All Chapters of 碓氷先生、奥様はもう戻らないと: Chapter 551 - Chapter 560

562 Chapters

第551話

物語の結末は、笙と要とは協力し合い、碓氷家の人々や主要株主たちとグルになって、誠也を碓氷グループと碓氷家から完全に追放したというわけになっていた。これらの暴露投稿は非常に詳細で、笙と結衣がS国で結婚式を挙げた写真や、研究所のデータまで含まれていた......さらに、要の誕生日まで暴かれた。そして皆は、自然と要が誠也より2ヶ月も年上であることを知ったのだ。また、誠也と笙の親子鑑定書も、この暴露投稿の中にあった。誠也は確かに笙の実の息子だったのだ。この鑑定書だけで、笙が以前、碓氷家の宴席で自作自演した発言を覆すには十分だった。誠也は佳乃と他の男の間に生まれた子ではなく、正真正銘笙との間の子であり、さらに、誠也の祖父が誠也の1歳の誕生日パーティーで、自ら指名した碓氷家の後継者なのだ。誰が想像できただろうか。誠也が32歳になったこの年、碓氷グループを新たな高みへと導いたあと、実の父親によって裏切られ、無念にも追放されることになるとは。笙は愛人と隠し子のために、実の息子を容赦なく追い詰めたのだ。碓氷グループの株価は乱高下した。この暴露は、まさにバタフライ効果を引き起こした。それによって最近、碓氷グループと緊密に取引を行ってきた桜井グループも大きな影響を受けた。つい先日、碓氷グループと桜井グループは共同で北部郊外の土地を取得したばかりだった。その土地は政府の開発計画と関連しており、将来性が高く、両社は数百億円を投じて取得したのだ。しかし今、その土地が不正取引に関与しているという疑惑が浮上した。その土地の売買を担当した責任者が、ある人物に賄賂を渡した疑いが持たれていたのだ。そのことは重大事件としてすでに捜査が始まっていた。北部郊外の土地は差し押さえられ、計画が頓挫しただけでなく、碓氷グループと桜井グループは関係当局から重点的な調査を受けることになった。わずか3日間で、北城の情勢は激変した。かつての碓氷家は騒然となり、親族たちは笙に詰め寄り、この騒動を収拾するよう要求した。この時になってようやく笙は、全てが誠也の復讐であることに気づいた。どうりで、あいつはあんなにあっさりトップの座を退いたわけだ。最初から罠を仕掛けて、自分が飛び込むのを待っていたんだ。笙は激怒したが、現状では何も策がなか
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第552話

彼はある日突然、結衣を訪ねてきて、自分は碓氷家を出たから、これからは結衣と息子だけを守って暮らしていきたいと告げてきた。結衣が拒否すると、笙は要を連れ去り、要を盾にして結衣に言うことを聞かせようとした。結衣は息子のために妥協せざるを得なかったが、要は国内の古雲町に追放された。そこで彼は偶然栗原先生と出会い、その才能を認められて弟子入りすることができたのだ。それからというもの、笙は毎年お正月になると結衣を連れて帰国し、要と再会させた。笙はずっと要に、自分たちは海外で仕事をしていると嘘をついていたが、幼い要はそれを疑う由もなかった。しかし、5年前、要は母親の顔色が悪いことに気づき、脈を診てみると、母親の体が異常な状態であることに衝撃を受けた。結衣の内臓は深刻な衰弱状態にあり、明らかに長期間の慢性中毒に陥っていたのだ。要に問い詰められた結衣は、ついに真実を語った。要はそこで初めて、笙が長年、結衣を実験台にして薬を使っていたことを知った。薬を使っていた間、結衣の容姿は変わらず、異常な副作用も現れなかったが、資金が尽きて薬の供給が止まると、結衣の体は急速に副作用に襲われるようになったのだ。それを知った要は激怒し、笙を問い詰めたが、笙は解決策を考えていると答えた。しかし、笙の言う解決策とは、誠也に金を要求することだった。誠也が金を出せば研究所の研究が続けられ、結衣への薬の供給も再開され、すぐに健康で美しい姿に戻れると笙は考えていたのだ。要は笙が気が狂ったと思い、母親を自分のそばに置いて漢方で治療しようと主張した。そのため二人は激しい言い争いになり、結果笙は怒って出て行った。その後、笙は誠也のもとを訪れ、600億円を要求した。もちろん、誠也は拒否した。笙が北城で誠也に付きまとっていた頃、結衣は副作用による激しい苦痛に苛まれていた。要は自分の知識を尽くして母親を治療しようとしたが、結衣は長年薬を服用していたため、どんな医学書を調べても、短期間で有効な治療法を見つけることはできなかった。そしてある深夜、結衣は体の苦痛に耐えきれず、こっそり屋上に登り、自由のない苦しい人生に自ら終止符を打った。だから、要は笙を憎んでいる。笙こそが全ての不幸を引き起こした張本人なのだ。しかし、その張本人は全ての責任を誠也に押し付け
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第553話

発表会の最後に、関係部署が調査の公文書を持って現れた。要は落ち着いた様子で立ち上がり、晴れやかな笑みを浮かべた。「一緒に行きます」と言った。それと同時に、碓氷家にいた笙も調査のために連れて行かれた。碓氷グループの株は、要が既に笙の名義に移していた。今の要は名ばかりの社長だったし、北城郊外の土地開発プロジェクトに関与していないことを証明する十分な証拠もあったので、警察署では積極的に調査に協力し、すぐに疑いを晴らした。調査が終わったあと、拓馬が彼を迎えに来た。警察署を出ると、要は空に沈む夕日を見上げ、暗い表情で言った。「綾はどこにいる?」「まだ西城市に出張中です」要はため息をついた。「古雲町まで送ってくれ」「かしこまりました」......笙は複数の経済犯罪に関与しており、その額も巨額だったため、残りの人生を刑務所で過ごすことになった。碓氷グループは大きな打撃を受け、株価が暴落し、倒産の危機に瀕していた。そして桜井グループもまた、長年にわたり海上輸送を利用した違法行為を行っていたことが発覚された。さらに、柏自身も長期間にわたって違法薬物を使用していたことが明らかになった。それは覚せい剤に似た輸入薬だった。それに加えて、捜査官は柏の別荘の書斎から小型カメラと多数の盗撮ビデオを発見した。ビデオの内容は衝撃的で、中には遥の姿もあった。これらの手がかりは全て、音々が提供したものだった。柏は拘留され、裁判を待つ身となった。これで、ようやく音々の任務も完了したことになる。しかし、表面上の脅威は排除できたものの、柏の背後にいる勢力は依然として存在していた。一方で、誠也に残された時間もわずかとなった。......八日目、綾と輝は西城市での仕事を終え、北城へ戻ってきた。飛行機は無事、北城空港に着陸した。綾と輝は空港を出ると、音々の姿を見かけた。音々は黒の作業ズボンに、カーキ色のノースリーブを着用し、サングラスをかけていた。ウェーブのかかった長い髪は鎖骨の長さまで切り、ダークブラウンに染めていた。以前とはまるで別人のようだった。綾と輝も一瞬、彼女だと分からないくらいだった。音々がサングラスを外して二人に手を振ってくれたので、それでようやく気付けた。「中島?」輝は眉をひそめ、まるで別
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第554話

「私の車の中で話しましょう」音々は言った。「個人的なプライバシーに関わることなので、岡崎さんには少し席を外してもらえますか」輝は黙り込んだ。......音々の車は黒のランドローバーだった。綾は助手席のドアを開けて車に乗り込んだ。ドアが閉まると、音々はエアコンをつけ、温度を調整した。綾は静かに音々を見ていた。服装から車まで、以前の彼女とは全く違っていた。これが音々の本当の姿なんだろう、と綾は思った。音々は綾の視線に気づき、その目には観察と評価の色が見えた。音々は軽く笑い、少し眉を上げた。「あなた、思ったより落ち着いてますが、意外じゃなかったですか?」綾は軽く唇を上げた。「初に、あなたは格闘の技術があると聞きましたので」「バレてましたか!」音々は肩をすくめた。「腕が鈍ったみたいです。やはり、そろそろ引退を考える年齢になったんですね」綾は尋ねた。「あなた、本当は何をしている人なんですか?」「傭兵ですよ」音々は明るい声で言った。「戦闘のプロです。依頼主のために命を張る仕事をしてますよ」綾は眉をひそめた。「国内では、違法な武装集団と呼ばれますね」「あはは、そうですね。でも私は外国人ですから」音々は少し間を置いてから、本題に戻った。「今日あなたに会ったのは、いくつかはっきりさせておきたいことがあったからです」「どうぞ」「まず、私と誠也は協力関係にあります。彼がお金を出し、私は彼に協力して、彼のために仕事をしています。だから、今まであなたにしたことは全部演技です。それに、安人くんを虐待した覚えはありません。これは誓えます。それに安人くんは誠也のところで快適に暮らしています」綾は落ち着いた表情で言った。「知っています」音々は驚いた。「知っていたんですか?誰に聞いたんですか?」「自分で推測しました」綾は音々を見て、ありのままに言った。「最初の頃は、あなたと誠也に本当に追い詰められました。でも、子供は嘘をつきません。もし、あなたと誠也が安人に冷たくしていたら、彼は南渓館に戻りたいと言い続けるはずがありません。私は取り乱していたせいで、あなたたちの演技に騙されていたんです」「......つまり、無駄な演技だったってことですか?」「そういうわけでもないです」綾は唇を上げた。「結果的に誠也の目的は達成
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第555話

綾は静かな表情の音々を見て、少し不安になった。「いつ知ったんですか?」「前に優希が言ってました。彼の具合が良くなさそうだって。それに、株主総会の日に、誠也が北条先生に殴られて口から血を流しました。私は医者じゃないけど、あの出血量は普通じゃないと思いました。手の甲にも点滴の痕があったし、あの日私は下の駐車場で待っていました。そしたら、彼が血を吐いたのを見ました」綾は事実を淡々と語った。音々は話を聞き終えると、綾に親指を立てた。「細かいところまで見てみていらっしゃったんですね!」「彼は重い病気のことを隠そうとしている上に、わざわざ柏さんの前で遥の名前を出した挙句、私を侮辱しました」綾は音々を見ながら尋ねた。「柏さんと誠也の間には、一体何があったんですか?」「それは多分、誠也が好きな女に、柏さんが気に入るようになるからでしょう」綾は眉をひそめた。「どういうことですか?」「ああいう、不法なことに手を出す人ってのは、どこかイカれてるんですよ!」音々は柏の話になると、つい愚痴っぽくなった。「柏さんみたいな、見掛け倒しの権力者は特に!彼と渡り合ってる時の、私の気持ち悪さ、分かってくれますか!」綾は唖然とした。「私たちの生きている世界は複雑なんです」音々は手を振り、綾を見て少し黙り込んだ後、ふっと力がぬけたように笑った。「そもそも誠也とあなたは住む世界が違います。海外で過ごした2年間は、彼の人生に大きな影響を与えたはずです。かつては彼もきっと素敵な夢があったんでしょう。しかし、現実は残酷だってことに気付いたんですよ」普段はサバサバしている音々も、この話になると少し物憂げになった。「あなたと彼は人生経験も、世界の捉え方も違います。無理強いしても上手くいきません。だから、こうして彼と別れて、子供たちと一緒に穏便に過ごしたほうがいいんですよ」綾は音々の言葉の真意をなんとなく理解した。彼らの世界について何も知らなかったが、音々は誠也が何か秘密の任務を背負っていることを暗示しているのだと分かった。綾はただの一般人だ。今は二人の子供を育てなければいけない。音々の言う世界は、綾には理解できないし、理解するべきでもない。「そう思っているなら、今日は私に会いに来るべきじゃなかったですね」綾は音々を見た。「彼が私たち親子との縁を切ることを
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第556話

「K国で、誠也はあなたに安人くんを連れて先に逃げるように言ったあと、彼は自分だけ残って克哉と交渉することにしました」音々は少し間を置いてから続けた。「そもそも森山さんの死で、克哉はずっと誠也を恨んでいたんです。彼は誠也に指を切るように要求したところ、誠也は迷わず小指を切り落としました。それを克哉は、誠也の目の前でチベット犬に与えたんです」それを聞いて綾は眉をひそめた。なるほど、それでしばらくの間、いつも黒い手袋をしていたのか。音々はさらに言った。「傷が治ってから、彼は義指を作りました。毎日外出する時はそれをはめて、よく見ないと分からないようにしています。この話をしたのは、誠也が子供たちを本当に愛していることを知って欲しかったからです」「分かっています」綾は、誠也が子供たちを愛していることを否定しなかった。「子供たちにあれだけの財産を与えられる父親は、そういないでしょう」音々は言った。「......二宮さん、冷たいですね。私は感情の話をしているのに、あなたは資産計算をしているんですか?」綾は時計を見て、ため息をついた。「要点を言ってくれませんか?」「あなた、本当はそういう人なんですね!」音々は眉をひそめて嘆いた。「普段はおっとりしているように見えて、人を叱ることもなさそうなのに、いざとなったら誰よりも冷酷になれるんです!」綾は唇を閉ざしたまま、何も言わなかった。彼女はもう、他人の言われようにいちいち説明する気はなかった。音々は綾の様子を見て、たとえ話しても、綾が誠也を説得してくれるとは思えなかった。しかし、せっかく来たのだから、試してみる価値はあると思った。「誠也は幼い頃に辛い経験をしています。そして、和平部隊に入隊しましたが、そこで彼は普通の戦争による死傷とは違う、恐ろしい体験をしました。亡命者たちは正気を失っていて、誠也の目の前で森山さんを拷問して殺したんです......誠也は精神的に大きなショックを受け、深刻なPTSDを発症し、二度と戦場に出られなくなりました。帰国する前は、兄の病院で半年間、トラウマ治療を受けました。帰国後も定期的に兄のところで心理療法を受けています。彼が服用している薬は特殊なもので、一般的な心理療法の薬よりも副作用が強いんです。薬のせいで感情が鈍くなり、それに幼い頃の辛い経験も重なっ
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第557話

「私たちの間には、とっくになんの情もありません」綾の声は、相変わらず静かだった。「許す許さないは、私にとってはどうでもいいことです。誠也が生きていれば、子供には父親がいて、それは子供にとって幸せなことです。彼が死ねば、子供はいくらか寂しい思いをするだろうけど、それでも子供はいつか大人になり、いずれ死は誰にでも訪れることを理解します」「遥さんのことで、彼を許せないのですか?」音々は、少し焦った様子で尋ねた。「実際、誠也は遥さんにそれほど優しくしていなかったし、それまで遥さんにしてあげたことも、すべて演技だったんです!」綾は窓の外に視線を向けた。音々はまだ話を続けた。「遥さんが帰国したのは偶然ではなく、誠也が仕組んだことなんです......」「もういいです」綾は音々の言葉を遮り、彼女をまっすぐに見つめた。「昔、私が彼女を気にしたのは、誠也を愛していたからです。でも、今はもう愛していません。だから、彼たちがどうであろうと、私には関係ないんです」「でも、あなたたちは彼女が原因で別れたんじゃないのですか?」綾は眉をひそめた。「彼が、そう言ったんですか?」音々は首を横に振った。「最近は、あなたのことをほとんど話しません。いつも言っているのは、私たちにあなたに干渉しないようにということです。今日、ここに来たのは、私の勝手な行動ですから、彼を誤解しないでください......」「中島さん」綾は再び彼女の言葉を遮った。「私を調べたんですか?」音々は驚いた。「え、どうして分かったんですか?」「今のあなたの視線は、以前とは少し違いますから」綾は軽く唇を上げた。「ということは、私がカウンセリングを受けていることも知っているんですね?」音々は何も言えなかった。「私を同情してるんですか?」「そ、そういうわけじゃないです」音々は額を掻きながら、バツが悪そうに言った。「ただ、あなたと誠也は、二人とも、大変な家庭環境で育ったんでしょう?きっと今まで辛い思いをしてきたんだなって思っただけです。あなたの話を聞いていたら、孤児も悪くないように思えてきました。私と兄は孤児院で知り合いました。血は繋がってないけど、お互いを一番信頼し合っている家族なんです!」「家庭で受けた心の傷は、一生をかけて癒していくものですよ」綾は落ち着いた表情で言った。「もし
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第558話

「いいえ」綾は軽く微笑んで言った。「中島さんはいい人よ」「いい人?」輝は運転しながら、綾をちらりと見た。「綾、危険感知器でも付けたほうがいいぞ」綾はまた彼の言葉に笑ってしまった。「そんなに彼女に敵意むき出しにしなくてもいいじゃない」「あいつ、君をいじめてたじゃないか!」「あれは演技よ」「演技?」輝は冷たく鼻を鳴らした。「演技でも気に入らない!」「落ち着いて。彼女は孤児なの。それに、前の件は彼女と誠也が仕組んだことだったのよ」「たとえそうだとしても......」輝は彼女と柏の親密な様子を思い出し、さらに不機嫌になった。しかし、彼の育ちはよかった。音々が色仕掛けで仕事を進めるやり方に賛同できなくても、軽々しく批判することはなかった。所詮、友達と呼べる間柄ですらないのだ。陰口を叩くのは卑怯だ。......雲水舎に戻ると、清彦がちょうど安人と優希を送り届けてきたところだった。それに彩も一緒付き添っていた。彩の今後10年間の給料を、誠也はすでに支払っていて、契約も済んでいた。それはまるまる10年の契約だ。彩は綾と輝が戻ってくるのを見て、丁寧に挨拶をした後、車の後部座席を開け、中からいくつもの袋を取り出した。すべて誠也が二人の子供に買ったものだ。その中でも安人の荷物が多かった。今日から安人は正式にここに引っ越してくるのだ。一週間ぶりに会う子供たちは、綾を見ると、駆け寄って甘えてきた。「母さん!」「母さん!」綾はしゃがみ込み、二人を抱きしめて何度もキスをした。仕事から帰ってきてすぐに可愛い二人に会えるだけで、疲れも吹き飛ぶ。輝はそばで咳払いをした。「ああ、私は一人ぼっちだ。誰も構ってくれない」優希は少し驚いた後、慌てて手を伸ばした。「おじさん、抱っこ!」輝はすぐに優希を抱き上げた。「この薄情者!父親ができたら、もう私のことは好きじゃないのか?」「そんなことないよ!」優希は輝の頬にキスをした。「あなたは、ずっと優希の大好きなおじさんだよ。お父さんはたった一人だけの大切な存在だけど、おじさんも一人しかいなかいから!だから優希にとっておじさんも特別な存在なの!」輝は内心、少なくとも要よりは、自分のほうが立場が上なんだから、まあいいかと思った。「ふん、お世辞上手だな!」輝は優希
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第559話

綾は、清彦が何を言おうとしているのか察した。「今日、中島さんが来た」清彦は少し驚いた。「では、あなたは......もうご存知なのですか?」「ええ、誠也の状況は全て知っているの」清彦の目に光が宿った。「では、碓氷先生を説得していただけませんか?」綾は落ち着いた表情で言った。「申し訳ないけれど、無理よ」清彦の期待は、一瞬にして打ち砕かれた。しかし、綾には誠也を説得する義務はないことも、彼は分かっていた。それに、誠也も綾に知られたくはなかっただろう。もし、綾に知られただけでなく、自分たちがこっそり頼みに行ったと知ったら、誠也はきっと怒るだろう。清彦は気持ちを抑え、綾に軽く頭を下げた。「綾さん、それでは失礼します」綾は彼を見ながら言った。「ちょっと待って。渡したいものがあるの」清彦は動きを止め、再び心にわずかな希望が芽生えた。「はい!お待ちしています!」綾は部屋の中へと戻っていった。部屋に戻った彼女は、アルバムを1冊持ってきて清彦に渡した。清彦は厚いアルバムを受け取った。綾は言った。「これは、優希が生まれてから1歳の誕生日までの写真よ。USBも一緒に入れておいた。中には、彼女が3歳になるまでの動画が入っているの。誠也に渡してちょうだい」清彦はアルバムを受け取り、目が潤んだ。「彼には私が彼の病気を知っているて言わないで、優希からの贈り物だと伝えてくれる。もし彼が本当に子供たちを愛しているなら、子供たちのために、もう一度頑張ろうと思うはずよ」清彦は綾の真意を理解し、誠也のために胸が熱くなった。「綾さん、本当にありがとうございます!」綾は言った。「私はただ、子供たちに後悔を残したくないだけなの」清彦は、涙を浮かべながら頷き、車に乗り込んだ。......綾がリビングに戻ると、二人の子供たちはプレイルームで遊んでいた。輝はお茶を淹れて、彼女を待っていた。綾は一人掛けソファに座った。輝はお茶を彼女に差し出した。「優希のアルバムを彼に渡しても、効果はあるのだろうか?」帰る途中、綾は輝に事情を説明していた。もちろん、音々が誠也と遥の関係について説明した部分は、省いた。今はもう本当にどうでもよくなったので、そんな話を蒸し返しても意味がない。「私にできるのは、これくらいだからね」
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第560話

丈と音々はベッドの足元に立ち、交互に彼を説得していた。いつもは傲慢で強引な男だが、今はただ静かに横たわり、死を待っているようだった。8月初めの夕日が窓から差し込み、男の顔を照らしていた。しかし、その熱く照らす日差しでさえ顔面蒼白な彼を温めることはできなかった。庭から車の音が聞こえてきた。清彦が戻ってきたのだ。続いて、急いで近づいてくる足音がした。すぐに寝室のドアが勢いよく開けられた。息を切らした清彦は、綾から預かったアルバムを抱えて駆け込んできた――「碓氷先生!碓氷先生!」彼はめったにない慌てた様子だった。眠りに落ちかけていた男は、はっと目を覚まし、ベッドの脇に立つ清彦を見た。男は眉間にしわを寄せた。容体が悪化したことによる、無意識の反応だった。清彦は、涙で潤んだ目で、手に持ったアルバムを差し出した。「碓氷先生、これを見てください!」丈と音々は顔を見合わせた。二人は、清彦が持ってきたのは、きっと綾から託されたものだと察した。誠也は、依然としてあまり反応を示さなかった。清彦は重ねて言った。「優希ちゃんがお渡しするようにと......」それを聞いて誠也は一瞬固まった。しばらくして、彼はかすれた声で口を開いた。「......誰からだと?」「優希ちゃんです!」清彦は焦燥した様子で言った。「優希ちゃんが、このアルバムをあなたにお渡しするようにと言っていました。優希ちゃんが生まれてから1歳のお誕生日までの写真です。綾さんが見つけてきたんです」誠也はゆっくりと手を伸ばし、アルバムを取ろうとしたが、今は力が入らなかった。清彦はすぐにアルバムを置き、彼を起こして、背中に2つの枕を挟んだ。枕に寄りかかった誠也は、点滴の針が刺さった手で、ゆっくりとアルバムを開いた。最初のページは、優希が生まれたばかりの写真だった。日付も記されている。未熟児の小さな体、赤くしわくちゃな肌、保育器の中で人工呼吸器をつけている姿は、見ているだけで胸が締め付けられるものだった。さらにページをめくると――優希の1ヶ月のお祝い。2ヶ月。百日祝い。生まれてから1歳のお誕生日まで、毎月ごとの成長の様子が、一枚一枚の写真に克明に記録されていた。誠也は、それらの写真を見ながら、徐々に目尻を赤くしていった。
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