の言うことが信じられないのか?」……どうやって信じろというのだろうか。口ではいつも「お前のためを思っている」と言いながら、本当に基本的なこと、少し手を伸ばせばできることすら、彼は一度もしてくれなかった。結婚していた間ですらそうだったのだ。ましてや今は、離婚寸前の関係。本気で私のことを考えてくれているなんて、どうして思えるだろう。……信じられない。冷たい夜風の中、コートの襟をきゅっと握りしめる。ポケットのスマホが震えた。颯也からのメッセージだった。【明日は紬のお見舞いに来なくていい。あの子、やたら君に頼るから。今は手首をしっかり休ませて】胸の奥が、じんわりと温かくなる。私は短く返信した。【大丈夫です】さっきまであんなに冷たかった夜風が、少しだけ優しく感じられた。自分の病室に戻ると、看護師が慌てた様子で駆け寄ってきた。「もう勝手に出歩いちゃダメですよ。森本院長と紀戸先生からも、必ず安静にさせるよう言われているんです。さっきお姿が見えなくて、本当に心配したんですから……また何かあったらと思うと……」「大丈夫、約束します。今夜はちゃんと病室にいるから、どこにも行きません」私はすぐにそう言って、彼女を安心させた。分かっている。私と葵が拉致された事件は、まだ犯人が捕まっていない。病院側は情報を外に漏らさないようにしながら、同時に私たちの安全も守らなければならない。二次被害を恐れているのだ。看護師が帰ったあと、ふと枕元に目をやると、枕の下に――保温機能付きのリストサポーターが置かれているのに気づいた。手のひらから手首にかけてぴったりとフィットする形状で、固定機能と保温
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第527話

泣くことは、自分に許していなかった。それでも、悲しみはこの夜の闇のように、静かに私を包み込んでくる。私は布団にくるまりながら、自分に言い聞かせた。――もう終わったこと。全部、過去のこと。この記憶も、きっとすぐに埃をかぶって忘れられる。これからの人生は、きっと明るくて、穏やかなものになる。夜はさらに深まり、果てしない闇と寂しさの中で、私はいつの間にか眠りに落ちていた。意識がぼんやりしていると、誰かがベッドのそばに座っている気配を感じた。ちょうど枕元のあたりで、静かに私を見つめている。そして、そっと私の手を取り、丁寧に、優しく揉みほぐし始めた。細やかで慎重な指の動き。触れられているのは分かるのに、あまりにも心地よくて、私は抵抗する気になれなかった。……たぶん、母だろう。こっそり様子を見に来てくれたのかもしれない。私の休息を邪魔しないように、明かりもつけずに。本当に、素直じゃない人だ。電話一本もくれないくせに、私が眠っている間に、こうして手首をマッサージしてくれるなんて。もし今ここで目を覚まして話しかけたら、きっと逆に気まずくなってしまうだろう。だから私は、そのまま心地よさに身を任せ、再びうとうとと眠りに落ちていった。どれくらい経ったのだろう。マッサージの手は止まり、代わりに、そっと頬に触れられる感触がした。指の腹が、やさしく額をなぞる。まるで、安心させるような仕草。その瞬間――ぼんやりしていた意識に、かすかな光が差し込んだ。……この触れ方は、母じゃない。たとえ少しは私を気にかけていたとしても、罪悪感ゆえに手首を揉むことはあっても、こんなふうに繊細で、柔らかい仕草で私を安心させることはない。気づくのが遅れたのは、半分眠っていたせいもあるし、もう半分は――心のどこかで、母親のぬくもりを求めていたからだ。でも私は知っている。加藤さんは、決して優しく穏やかな母親ではなかった。私の子ども時代は、厳しさと口論の中にあった。彼女は強く、そして時に粗雑で、こんなふうに優しく撫でて慰めてくれることなど、一度もなかった。記憶の中で、こんなふうに根気よく、丁寧に接してくれた人は――三人だけ。最初の二人は、もう遠い昔の思い出。そして、もう一人は……意識が一気に冴え
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第528話

私は長い間、まともにぐっすり眠ることができなかった。物心ついた頃から今に至るまで、安心して眠れた期間は――わずか二年余りしかない。それは、八雲と結婚していた三年間のうち、最初の二年余りのこと。眠れないこの癖を、治してくれたのは八雲だった。結婚して間もない頃、彼は私がいつも夜中に飛び起きて、泣きながら体をこわばらせ、小さく縮こまってしまうことに気づいた。そして一度目が覚めてしまうと、私はなかなか再び眠りにつくことができなかった。私はカウンセリングを受けることを拒み、自分が何を恐れているのかを話すことも拒んだ。けれど八雲は、理由を問い詰めることはしなかった。ただ毎晩、私のそばにいてくれた。一緒にシャワーを浴び、私を腕の中に包み込み、優しくあやしながら眠らせてくれた。そして、夜中にふいに目を覚ました瞬間、彼は私を抱きしめ、低く掠れた声で耳元に囁いた。――「怖がらなくていい、優月。俺がいる。誰もお前を傷つけたりしない」しっかりと包み込む大きな腕。耳元に伝わる、力強い鼓動。そして、鼻先をかすめる、松の木を思わせる冷たく澄んだ香り。欠けていた安心感が、少しずつ、少しずつ満たされていった。その頃、八雲がよくしてくれた仕草がある。片腕を私の首の下に差し入れ、華奢な肩を包み込む。もう片方の手は、私の頬のそばに添えられ、指の腹で私の額のあたりをやさしく、細やかに、ほんの小さく撫でる。とてもささやかな動作なのに、不思議なくらい心を落ち着かせる力があった。悪夢にうなされて目を覚ますたびに、彼の低い声とその仕草が、長い間胸の奥に沈んでいた恐怖を少しずつ追い払ってくれた。その仕草を、八雲は一年間続けてくれた。長い間、私を苦しめていた不眠は、まるで奇跡のように消えていった。悪夢を見ることも、夜中に目を覚ますことも、完全になくなったわけではない。それでも、それは「たまにあること」へと変わり、私はようやく一晩ぐっすり眠れるようになった。……けれど八雲が私に向けてくれたあの頃の優しさと忍耐は、どうやら一年しか続かなかった。私がやっと安眠できるようになった頃、彼は急に冷たくなった。もう二人で抱き合って眠ることもなくなり、あの優しい声で慰めてくれることも、二度となかった。いつしか私は、彼がかつてあれほど優し
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第529話

「もう十分休みました。手首はまだ少し違和感がありますけど、大きな支障はありません。麻酔科も忙しいですし、まだ書いていないカルテがたくさんあって、あまり長く離れるわけにもいかなくて」看護師長は感心したように目を細めた。「優月ちゃんは本当に努力型の天才ね。将来が楽しみだわ」桜井もすぐに横から顔を出して、からかうように笑う。「私もそう思います!優月さんの実力なら、主治医どころか、副主任医だって時間の問題ですよ!」以前の私なら、冗談半分にその話に乗って、話題を広げていただろう。向上心を持つことは悪いことじゃない。努力するのは、より良い医師になるためだ。目標を持つこと自体は、むしろ良いことのはず。けれど、昨夜颯也に言われたことを思い出して、こういう話題には敏感になっていた。豊鬼先生が私を敵視している理由も、おそらくそこにある。もしこんな会話が彼の耳に入れば、警戒心や反感をさらに強めるだけだろう。私は仕事に余計な影響を及ぼしたくないし、専門外の駆け引きに時間も神経も使いたくなかった。私は桜井の手を軽く握り、すぐに訂正した。「主治医なんてまだまだだよ。まずは研修期間を無事に終えることが先。それに東市協和病院に入れるくらいなんだから、誰だって努力も才能もあるし……副主任医なんて、私が望めるポジションじゃないよ」「確かに、お前のポジションじゃないな」言い終わる前に、不意に低い声が割り込んできた。どこか不自然なほど冷たい声。その奥に、あからさまな皮肉と怒りが滲んでいる。振り向くと、豊鬼先生の顔はいつにも増して険しく、手に持っていた資料をバン、とデスクに投げ置いた。一瞬で、オフィスの空気が凍りつく。桜井は気まずそうに立ち尽くした。ちょうど患者の呼び出しベルが鳴ったため、看護師長が桜井を連れて出て行った。私は豊鬼先生を見つめ、わずかに眉をひそめる。この気まずい空気をどう和らげるべきか、考えかけたそのとき、豊鬼先生は冷ややかに私を一瞥した。「これで、夢を見る必要もなくなったな」……夢?一瞬、意味が分からず戸惑った。私は毎日夢を見ている。しかも出てくるのは、たいていろくでもない八雲だ。もし誰かが夢を見なくする方法を教えてくれるなら、本気でお礼を言いたいくらいなのに。だが――その意味は、すぐに分か
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第530話

和夫は長い間、昏睡状態が続いている。身の回りの世話はずっと介護士が担当しており、この療養施設のサービスはもともと評判が良いが、和夫が特別室に移ってからは、なおさら行き届いていた。意識はまだ戻っていないものの、全身状態は明らかに良くなっている。ここ二年ほど、私は定期的に見舞いに来て、介護士と一緒に背中を拭いたりしていた。けれど――まさかある日、浩賢が私の代わりにそれをしている場面を見ることになるなんて、思ってもいなかった。私はドアの外に立ち止まったまま、しばらく動けなかった。介護士が和夫の肩を支えて横向きにし、浩賢は腰をかがめて、固く絞ったタオルで和夫の背中を丁寧に拭いている。一つひとつの動作が驚くほど真剣で、まったく手を抜く様子がない。浩賢は裕福な家の御曹司だ。それでも、普段から控えめで謙虚で、気取ったところがなく、自ら医師の道を選んだ人だ。患者の世話をすること自体は、医師として決して珍しいことではない。けれどここで和夫の背中を拭く必要は、本来ない。それは介護士の仕事だ。それでも彼はやっている。しかも、ここまで丁寧に。これは――「水辺さん、いらしてたんですね?」先に私に気づいたのは介護士だった。すぐに声をかけてきた。我に返った私は、慌てて頷きながら中へ入った。そのときになってようやく、浩賢も振り向いた。驚いた表情を浮かべている。「どうしてここに?」「それは私が聞きたいことよ。どうしてここにいるの?しかも、父の背中まで拭いてくれて」私は逆に問い返した。藤原夫人が煮込んだ魚のスープを届けてくれたこと。白石家の令嬢との婚約を取りやめたと教えてくれたこと。そして今、療養施設で和夫の体を拭いていること。浩賢ははっきり言葉にしていないけれど、その意図は行動から十分に伝わってくる。……どうやら、私の断り方が、まだ足りなかったらしい。「水辺さん、それは違いますよ」介護士が先に口を挟んだ。「藤原さん、今日だけじゃないんです。時間があるとよくいらして、お父さんの背中を拭いてくださるんですよ」冗談めかして笑いながら続ける。「ご身分を知らなかったら、私の仕事を全部取られちゃうんじゃないかって心配になるくらいで……失業するんじゃないかと思いましたよ」「そんな大げさな……」浩賢は少し照れたよ
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