柚希は、真澄のベッドサイドを一日たりとも離れなかった。心羽もまた、父のそばを頑なに守り続けていた。あっという間に七日が過ぎた。しかし、真澄は目を覚ますことはなかった。「ママ、どうしてパパはまだ起きないの……?」心羽はここ数日、毎日のように泣き続けていた。喉はかすれ、目元は真っ赤に腫れている。柚希はそんな心羽を見て、胸が締めつけられる思いだった。冷たいタオルでそっと目元を冷やしながら、優しく言う。「大丈夫、きっと目を覚ますわ」「ママ、こわいよ……パパが死んじゃったら、やだよ……」柚希は唇を噛み、嗚咽まじりに言葉を吐き出した。「真澄……あなた、目を覚まさなかったら、私たちは一生、あなたを許さないから!」その瞬間——真澄の指がかすかに動き、閉じられていた瞼が震える。「柚希……心羽……」「ママ!パパが……パパが目を覚ましたよ!」心羽が歓声を上げてベッドに駆け寄る、「パパ!」「心配かけて……ごめん」「ありがとう……あなたが助けてくれたの。私たち、あなたに命を救われたのよ」柚希の目に涙が浮かぶ。彼女は、感情を飲み込んで静かに告げた。真澄はかすかに口元を引き上げたが、言葉にはできなかった。柚希の言葉には感謝が込められていた。それでも、心の奥に残る許せなさ―それだけは、彼にも確かに伝わっていた。「お医者さんを呼んでくるわ」そう言って病室を後にした彼女の目には、安堵の涙が光っていた。真澄の容体は安定し、命に別状はないと診断された。柚希は心羽を連れてA国へ戻った。別れの言葉は交わさず、ただ一通のメッセージを残して——【心羽に会うことは止めません。時間があれば、できるだけ寄り添ってあげてください】その後の心羽は、以前よりもずっと明るくなった。彼女は毎日、真澄とビデオ通話で話し、彼の回復を見守っていた。真澄は、どんなに忙しくても変わらず心羽に愛情を注いだ。会議中ですら通話をつないだまま、彼女の勉強を見守るほどに。そして、柚希のことを何度も心羽に尋ねた。心羽は、それを嬉しそうに逐一報告していた。「パパ、今日またママに近づいてきた男の人を追い払ったよ!パパはちゃんと努力しなきゃダメだよ!」「心羽、偉いな。パパ、来週A国に出張するんだ。何か欲しいものあるか?」「ほんと?パパ
柚希は心羽をぎゅっと抱きしめ、胸が張り裂けそうなほどの恐怖と緊張に包まれていた。心臓の鼓動は耳の奥で鳴り響き、全身の血が逆流するような錯覚さえ覚えた。「どかないなら……先に大人を殺してから、子どももやる!」首筋に冷たい刃が押し当てられたその瞬間、皮膚が裂けるような痛みが走り、柚希は息をのんだ。「彼女たちを放せ!代わりに俺を人質にしろ!」真澄の怒声が空気を切り裂いた。彼は毅然とした足取りで、真っすぐに彼らの元へと近づいてくる。「俺はタチバナグループの代表だ。俺を連れて行けば、逃げ道も開けるはずだ」だが犯人は、迷うことなく拒否した。大人の男を制するのは厄介だと理解していたのだ。真澄は、何も言わずにその場で石を拾い上げた——そして、ためらうことなく、自分の右手に振り下ろす。骨が砕ける甲高い音が響き渡る。瞬間、彼の顔から血の気が引いた。「右腕はもう折れた。もう、抵抗なんてできない。信じられないなら……左腕も折ってやる。だから……彼女たちを放して、俺を連れて行け」「叔父さん……」心羽の震える声が、細い糸のように空間を震わせた。彼女の頬には、絶え間ない涙が伝っていた。「叔父さん、ケガしてる……」柚希の瞳にも、熱い雫が浮かんだ。真澄の腕が折れた瞬間―彼の痛みに、彼女の胸も締めつけられるように痛んだ。思わず目に涙がにじむ。その様子を見ながら、ひとりの犯人が真澄の身元を確認し、もうひとりの仲間に小さくうなずいた。橘真澄。社会的影響力のある人物。人質としては申し分ない。交渉の余地も広がる。「……お前だ、こっちに来い」真澄はゆっくりと歩みを進め、柚希と心羽に向けて、わずかに安心させるような視線を送った。そして、犯人に腕を掴まれた瞬間―彼は二人の前に、さっと身を差し出すように立った。「逃げろ。俺は大丈夫だから」その声は震えていなかった。むしろ、命を懸けた決意が、静かに、確かにそこに宿っていた。「真澄……!」柚希が思わず声を漏らすと、彼は微笑みながら、そっと彼女を押しやった。その隙に、柚希と心羽は、ためらいながらも安全圏へと後退した。犯人は真澄を人質に取り、ゆっくりと出口へ向かって歩き出した。警察と警備員たちは、無理な接近を避けるように後退しながら、事態の推移を見守る。門を
「柚希……何を考えていたの?」真澄がふと振り返ると、柚希は彼をじっと見つめていた。「俺、何か変なことした……?」「……何も。今日はありがとう。心羽、とても楽しそうだった」彼女はそう言って穏やかに微笑み、彼を玄関まで送り出そうとする。「もう遅いわ。気をつけて帰って」扉が閉まりかけたその瞬間、真澄は手を差し入れて止めた。「柚希……俺は、心羽の父親だ。あの子の世話をするのは、当然のことなんだ……昔の俺がどれだけ最低だったか、自分が一番分かってる。けど、本気で変わろうとしてるんだ」「……分かってる」柚希は淡々と、しかしどこか認めるように答えた―彼が今、心羽に真剣に向き合っているのは確かだった。「柚希……本当に、もう一度だけチャンスをくれないか?」真澄の声は震え、目には光が滲んでいた。あの日、事故で歩けなくなった時以来、彼が涙を見せたのは初めてかもしれない。……今、目の前にいる彼は、確かに心を動かす何かがあった。けれど、それでも―こぼれた水は、もう戻らない。「橘さん、私はもう、あなたにその『チャンス』を求めていません」その言葉は、静かに、しかし決定的に彼を拒んだ。「心羽への気持ちは止めません。どうか、これからも大切にしてあげてください。でも、私たちの関係はもう終わったんです。あなたのような人なら、水原さんを刑務所から出ことなんて、難しいことでもないでしょうし」「違う、違うんだ、柚希!俺と玲奈の関係は、君が思っているようなものじゃないんだ」真澄の声がわずかに震え、必死に彼女へ届こうとしていた。「最初、彼女を見たときは……正直、動揺した。まだ、彼女に情があると思い込んでいた。けど……君がいなくなって、やっと分かったんだ。俺が本当に愛していたのはずっと、君だったって。柚希、頼む……俺のことを信じてくれ……」柚希は深く息を吸い込み、こみ上げる感情を抑え込むようにして、冷たく言い放った。「その話は、もう私には関係ありません……では、お気をつけてお帰りください」「俺はあきらめない。愛してる、柚希。ずっと……君だけを!」扉が静かに閉じる音とともに、彼の声だけが胸に残った。胸の奥が、じわりと痛む。でももう、これ以上は絡まりたくなかった。彼との関係に終止符を打つように、柚
心羽はぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、聞こえなかったふりをした。「ママ、帰ろ?」「送るよ」「大丈夫、タクシーで帰ります」柚希は静かに答え、心羽の小さな手を取った。真澄は、何も言わずにただその背中を見送るしかなかった。翌朝、彼はまたホテルのロビーに現れた。手には季節の花束と、焼きたてのスイーツ。「おはよう。今日は……一緒に朝食どう?」「ごめんなさい。予定があります」柚希は一切の情を込めずに断り、心羽の手を引いてその場を離れた。それでも真澄は、いつものように何も言わず、黙って見送った。彼は分かっていた。柚希の心は、そう簡単には戻らない。だが、決して諦めなかった。毎朝、彼はそこに立ち、少しずつ変わる気持ちの兆しを信じて、待ち続けた。花も、贈り物も、毎回違う。どれかひとつでも、彼女たちの心に届けばと——柚希の態度は変わらなかったが、心羽の瞳には、次第に迷いが浮かぶようになった。「ママ、また叔父さん来てる。今日はクマのぬいぐるみだよ、ママよりも大きい!」「……そう」淡々とした柚希の返事に、心羽はそれ以上言葉を重ねなかった。真澄はやがて二人の元へ歩み寄り、大きなぬいぐるみを差し出した。「おはよう、柚希、心羽」「叔父さん、おはよう!これ、わたしに?」「もちろんだよ。中にはね、他にもいろいろプレゼントが入ってる。全部、パパからの贈り物だ」真澄は微笑んで答えた。「パンダの巡回展示があるんだ。遊園地に行かないか?心羽、パンダ見たいだろ?」心羽は一瞬柚希の顔を見つめ、それからそっと聞いた。「ママ、行ってもいい……?」「そんなに行きたいの?」「……うん」「分かったわ」柚希は小さく頷いた後、真澄をじっと見据えた。「でも、あなたを信じていいのかしら?」「……え?」真澄は一瞬きょとんとした表情を浮かべた。「今日は私は会議で一緒に行けないの。お願い、心羽を二度とひとりにしないで」その声音は冷静で、それ以上に真剣だった。「……ごめん」真澄は目を伏せ、深く頭を下げた。「約束する。今度こそ、必ず守るよ」「心羽、自分の身は自分で守るのよ。困ったらすぐママに電話。もしくは警察に連絡するの」そう繰り返す柚希の、不安を押し隠した声音を聞いて、真澄の胸はきゅっと締めつけられた。それ
「柚希、ちょっとだけ心羽のそばにいて。すぐにご飯できるから」真澄は軽やかな口調で言った——この光景を、夢で何度見たことだろう。今、それがようやく現実になった。心羽は夢中でプレゼントを開けている。中には人形、知育絵本、レゴ、電子ペット……何でも揃っていた。柚希はその様子を見ながら、心の奥がじんと痛んだ。どうして、人は失ってからでなければ気づけないのだろう。「ご飯できたよ」最後の一品をテーブルに置いた真澄は、エプロンを外し、自ら心羽を呼びに来た。心羽は、額には汗を浮かべ、手にはカラフルなペンの跡。真澄は彼女の手を引いて洗面所へ連れて行き、手を丁寧に洗ってあげ、タオルで拭き取ってから、再びダイニングに戻った。「……夫としても、父親としても、俺は失格だった。正直、君たちが何が好きなのかも分からないから、適当に作っただけなんだけど……」真澄はそう言いながら、オズおずと柚希の様子をうかがった。出された料理は、生姜焼き、唐揚げ、焼き魚、サラダ、そしてクリームシチューだった。柚希は、彼が料理できることに少し驚いた——きっと、玲奈が教えたのだろう。「食べてみて? 最近覚えたんだ。美味しいかどうか分からないけど……」真澄は柚希にクリームシチューをよそった皿をそっと差し出し、心羽には唐揚げを取り分けた。柚希の表情は変わらない。目は伏せられ、箸には手をつけなかった。「ママは牛乳アレルギーだよ」心羽はそう言ってクリームシチューの皿を脇へ寄せ、かわりに唐揚げを彼女の皿にのせてあげる。真澄の顔色がさっと変わる。箸を持つ手が震えている。「……ごめん、知らなかった」「気にしないで」柚希の声は淡々としていて、冷たい。食欲もなく、一口も口にしなかった。心羽だけが、もりもりと一膳を完食した。真澄はずっと二人の様子を見守り、ときおり心羽におかずを足した。「柚希、本当に食べないのか?」「……お腹空いてないの」その返事の冷たさに、真澄は胸が痛んだ。「じゃあ……お腹がすいたら、また作るよ」真澄はそう呟きながら、そっと心羽の皿に肉を加える。心羽はもう満腹のようで、口を拭くと再びプレゼントの山に向かった。柚希は黙って皿を片づけ始めた。彼女の横顔を見ながら、真澄は何度も言葉を飲み込み―ようやく洗い物が
「すみません、そろそろ登壇の時間です」その一言だけを残し、柚希は真澄の傍らを静かに通り過ぎ、ステージへと歩みを進めた。プレゼンが始まる。会社の代表として登壇した柚希は、新製品の紹介をしていた。彼女のその姿は堂々としており、所作には品があり、説明も非常に専門的で洗練されていた。その輝くような姿を見つめながら、真澄は胸が締めつけられるほどの後悔を覚えた。彼女は、こんなにも眩しい存在だったのか。長く沈黙していた彼の心臓が、激しく脈を打つ。視線は一瞬たりとも、柚希から離せなかった。真澄はあきらめないと心の奥で決めた。どうしても、もう一度―妻と娘を取り戻したい。「ご清聴ありがとうございました。ご不明な点があれば、ぜひ個別にお声がけください」柚希はそう締めくくると、丁寧に一礼して壇上を降りた。その瞬間、心羽が駆け寄ってきた。柚希は心羽の手を引きながら、近づいてきた人たちと穏やかに言葉を交わしていた。真澄は少し離れた場所で、黙って二人の様子を見守っていた。なかなか声をかけることができず、ただじっと立ち尽くしていた。やがて、周囲の人がいなくなり、そこに残ったのは柚希と心羽だけになった。ようやく意を決した彼は、一歩踏み出して近づいた。「素晴らしいプレゼンだったよ。喉、渇いてるだろう?」真澄はそう言って、飲み物の入った紙コップを差し出した。「さっきもらったばかりのだ。封も開けてない、清潔なやつ」柚希は胸の奥が詰まるような感覚に襲われ、手を伸ばすことなく、静かに彼の横を通り過ぎた。「柚希……心羽……一緒にご飯でも、どうかな?」真澄は思わず声を張った。理由もなく、胸が高鳴っていた。「ごめんなさい、時間がないの」柚希は振り返ることなく、そう言い残してその場を去ろうとした。「柚希……頼む、行かないで……」真澄は彼女の腕をそっと掴み、その目に切実な想いを滲ませながら、懇願するように訴えかけた。「心羽、一緒にご飯を食べに帰ろう?一度だけでいいから……ね?」彼は心羽に視線を移し、今まで見せたことのない優しい表情を浮かべた。「パパは本当に反省してるんだ。一緒にご飯、食べてくれないかな……?」心羽は、ためらった。彼女は、拒絶されることの悲しさを知っている。そっと顔を上げて、柚希を見つめた。「マ