All Chapters of 碓氷先生、奥様はもう戻らないと: Chapter 571 - Chapter 580

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第571話

佐藤家にはその手の専門家で知り合いがいます。墓地の選定は丈に任せました。雨は止んだ。一行は交番から出てきた。丈は車のドアを開け、綾を見て言った。「葬儀には出席しますか?」「子供たちの代わりに、私が出席します」丈は唇を噛み締め、頷くと車に乗り込み、出発した。清彦は悲しみに打ちひしがれ、大の180センチ以上の男が、黒いマイバッハの傍らで蹲り、子供のように泣いていた。輝は清彦を見て、ため息をついた。「山本さんは本当に碓氷さんに忠実なんだな」綾は清彦に近づき、バッグからティッシュを取り出して渡した。「拭いて。しっかりするのよ。彼は亡くなったけど、弁護士事務所はまだあるでしょ。彼はあなたを信頼していたんだから、彼の代わりに、しっかり守ってあげなきゃ」清彦は驚き、顔を上げて綾を見た。次の瞬間、清彦の嗚咽はさらに激しくなった。「綾さん、碓氷先生は亡くなってしまったんです......」綾は清彦を見つめていたが、表情は変わらなかった。街灯の下、彼女の影は長く伸びていた。光が彼女の顔に当たっていたため、清彦には彼女の目が見えなかった。清彦には理解できなかった。自分がこんなに悲しいのに、なぜ綾はこんなに落ち着いていられるのだろうか。彼女は本当に碓氷先生を愛していなかったのだろうか?愛していなかったとしても、長年知り合いで、子供たちの父親でもあるのに、亡くなった今、どうしてこんなに落ち着いていられるのだろうか?しかし、清彦は綾を責めてはいけないことを知っていた。碓氷先生が知ったら、きっと成仏できずに出てくるだろう。清彦はますます悲しくなり、頭を両手で抱えて泣きじゃくった。「碓氷先生はS国で治療を受ける予定でしたのに......どうして?どうして......」どうして碓氷先生がやっと生きる希望を持った時に、こんなことが起こるんだ?清彦には理解できず、運命の不公平さを恨んだ。音々は傍らに立ち、静かにタバコに火をつけた。細長い指で挟んでいたが、なかなか吸おうとはしなかった。最初から最後まで感情を表に出さない綾を見て、ついに我慢できなくなり、タバコを濡れた地面に投げつけた。火花が散り、タバコの火は消えた。音々は駆け寄り、綾の腕を掴んで、自分の方に向かせた。「悲しくないのですか?」音々は目
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第572話

......帰る途中、綾は梨野川に行きたいと言い出した。輝は梨野川沿いの道に車を停めた。彼は綾と一緒に横断歩道を渡り、梨野川沿いの歩道へと向かった。夏の終わりの夜。激しい雨が上がったばかりで、梨野川の水の流れは少し速く、穏やかとは言えなかった。雨上がりということもあり、川辺には人影はまばらだった。綾は川面を見つめ、長い間黙っていた。輝は静かに彼女の傍にいてあげた。梨野川の向こう岸には綾の新しい家があり、歩道を通ればすぐそこだった。湿気を帯びた夜風が、綾の長い髪を揺らした。綾は頬にかかる髪を手で払いのけた。交番で丈が言った言葉が、彼女の頭の中をぐるぐると回っていた――「碓氷さんには生前、葬儀はしないで、遺骨を梨野川に撒いてほしいと頼まれていました。しかし、こんなことになってしまって......」「でも、今は遺体も見つからない。彼の願いを叶えてあげられない」彼女は小さな声で呟いたので、輝にはよく聞こえなかった。「何か言ったか?」「なんでもない」綾は川面を見つめたまま言った。「もう遅いし、帰ろう」輝は彼女を見つめた。辺りが暗すぎたため、彼女の表情を読み取ることはできなかった。雲水舎に戻ると、星羅が来ていた。綾が家に入ると、星羅は子供たちとパズルで遊んでいた。彼女が戻るのを見ると、星羅はすぐに立ち上がり、心配そうに近寄ってきた。「大丈夫?」「大丈夫よ」綾は星羅に微笑みかけた。「どうしてここに?蒼空くんは?」「こんな大変なことがあったんだから、来ないわけにはいかないでしょ!今回はベビーシッターも一緒に連れてきた。丈もここ数日は忙しいだろうし、私は他に何もできないけど、あなたと子供たちのそばにいてあげることだけはできるから」「本当は佐藤先生と清彦が忙しいだけなのよ。私はそれほどすることがないから、わざわざ来てもらわなくても大丈夫だったのに」星羅は綾をよく知っていたからこそ、今の綾の様子が普通ではないことに気づいた。「上に来て」星羅は綾の手を引っ張り、2階へと連れて行った。綾は星羅に連れられて部屋に入った。部屋のドアが閉まった。星羅は綾を抱きしめた。「泣きたいなら泣けばいい。私がついている。思いっきり泣いて!」綾は何も言えなかった。彼女は数秒黙った後、そっと星羅
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第573話

誠也の墓地は、丈が高額な報酬を支払って専門家に選定してもらい建てたものだ。生前、誠也は葬儀をしないで、遺骨を梨野川に撒いてほしいと願っていたからだ。梨野川への遺骨を撒いてほしいという願いは叶わなくなったが、あとのことは丈が誠也の意思を尊重した。墓地から葬儀全体の費用は、綾が負担することになっていた。しかし、丈は綾に電話をかけ、友達として少しでも費用を負担したいと申し出た。綾は熟慮の末、丈に一部を負担してもらった。星羅が言ったように、誠也には二人の子供だけでなく、彼を慕う友人や部下もいた......これらは皆、彼がこの世に生きた証なのだ。綾は、周囲の人が誠也を弔いたい気持ちを勝手に拒否することはできなかった。葬儀の日は、霧雨が降っていた。葬儀は簡素に行われた。参列者は少なかった。丈、綾、輝、清彦、音々、彩、そして二つの児童養護施設の院長だけだった。彼らに連絡したのは清彦だった。誠也が生前に匿名で支援していた児童養護施設だ。彼は重い病気を患っていることを知った後、法律事務所とこの二つの養護施設を清彦に託したのだ。二つの養護施設の院長は、子供たちが作った白い花束を持ってきてくれた。いよいよ葬儀開始の時間になった。黒い喪服を着た綾は、息子の代わりに喪主としてひたすら落ち着いて佇んでいた。そのあと、納骨の時も彼女は子供たちの代わりに、誠也が生前愛用していたスーツを入れたさらしの袋を抱きしめ、ゆっくりと墓穴に近づいた。そして、僧侶の指示に従い、彼女はそれを墓穴に収めた......墓石を建てるとき、墓石には【碓氷誠也】の文字だけが刻まれていて、どこか寂しそうだった。今は養護施設の子供たちによって贈られた白い花が、沢山飾られていた。丈は言った。「碓氷さんは彼のお父さんに勘当されたとはいえ、かつては彼のおじいさんから最も寵愛された孫だった。碓氷という名は、彼のお父さんではなく、彼のおじいさんから受け継いだものだ」清彦は言った。「碓氷家の親族たちはどこからか情報を聞きつけましたのか、ここ数日、私に何度も電話をかけてきて、遠回しに碓氷先生を碓氷家の墓地に埋葬したいと言ってきました」「そんなことさせてたまるか!」丈は冷たく言い放った。「彼らは碓氷さんのお父さんと結託して碓氷さんを陥れた時、あれほどの剣幕
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第574話

音々は綾の耳元で言った。「もう行きますね。子供たちと仲良く暮らしてください。また来年のお彼岸に、誠也に会いに来ます」綾は頷いた。「ご縁があれば、また会えるでしょう」音々は綾から離れ、運転席に座る輝の方を向いて、明るく手を振った。「岡崎さん、さようなら!」輝は彼女を見て、少し迷った後、言った。「お元気で」音々は微笑んで、自分の車へと歩いて行った。綾は視線を戻し、車のドアを開けて乗り込んだ。雨はまだ降っている。今日でお別れだけど、これからはみんな、幸せに暮らせたらいいなと一行はそれぞれ願っていた。......夏が過ぎ、秋が来て、そして冬が訪れた。北城に、今年の初雪が降った。この雪とともに、正月も間もなくやってくる。ニュースの天気予報では、今年の北城の雪は4年前の雪に匹敵すると言っていた。正月を直前にして、北城の駅や空港は人でごった返していた。この街は、相変わらず賑やかだ。綾は朝早くから、自ら車を運転して空港に向かった。お迎えに行くためだ。初と輝は、それぞれ実家に帰って家族と過ごすことになっていた。輝は一昨日出発した。彼の祖父と両親は、彼もいい年なんだからと今年の正月を利用して、彼にお見合いをさせようと考えているらしい。もちろん、輝本人はそのことを知らない。出発前、輝は子供たちとたっぷり遊んで、星城市に一緒に帰るよう、お年玉で釣ろうとした。しかし、綾がここにいるので、子供たちは輝が好きでも、綾を置いて星城市へ行こうとしなかった。綾が空港へ行くのは、文子と史也を迎えに行くためだ。彼らはここ数年、毎年綾たちと一緒に年を越していたのだ。その前の週に、澄子と高橋、そして仁も北城に来ていた。仁と澄子は一緒になった。今回、澄子が北城に戻ってきたのは、綾と一緒に年を越すためと、仁と結婚するためだ。澄子の戸籍謄本は北城にあるので、結婚するには一度戻ってくる必要があった。綾は結婚について、特に反対はしていなかった。逆に母親が良き伴侶を見つけられたことを喜ばしいことだと思った。しかし、娘として母親の結婚相手を見極める責任もある。仁は穏やかで、澄子にとても優しく、献身的に接している。雲水舎に一週間滞在したが、雲たちも仁をとても高く評価していた。綾は個人的に高橋にも話を聞いた。高橋によると
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第575話

一方で、帰りの車の中、文子は綾を観察するように言った。「顔色が悪いわね。また疲れちゃってるんじゃないの?」綾は困ったように言った。「文子さん、寒いからよ」「やっぱり痩せたみたいね。あなたは仕事に熱中しすぎて、疲れていることに気づいていないのよ。輝から聞いたけど、先週、絵画教室を開いたそうじゃない。会社の経営、アトリエの仕事、そして今度は絵画教室。綾、あなたはお金に困っているわけでもないのに、なぜそんなに頑張るの?」「彼は話を大げさに言うのが好きなのよ」綾は文子の腕に抱きつき、優しく微笑んだ。「文子さん、今やっていることは全て、私が好きなことなの。毎日充実していて、理想の生活を送れている。これって、いいことじゃない?」文子は綾に言い負かされ、念を押すように言った。「仕事も大切だけど、休むことも忘れずにね。古雲町で4年間かけて、やっと健康になった体なんだから、また無理をして倒れないように」綾は笑顔で頷いた。「分かっている」そうはいうものの、それでも文子は心配した。一方で、優希は相変わらず活発だった。文子たちが家に入るとすぐに、彼女は飛びついてきた。「おじいさん、おばあさん!」「まあ、優希は大きくなったわね!」文子はしゃがみ込み、優希の頬に何度もキスをした。「おばあさんに会いたかった?」「うん!」優希のかわいらしい声は相変わらずだった。「おばあさんは?私に会いたかった?」「もちろんよ!」文子はすぐさまバッグからお年玉を取り出し、2つを優希に、残りの2つを安人に渡した。「これはお年玉よ。二人ともが健やかに育って、そしていつも幸せに過ごせますように」安人は言った。「おじいさん、おばあさん、ありがとう!」優希も言った。「おじいさん、おばあさん、ありがとう!」文子は安人を見つめた。初めて会った時、この子はとても恥ずかしがり屋で、小さくて痩せていて、見ているのが不憫になるくらいだった。あの時、まさかこの子が、綾が亡くしたと思っていた子供だとは、誰が想像できただろうか。しかし、いろんなことがあって、ようやく親子は再会できたのだ。今では母親のそばで、健康な男の子へと成長している。顔つきも、誠也にますます似てきた。誠也のことを思い出し、文子は思わず悲しみに暮れた。あんなに若くして亡くなってしまうなんて、子供にとっ
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第576話

雲水舎は家族全員がいつも一緒にいて賑やかだが、文子は綾のことが気がかりだった。実の母親ではないけれど、今は澄子よりも綾の今後を心配している。澄子は今や子供のような知能レベルしかなく、むしろ綾に依存している方なのだ。多分記憶がないからだろう、綾のことまで気に掛ける余裕はなさそうだ。夜も更け、皆が次々と部屋に戻って休んでいった。綾も二人の子供を寝かしつけた。すると、軽くノックの音がした。綾は立ち上がってドアを開けた。ドアの外にいた文子は、小さな声で「子供たちはもう寝たかしら?」と尋ねた。「たった今寝たところよ」綾は部屋から出てきて、文子の腕に抱きついた。「文子さん、眠れないの?」文子は綾を優しい眼差しで見つめ、「久しぶりに会ったから、少し話をしたくて」と言った。綾は穏やかな声で、「二人で何か飲む?」と提案した。文子はワインを飲む習慣があり、綾も会社を継いでから、宴会や接待に出席する機会が増え、お酒に強くなっていた。「ワインはどう?美容にもいいし、よく眠れるようになるわよ」「ええ、そうしよう」......1階のダイニングで、綾はワインを開けてデキャンタに注いだ。そして、お酒だけだと物足りない気がして、軽いおつまみも用意することにした。文子も傍で手伝ってあげた。おつまみの準備ができると、ワインもちょうど飲み頃になっていた。二人はダイニングテーブルに座り、ワイングラスを掲げて乾杯した。綾はグラスを傾け、半分ほど一気に飲み干した。今の綾がワインを飲む姿は、慣れたものだった。文子は、このところ綾が頻繁に飲んでいるに違いないと思った。やはり、以前とは変わってしまった。今の綾は、表面上は穏やかで落ち着いているが、以前よりずっと大人びて、冷めているのだ。結局人生を悟ってしまうと、本当の喜びを感じるのは難しくなるものだ。文子は綾の成長を喜んでいたが、まだ30代前半で、これからの人生が長いのに、仕事と二人の子供だけで生きていくのは、少し寂しいとも感じていた。「綾、子供たちも大きくなってきたことだし、そろそろパートナーを見つけた方がいいんじゃないかしら」それを聞いて、綾はワイングラスを置き、文子を見て仕方なさそうに笑った。「文子さん、やっぱりこの話だったのね」「あなたが一人で頑張っ
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第577話

「いいえ」綾は穏やかな声で言った。「私が恋愛するかどうかは、誠也とは関係ないから」文子は綾の顔を見て、嘘をついている兆候を探ろうとした。しかし、何もなかった。綾はとても落ち着いていた。文子はため息をついた。「でも、あなたがこんな様子だと、私も史也も心配なのよ。碓氷先生の死から立ち直れないんじゃないかって」「文子さん、たとえ誠也が今生きていたとしても、私は彼と復縁することはないから」綾はグラスの中の酒を見つめた。「彼が亡くなったことに少し心残りはあるけど、でも、それは愛情とは関係ない。ただ、彼はこんな風に逝くべきじゃなかった......と名残惜しいだけなの」「綾、心残りがあるのは当然よ。あなただけじゃない。私も碓氷先生のことを思い出すと、そして二人の子供を見ると、なんとも言えない気持ちになるの」「私も別に誠也のために節操を守っているというわけじゃないけど」綾はグラスの中のワインを見つめながら言った。「ただ、愛情とは関係なく、どちらかと言うと、やるせないという気持ちの方が多いかもしれない。誠也の人生は、もっと良い結末を迎えるべきだったと思っている。でも、その結末は子供たちだけに関わっていて、私には関係ない。そう考えると多分9年間の結婚生活もそれほど重要なものではない気がするの」「分かった」文子はワイングラスを置いて、綾のそばに行き、彼女を抱きしめた。「あなたが心残りなのは、彼が治療を受けようとしていた矢先に、あんなことが起こってしまったからでしょ。もしあの日、あなたがもっと冷たくして、遊園地に行く約束をしなければ、あんなことは起きなかったかもしれない......そう思っているのね」綾は文子の胸に顔をうずめ、ゆっくりと目を閉じた。彼女は何も言わず、ただ静かにしているだけだった。文子は優しく綾の頭を撫でた。「綾、人はそれぞれ運命があるから。あなたはもう十分よくできている方よ」綾は目を閉じ、目尻を濡らした。しばらくして、綾はまた口を開いた。「あの日、彼は私に、まだ恨んでいるかと尋ねたの。文子さん、私は彼に何も答えられなかったことが、とても心残りなの」彼女は、誠也をそんな心残りを抱えたまま、この世から去らせてしまったのだ。誠也が人生の最後に感じたのは、彼女の冷たさだけだった。彼女は誠也の人生の最後の一時まで
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第578話

綾も窓の外を見た。また雪が降ってきた。羽根のような雪が空から舞い落ちて積もっていたのだ。「雪が好きなの?」「お父さんと約束したんだ」安人の声は小さかった。「冬に雪が降ったら、一緒に雪だるまを作って、雪合戦をするって約束したんだ」綾はハッとした。「母さん」安人は綾の方を向いた。「お父さんはもう帰ってこないの?」綾は息子の真っ黒な瞳を見つめ、何と答えていいのか分からなかった。心臓がまるで大きな手に握りつぶされるようだった。安人は繊細な子だ。きっと、誠也がもういないことに気づいているのだろう。安人が言った。「お父さんが病気だってことは知ってる。海外でお金を稼ぐって言ってたけど、本当は治療に行ってたんだよね。だから、僕を母さんのところに預けたんだ」綾の鼻の奥がツンとした。「どうして知っているの?お父さんに聞いたの?」安人は首を横に振った。「お父さんは夜、よく咳をして起きてた。佐藤おじさんもよく来てた。いつも救急箱を持って。母さん、何も言われなくても分かる。お父さんは病気なんだ」綾は堪えきれず、息子を強く抱きしめた。「母さん、お父さんはもういないの?」綾は息子を抱きしめながら、慰めの言葉が出てこなかった。「母さん、大丈夫だよ」安人は顔を上げて綾を見つめた。真剣な表情で言った。「お父さんが教えてくれたんだ。僕は男なんだから、母さんと優希ちゃんを守らなきゃいけない。しっかり勉強して大きくなって、お父さんの代わりに、母さんと優希ちゃんの面倒を見るんだって」綾の呼吸が速くなった。胸が締め付けられるように痛んだ。息子はずっと前から知っていたのだ。まだ5歳にもなっていないのに、なぜこんなことを背負わなければならないのか。「安人、無理に強がらなくていいんだよ。お父さんがいなくても、お母さん一人で、あなたと優希をちゃんと育てていくから」綾は息子を抱きしめ、優しい声で言った。「お父さんは、少し早くこの世界を離れてしまっただけ。でも、きっと空の星になって、あなたと優希を見守ってくれているよ」安人は綾に抱かれ、静かに頷いた。しばらくして、また尋ねた。「母さん、お父さんのこと、恋しい?」綾は目を閉じた。答える代わりに、息子の背中を優しく撫でた。「子守唄を歌ってあげようか?」安人は母親に抱かれながら、窓
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第579話

綾がさらに振り返って見ようと、その姿は既にいなくなっていた。もしかしたら、見間違いだったのかもしれない。彼女は視線を戻し、インタビュー席へと向かった。綾と若美は一緒にインタビューを受けることになった。記者が質問した。「二宮社長、入江さんはまもなく留学されると聞きましたが、それを応援されているそうですね?」「はい」綾はカメラに向かって、落ち着き払った様子で微笑んだ。「女性が自分を高めるために努力するのは良いことです」「しかし、入江さんは先日女優賞を受賞されたばかりです。このタイミングで留学されて、惜しいとは思いませんか?」綾は微笑みを絶やさずに答えた。「彼女はまだ若いですし、前向きで努力家です。どの分野に進んでも、きっと素晴らしい成果を上げるでしょう」記者はさらに質問を続けた。「輝星エンターテイメントは入江さんに最高の環境を提供してきたはずです。人気が出始めたこの時期に留学となると、輝星エンターテイメントにとっては損失ではないでしょうか?」綾は質問をした男性記者の方を向いた。笑顔はそのままだったが、どこか鋭さが増していった。「輝星エンターテイメントには、才能あるすべてのタレントのために輝かしい未来を切り開いてあげる力があります。しかし、そのためには、コストとタレントの潜在能力が釣り合っていなければなりません」つまり、若美は既に輝星エンターテイメントに大きな利益をもたらしており、損失などではない、ということだ。しかし、男性記者は食い下がった。「では、入江さんが留学した後、彼女が持っているオファーを他の新人タレントに割り当てるお考えはありますか?」「輝星は彼女のためにポジションを常に確保しておきます。はっきり言っておきますが輝星には優秀なタレントが他にもたくさんいます。輝星にとって、すべてのタレントは唯一無二の存在です。ですから他の新人タレントについては、それぞれの才能と個性を活かせるように、最適なキャリアプランを作成しています。すべてのタレントを平等に扱うのが輝星の主旨ですので」それを聞いて、司会者は若美に視線を向けた。「入江さん、留学中に芸能界の世代交代が起こり、新人に入れ替わられてしまう心配はありませんか?」若美は愛らしい笑顔で答えた。「そうですね。人生、得るものがあれば失うものもあるのは当然のこと
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第580話

綾は、30歳になった自分がヒモ男のターゲットになっているとは、夢にも思っていなかった。少し息苦しくなった綾は、一人でバルコニーに出た。そこへ渡辺海斗(わたなべ かいと)は、クリームケーキを一切れ持って出てきた。彼は芸能界の新人というわけではなかった。デビューして3年、時代劇ドラマで何度か主演を務めたものの、パッとせず、3年間売れない状態が続いていた。そして今年、ついに会社から見放されつつあった。だからこそ、彼は今夜のパーティーに、あらゆる手段を使って潜り込み、綾の目に留まるように画策していたのだ。「二宮社長、抹茶クリームケーキです。お好きでしたよね?」澄んだ男の声が背後から聞こえ、綾は振り返った。綾は目の前に差し出された抹茶ケーキをチラッと見てから、海斗に視線を向けた。目の前の男は、芸能界でもかなりのイケメンで、長身だった。そして、あの情熱的な瞳は、まさに恋人役を演じるのにぴったりだった。だが綾はシャンパングラスを軽く揺らしながら言った。「すみません、甘いものは苦手です」「でも、この前のインタビューでお好きですが......」「適当に言っただけですよ」綾は海斗を見ながら言った。「あなたの考えていることは分かっています。でも、あいにく私はヒモを囲う趣味はないです。他の人に当たってみたらどうです?」海斗の顔色が変わった。綾は軽く会釈すると、パーティー会場に戻っていった。しかし、海斗をかわしたと思ったら、すぐに別の男が現れた。「二宮社長、やっと見つけました!」現れたのは、最近綾にしつこく言い寄っている、立響グループの社長、石川大輝(いしかわ だいき)だった。北城では、大輝は誰もが認める独身貴族だった。35歳、未婚、ハンサムで、長男であり、石川グループの後継者だ。輝星エンターテイメントには立響グループが出資している大型映画の企画があったため、仕事上の関係を考えると、綾は彼に冷たくあしらうわけにもいかなかった。大輝は外から入ってきた海斗を見て言った。「まさか、二宮社長はあんなヒモみたいなのが好みですか?」海斗よりも、大輝の方が綾にとって厄介だった。大輝の口説き方は派手で、しつこいところがあった。綾はこの数ヶ月彼と接する中で、大輝の性格を徐々に理解していった。こういうタイプの人間には、ま
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