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第6話

Author: 匿名
あと5日。私は学校に退職届を提出した。

あのとき、冬翔と一緒にいるために、恩師からの「研究室に残ってほしい」という誘いを断り、冬翔のいる浜城市の大学で教員になる道を選んだ。

だからこそ、私の退職に同僚たちは驚きを隠せなかった。

「えっ、篠原先生、辞めちゃうんですか?」

「この前、結婚式の引き菓子もらったばかりですよね?もしかして、結婚して専業主婦になるとか?朝倉先生、羨ましいな」

冗談交じりの声が飛ぶ。

私は荷物を抱えたまま、ふっと笑った。

「違います。結婚式は、中止になりました」

家に戻ってドアを開けると、ちょうど一週間ぶりに見る冬翔と夏蓮がリビングのソファに並んで座っていた。

冬翔は、私が手に抱えていた荷物に気づき、思わず声をかけてきた。

「その荷物、どうしたの?」

私は適当に理由をでっち上げた。

「もう使わないものばかりだから、持ち帰ってきただけ」

冬翔は軽く頷き、部屋を見渡したあと、少し首をかしげた。

「たった一週間なのに、なんだか部屋のものがずいぶん減ってる気がする」

私は荷物を寝室に運び入れ、淡々と答えた。

「不要なゴミを整理しただけだよ」

冬翔がまだ何か言いたげだったが、夏蓮が口を挟んできた。

「柚希お姉さん、この数日間、冬翔お兄ちゃんが旅行に付き合ってくれて、ほんとに助かりました。ウェディングフォトまで撮らせてくれて、夢が叶いました」

「だから、今日は私がお礼にご馳走します。これからもしばらくお世話になると思うので、柚希お姉さん、どうか嫌わないでくださいね?」

夏蓮の、どこか勝ち誇ったような視線が痛いほど刺さった。

私は、まだ一言も責めていない。妊娠検査の紙を手にしたあの日から今日まで、何も言わず、何も問いたださずに来た。

でも、今さら無意味な争いはしたくない。あと五日。五日経てば、私はもう冬翔の前から姿を消す。それまでに、この部屋の整理を終えることの方が大事だった。

私が何も答えなかったせいか、夏蓮の目に一瞬で涙が浮かんだ。

「冬翔お兄ちゃん……柚希お姉さん、やっぱり怒ってるのかな……結婚の準備もあるのに……でも」

その言葉を聞いて、冬翔の眉がすぐに険しくなり、不機嫌そうに私を責めてきた。

「夏蓮は純粋に感謝してるだけだろ。なんでそんな顔してんの?ただの食事だぞ、毒でも盛られると思ってんのか?絶対行けよ」

私はまだ一言も発していないのに、すでに加害者のように扱われていた。

そして結局、私は冬翔に連れて行かれることになった。

レストランに着くと、店員が料理の注文を聞きに来た。

私がメニューを開いたばかりの時、冬翔が口を開いた。

「油っぽいものや辛いものはやめてください。セロリも全部抜いて」

料理が全部そろったあと、冬翔は夏蓮のために気を遣って料理を取り分けた。

そのあと、彼は大皿に盛られたエビを私の前に押し出した。

「夏蓮はいま海鮮が食べられないから、これは君のために頼んだんだ」

そのエビの皿を見た瞬間、私は一気に食欲を失い、箸を置いた。

「私、海鮮アレルギーなの」

ほんと、笑えるよね。

五年も付き合っていたのに、冬翔は私が海鮮アレルギーだってことを知らない。けど、夏蓮の苦手なものは完璧に覚えている。セロリを避けるみたいな細かいことまで。

冬翔の顔が一瞬だけ戸惑ったような表情を見せた。

そして私の方を見たとき、珍しく罪悪感のようなものが浮かんだが、すぐにまた何品か追加で注文した。

でも、その食事の間、私はもう箸をつけなかった。ただ、グラスの水を静かに飲んでいただけだった。

食後、階段を降りたところで、また研究室の先輩から電話がかかってきた。

「柚希、先生がもう一度確認してほしいって。実験は予定通り進めて大丈夫なんだよね?最初の実験は機密プロジェクトで、たぶん一年か二年は外部と連絡取れなくなるかもしれないんだけど」

私の視線は、前を歩く冬翔と夏蓮の背中に向かっていた。

二人は並んで歩いていて、階段を下りる時には冬翔が夏蓮の腰にそっと手を添えていた。

私はとても静かな声で答えた。

「問題ない」

先輩は私の返事を聞いて、ほっとしたように息をついた。

「よかった。先生が、旦那さんと離れられないんじゃないかって心配してたから」

私は目をそらし、別の方向へと足を向けた。

「結婚式は中止になった」

「もう、離れる準備はできてる」

ちょうどその言葉を口にしたとき、背後から戸惑った声が聞こえてきた。

「誰が、離れるって?」
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    冬翔は、なぜそんな質問をしたのか理解できなかった。私は話を続けた。「好きだったって言うけど、どうして誕生日にプレゼント一つくれたことがないの?どうして一緒に旅行に行こうって言ってくれなかったの?どうして他の女を妊娠させたのに、私とウエディングフォトまで撮ったの?」「私だって心がある。痛みだって感じる」「もしそれがあなたの好きなら、ごめん、そんなものいらない」私が一言言うたびに、冬翔の顔色はどんどん青ざめていった。過去の記憶が、彼の脳裏に次々とよみがえる。言い返そうとしても、どこを探しても反論できる記憶は見つからない。どれもこれも、まさに私の言った通りだった。最後に冬翔は、夏蓮の話題にすがるようにして呟いた。「俺が夏蓮に優しくしたのは、助けてくれた人だと思い込んでたからで……もし最初から君だってわかってたら、そんなこと」「もういい」私は彼の言葉を遮った。彼は、問題の核心が夏蓮の存在だけにあると思っているのだろうか?二年経っても、彼はまだ私たちの問題の本質に気づいていなかった。「夏蓮じゃなくても、他に夏蓮がいたでしょ。ユカでもマイでも、誰でもよかったのよ」「仮に本当に命の恩人だったとしても、感謝を伝える方法なんていくらでもあるのに、なんで全部一人で背負おうとするの?」「今のあなたが引きずっているのは、二十年も私に追いかけられてきて、私が去ったことが悔しいだけ」「もう探さないで。きれいに終わろう」そう言い終えて、私は彼を家から追い出した。冬翔は、ぼんやりとしたまま自分の部屋へ戻った。ーーただの悔しさなのか?彼にはもうわからなかった。だけど、ふと脳裏に浮かぶのは、あの日の記憶。「付き合ってほしい」と彼が言ったとき、私の顔は真っ赤になって、どもりながら「罰ゲームでもしてるの?」と聞いてきた。本気だと伝えると、顔が一気に輝き、彼に気づかれないように小さく勝利のサインをしていた。あれが、彼らの五年間にわたる日々の始まりだった。その五年の間、私が彼に注いでくれた想いは、確かに届いていた。彼は、別れを考えたことなど一度もなかった。プロポーズを受けたときも、本気で一生を共にしたいと思っていた。だが今日、初めて気づかされた。五年間、彼は一度も自分から愛を表現してこな

  • 研究に身を捧げた私に、婚約者は狂ったように後悔した   第22話

    私が答える前に、冬翔の表情がすぐに強く変わった。「説明できるんだ、あの時は夏蓮が俺の命を救ってくれたと思ってたんだ。俺には何の気持ちもなかったし、俺と夏蓮の間には何もなかった」「君が去った後、君が去った後、気づいたんだ。実は」冬翔は涙がこぼれそうになりながら、しばらく言葉を詰まらせていた。やっと心を落ち着けた彼は、続けて言った。「六年前のお正月の夜、助けてくれたのは君だったんだ、ずっと間違えてた」冬翔は涙で赤くなった目で私を見つめ、その目には後悔、罪悪感、焦り、そして隠れた期待が込められていた。彼は、私が真実を知ったら、彼を許して、二人が再び仲良くなることを期待していた。残念ながら、彼の思惑は外れた。冬翔が言っていた命の恩人が、六年前のお正月の夜のことだと知った時、私は確かに驚いた。あの時、冬翔が初めて夏蓮を私に紹介した時、いつ彼を助けたのかなんて言っていなかった。そしてその年、私は病院から目を覚ました後、その夜のことを冬翔の前で話したくなかった。これが誤解の始まりだったのだ。今でも、過去をすっかり忘れていた私は、運命のいたずらに驚かされる。冬翔は私が何も言わないのを見て、慎重に言葉を続けた。「柚希、あの時の子供、夏蓮に生ませなかったんだ、もう堕ろしたんだ。今、俺は間違えてたって気づいた。俺たちは戻れるのか?」冬翔の言葉が私の思考を現実に引き戻した。私は迷わず首を振った。「無理だよ」冬翔の顔は一瞬で青ざめ、目を伏せた。その決然とした言葉が、彼の中にわずかに残っていた希望を完全に砕いてしまった。彼は二年間私を待ち続けていたが、この結末が待っていたとは思っていなかった。彼は、私が永遠に彼を愛し続けると信じていたのだ。冬翔は震える声で私を見つめ、聞いた。「どうして?俺は君が好きだよ」冬翔の執拗な態度を見て、私は昔、彼と付き合っていた時の自分を思い出した。確かに、彼は私にプレゼントをくれることはなかった。他の男の子たちのように、私との関係を大切にしてくれることはなかった。「愛してる」とも言ったことはなかった。それでも、当時の私は固く信じていた。冬翔の心には私がいるはずだと。そうでなければ、どうして私と付き合うなんて言ってくれたのか。それは、ただ彼の性格が冷たかった

  • 研究に身を捧げた私に、婚約者は狂ったように後悔した   第21話

    両親も、困った顔をして横に座っていた。二年前、私は結婚式をキャンセルする決断をしたけれど、その本当の理由は伝えていなかった。研究を続けたいと言っただけだった。そのため、両親には、結婚式をキャンセルした責任は自分たちにあると思われていた。彼らはずっと、冬翔が私に対してあまり深い気持ちを持っていないと思っていたけれど、それでもやっぱり、冬翔には申し訳なく感じていた。この二年間、私が家に帰ってこなかったにもかかわらず、冬翔は定期的に家の下を通っていた。上の階に来て私の家に寄ることはなかったけれど、両親は彼が私を探しに来ていることをなんとなく感じ取っていた。特に半年くらい前から、ほぼ二日に一度は通っていた。両親は、何度も彼に来ないようにと説得していた。結局、私が結婚式をキャンセルしたとき、私は非常に決意を固めていたからだ。そして、今は私が研究室にいるので、家に帰ってくることはない。彼が家の下で待っていても、意味がない。それでも、この二年間、冬翔の執着を見守ってきた父と母は、彼に対する冷たい印象が少しだけ改善された。実際、両親は、もし私が帰ったらもう一度説得しようと思っていたこともあった。結局、私と冬翔は五年間も一緒にいたから、結婚式の日も近いはずだと思っていた。だけど、私が帰ってきたと聞いたとき、私にはもう婚約者がいることを知り、今回結婚式を挙げる予定だとも分かった。ふたりは心の中で複雑な思いを抱え、冬翔に対して申し訳ない気持ちを感じていた。午後、冬翔が家を訪れたとき、両親は、彼が私が帰ってきたことをもう知っていることを理解していた。両親は、今こそすべてをはっきりさせてもらおうと考えていた。これで冬翔も諦めるだろうと。冬翔は私が帰ってきたのを見て、目を輝かせて、すぐに立ち上がった。しかし、私は頭が痛くなった。まさか、冬翔が家まで追いかけてくるなんて思ってもみなかった。前に、彼は年長者と関わるのが嫌いだと言っていたのに、今になって家まで来て、何をしたいんだろう?両親は私を脇に引き寄せ、この二年間のことを簡単に話してくれた。二年間、冬翔がずっと私を探していたということを聞いて、私は信じられなかった。もし両親が話していなかったら、私はきっと信じなかっただろう。私の中では、冬翔はもう私のことが好

  • 研究に身を捧げた私に、婚約者は狂ったように後悔した   第20話

    私はそのことばを聞いて、思わず笑いそうになった。何が「うそ」なの?わざわざ彼を怒らせるために、私が役者でも雇ったって言いたいの?そんなこと、どうだっていい。彼が何を思おうと、私には関係ない。でも、心のどこかでほんの少しだけ、疑問が浮かんだ。前に付き合っていたころ、冬翔はいつもどこか冷たかった。私がどんなに想っても、全然変わらなかった。あのとき、本気で思った。彼の心って、石みたいなんじゃないかって。どれだけあたためても、全然ぬくもりが返ってこなかった。そしてーー夏蓮があらわれた。あのとき初めて知った。冬翔にも、誰かにやさしくできる心があるんだって。だから、私は身を引いた。ふたりを応援する道を選んだ。なのに今、この態度はなに?まるで、私に未練があるかのような目。たしかに、夏蓮は病気で亡くなった。でも、だからって私に近づいてくるなんて、おかしいよね。「ごめんね、悠斗は私の正式な婚約者なの」「結婚式は今月の十八日。もう十日しかないの」ひとことひとことが、まるで雷のように冬翔の耳に響いた。彼の目はあっという間に赤くなって、現実を受け入れられない様子だった。好きな女の子が、ほかの男と結婚するなんて、簡単には飲み込めなかった。でも、私はもう感情を引きずるつもりなんてなかった。どうして、関係ないひとりのせいで、今日のたのしい歓迎会が台なしにされなきゃいけないの?私はみんなを呼んで、別の場所にうつることにした。その場を通りすぎようとしたとき、冬翔は無意識に手を伸ばして、私の服のすそをつかんだ。だけど、もうそこに何の感情もなかった私は、ためらうことなくその手をふりはらって、悠斗の手をしっかり握り、その場を後にした。冬翔は、一人、ぼんやりと立ち尽くしたまま、私たちの背中を見つめることしかできなかった。車に乗ったあと、悠斗はすぐに私を抱いていた手を離して、腕を組み、少し距離を取ってそっぽを向いた。私は吹き出してしまった。ああ、嫉妬してるんだなって、すぐに分かった。そういえば、誰かが自分のためにやきもちを焼いてくれるなんて、初めてのことかもしれない。昔、冬翔と付き合い始めたころ、彼の態度はずっと変わらなかった。だから、やきもちを焼かせれば少しは気にしてもらえるんじゃないかと思った。わざと男友だちと

  • 研究に身を捧げた私に、婚約者は狂ったように後悔した   第19話

    冬翔は個室の扉の前に立ち、鏡に映る今日の服装を整えながら、少しだけ気持ちを落ち着かせていた。本当は、ただごはんを食べに来ただけだった。まさか私に会うことになるなんて、思ってもみなかった。でも、私がこの場所にいるってわかってしまった以上、次に会える日まで待つなんて、できなかった。あわてて服を整えて、個室の前まで来た。扉を開ける直前、私がどんな反応をするか、少しだけ想像してみた。もしかしたら、まだ怒っていて、許してくれないかもしれない。それとも、もう全部を忘れて、ただの知り合いとして接してくれるかもしれない。でも、どんな形であっても、今の私の気持ちがどうであれ、冬翔はそれを受け止めるつもりだった。何よりも、もう一度私に会えるだけで、十分だった。そして、自分の想いを伝えれば、私もまた彼のことを好きになってくれる。そんな自信があった。ただ、思いもしなかったのはーー私にはもう恋人がいて、しかも近いうちに結婚するということだった。「婚約者」って言葉が耳に入った瞬間、まるで冷たい水を浴びせられたみたいに、全身が凍りついた。心臓を大きな手でぎゅっと握られたような感覚に襲われて、息もできなくなった。彼は、私が冗談を言っているんじゃないかって、どこかで期待していた。悠斗はただの後輩なんだって、そう言ってくれるんじゃないかって。でも、それはなかった。個室の中では、私の友達たちがどんどん盛り上がって話していて、話題は花嫁の付き添いのことから、子どもの名付け親のことにまで広がっていった。もう我慢できなかった!そう思った瞬間、冬翔は勢いよくドアを押し開けた。彼の視線は、すぐさま私と悠斗がつないでいた手に釘付けになった。二人のあいだにただよう、そのはっきりとした親しさが、彼の息を止めた。でも、私は冬翔がそれを見て、何を思ったかなんて、まったく気にしていなかった。彼は、私たちが二年前に別れたことを知っている。私にとって冬翔は、せいぜい「知ってるようで知らない人」でしかなかった。本来なら楽しいはずだった今日の歓迎会は、冬翔が現れたことで一瞬にして台なしになった。しかも、私にとっては何の意味もない、唐突な言葉を投げかけてきた。二年前、別れを切り出したのは彼のほうだったはず。だったら、今になって一体何を言

  • 研究に身を捧げた私に、婚約者は狂ったように後悔した   第18話

    二年後、浜城市空港。私はキャリーケースを引きながら、周囲の変化を観察していた。まさか初回の実験研究が二年もかかるとは思ってもみなかった。でも、最終的な成果は完璧だった。先生は私たちに丸々二ヶ月の休暇をくれて、やっと私は再び浜城市の地を踏むことができた。一瞬、感慨深さがこみ上げる。この街を離れてから、もう二年になる。でも、違うのはーー隣にいる悠斗の楽しげな姿が目に入った瞬間、私の視線は優しくなった。違うのは、二年前は一人でここを離れた。二年後は、二人で帰ってきた。そして今回の帰還には、もう一つ重要な目的がある。悠斗は腕時計を見下ろし、私の手首を掴んで小走りに急かす。「柚希さん、早くしないと遅れるよ」私が浜城市に戻ってくるという話を聞いた日和は、即座に歓迎パーティーを開くと言い出した。二年ぶりの再会に、仲間たちと盛り上がりたいとのことだった。私も彼女たちが恋しかったから、すぐにOKを出して、パーティーは私と悠斗が到着する当日に設定された。私たちがレストランの入口に着いた時、ちょうど約束の時間だった。悠斗に手を引かれ、慌ただしく駆け込む。階段を登っている途中、どこかで見覚えのあるシルエットが視界の端に映ったような気がした。でも、あまりにも急いでいたせいで見間違いだと思い、気にせず個室を探した。一方その頃ーー冬翔は胸を押さえ、瞳を潤ませながら、震えるような喜びの中にいた。二年ーー彼はこの二年間ずっと、私の姿を待ち続けていた。誰にも分からない。あの空っぽの部屋で、どれだけ孤独な夜を彼が一人で過ごしたか。最初の頃は、毎晩眠れなかった。ようやく朦朧とした意識で眠りに落ちても、目覚めた途端、最初に口にしたのは「柚希」という名前だった。でも、返ってくるのはただの静寂だけ。もう朝食を用意してくれる人もいないし、帰宅を待ってくれる人もいない。部屋の隅々を探しても、私に関するものは何一つ残っていなかった。かつてお揃いで買ったルームウェアさえ、すでに姿を消していた。彼の唯一の慰めは、枕元に置いた一冊のカレンダー。 それには、私が書いた【別れる】という言葉があった。だが、彼にとってそれは私が残した唯一の痕跡だった。しかも、彼はずっと信じていた。自分が認めなければ、二人はまだ別れて

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