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碓氷先生、奥様はもう戻らないと のすべてのチャプター: チャプター 1591 - チャプター 1600

1660 チャプター

第1591話

桜は、安人がそこまで自分のことを考えてくれるなんて思ってもみなかった。彼女は呆然と安人を見つめ、その優しさに胸が大きく弾んだ。そして、その衝撃のあとには、胸いっぱいの感動が詰まったようだった。安人と出会った最初の日から、彼はいつも自分を助けてくれた。あれほどの家柄なのに、安人の気遣いは押しつけがましくなく、親しみやすかった。気高くクールな彼が、自分のような取るに足らない存在を助けようとしてくれる。桜は、安人が普通の金持ちとは違うと思った。彼は、ほとんど完璧と言っていいくらいだったから。こんな素敵な男性に出会って、何も感じずにいるなんて無理だった。これまで誰かを好きになったことはなかった。家庭環境のせいで、自分は誰も好きになれないとずっと思っていた。だから、人と深い関係になることには、いつも不安を感じてしまう。誰かと新しく関係を築くのが、本当は少し怖かった。だから、安人を好きになりかけていると気づいたとき、桜には新たな悩みが生まれた。自分が安人にふさわしくないことは分かっている。この気持ちに応えてもらえるなんて、望むべくもなかった。でも、安人はあまりにも魅力的すぎた。容姿も性格も、すべてが桜を惹きつけてやまない。桜は知っていた。安人を好きな女性はたくさんいて、自分もその中の一人に過ぎないのだと。そんな中、安人が契約上の彼女に自分を選んだのは、彼のことを好きにはならないと思ったからだろう。安人には彼自身に特別な感情を抱かない女が必要だったんだ。だとしたら、自分に優しくしてくれるのは、今のパートナーという関係だからだろうか?彼女がそう思い巡らせていると、交差点で、黒いベントレーがゆっくりと停まった。安人は、ぼーっと自分を見つめている桜のほうに顔を向けた。そして、彼は口角を上げると、桜の額を軽く指ではじいた。「いたっ」桜は小さく声をあげ、弾かれた場所を押さえて我に返ると、眉をひそめて恨めしそうに安人をにらんだ。もともと綺麗な瞳だが、少し悔しそうに潤んだその目は黒く輝いていて、まるで愛らしい小動物のようだった。安人は少し眉を上げて、低い声で言った。「桜さん、どうしていつも人の顔を見てぼーっとしているんだ?」そう言われ、桜はとたんに気まずくなった。彼女は窓の外に目をそらしながら、「ち
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第1592話

桜が車から降りると、すぐに使用人の大野が出迎えて来るのが見えた。「安人様、どうして急にいらしたんですか?大旦那様にはご連絡を?」「いや、伝えてない」安人の声は低かった。「友人を連れてきたんだ。おじいちゃんに診てもらいたくて」そう言われ大野の視線が、すぐに桜に向けられた。桜は車を降りたばかりで、マスクもサングラスもしていなかったので、大野の目に彼女の整った素顔がハッキリと見えた。そこで、安人が桜に紹介した。「おじいちゃんの世話をしてくれている人だ。おじいちゃんと同じくらいの年だ。うちの若い者はみんな大野さんと呼んでいる」その言葉を聞いて、桜はすぐに大野に丁寧にお辞儀をした。「こんにちは、大野さん。春日桜と申します」大野はネットニュースなどをあまり見ないので、当然、桜のことは知らなかった。ただ、桜のあまりの美しさに息をのんだ。「なんて綺麗な子なんでしょう!」大野はちらりと安人に視線を移した。その目には、温かい笑みが浮かんでいた。「安人様がわざわざ連れてきて大旦那様に会わせるくらいだから、ただのお友達じゃないんでしょう?」「この子は恥ずかしがり屋なので、からかわないで」安人の答えは曖昧だった。肯定も否定もしなかった。すると、大野は、桜を安人の好きな子だと思い込んだ。そして密かに、たとえまだ付き合っていなくても、いずれはそうなるに違いない、と思ったのだった。一方、桜は、安人のその答え方を黙認と受け取った。どうやら今回は、恋人のフリをするのに協力してほしいということらしいと思った。安人はまず二人の荷物を大野に預けた。それからすぐに桜を連れて、漢方診療所にいる仁を訪ねた。仁は毎日漢方診療所にいるわけではない。でも、火曜日は必ずいる。今日はちょうど火曜日だった。家から漢方診療所までは、歩いて数百メートルの距離だ。あの漢方診療所は、仁が引き継いでから評判がどんどん良くなった。彼は弟子を数人とり、育て上げたあと、人手が足りてからは、健康増進のサービスも始めたらしい。そしてここ数年、観光客が増えるにつれて、漢方診療所の経営もどんどん上向いていった。仁の弟子たちはみな優秀だ。今ではもう一人で診察できるほどだ。だから特別な症状で仁自ら診る必要があるとき以外、ほとんどの時間は弟子たちが漢方診療所を切り盛りして
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第1593話

その時、小さな男の子が風車を手に、楽しそうにこちらへ走ってきた。桜が写真を撮り終え、立ち上がって数歩後ろに下がった。すると、さっきの男の子がすごい速さで走ってきて、止まりきれずにぶつかりそうになった。その瞬間、安人が大股で近づき、ぐっと桜を自分の方へ引き寄せた――引っ張られた桜はよろけて、安人の胸に倒れこんでしまった。その瞬間、爽やかな木の香りがふわりと鼻をかすめた。桜は一瞬呆然として、はっと顔を上げると、安人の深い眼差しと目が合った。この時、安人はまだ桜の腕を強く掴んでいて、大きな手は、桜の華奢な腕をすっぽりと包み込んでいるのだった。そして、服の上からでも、その手のひらの温もりが伝わってくるようだった。すると、桜は自分の頬がまた熱くなっていくのを感じた。胸が高鳴り、ドキドキが止まらなかった。しかし、桜はそれでも内心のトキメキを抑えようと、平静を装って、そっと一歩後ろに下がった。一方、安人は、もう遠くへ走り去った男の子に目をやり、それから桜の手を離した。「さっき、男の子にぶつけられそうになったんだぞ」安人は桜を見つめ、低い声でそう説明した。桜はこくりと頷き、恥ずかしくて安人の顔が見れずにうつむいた。「ありがとうございます」そう言われ安人は、彼女をじっと見ていた。夕暮れ時だった。夕焼けが、桜の頬を染めたのかもしれない。もともと整った綺麗な顔立ちが、今はほんのり赤らんでいて、いっそう魅力的だった。それを見つめる安人の眼差しが、さらに深くなった。「そろそろ、引き返そうか」「え?」桜ははっと顔を上げた。不思議そうに安人を見つめる。「漢方診療所には行かないんですか?」「行くよ」安人は彼女を見て、口の端を少し上げた。「通り過ぎちゃったんだ」桜は言葉を失った。しまった、楽しすぎて夢中になってた。「ごめんなさい。久しぶりに外に出たものですから。つい、はしゃいじゃって……」「大丈夫だよ。ここまで来たんだから時間は気にしない」安人は言った。「でも、これ以上進むと観光地から外れちゃうから。まず漢方診療所へ行って、診察が終わったら屋台が並ぶ通りを案内するよ」屋台が並ぶ通りに行けると聞いて、桜は一瞬でぱあっと顔を輝かせた。「はい!ありがとうございます、碓氷さん!あなたって本当に優しいですね!」安人は苦
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第1594話

漢方診療所のなかには独特な薬の香りが漂っていて、薬剤師たちが忙しく動き回っていた。もうすぐ閉まる時間だというのに、待合室はまだ人でいっぱいだった。桜の隣に座っていた女性二人は知り合いのようで、一緒に診察と薬をもらいに来ていた。二人はこの土地の方言で話しているので、桜にはなにを言っているのかさっぱりわからないでいた。彼女はただ、忙しそうに薬を調合している薬剤師たちをじっと見ているしかなかった。薬剤師たちは処方箋にさっと目を通しただけで、すぐに内容を覚えてしまうようだった。薬を準備する手際もとても良かった。ほどなくして、仁の弟子が診察室から出てきて、桜のそばに来た。そして、少し屈んで言った。「春日さん、先生がお呼びです。どうぞ中へ」桜ははっと我に返り、頷くと、立ち上がって彼の後について診察室に入った。診察室に入ると、仁が彼女に手招きした。「こっちへおいで」桜はそばへ歩み寄り、横にあった椅子に腰かけた。仁は桜を見ながら言った。「君の体に大きな問題があるわけじゃない。でも、小さい頃に水に落ちたのが原因でね、少し体質がこじれている。それが少し厄介な症状になっているから、じっくり養生する必要があるね。もしかして、君はいつも生理痛がひどいんじゃないのか?」桜は頷いた。「はい、最初の3日間が痛くて……特に1日目が一番ひどいです。あと、とくに寒がりです」「やっぱりそうか」仁は言う。「少し貧血気味でもあるな。じっとしていると、すぐに眠たくなったりしないか?」桜はぶんぶんと首を縦に振った。彼女は信じられないという目で仁を見て言った。「北条先生、すごいです!どうして分かるんですか?」仁は笑った。「こんなことで驚くのか?漢方医学は根本から治すことを大切にするんだ。それにしても君はこんなに若いのに、この俺より体が弱っとるぞ」桜は言葉に詰まった。「でも、大したことじゃない。今からちゃんと養生すれば大丈夫。俺が出す薬とは別に、簡単な体操も組み合わせるといい」「体操、ですか?」「うむ。今どきの若者がやるヨガみたいなもんだ。難しくはないよ。安人くんたちも、子供の頃はみんな俺と一緒にやっていたからな。彼もまだ覚えているはずだから、教えてもらうといい」そう言っていると、安人がドアから入ってきた。仁は顔を上げて、安人に言った。「おお
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第1595話

「そうなんです。子供のころ、康弘さんに連れられて漢方に行ったことがあって、鼻血が出るまで漢方薬を飲んだけど、ぜんぜん効き目がなかったです。北条先生は、小さい頃に水に落ちたせいで体が冷えやすいって言うんです。自分でも分かってて、すごく寒がりなんですよ。冬は寒いってみんな言うけど、でも私にとって暖房がある限り乗り越えられなくもないのですが、むしろ春先のヒンヤリした空気の方が耐え難いのかもしれません!」安人はそういう経験がないから、思わず聞いた。「春先でも寒ければ暖房をつければいいんじゃないのか?」「だって、周りのみんなが寒がっていないのに、私だけのために暖房をつけさせるわけにもいかないでしょ?それに私の住んでいた町は海が近いので、風がすごくて、髪をセットしていても吹き荒らされてしまうほどです……」安人は眉をひそめた。「そんなに風が強いのか?」どうやら彼は髪を吹き荒らされるのを体験したことがないようだ。そう思って桜はスマホを取り出すと、寧々とのライン画面を開いた。そして過去の履歴をさかのぼってスタンプを見つけると、安人に差し出した。「ほら、これです!」そう言われ安人は身を乗り出して、ライン画面を見ると、少し動きを止めた。そこに写っているのは、風で髪が逆立ち、人生に絶望したような姿の写真だった。しばらくして、彼は桜のほうを見て言った。「本当に、こんなふうになるのか?」桜は顔を上げ、安人の疑うような視線に応えながら笑った。「あなたも、信じられないって思いますよね?」「ああ、ちょっと信じがたいな」安人は少し間を置いてから、付け加えた。「機会があれば、体験してみたいものだ」「いいですよ。今度、私の実家に案内します。そうすれば、それを実感していただけると思いますよ!」安人は口角を上げた。「わかった。機会があったら、君の実家に案内してくれ」「もちろんです!」桜は時間を確認した。「もう夜の7時過ぎですね。お腹すきましたか?」「まあまあだ。君は何が食べたい?」「この辺は詳しくないんです。あなたのおすすめでお願いします。私がごちそうしますので!」安人にはわかっていた。彼女はほんの少しでも親切にされると、すぐにお返しをしたがるのだ。この食事をごちそうさせてあげなければ、きっとこの2日間、気まずい思いをするだろう。「わかっ
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第1596話

桜はビクッとして、はっと目を覚ました。さっきまで見ていた不思議な夢のせいでまだ頭がぼーっとしていると、部屋のドアを叩く音がした。「桜さん、起きたか?」安人だ。「起きてます!」桜はすぐに布団をめくってベッドから降りると、ドアを開けるために駆け寄った。するとドアの前には白いカジュアルな服を着た安人が立っていた。その姿は、相変わらず背が高く、知的で端正な佇まいだった。一方、彼と視線が合ったとたん、さっき見ていた夢が頭に浮かび、桜は急に後ろめたい気持ちになった。そして、彼女は熱くなった頬にそっと手をあてて言った。「碓氷さん、おはようございます」「動きやすい服に着替えて」と安人は言った。「下でトレーニングをするから」「あ、はい。じゃあ少し待っててください。顔を洗って着替えたら、すぐに行きますので」安人は静かにうなずくと、先に階段を降りていった。桜はドアを閉め、胸に手をあてて、長いため息をひとつ吐いた。よかった、安人には何も気づかれていないみたい。そして桜は自分の額を軽く叩いた。「しっかりして、桜!イケメンに心を乱されちゃだめ!それに、恋愛体質になるのもダメ。碓氷さんみたいな素敵な人が、あなたに振り向くわけないでしょ?余計な考えは捨てて!仕事に集中して、お金を稼いで、もっと成長するの!」……桜は10分で身支度を整えた。今回は急いで出てきたから、持ってきたのは普段着ばかりだ。もし安人の彼女役としてフォーマルな場に出るなら、きっと彼が服を用意してくれるはずだし、何年もパーティなんて出ていないから、自分のクローゼットには着ていける服もなかったわけだ。それから桜が1階に降りると、ちょうど大野が出来立ての朝ご飯をキッチンから運んでくるところだった。桜の姿を見ると、大野はにこやかに声をかけた。「春日さん、おはようございます。さあ、こっちに来て朝ごはんにしましょう」「大野さん、おはようございます」桜はそう言うと、安人にちらりと視線を送り、仁に向き直って笑顔で挨拶した。「北条先生、おはようございます」「ああ、座って。自分の家だと思って、遠慮はいらないからね」「ありがとうございます、北条先生」ダイニングテーブルは円卓で、桜は仁と安人の間の空いている席に座った。大野が朝食を並べると、みんなにご飯をよそってあ
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第1597話

桜は聞いているだけで感動してしまった。「彼女がもう少し北条先生のそばにいられたら、もっと良かったのに」「おばあちゃんは、若い頃はずっと苦労してきたから。おじいちゃんと出会ってからの十数年間が幸せだったなら、きっと未練はなかったと思うよ」安人はそう言って、桜を見た。「さあ、行こう。裏庭で稽古の続きだ」「はい!」……それから安人は桜に1時間ほど稽古をつけた。桜は運動神経が良く、覚えも早かった。一通り終えると、安人は彼女にちゃんと覚えられたか尋ねた。桜は、たぶん大丈夫だと答えた。彼女は小さい頃、歌や踊りの才能が他の子より優れていると先生に言われたことがあった。でも、家の事情でダンスを習うことは許されなかった。康弘は桜をとても可愛がってくれたけど、収入は多くなかった。ダンスを習うには町まで通わなければいけなかった。交通費も月謝も大変だったから、桜は言い出さなかった。それに、もしお願いしても、康弘が許してくれても、京子が絶対に許さないことも分かっていた。京子は、桜に愛情を注ごうとしなかった。康弘と夫婦として暮らした13年間、彼女は妻らしくも母親らしくもなかった。毎日、麻雀に夢中なだけ。勝って機嫌が良ければ、帰りに食材を買ってきて少し豪華なご飯を作ったこともあったが、負けて帰ってきた日は、桜を疫病神だとよく罵って殴ったりしていたのだ。康弘がいれば庇ってくれたけど、そうすると京子は彼にまで手をあげた。康弘がいない時は、桜は逃げるしかなかった。逃げ遅れた時は、ただ殴られるしかなかった……「桜さん?」「えっ?」桜は我に返り、安人の探るような視線に気づいた。「またぼーっとしてた」安人は彼女を見た。「何か悩み事でも?」「いえ、なにもないです」桜は気まずそうに笑った。「こういう悪い癖があるんです。すみません、碓氷さん。さっき何かおっしゃいましたか?聞いていませんでした」「今日の午後、北城に帰るのはどうかなって言ったんだ」「いいですよ!」桜はうなずいた。「あなたの決めた通りにしましょう」「わかった。古川に手配させるよ」安人は少し間を置いて続けた。「M市に行くのは明後日だっけ?」「はい!」安人はうなずいた。「じゃあ、明日はまた君の手作り料理を食べられるかな?」そう言われて桜もうなずいて答えた。「もちろん
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第1598話

それから北城に戻った翌日、桜と寧々は朝早くからスーパーでたくさんの食材を買ってきた。二人は家に帰ると、すぐにキッチンにこもって準備を始めた。下ごしらえの準備が終わると、二人は役割分担をしながら料理の仕上げをしていった。もちろん寧々が主に切り盛りしていたが、桜も下茹でや洗い物を担当した。こうして午前中いっぱいかかって、ようやくすべて作り終えた。その量なんとタッパーに詰めて20箱分にもなったのを見て、寧々は思わずつぶやいた。「これだけあれば、碓氷さんは1か月持ちますね」「うーん、さすがにちょっと作りすぎたかも……」桜は困ったように言った。「でもせっかく作ったんだからあげよう、私たち、3か月も家を空けるんですから、置いていくわけにもいかないでしょう」「それもそうね。そうだ、新井先生にもいるかって聞いてみようかな?」「いいですね!私たちがこんなチャンスをもらえたのも、もとはといえば彼女が紹介してくれたおかげなんですね!」「うんうん、さっそく新井先生にメッセージを送る……」……その日は週末で、優希は法律事務所には行かず、家で二人の息子と過ごしていた。桜からメッセージが届いた時、ちょうど庭に車が入ってくる音がした。耳のいい日向は、外を指さして興奮したように言った。「おじさんが帰ってきた!」すると、優希と綾は顔を見合わせた。そして綾は孫の頭をなでながら言った。「日向くんの耳は本当にすごいわね。家の車の音なら、聞いただけで誰のか分かるんだから」そう言っているうちに、安人が玄関から入ってきた。彼は靴を脱ぐと、リビングへと歩いてきた。「おじさん!」「おじさん!」日向と結翔は、二人そろって安人のほうへ駆け寄っていった。安人はかがみ込むと、甥っ子たちを一人ずつ腕に抱き上げた。そしてますます丸みを帯びてきた二人の小さな顔を見て、普段はクールな彼の目にも優しい光が宿った。「俺に会いたかったか?」「会いたかった!」日向は安人の首に抱きついた。「月曜日から金曜日まで、5日間もずーっと会いたかったんだよ!」「本当か?」「ほんと!」日向はこくこくと頷いた。「だからね、日向がこーんなに会いたがってたんだから、おじさん、何かごほうびくれるよね?」それを聞いて安人はすぐは、この子が何かを企んでいるのだ
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第1599話

「パパー、開けてー!お金ちょうだい!」「パパ、早く開けてよ!おじさんがお金なくて結婚できなくなっちゃう!パパ、おじさんに結婚資金をあげてよ!」……その瞬間、リビングは静寂に包まれた。やがて、安人がたまらず吹き出した。そして立ち上がると、妹の優希を見た。「さすがあなたの息子たちだな。その悪知恵は、子供の頃のあなたといい勝負だ」優希は苦笑いした。「私、子供の頃にそんなひどいことした?」「それなら、俺に言わせてもらおうか」綾の隣で新聞を読んでいた誠也が、眼鏡を外しながら新聞を閉じた。誠也は優希のほうを見て言った。「君があの子たちくらいの歳の頃、毎日俺の代わりになる新しいお父さんを探そうとしていたな。しかも君は面食いで、かっこいい人を見つけるたびに、お母さんに結婚相手を紹介するって言っていたぞ」優希は目を丸くした。「お父さん、嘘でしょ!私がそんなことするわけないじゃない!」「いや、お父さんの言う通りだよ」安人がポケットに片手を突っ込んで言った。「あの頃、お父さんと母さんは離婚の危機だっただろ。綾辻さん、輝おじさん……とにかく周りにいる男の人で、イケメンなら誰でもお父さんよりマシだって思ってたじゃないか」優希は信じられないという顔で、綾を見た。「母さん、お父さんとお兄ちゃんは私をからかってるのよね?」すると、綾は口元に手を当てて微笑んだ。「そんな時期もあったわね。でも、まだ小さかったんだもの。分からなくても当然よ」「本当にあったんだ……」優希は目をぱちくりさせ、ふと別のことに気づいた。「てことは、お父さんも母さんの機嫌を取るのに必死だった時期があるってこと?」「……まあ、な」誠也は少し気まずそうに咳払いをした。綾はにっこり笑って夫の手を握り、娘に言った。「お父さんにはね、若い頃いろいろと事情があったの。でも、後できちんと話し合って乗り越えた。あなたと哲也のようにね。運命のいたずらみたいなことは、私たちも経験してきたからよく分かるわ。二人が一緒にいるためには、愛し合うことより、信じ合うことの方がずっと大事。だから優希、覚えておいて。どんな時も、信頼が二人の基本よ」そう言われ、優希はこくりと頷いた。「母さん、安心して。色々あったけど、私も成長したから」「ええ。あなたと哲也はたくさんの試練を乗り越えてきた。二人
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第1600話

そう言われ安人は唇を結び、ため息をついた。「母さん、桜さんがまだ23歳だって分かってるでしょ。こんなに若いのに、もうお嫁さんにしたいのかい?」「23歳でもう立派な大人よ!」優希が言った。「まだ若いかもしれないけど、まずはお付き合いから始めればいいじゃない。誰もすぐに結婚しろなんて言ってないでしょ。彼氏として、堂々と彼女を守ってあげなさいってことよ!」すると、綾も言った。「優希の言う通りね」誠也もまた妻を一瞥し、同意した。「俺も賛成だ」安人は息の合った三人をみて、呆れたように言った。「そもそも、俺が桜さんを好きだなんて、一言も言ってないんだけどな」それを聞いて三人は黙り込んでしまった。そして、彼らはそろって、情けないような表情で安人をじっと見つめた。だが、安人の表情は終始変わることはなかった。「会社に仕事が残ってる。他に用事がないなら、もう戻るよ」そう言うと、安人は背を向けて、まっすぐ外へと向かった。「安人……」綾が立ち上がろうとするのを、誠也が止めた。すると、綾は振り返って誠也を見た。「あいつにはあいつの考えがあるんだろう」誠也は妻に優しく語りかけた。「言うべきことは伝えたし、応援する気持ちも示した。あとは、若い二人に任せよう」その言葉に、綾は唇を結んだ。「そうね……あの子も大きくなるにつれて、何を考えているのか本当に分からなくなったわね……」……一方、庭で、安人がちょうど車のそばまで来たとき、優希が追いついてきた。「お兄ちゃん」運転席のドアを開けようとしていた安人の手が止まる。自分の方へ歩いてくる優希を見て、「どうしたんだ?」と尋ねた。「別に。今から春日さんに会いに行くって言っておこうと思って」安人は一瞬動きを止めた。「何をしに?」「お兄ちゃんは彼女のこと、好きじゃないんでしょ?」優希は眉を上げた。「だったら、そんなこと聞かなくてもいいじゃない」そう言われ、安人は言葉を失った。一方彼の反応を見ている、優希は本当におもしろいと思った。「強がってると、お嫁さんを他の男に取られちゃうよ!」だが、それでも安人は平然とした様子で言った。「ただの友人だ。彼女には相手を選ぶ自由がある」「そう?」優希は笑った。「じゃあ、悠翔にでも電話しようかな」その言葉に、安人はわずかに眉をひそめ
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