All Chapters of 碓氷先生、奥様はもう戻らないと: Chapter 891 - Chapter 900

962 Chapters

第891話

......四十分後、療養所に到着した。裕也は車から降りるとき、見慣れた車を見かけた。彼は一瞬動きを止めた。もしかし大輝もここに来ているのか......真奈美は、彼の視線の先を追った。そして、彼女も大輝の車を見かけた。途端、彼女の顔色は変わった。「まずは上に行こう」裕也は車椅子を広げ、真奈美を座らせた。真奈美が座ると、裕也は毛布を彼女の膝にかけた。彼の細やかな配慮は、自然と身についているものだった。真奈美は医師は皆こうなのだと思い、深くは考えなかった。......聡の病室は20階、最高級の個室だった。裕也は事前に連絡をしていたので、エレベーターを降りると、聡の担当医が既に待機していた。挨拶を交わした後、担当医は彼らを病室へ案内した。だが、来る途中、大輝の姿はどこにも見当たらなかった。裕也は気にしながらも、表情には出さなかった。病室は暖色系のインテリアでまとめられ、高級ホテルのように快適な空間だった。設備も充実していた。担当医は40代ほどの男性主任だった。彼は真奈美に、聡のここ一ヶ月の検査データについて説明した。真奈美にとって、このような説明はもう聞き慣れたものだった。毎回のデータがほとんど変わらないことさえ、覚えていた。悪化はしていない。しかし、回復の兆しもない。最愛の兄は、このまま一生目を覚まさないかのようだ。真奈美は毎月聡に会いに来ていた。しかし、ここ二ヶ月は自分のことで精一杯で、来られずにいた......「兄と少し話をしたいの」真奈美はベッドの脇に座り、静かに言った。裕也は頷き、主任と一緒に病室を出て行った。病室のドアが閉まった。裕也は少し間を置いてから、主任に尋ねた。「今日、誰か来ませんでしたか?」主任は目を泳がせながら、大輝からの指示を思い出し、こう言った。「いいえ。新井さんの面会は、彼の妹さんの許可がない限り、認めてませんので」それを聞いて、裕也は頷いた。しかし、主任の動揺を見逃さなかった。彼はあえて追求せず、事を荒立てないようにした。病室で、真奈美は聡の手を握り、声を詰まらせながら言った。「お兄さん、ごめん。今日まで、自分がどれだけ間違っていたのか分からなかった。あの時、あなたはすごく怒ってたよね?ごめん。私はわがまま
Read more

第892話

そして、その男が結婚という枷で自分の最愛の妹を縛っていたことなど知る由もなかった。さらにその男がいずれ彼女を追い詰めることになるとは、思いもよらなかった。......真奈美と裕也が帰った後、主任はオフィスに戻り、スマホで電話をかけた。「石川さん、新井さんの妹さんと黒崎さんは、もう帰りました」電話口から、大輝の低い声が聞こえてきた。「何か聞かれたか?」「今日は他に新井さんのお見舞いの人が来るか聞かれました」主任はありのままに答えた。「あなたのことは言っていません」「ああ、俺が連絡したことは絶対に秘密にしてくれ」「もちろんです。ご安心ください」電話を切ると、大輝は眉間を押さえた。今回こそ、うまくいくといいのだが。大輝は、これが真奈美を取り戻す最大のチャンスだと確信していた。......土曜日、真奈美の退院の日。大輝は哲也を連れて、朝早く病院へ真奈美を迎えに行った。病室では、霞が真奈美の荷物をまとめていた。1週間も入院していたため、荷物は少なくなかった。ベージュのセットアップを着た真奈美は、すらりとした姿で窓際に立ち、電話をしていた。晴天の空の下、そこに立つ彼女の後ろ姿は、まるで絵画のように美しかった。大輝がドアを開けると、そんな光景が目に入った。しかし、前回の経験から、大輝は部屋に入らず、ドアのところで立ち止まった。真奈美は、彼と同じ空間にいたくなかったのだろうから。荷造りをしていた霞が何かに気づいて動きを止め、振り返ると、親子で来ているのを見たので、彼女は軽く会釈した。「石川社長」哲也は父親の手を離し、中に入ってきて、礼儀正しく挨拶をした。「上杉さん」「哲也くん、久しぶり。背、伸びたみたいだね」霞は笑顔で哲也の頭を撫でた。哲也の目元は大輝にそっくりだったが、口元と輪郭はどちらかと言えば真奈美に似ていた。霞は心の中で、美男美女の間に生まれた子供はやはり完璧な組み合わせだな、と改めて思った。哲也の顔は、きっと将来たくさんの女の子を虜にするだろう。ちょうど真奈美は電話を切り、振り返った。彼女は大輝を見かけたが、見て見ぬふりをして哲也の方を見て優しく微笑んだ。「哲也、こっちにおいで」哲也は真奈美の前に来ると、尋ねた。「お母さん、まだ具合悪い?」「大丈夫よ。も
Read more

第893話

真奈美は胸の痛みを抑え、優しい声で哲也に尋ねた。「哲也、どんな映画が見たい?」哲也は瞬きをした。母親が本当に映画に連れて行ってくれるんだと、改めて実感した。「あの、アニメが見たいんだけど、いいかな?」哲也は笑顔で尋ねた。「もちろんいいわよ」真奈美は哲也の手を取った。「さあ、ショッピングモールに行こう。今日は仕事が休みだから、一日中一緒にいられるね」「やったあ!」哲也は嬉しそうに頷き、目を輝かせた。霞は荷造りを済ませ、小さなスーツケースのファスナーを閉めた。「新井社長、準備できました」「うん、哲也をショッピングモールに連れて行くから、まずは私たちをそこまで送って。それから、このスーツケースを新井家まで届けてくれる?」「かしこまりました」真奈美は哲也の手を引いて外へ出た。大輝は反射的に脇へ移動し、二人に道を譲った。実は、彼は毎日真奈美を見舞いに来ていた。しかし、真奈美は彼に会いたがらなかったので、病室には入っていなかった。来るたびに、長い時間病院にいた。真奈美が眠りについた後、彼はこっそり病室に入り、彼女の様子を窺うこともあった。そして、彼女が目を覚ます前に病室を出ていくのだ。......真奈美は相変わらず大輝を無視した。ここは彼女が仕切る病院ではないから、彼が来ても止めることはできないのだ。幸い、大輝は病室に入ってこないから、彼女の視界に入ることもない。今日は哲也を連れてきている手前、子供の面前で大輝と揉めるわけにはいかない。それに、あれから何日も経っている。激しい感情もすっかり消え去っていた。今、真奈美が大輝を見る目には、怒りも失望もなく、ただ無関心な冷たさだけがあった。大輝はずっと真奈美から目を離さずにいた。彼は彼女に無視されていることが、どうにも我慢できなかった。だから彼は「真奈美、退院手続きを済ませてきたよ」と言った。名前を呼ばれた途端、真奈美は眉をひそめた。「大輝、もう離婚するんだから、これからはやっぱり苗字で呼んで」それを聞いて、大輝は唇を噛み締めた。「それから、ちゃんとお迎えがいるんだから、あなたに来てもらわなくて大丈夫よ」真奈美は冷淡な表情で彼を見据え、こう言った。「哲也は週末は私と一緒に過ごさせるね。月曜日に学校に送っていくから、あなたはもう帰って
Read more

第894話

「構わないであげて」真奈美は、大輝を一瞥もくれずに冷たく言い放った。霞は唇をぎゅっと結び、大輝の様子を窺った。ここ数日、真奈美から冷たくされている大輝は、もはや慣れたものだった。哲也の方を向き、尋ねた。「哲也、今日は俺も休みだ。俺も一緒に行っていいか?」哲也は眉をひそめた。「そんな面倒な質問、僕にするなよ。お母さんに聞けばいいじゃないか」そう言われ大輝は何も言えなかった。やはり実の子と言っても、実際に産んで育てたのとは違うから。ましてや、自分で産んで育てたとなると、なおさらだ。哲也はずっと母親と暮らしてきたから、母親への愛情の方が深いのは当然だ。だから、いざという時、哲也は母親の味方をするのだ。哲也は真奈美を見上げて、聞いた。「お母さん、お昼はファーストフードにしてもいい?」「いいわよ」真奈美は息子を見ながら言った。「でも、体に良くないから、たまにならいいけど、毎日食べちゃダメよ」「分かってるよ」哲也は嬉しそうに頷いた。そんな息子の様子を見て、真奈美は複雑な気持ちになった。哲也も両親と一緒に出かけたいと思っているに違いない。だけど、両親が喧嘩していることを知っているから、自分に気を遣ってくれているのだ。大人の都合で子供に我慢をさせていることが、真奈美は申し訳なかった。しかし、もう限界だった。この結婚生活は歪んでしまって、無理やり一緒にいても、子供のためにならない。ここで区切りをつけることが、三人にとって最善の道なのだ。......エレベーターは地下1階に到着した。一行はエレベーターから降りた。霞は車を取りに行った。真奈美と哲也はエレベーターホールで待っていた。大輝は二人のそばに立っていた。哲也は両親の間に立ち、大輝と真奈美を交互に見ていた。突然、大輝は哲也の肩を軽く叩いた。哲也は顔を上げた。二人の視線が合った。大輝は哲也に向かって眉をひそめた。哲也は眉をひそめ、無視することにした。そして、下を向いて知らんぷりをした。大輝は何も言えなかった。息子っていうのはこういうもんなのかと大輝は心の中で思った。その時、青いベントレーがやってきた。真奈美が動くよりも早く、大輝は後部座席のドアを開け、真奈美を見た。「さあ、こっちに乗ってくれ」
Read more

第895話

車のドアが閉まると、真奈美は霞に言った。「行こうか」「ええ」霞はギアを入れ、アクセルを踏むと、車は地下駐車場の出口へと走り出した。大輝の顔色は悪く、タバコを取り出して火をつけ、一人その場で吸っていた。......中心街にある最大のショッピングモール。真奈美は哲也を連れて、3階の服飾売り場に向かった。7、8歳といえば歯の生え替わる時期で、見た目もちょっと微妙な頃だが、哲也はそんなことに影響されることはなかった。彼はとても整った顔立ちをしていた。真奈美譲りの白い肌のおかげで、どんな服を着てもよく似合っていた。哲也がこんなに大きくなるまで、真奈美が一緒にショッピングモールで服を買うのは初めてだった。哲也には何も不自由していないことは分かっていたが、母親としての愛情が溢れ、あらゆる種類の服を買ってあげたくなった。それには哲也も困り果てていた。さすがに買いすぎだよ、と思っていた。そして、真奈美が3軒目の靴屋に入ろうとした時、哲也は慌てて言った。「お母さん、もう買わなくていいよ」真奈美は足を止め、彼を見下ろして言った。「このブランドは気に入らないの?」哲也はため息をついた。「そうじゃないよ。もうたくさん買ったでしょ。僕、今身長が伸びてる最中だから、こんなにたくさん買っても着れないし、もったいないよ」真奈美はきょとんとした顔になった。「お母さん、もし僕にお金を使いたいなら、そのお金を貯めて、僕の名前で困っている子供たちに寄付してよ」真奈美は驚いた。8歳の哲也がそんなことを考えるなんて、思ってもみなかった。哲也を見つめる真奈美は、自分がまだ気づかないうちに、息子がこんなに成長していたことに、ぼんやりとした戸惑いを感じた。その瞬間、彼女の心は複雑だった。息子の成長する多くの瞬間を自分が見過ごしてきたようだ。子供が母親の愛情を必要としていた時に、きちんとそれに応えられていなかった。今、埋め合わせをしたいと思っても、哲也にはもう必要ないのかもしれない。真奈美はその事実に気づき、強い後悔の念に襲われた。あの時の自分の決断が、自分自身を苦しめ、子供も辛い思いをさせてしまった。押し寄せる感情に、真奈美は哲也の手を握る力が強くなり、哲也が眉をひそめるほどだった。「お母さん、痛いよ!
Read more

第896話

哲也は不思議そうに顔を上げたが、思いがけず母親の潤んだ瞳と目が合った。哲也は慌ててドリンクをテーブルに置き、テーブルにあったナプキンで彼女の涙を拭った。「お母さん、どうしたの?なんで泣いてるの?」真奈美はナプキンを持った息子の手を握り、鼻をすすりながら言った。「哲也、お母さんは、お父さんと離婚したら、お母さんのこと嫌ったりする?」「恨まないよ」哲也はきっぱりと答えた。そして真剣な表情で続けた。「お母さん、僕もう8歳だよ。駄々をこねたりしないから心配しないで。お母さんがどんな決断をしても、僕は応援するよ」「あなたは?小さい頃から父親がいなくて、やっと最近再会できたのに、寂しいと思わない?」「離婚しても、あなたたちは僕のお父さんとお母さんだよ。それは分かってる。クラスにも両親が離婚してる友達、何人かいるし、別に気にしないよ。お母さん、もしあなたが楽し過ごせないと、僕も嫌だから」哲也は真剣な表情で彼女を見つめた。「お母さんには楽しく過ごしてほしいんだ」真奈美は、息子に心のケアが必要だと思っていた。まさか、逆に息子に慰められるとは、思ってもみなかった。彼女は哲也の頭を撫でた。「もし、このまま石川家にいてほしいって言ったら、どうする?」哲也はきょとんとした顔になった。そんなことは、考えてもみなかった。石川家の皆は優しくしてくれるし、親戚みんな大好きだけど、母親と離れて暮らすのは、やっぱり寂しい。そして、不安も感じていた。この前、母親が何も言わずに家を出て行った時のことを思い出した。哲也は不安そうに彼女を見つめた。「僕が石川家に残ったら、あなたはまたどこかに行っちゃうの?」真奈美は驚いた。そして、前回のことが、哲也にトラウマになっているのだと悟った。「どこにも行かないよ。私も北城にいるから。ただ、あなたの戸籍は石川家にある方が、おじいさんやおばあさん、そしてひいおじいさんとひいおばあさんにも面倒見てもらえるし、沢山のひとに愛されて暮らせる。もし私と暮らすことになったら、私が仕事が忙しくなると、またあなたのことをかまってあげられないかもしれないから、寂しい思いをさせてしまうじゃないかって思って」哲也は真剣に真奈美の話を聞いていた。「ほら、石川家にいれば、ひいおじいさんに書道や絵を習えるし、学校にも
Read more

第897話

真奈美は少し驚いた。「お父さんのこと、嫌いなの?」「そんなことないよ」哲也は唇を尖らせた。「ただ、万葉館の方が好きなんだ。人がたくさんいるし、楽しいから!」「そう。じゃあ、お母さんがみんなと話してみるわね」「うん!」哲也は母親の手を握った。「お母さん、安心して。僕はちゃんと勉強するから。大きくなったら、あなたの会社を手伝う。そしたら、あなたも楽になるでしょ!」真奈美は胸が締め付けられた。「ええ、お母さんは哲也が大きくなるのを待ってる。哲也が会社を手伝ってくれる日を楽しみにしてるね」哲也は真剣に頷いた。「お母さんをがっかりさせないよ!」親子腹を割って話し合えたことで、真奈美は少し気持ちが楽になった。彼女はスマホで午後3時からの映画のチケットを2枚予約した。そして、真奈美は哲也を連れてショッピングモールのゲームコーナーへ行った。ちょうどその時、動物をモチーフにした小さな列車がやってきた。真奈美は目を輝かせ、哲也の手を引いて走り出した。「哲也、これに乗ろう!」哲也は少し恥ずかしがり、整った顔に戸惑いの表情を浮かべた。「僕はもう大きいから、こんなの乗らないよ」真奈美は照れる息子の様子を見て、可愛く思えた。「まだ8歳でしょ。列車に乗っても大丈夫よ!」真奈美は哲也の手を引っ張った。「ね、乗ろうよ。こういうのって、保護者同伴じゃないと乗れないんだから。あなたが乗らないと、お母さんも乗れないのよ」哲也はハッとした。「お母さん、本当はあなたが乗りたいんじゃないの!」真奈美は乗りたいわけではなかった。ただ、息子に少しリラックスしてほしかっただけだ。8歳の子があんなに大人びているのも良くないと思ったのだ。彼女は少し図々しく頷いた。「そうよ、乗りたいの」哲也はため息をついた。「しょうがないな」親子は一番後ろの席を選んだ。実は、真奈美も恥ずかしかったのだ。小さなヘラジカの乗り物に座ると、急に落ち着かなくなった。そっとバッグからサングラスを取り出し、かけた。哲也は彼女の方を振り向き、尋ねた。「お母さん、なんでサングラスかけてるの?」真奈美はサングラスを押し上げ、咳払いをした。「ちょっと眩しい気がして」哲也は空を見上げた。今日は曇りだった。その瞬間、哲也は全てを理解した。母親は小さな列車に
Read more

第898話

そういえば、真奈美は中学生の頃、テリヤキバーガーが大好きだったな。大輝が覚えているのは、聡がジャンクフードを食べるのを禁止していたのに、何度もこっそり買ってきてくれと頼まれたからだ。あの頃の真奈美は本当に反抗的でわがままだった。聡の目を盗んでは、数十個は食べたと思う。大輝には理由が分からなかったが、以前は気に留めていなかった些細なことが、ここ数日なぜか思い出され、しかもどれも鮮明に蘇ってきた。一方で、真奈美はそれ以上何も言わず、スマホをいじり始めた。その時、綾からメールが届いた。誠也が自ら作成した離婚協議書だった。ちょうどいいところに来たと真奈美は思った。そして、彼女はすぐに離婚協議書を大輝に転送した。送信後、彼女は顔を上げて大輝を見た。「今、メール送ったから確認して」大輝は言葉を失った。真奈美の表情は落ち着いていた。大輝の胸に悪い予感がよぎった。「食ってる最中だ。見れないよ」彼は包装を開け、大きく口を開けてバーガーを頬張った。明らかにとぼけている様子だった。真奈美は遠回しな言い方は避けて、単刀直入に言った。「大輝、さっき哲也とも話し合ったの」大輝は顔を上げ、口の中の食べ物を一所懸命に飲み込んでから言った。「何だって?」「哲也と話し合って、離婚後も彼が石川家過ごすことになった。養育権はあなたに譲るから、彼が成人するまでは共同で育てよう。養育費は私が定期的に支払うから」それを聞いて大輝の顔色は曇り、隣の哲也に視線を向けた。哲也はハンバーガーを食べるのに夢中だった。彼は真奈美を見て言った。「子供の目の前でこんな話をするなんて、ひどすぎるんじゃないか?」「お母さんの言うことは正しいよ。何がひどいんだ?」哲也は顔を上げて大輝を見つめ、真面目な顔で言った。「お父さん、8歳の僕でもお母さんの言っていることが分かるのに、あなたが分からないなんておかしいよ」大輝は言った。「......君は何が分かるんだ?」「分かるよ!」哲也は彼を見つめた。「お母さんがどれだけ苦労しているか、あなたと一緒に暮らしてどれだけ辛いか、分かる。結婚してからお母さんが何回入院したと思ってるんだ?」大輝は返す言葉もなかった。真奈美は大輝の顔を見たくなくて、席を立ち、哲也に言った。「お母さんは、お手洗いに行ってくる」
Read more

第899話

哲也は頷き、尋ねた。「じゃあ、あの時、離婚を切り出したのは二宮おばさんの方だったのか?」「ああ、そうだ。それがどうかしたか?君の碓氷おじさんがいい人だとでも思っているのか?」大輝は冷ややかに鼻を鳴らした。「本当にいい人なら、君の二宮おばさんが離婚騒ぎを起こすはずがないだろう!」「じゃあきっと、碓氷おじさんは二宮おばさんを愛していたから、離婚に応じたんだよ。そう考えると、彼は二宮おばさんの気持ちを尊重したってことだね!」大輝は何も言えなかった。父子で話しているうちに、大輝はようやく異変に気付いた。大輝は哲也を睨みつけた。「おい、小僧、俺のこと試してるのか!」哲也は首を振った。「お父さん、僕はただ、あなたにお母さんの気持ちを尊重してほしいだけなんだ」哲也はハンバーガーを置き、父親を見つめた。父親は本当に手のかかる子供みたいだ、とため息をついた。「僕はまだ8歳だけど、あなたがお母さんにひどい態度をとっていたことは分かってる。あなたは、お母さんのことを知らない人たちみたいに、彼女の強い部分しか見てなくて、本当の気持ちに目を向けようとしない。もしお母さんのことをちゃんと理解しようとしてくれたら、彼女がどれだけ人に頼りたがっているか、どれだけ寂しがっているかが分かるはずだよ」大輝の顔色が変わった。「お母さんはいつも時計をしてる。時計で手首の傷を隠してるんだ。でも、僕はその傷を見たことがある......」哲也は手を挙げ、大きさを示した。「こんなに長い傷だった。一度見ただけでどうしても忘れられないんだ」大柄な大輝の体は硬直した。哲也は大輝にそっくりな目で彼を見つめ、眉をひそめた。「お父さん、お母さんは強がってるだけなんだ。夜、こっそり泣いているのを何度も見たよ。彼女は僕に気づかれていないと思っているみたいだけど、僕は知ってる。お母さんはいつも時間がなくて僕と遊べないって言ってるけど、夜中に目が覚めると、彼女が僕の隣で寝ているんだ。時々、お母さんの体からお酒の匂いがして、クラクラするくらいだった。お酒を飲むと、彼女は泣くんだ。時々、泣きながら寝てしまうことも......」哲也はうつむき、目に涙を浮かべた。「お母さんは僕に知られたくないから、僕が朝起きる頃にはもういないんだ。彼女のところに行くと、いつも冷たい態度をとる
Read more

第900話

真奈美は思わず哲也の方を見た。哲也は母親に見られていることに気づくと、くるりと背を向け、近くのクレーンゲームの方へ歩いて行った。この子は本当に、よく息が利くのだ。健気すぎて、胸が痛くなるくらいだ。真奈美は心の中で小さくため息をつき、視線を大輝へと移した。「私たちは結婚してからまだ2ヶ月しか経っていないけど、喧嘩もたくさんしたし、もう限界だと思うの。私たち、本当に合わないと思う」それが彼女の答えだった。しかし、大輝は諦めきれずに言った。「自分が悪かったことは分かっている。これからはちゃんと改めるから、もう一度だけチャンスをくれないか?」「もういいや」真奈美は首を横に振った。「今は、あなたと別れることしか考えていないの」「でも、俺は別れたくないんだ。真奈美、本当に後悔している。今までひどい態度をとってしまったことは分かっている。だから、もう一度だけチャンスをくれないか?」大輝は真奈美をじっと見つめ、低い声で言った。「本当に、今度こそ変わるから」真奈美は彼を見つめた。正直なところ、こんな風に低姿勢で謝ってくる大輝の姿は、以前の彼女には想像もできなかった。しかし、もう遅すぎる。あの夜のことがなければ、きっと心を揺さぶられていたに違いない。しかし、あの夜の傷はあまりにも深かった。彼女は唇を噛み締め、深く息を吸い込んでから、静かに言った。「大輝、愛憎に囚われるのはもう疲れたの。あなたが私にしたことも、もう蒸し返したくない。私たちはもう若くない。それぞれ仕事もあるわけだし、これから顔を合わせることだってあるでしょうから、これ以上こじれさせないようにしようよ。お互いのために、そして、哲也のためにも」大輝は真奈美を見つめた。最初の数日間のような激しい拒絶ではなく、今の彼女の落ち着いた様子に、大輝は引き留める言葉さえも見つけることができなかった。彼は目を伏せ、小さな声で言った。「分かった。離婚に同意する」真奈美は頷いた。「では、離婚協議書に問題がなければ、役所に手続きに行く日を決めよう」「明後日にしよう。明日は役所が休みだから」「わかった」真奈美はそう答えると、哲也の方へ歩いて行った。哲也は母親が来るのを見ると、駆け寄って行った。彼は母親の手を握り、大輝の方を振り返った。大輝はそこに
Read more
PREV
1
...
8889909192
...
97
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status