All Chapters of 3年間塩対応してきた夫は、離婚の話をされたら逆に泣きついてきた: Chapter 541 - Chapter 550

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第541話

麻酔科へ戻る途中、私は颯也にメッセージを送った。もう新雅に戻っているのか尋ねると、彼はかなり忙しいらしく、短い返事が二通だけ届いた。【うん、新雅に戻った】【優月、もう俺が恋しくなったのか?】颯也は、親しくなるほど私をからかうようになってきた。この一言には、どう返せばいいのか分からない。私はただこう返した。【まだ夏目先生に命を救っていただいたお礼もしていません。次に東市へ戻られる際は、ぜひ教えてくださいね】メッセージを送ったあと、返信は来なかった。特に待つつもりもなく、そのまま忙しい業務へと戻った。……それからの一週間は、食事の時間すら無理やり確保するほどの忙しさだった。幸い浩賢が気を配ってくれて、時々食事を届けてくれたおかげで、胃腸の調子が大きく崩れることはなかった。とはいえ彼も食事を届けるのが精一杯で、以前のように家まで送ってくれる余裕はない。神経外科も同じく目が回るほど忙しいのだ。その日の昼、手術室から桜井と一緒に出てくると、彼女はぐったりした顔でぼやいた。「優月さん、もう限界……お腹すきすぎて死にそう……」 「お腹が空いても死にはしないわ。桜井さんが生きてさえいればそれでいい。ここ最近、本当にお疲れさま。さあ、おごるから食堂に行きましょう」私は彼女の肩を軽く抱き、笑ってなだめた。最近は私だけでなく、桜井も忙しさに振り回されている。彼氏とのデートの時間すら取れないほどで、さすがに疲れ切っているようだった。二人で食堂に入り、席を見つけて腰を下ろす。桜井はようやく大きく息をつき、スープを一口飲んでから眉をひそめた。「そういえば、副主任医が一人配属されるって話、どうなったんでしょう?まだ来てないよね?」「それ、私も聞きたいわ。その大物、いつになったら来てくれるのかしら。みんな首を長くして待ってるのに」私は小さくため息をついた。ここ最近、麻酔科はまったく落ち着く暇がない。まず、豊鬼先生が懇親会で手を火傷して、しばらく手術に入れなかった。続いて今度は、私の手が拉致事件で神経を損傷。もともと人手不足だったところに、さらに欠員が出て、忙
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第542話

食堂の入口に、しばらく見ていなかった姿がいた。――一人ではない。二人だ。八雲と、彼の大切な葵。ついさっき彼らのことを考えていたばかりなのに、まさかその直後に目の前に現れるとは思わず、私は一瞬現実感を失った。もう一つ、すぐに状況を受け止めきれなかった理由がある。葵の様子が、以前とはあまりにも違っていたからだ。もともと彼女は、甘く可愛らしい雰囲気の小柄な女性だった。丸い瞳、ふっくらとした頬。けれど今の彼女は、痩せすぎてしまっている。頬は落ちくぼみ、顔色も灰色がかって生気がない。その分、目だけがやけに大きく見えた。だがどこかぎょろりと浮いているようで、青白い顔の上で不自然に際立っている。周囲から、ひそひそと声が上がった。「え、紀戸先生、久しぶりじゃない?隣にいるのって誰?」「松島先生でしょ。他に誰があんなふうに大事にされるのよ。ほら、あんなに気遣ってるじゃない」「十日ちょっと見ない間に、あんなに痩せたの?病気でもしたのかな……」「しっ、精神的に不安定らしいよ。数日前、精神科から出てくるのを見たって人がいた。紀戸先生が付き添ってたって」「精神だけじゃないみたい。最初はICUに入ってたって聞いたよ。昏睡状態が二日続いたって。目が覚めてからも自殺しようとして、紀戸先生が止めたらしいし……そのあとも、紀戸先生がそばにいないと取り乱して物を壊したり怒鳴ったりして、完全にコントロールできなくなってるって……」拉致事件から、すでに十日以上が過ぎている。その間、私は一度も葵の様子を見に行っていない。彼女も、きっと私に会いたくないだろうと思っていたからだ。ただ久美子の言葉や、八雲の様子から、葵の状態がかなり深刻だということだけは分かっていた。葵が八雲から離れられない状況だということも。それでも――ここまでとは思っていなかった。自殺未遂を繰り返し、精神的にも限界に近い状態だなんて。痩せこけて青白いその顔を見た瞬間、胸の奥にじわりと痛みが広がった。確かに、今回の出来事は葵自身が招いた面もある。本来、標的にされていたのは私だった。だが葵が必死に私を指し示したことで、逆に拉致犯の注意が彼女に向いてしまった。それでも――今の彼女の姿を見れば、胸が締めつけられる。私たちは皆、被害者だ
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第543話

「離して!私、この女を殺す!殺してやる!」葵の瞳には、怒りの炎が燃え上がっていた。痩せこけた顔は怒気で赤く染まり、目の奥から噴き出す憎悪が、固く食いしばった頬の筋肉にまでにじみ出ている。指先は弓なりに曲がり、まるで猛禽の爪のようだった。必死にこちらへ伸ばされ、私の喉元を掴もうとする。だが、その指先は私に届かなかった。八雲が彼女の腰を強く抱き寄せ、力づくで私から遠ざけていたからだ。「落ち着け。騒ぐな」食堂にいた同僚たちは、目の前の光景に呆然としていた。驚きのあまり、誰もすぐには動けない。助けに入ることもできず、ただその場に固まっている。私は、葵の歪んだ表情を見つめたまま、一瞬動けなくなっていた。頭の中が真っ白になった。逃げることも、言い返すことも思いつかない。ただ、呆然と彼女を見ていた。「ちょっと、松島先生はどうしました?お腹空いてるならご飯食べてくださいよ。水辺先生は食べ物じゃないんですから、なんで引き裂こうとしてるんですか?」一番驚いているはずの私よりも、桜井のほうがよほど怯えた顔をしていた。それでも桜井は私の前に立ち、私を庇うように腕を広げ、葵を睨みつけた。葵の目は、すでに血走っている。「本当に殺したいのよ!この女の肉を一口ずつ噛みちぎってやりたいくらい!」「それ、本気で精神科に行ったほうがいいやつですよ。人を食べるとか言い出してるし」桜井はさらに目を見開いた。「私は精神病なんかじゃない!変なことを言わないで!」その一言で、葵の怒りはさらに激しく燃え上がった。「水辺優月!元凶はあんたよ!全てあんたが悪いのに!なんで、なんで私があんたの代わりにこんな目に遭わなきゃいけないのよ、私は……!」「うわ、怖すぎる!優月さん、早く逃げて!ここは私が食い止めるから!」桜井は叫びながら私を押しやり、両腕を広げて前に立ちはだかった。そして必死な声で八雲に呼びかける。「紀戸先生、ちゃんと押さえててくださいよ!」その時になって、ようやく私は我に返った。私は桜井の手を握り、彼女を自分の背後に引き寄せる。「大丈夫。怖がらないで。私が話すから」葵が狙っているのは私だ。ならば、その結果も私が受け止めるべきだ。桜井まで巻き込むわけにはいかない。それに今の葵は、表情こそ恐ろしいが、実際にはそれほど攻撃でき
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第544話

――葵。なんて親密な呼び方なのだろう。それを八雲は、あまりにも自然に口にする。彼は葵を腕の中に包み込み、まるで硬い鎧のように彼女を守っている。その奥には、大切に守られる小さな姫がいる。優しく、丁寧に、壊れ物でも扱うかのように。そして私の方を見て、何度も「すまない」と口にする。けれど、それは本当の謝罪ではない。葵を守るための「謝罪」だ。「葵」と呼びながら彼女を庇い、理由を与え、言い訳を重ねる。彼は、葵の状態が不安定だと言った。私に対して誤解があるのだとも言った。そして最後に、葵を責めないでほしい、仕事に影響が出ないようにしてほしい、と念を押した。口には出さなかったが、その裏の意味は分かっている。もし私が今回のことで恨みを抱き、葵に報復するようなことがあれば――二十日後、彼は約束通り離婚手続きを進めないだろう。またこの手だ。だが、この一手が何度も効いてしまう。私は指先を強く握りしめ、胸の奥に荒れ狂う感情を必死に押さえ込んだ。声が揺れないよう、できるだけ平静を装う。「事情は理解しました。松島先生を責めるつもりもありませんし、仕事に影響を出すこともありません。ご安心ください」「それならよかった」八雲の強く寄っていた眉が、わずかに緩んだ。目元と口元には、はっきりとした安堵が浮かんでいる。「桜井さん、水辺先生を連れて行ってください」「分かりました。優月さん、早く行きましょう」もともと桜井は私を連れ出したくて仕方がなかったのだろう。その言葉を合図に、すぐ私の手首を掴み、小走りで食堂を出た。私もつられるように小走りになった。走りながら、背中に突き刺さるような視線を感じていた。振り返らなくても分かる。八雲と葵が、こちらを見ている。葵の視線には、きっと強い憎しみが宿っている。もし視線に形があるなら、背中に穴を焼き穿たれそうだった。八雲の視線は、おそらく牽制と警告だ。私が葵に不利な行動を取らないか、確かめているのだろう。――心配しすぎだ。葵が先に仕掛けてこない限り、私は何もしない。たとえ彼女が攻撃してきたとしても、彼の牽制がある限り、私は何もできない。八雲の大切な葵は、きっとこれからも傷つくことはない。「紀戸先生がいてくれて助かったね。でなければ、松島先生、
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第545話

「もういいわ。この件はこれで終わりにしましょう。今日のことが無事に収まっただけで十分」これ以上深く考えたくなかった。今の私には、こんなことに気力を使う余裕がない。きっと桜井の見間違いだ。八雲が葵を叱るなんて、あり得ない。仮に叱ったのだとしても、それは葵のため。結局のところ、彼の目的は葵を守ることに変わりはないのだから。桜井は小さく頷いた。「紀戸先生がちゃんと松島先生をコントロールしてくれるといいよね。もし次も同じことをしたら、さすがに私、本気で手が出ちゃうわ」歯を食いしばり、拳まで握りしめていた。その様子を見て、胸の奥がまた温かくなった。桜井はただの華奢な女の子だ。それでもさっきは迷いなく私の前に立ち、私を庇った。もし我を失った葵に顔を引っかかれていたら――そんな可能性すら考えずに。私は彼女の肩に腕を回した。「次も手を出したらだめよ。まず自分の安全を守って」「そんなの無理よ。優月さんは今、麻酔科の宝なんだから。それに、優月さんが怪我なんてしたら、藤原先生と夏目先生に顔向けできない」桜井は思わず口走った。思わず足を止めた。「二人が、桜井さんに何か頼んだの?」「えっと……」桜井は急に言葉に詰まり、視線を泳がせた。それでも観念したように白状する。「二人とも、ご飯をご馳走してくれて……優月さんのこと、ちゃんと気にかけてほしいって」予想外の答えに、さらに驚く。「私のことを?」桜井は慌てて説明を続けた。「二人とも優月さんのこと好きなの。アプローチしたいと思ってるのは分かるよね。藤原先生は私の友達だし、夏目先生は私の憧れの人だし……どっちも大事だから、どっちかに肩入れするのも難しくて。藤原先生を応援したら夏目先生が一人になっちゃうし、夏目先生を応援したら藤原先生が落ち込むだろうし……でも幸い、今のところ二人とも『恋の手助け』を頼んできたわけじゃなくて、優月さんをちゃんと守ってほしいっていうだけだったから。それなら私も困らないし……」「夏目先生って、いつ桜井さんにご飯をご馳走したの?いつそんな話になったの?」私は純粋に不思議だった。浩賢が桜井に食事を差し入れているのは知っている。私に食事を届ける時、いつも桜井や看護師長の分まで用意してくれているからだ。私たち三人はたいてい同じシフトに入っ
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第546話

そこにいたのは、颯也だった。あの白く整った、妖しささえ感じさせる顔。今日はきちんとした装いで、体にぴったりと合ったグレーのオーダースーツを着ている。中にはグレーのストライプシャツ、さらにネクタイまで締めていて、長い指を組んで机の上に置き、いかにも「仕事モード」といった雰囲気だった。けれど、私が部屋に入った瞬間――彼の細長い、狐のような目と視線が合った。彼はわずかに目を細め、瞳の奥に光を宿し、朱い唇の端をゆっくりと吊り上げる。妖しく艶めいた笑みだった。一瞬、現実感が遠のいた。どうして颯也がここにいるの?いつ東市協和病院に来たの?やはり紬のことが気がかりで、また戻ってきたのだろうか。「水辺先生、こちらに座って」青葉主任の声が響き、私の思考はそこで途切れた。そこでようやく気づく。――颯也は、青葉主任の隣に座っている。隣に座っていた桜井が、私の袖をぐいぐい引っ張りながら、小声で興奮気味に囁いた。「ちょっと待って、優月さん……まさか新しく来る副主任医って、夏目先生?もしそうならすごいよ!彼が来てくれたら、私たち本当に少し楽になるよ。だって、あの人、ガチの大物だもん!」私も、同じことを考えていた。ずっと待っていた「外部から招いた人材」が――まさか颯也?でも彼は新雅にいるはずでは?まさか新雅を辞めて、東市協和病院に来たというの?「では、皆さん揃いましたね。最近は業務が立て込んでいて時間も限られていますので、本日は夏目先生のご希望により、まずは麻酔科内部で簡単な紹介を行います」青葉主任が穏やかな笑顔で話し始めた。「こちらが、新たに副主任医として着任された夏目先生です。お名前はすでに耳にしたことがある方も多いでしょう。これから同僚として一緒に働くことになります。それでは夏目先生、簡単に自己紹介をお願いします」――やはり。私がずっと心待ちにしていた副主任医は、本当に颯也だった。颯也の唇の端に浮かぶ笑みが、さらに深くなる。どうやら、私の驚いた表情に満足しているらしい。ようやく私から視線を外し、立ち上がると、すでに仕事中の真面目な表情へと戻っていた。「皆さん、こんにちは。夏目颯也です。以前から東市協和病院に強い関心を持っておりました。このたび皆さんとご一緒できることを嬉しく思いま
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第547話

ただ一人、豊鬼先生だけは露骨に機嫌が悪かった。昇進の望みが消えたのだから、無理もない。とはいえ、颯也は業界でも名の知れた存在だ。たとえ突然現れた「外部から招いた人材」であっても、その実力に疑いの余地はない。だから豊鬼先生も不満を押し殺し、必死に笑顔を作り、体面を保っていた。――ただ、その笑顔は泣き顔よりもひどかった。一方、看護師長は心から嬉しそうだった。だが少し顔を傾け、小声で桜井の興奮を遮る。「喜ぶのはまだ早いわよ。もしこの二人が優月ちゃんをめぐって争い始めたら、桜井さんはどっちの味方をするの?」さっきまで興奮していた桜井は、一瞬で言葉を失った。唇をきゅっと結び、両手を組んでぎゅうぎゅうとねじっていた。指先が白くなるほど力が入っていた。しばらく悩んだ末、ようやく口にしたのは質問返しだった。「じゃあ高橋看護師長は、どっちを選ぶんですか?」「私はもちろん身内を応援するわ。夏目先生はイケメンで優秀だし素晴らしいけど、藤原くんのことはよく知ってるし、やっぱり身近な人のほうが安心できるもの」看護師長はまったく迷わず答え、それからまた桜井へと視線を向けた。「さあ、桜井さんは?」桜井は完全に言葉に詰まった。私は助け舟を出す。「私は誰も選びません。応援もしなくて大丈夫ですが、その分、仕事を分担していただけると嬉しいです」短い紹介会はすぐに終わりへと向かった。最後に颯也が口を開いた。「まだ麻酔科の状況を十分に把握できていません。もし可能であれば、水辺先生に案内していただけないでしょうか」その視線が、再び私へ向けられる。細長い目は楽しげに細められ、どこか気だるく、それでいて愉快そうに輝いていた。思わず頬が熱くなる。青葉主任はすぐに笑顔で答えた。「もちろん。水辺先生は夏目先生の知り合いだし、ちょうどいいだろう。水辺先生、お願いできるかな?」私はすぐに立ち上がり、了承した。会議が終わり、皆が部屋を出ていく。私は最後まで残っていた。人がいなくなってから、颯也がゆっくりと立ち上がり、こちらへ歩いてくる。その細長い目は、すでに三日月のように弧を描いていた。彼は少しかがみ込み、白く長い指で、私の鼻筋を軽くなぞった。目元を緩めたまま、からかうように笑う。「どうしてそんなに固まってるんだ?」彼
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第548話

目の前で、颯也の顔がゆっくりと近づいてきた。気づけば私は、その真剣で深い瞳の中に引き込まれていた。光が揺れる水面のように、瞳の奥にはかすかな感情が揺らめいている。柔らかく、それでいてまっすぐ。頬がますます熱くなっていく。まるで火をつけられたように、じりじりと燃え広がる。頭の中は真っ白になり、しばらく言葉が出てこなかった。やっとの思いで口を開く。「夏目先生、じょ、冗談はやめてください……私にそんな大それた価値なんて……」笑って受け流そうとしたのに、声はかすれていて、明らかに動揺しているのが自分でも分かった。そんな私を見て、颯也はなおさら面白そうに唇を緩めた。「誰が冗談だと言った?」――もう、言葉が出ない。その視線は次第に熱を帯び、まっすぐに私を捉えて離さない。どう反応すればいいのか分からない。耳の奥までじんわりと熱くなり、逃げ場もなく、気まずさは頂点に達しようとしていた、その時――颯也は、ふっといつもの悪戯めいた笑みを浮かべた。そして指先で私の耳を軽くつまむ。「水辺先生、本当に可愛いね。頬を赤くしてる姿、まるでウサギみたいだ」恥ずかしさが一気に込み上げた。反射的に彼の手を叩き落とす。――やっぱり、からかっていただけだった。内心では、ほっと息をつく。もし本当に私のために東市協和病院へ来たのだとしたら、私が背負うものは、あまりにも重くなりすぎる。今の私には、まだそんなものを受け止める余裕はない。受け止めるつもりもない。「行きましょう。案内します」私は気持ちを整え、話題を変えた。颯也はますます楽しそうに目を細める。「分かった、ウサギ先生。お願いします」また頬が熱くなる。この人は、本当に人をからかうのが好きだ。もっとも、軽口を叩くのはこういう些細な場面だけで、仕事の話になると、驚くほど真剣になる。病院を一通り案内して回ると、彼はすでに配置をほぼ把握していた。麻酔科のオフィスへ戻ると、看護師長が慌ただしい様子でこちらへ駆け寄ってくる。「優月ちゃん、時間ある?午後の心臓バイパス手術、優月ちゃんに入ってもらうことになるかもしれないの。豊岡先生が急にひどい下痢になってしまって、手術に入れそうにないのよ」「生後六か月の乳児の心臓バイパス手術ですか?」胸が一瞬、強く
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第549話

私は一瞬、言葉を失った。新しく着任したばかりの副主任医が、病院を軽く案内された直後に、そのまま手術に入る――本当に大丈夫なのだろうか。しかし隣にいた桜井は、さっきまでの不安そうな表情が一瞬で晴れ渡り、大喜びしていた。「よかった……夏目先生が入ってくれるなら、この手術はもう安心だね!」「じゃあ急いで準備に入ろう。手術は待ってくれないから」颯也はいつもの余裕のある笑みを浮かべ、軽く私の肩を叩いた。その仕草に、胸の中にあった迷いと恐れが、少しだけ軽くなった気がした。不思議と勇気が湧いてきた。私は彼とともに、心臓外科の手術室へ向かった。豊鬼先生が火傷で手術に入れなかったあの時期、私は数日間単独で手術に携わった。大小さまざまな症例を経験し、臨床手技は大きく鍛えられた。同時に、精神面でも強く試された。あの期間で、確実に成長したと思う。けれど――今回のように患者が乳児で、しかも難度の高い手術となると、やはり緊張は隠せない。しかも颯也は、手術に入るや否や、さらりと言った。「俺が指示を出すから、水辺先生が麻酔操作を担当して」「私が……?」思わず言葉に詰まり、彼の方を振り向いた。すると、あの細長い目には、先ほどまでのからかいの色はなく、穏やかな励ましだけが宿っていた。「水辺先生の実力は、すでに見ている。この手術も、きっとやり遂げられるよ。自分自身を信じて」――ここまで信頼してくれるなんて。正直なところ、私はまだ自分自身を完全には信じられていない。それでも、彼の穏やかな声を聞いて、大きく息を吸い込んだ。胸の奥のざわめきが、少しずつ落ち着いていく。桜井はすでに乳児の気道を確認し、手術室へ入る前に少量のミダゾラムを投与していた。私はゆっくりと、プロポフォールを適切量投与する。ほどなくして、赤ちゃんは静かに眠りに落ちた。十分な鎮静状態を確認し、両肺の呼吸音を聴診しながら、慎重に気管挿管を行う。手技を終えた瞬間、手術が正式に開始された。隣に立つ颯也が、言葉もなく親指を立てて見せる。顔を上げると、彼の瞳にははっきりとした称賛の色が浮かんでいた。胸の奥が、わずかに揺れる。颯也は、私の能力を信じてくれているだけでなく、惜しみなく評価してくれる。手術室では会話が制限されるが、それでも仕草で肯定
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第550話

――まずい。頭の中に浮かんだのは、その言葉だけだった。緊張。焦燥。焦れば焦るほど、余計に手元が乱れる。必死に修正しようとしたが、指先の震えが止まらない。掌にはじっとりと汗が滲み、滑りそうになり、危うくシリンジを落としそうになった。「そんなに慌てる必要はない。手術中に予想外の事態が起こるのは、ごく普通のことだ」ふいに伸びてきた手が、私の肘をしっかりと支えた。もう片方の手が私の手の甲を覆い、そのまま掌で包み込む。力強く、しかし落ち着いた動きで、私の手を導く。ゆっくりと、確実に、シリンジからプロポフォールが投与されていく。颯也の呼吸が、すぐ耳元にあった。声はどこまでも穏やかで、揺るがない。「大事なのは、気持ちを落ち着かせること。だから――水辺先生、落ち着いて」BIS値は52で安定した。颯也はさらに二つほど確認を行い、麻酔が十分に効いていることを確かめる。血圧データにも異常がないことを確認すると、執刀医に軽く頷いた。手術はそのまま再開された。小さな波乱は、静かに収束した。すべてが再び、整然と進み始める。私は最後まで集中を切らさず、慎重に操作を続けた。不思議なほど、心は落ち着いていた。まるで、さっき彼に言われた通り――本当に落ち着いていた。手術が終わるまで、颯也は一度も直接手技に加わらなかった。ずっと、私の隣に立っていただけだった。「ありがとうございます、夏目先生。今日、もし先生がいなかったら、きっと大変なことになっていました」手術室を出た瞬間、私はすぐに頭を下げた。「大丈夫。空が落ちてきても、背の高い者が支えるから」颯也は相変わらず、肩の力が抜けた笑みを浮かべている。軽く私の肩を叩きながら、続けた。「それに、水辺先生の対応力はかなり高いと思う。確かに最初は少し戸惑っていたが、手の動きはとても正確だった。大きなミスにはならないよ」――私を安心させようとしてくれている。今日は彼がいたからこそ、落ち着きを取り戻せた。もし彼がいなかったら、あの状況で本当に最後までやり切れたかどうか、自信がない。それでも彼は、少しも自分の手柄にしようとしない。すべてを、私の力だと言ってくれる。形を変えて、何度も私を認めてくれる。それは、かつての八雲とはまったく違っていた。以前、難易度の
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