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All Chapters of 此華天女: Chapter 11 - Chapter 20

68 Chapters

第二章 天女、潜入 + 4 +

    * * *  桜桃は白いワンピース姿で、草原にひとり佇んでいた。緑の地面に縫い付けられるように、ところどころが白詰草の花で覆われている。  薄着だというのに、肌を刺すような冷気を感じることもない。桜が散った帝都ではない、まだ雪もとけていない北の大地にいるというのに。「そうだ、あたし、湾さんに……」 いつの間にか、眠っていたらしい。夢の世界だから、こうも無防備な姿で外にいられるのだろう。桜桃は夢なら何が起きても恐れることはないと頷き、そっと歩き出す。裸足のまま、ふっくらとした土に触れると、そこから一斉に萌芽し、蕾を膨らませ零れ落ちるように色とりどりの花が咲きはじめる。一面の緑はあっという間に塗り替えられ、咲き乱れた淡い色彩の花の絨毯ができあがる。  呆然とする桜桃の耳に、春を言祝ぐ歌声が響いてくる。湾が歌った時は、古い言葉だったから理解できなくて眠ってしまったけれど、夢だからか、彼らの言葉が自然と理解できる。  北の大地に天女が舞い降りて、時の花を咲かせに来たと。 「――咲くや此(こ)の華、今は春」  冬将軍は去っていく。春が来た。春が来た。時の花を伴って。此の世界に華を咲かせに。  なんとなく意味はわかるが、わからない単語もある。桜桃は咲き誇る花の絨毯にしゃがみ込んで、ぽつりと呟く。 「時の花、此の華……」 「ああ、こんなところにいたのだね」 思いだそうとしたところで、声をかけられて、桜桃は顔をあげる。「え?」 気づけば空には夜の帳。春が来て明るかった空はあっさり寝入ってしまい、桜桃の視界を暗闇で覆う。声をかけられても、それが誰だかわからない。「――時の花を咲かす、天神の娘よ」 間近に響いた囁き声にびくっと反応して、桜桃は立ち上がる。「あなたは、誰……?」 暗闇にぼんやり浮かびあがるのは、美しい容貌(かんばせ)。自分より高いところにある白い顔は、ぼやけている。黒か紺の服を着ているからか、全体もよくわからない。  けれど、桜桃
last updateLast Updated : 2025-05-23
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第二章 天女、潜入 + 5 +

    * * *  でこぼこ道を走る箱馬車のなかで、桜桃は昨晩見た夢を反芻させる。 「……カイム、か」  心のなかで口にしたはずなのに、隣に座っていた湾が、その固有名詞に反応していた。 「嬢ちゃん、思い出したのか?」 「思い出す?」 「嬢ちゃんの母君、セツさまはこの北海大陸が故郷なんだ。彼女は大陸の先住民、カイムの巫女姫だったんだよ」 そういえば、母が生きていた頃、そのようなことを口にしていた気がする。父と出逢うまでは北海大陸にいたと。  ただ、カイムの民がどうのこうのとか、巫女姫だったという話は初耳だ。  黙って耳を傾けている桜桃に、湾は滔々と告げる。「俺の死んだお袋も、カイムの人間だったんだ」 「湾さんのご母堂さまもたしか、北海大陸ご出身でしたもんね」 湾の母、ユヱは一昨年亡くなったが、桜桃も何度か顔を合わせている。  彼女は北海大陸という帝都の人間からは想像もつかない未知なる世界に古くから生活していた一族の末裔だった。帝都へでてきてからは篁八重(たかむらやえ)と名を改め、滅多に過去を語ることはしなかったが、桜桃の母、セツが同郷だと知ってよく世話を焼いてくれたものだ。  そのときには既にセツは病魔に蝕まれ余命いくばくもない状態だったけれど。「もっと早くセツさまと出逢えていれば助けられたかもしれないって嘆いていたっけ。帝都の空気が合わないから命を落とす結果になったんだと」 「……帝都の空気は淀んでいるっていつもおっしゃってましたから」 桜桃が十歳の時に亡くなった母、セツ。父の樹太朗が彼女のためにいくら敷地内に緑を植えて柑橘類の林をつくっても、気休めにしかならなかった。それでも母は喜んで別邸に暮らしていたっけ……  しんみりしてしまった桜桃に、湾がぽん、と肩を叩く。「たしかに帝都のごみごみした雰囲気と比べたら、ここは見渡す限りの大自然だ。空気だっておいしいだろ?」 桜桃が淡く笑って首肯するのを見て、湾がホッとしたように破顔する。
last updateLast Updated : 2025-05-23
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第二章 天女、潜入 + 6 +

  帝都では国の絶対的権力者である神皇とその血族を神と同等のものとして敬うのが常識である。現人神、という言葉も当たり前のように使われているし、桜桃もそういうものだと思っていた。「神の存在を唯一のものであると認識している西国と比べると、同じに見えるかもな」 「神さまがたくさんいる、って概念は一緒なんだね」 そうだと湾は応え、あらためて桜桃の方へ顔を向ける。「皇一族が神の血縁である、というのは事実で国民もそれを知っている。けれど、北海大陸には皇一族と血を通わせた神よりも最上の神……至高神と契りを結んだ一族がいたんだ」 なのに、湾は国を揺るがすような重大なことを淡々と伝えている。  神皇帝が縁を結んだ神よりも身分の高い神がいて、皇一族のような血縁関係が成立した一族……? 桜桃は目の前が真っ白になる錯覚に陥る。「……そんな」 「至高神と契約を交わした一族のことをカイムの民はカシケキクと呼んだ。古いにしえの言葉で天の神に愛されたもの、という意味だ。それが身に神を宿らせるという天神の娘、の由来」 桜桃をさんざん苛んできた天神の娘という言葉。それは天の神に愛されたもの。それは身に神を宿らせるもの。桜桃の母、セツはそんなカイムの民を統べる巫女姫だった。巫女姫ということはつまりその身に神を宿らせていたということだから……?  悶々と考え込む桜桃に、湾が簡潔に告げる。「セツさまは帝都では“雪(せつ)”と名乗っていたけれど。ほんとうは“契(セツ)”という名を持つ天神の娘だったってわけ。そして」 いつもは“嬢ちゃん”としか呼ばない湾が、真面目な表情で名を囁く。「空我桜桃。君もまた、その至高神の血統を継ぐ、天神の娘に違いはない」 「――だから、殺されそうになったの?」 湾の話に不審なところはない。むしろ、すんなり受け入れられてしまった。どうして自分が天神の娘と呼ばれているのか。どうして命を狙われたのか。「あたしが、この国の頂点にいる神皇帝よりも貴い血を持っているから、皇一族が内密に処分しようとしたの?」 国の最高権力者であ
last updateLast Updated : 2025-05-23
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第二章 天女、潜入 + 7 +

  こう見えても湾は、現神皇帝、名治の血を継いでいる。世が世なら彼が帝として国を担っていたかもしれない人物なのだ。  ただ、湾の母、ユヱが北海大陸の先住民だったことや名治自身が成人する前に孕ませた息子だったため皇一族は彼に皇位継承権を授けず、篁という苗字を与えて彼が二十歳になるまで養育し、当時、勢力を伸ばしつつあった古都律華の川津家へ釘を刺すように婿入りさせることで厄介払いをしたという複雑な経緯がある。本人は妻となった川津米子とそれなりにしあわせな日々を送ったそうだが、紛れもない政略結婚だ。  結婚五年で米子が病気で亡くなってからも皇一族との縁は切れていないようで、湾と正妃が生んだ異母弟たちともいまだ連絡を取り合っているという。「そうなんだ」 「それに、彼らは空我家に天神の娘がいることをとっくに知っている。いまになって殺すなんてことはありえない」 「湾さんも、あたしが天神の娘だって知ってたわけだよね? ゆずにいもそんなこと言ってたし……知らなかったのはあたしだけなの?」 「天神の娘、という存在が樹太朗のもとで大切にされているという話なら、皇一族では知れ渡っているよ。ここでの天神の娘は嬢ちゃんのことじゃなくてセツさまのことだけど」 「……伊妻の内乱ね。皇一族に反旗を翻した古都律華の伊妻家を、お父さまが北海大陸まで追い詰めて鎮静したっていう……そっか、そこでカイムの巫女姫であったお母さまと出逢ったのね」 思いだしながら、桜桃は湾の方へ顔を向ける。湾はそのとおりと頷き、言葉を繋げる。「樹太朗は内乱を治めた後、セツさまを帝都へ連れ帰って妻にした。彼女が天神の娘だということは秘せられたけど、彼は主である神皇帝だけには真実を告げたんだ。彼女はカイムの地で至高神の血を与えられてはいるが、ちからのないひとりの女性である、ゆえに恐れる必要もないと」 「それで納得したの?」 「表面上は。だけど裏では何かしていたかもしれない。樹太朗にはすでに川津家から迎えることになった実子さまがいたからね……彼女に情報を与えて疑心暗鬼にさせることなど簡単なことさ。主人が仕事から戻ってくる際に得体の知れない女を妻にするために連れ帰ってきてるんだ。現
last updateLast Updated : 2025-05-24
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第二章 天女、潜入 + 8 +

  そんな実子を母は仕方がないと諦めていたそぶりがある。夫を奪い合う立場にある愛妾と正妻が仲良くすることなどできっこないのだと。  本宅と別邸と住む場所は隔てられていたけれど、同じ敷地内にあるから完全に顔を合わせないことは不可能だった。それに、桜桃が生まれてからも、実子だけは別邸へ足を運ばなかった。彼女の息子の柚葉はこっそり遊びに来てくれたけど……「もしかしたら、実子さまがそれを他のひとに漏らしたってこと?」 自分の主人が囲っている愛人はこの国を揺るがす最強の神の血を持つ危険な女だったと。「その可能性が一番高い。セツさまが亡くなって樹太朗が海外へ出奔してからも、嬢ちゃんは隔絶されたままの生活だったろう? 嬢ちゃんが別邸で暮されたのは樹太朗が大切にしているからって正当な理由があったけど、妻からすれば愛妾の娘の特別扱いすら憎しみの対象にしかならないわけさ。幽閉だ」 実子の娘と息子はそんな母親を疑問に思いながらも桜桃の存在を受け入れていた。  梅子は異母妹の桜桃を身分の低い愛妾が生んだ苔桃などと呼んで貶しはしていたが、実子のような暗い憎しみや殺意は持っていなかった。柚葉もまた、桜桃が愛妾の娘ゆえに幽閉同然の生活を強いられているとばかり思っていたのだから、ふたりはこの襲撃とは無関係なのだろう。そうだと思いたい、と桜桃は心の中で祈りながら、確認をするように口をひらく。「じゃあ、実子さまが黒幕で、お父さまが行方知れずになのをいいことに、何者かと共謀したの……?」 「それはまだわからない、けど」 言葉を切って、湾は苦笑する。「殺されるのも捕まえられるのも利用されるのもイヤだろ?」 「うん」 神皇帝が持つ血よりも尊く、神を宿らせ不思議なちからを持つという天神の娘。桜桃にその巫女姫のちからがなくても、その血を求める愚かな人間がいる限り、彼女はその運命を受け入れ、戦わなければならない。「セツさまは、それを知っていたから樹太朗に、嬢ちゃんを敷地の外へ出してはいけないと言葉を遺して亡くなられたんだ」 ぜんぶ、いなくなった樹太朗の受け売りだけどね、と笑いながら湾は
last updateLast Updated : 2025-05-24
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第二章 天女、潜入 + 9 +

 「北の大地へ、カイムの待つ土地へ連れて行け、ってね」  篁家に仕える御者に湾が呼ばれて竜胆の印が記された馬車から降りて、桜桃の腕をとる。窓のなかった箱馬車にいたから、草地に足を乗せたときに仰ぎ見た世界の明るさに、桜桃は眼を瞠る。  真っ青な空に黄金色の太陽。雪の残る峻険な峰々。そして桜桃たちの降り立った場所からすこし先に鎮座している場違いな異国風建物。古代の王朝がそこで政まつりごとを行っていたかのような趣の、白亜の神殿。  桜桃は立ち尽くし、口をぱくぱくさせる。「古都律華の御三家のひとつである鬼造(きづくり)家が創設した女学校……冠理(かんむり)女学校だ」 「これが……学校?」 「そ。開校して間もないけれど、全寮制の女学校ってことで一部の華族の間では重宝されている」 「なんで?」 「正妻に疎まれたりしているわけありの娘を厄介払いするのに最適なんだと。その上花嫁修業もできて一石二鳥。えらい商売考えたものだよ」 「なるほど……」 たしかに、桜桃が隠れるにはもってこいの場所かもしれない。帝都から離れた遠い北の大地にある開校して間もない全寮制の女学校。「入学資格は十五歳から十八歳までの女子。身分についての制約はなし。つまり、莫大な学費と生活費を払うことができれば年頃の女の子なら誰でも入れるという仕組みさ。ま、生徒の大半がわけありの華族の娘だろうけどな」 その、わけありの華族の娘のひとりである桜桃もまた、この女学校に身を隠すべく偽名で入るというわけだ。空我の名は出さない方がいいと湾に言われたこともあり、桜桃は母、セツの部族、カシケキクが使っていた「ミカミ」を名乗ることになっている。神を身に宿らせる、身神がその由来だという。  前日、湾が渡してくれた書類に「三上桜(みかみさくら)」という見慣れない署名を書かされた。安直だが、桜桃、という名から桜の字を残すことにしたのだ。ゆすらとさくらなら違和感もないだろ? と湾が提案し、苔桃よりマシですと桜桃も笑って受け入れたのである。 ……なんてことを思い出している横で、湾は建物についての説明をしている。
last updateLast Updated : 2025-05-24
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第二章 天女、潜入 + 10 +

  開け放たれた黒光りのする門の先に拡がる円形庭園では深緑色の軍服を着た兵士たちが二列に並んで湾と桜桃を待っていた。湾は彼らを無視してずんずん前へ進み、蔓のような模様が刻まれた複雑な飾り門の前で声高らかに名乗りをあげる。「川津です。ただいま到着いたしました」 すると、ぎぎぎぎぎと大仰な音を立てて、門扉が開いていく。「これはこれは川津さま、お待ちしておりました。そちらの方が、入学を希望されるお嬢様でございますね」 中へ入ると吹き抜けの天井が桜桃たちを迎える。受付玄関と記された木の板が立て掛けられている出窓から老齢の紳士の顔がのぞく。桜桃は無言でぺこりと礼をし、湾の顔色をうかがう。「こちら、この学校の校長、鬼造先生。先生、こちらの娘は桜」 「三上桜です」 慣れない名を名乗り、桜桃は校長と呼ばれた鬼造に再び礼をする。ゆったりとした足取りで鬼造はふたりの前へ姿を現す。足が悪いのか黒檀のステッキを右手に持っている。  その横で、湾は淡々と話をつづけていく。「……詳細は書類の方でお伝えしたとおりです。ところで、部屋の方の準備は?」 「ええ、ただいま荷物を運び終えたところでございます。もうひとりのお嬢さまが先に部屋でお待ちですよ」 「え?」 桜桃が小声で驚きの声をあげる。いつの間にそんな手配をしたのだろう。湾の方を見ると、彼も虚をつかれた表情をしている。  ふたりの反応に気づくことなく鬼造は上機嫌で話をつづけている。「ご案内します。そちらの方も篁さまのご紹介とのことでしたから部屋替えをさせていただきました。歳も近いようですからきっとすぐに仲良くなれると思いますよ」 そう言って鬼造は歩き出す。最初のうちは引きずるように右足を進めていたが、気づくと健常な左足と同じようにすんなりと歩を進め、桜桃と湾から離れていた。 ……篁さまのご紹介? その言葉を聞いて無表情になってしまった湾を見て、桜桃にも緊張が走る。  篁という名を下賜されているのは湾と湾の母、ユヱだけだったはずだ。それにいまの湾は妻、米子の姓である川
last updateLast Updated : 2025-05-25
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第三章 天女、邂逅 + 1 +

  赤葡萄酒を硝子の器に注ぎ、照明の白いひかりに反射させる様子を眺めながら、冴利(さえり)は目の前にいる男へ冷たく応える。「至高神と縁を結んだ天神の一族など、滅ぼしてしまえばよいのじゃ。かの地を統一することに成功したのは古都律華の川津に鬼造、そして伊妻。御三家たる彼らがこの国を支えたからこそいまがあるというのに、成金あがりの帝都清華に勢いを殺がれいまでは家名だけ保つので精一杯な見栄っ張りと金の権化しか残ってないのは嘆かわしい限り。ましてや伊妻は妾が嫁した皇一族に牙を向け自滅しおった。これも帝都清華の五公家連中のせいじゃ! 名治さまが彼らばかり贔屓するからいかんのじゃ。妾というものがありながら……そうは思わぬか、種光(たねみつ)?」 「后妃さまのおっしゃるとおりでございます」 種光と呼ばれた男は素直に頭を下げ、いまの神皇帝の皇后妃である冴利の言葉を待つ。「北の僻地の天女伝説など捨て置けばよいのじゃ。だというのに名治さまは天神の娘を手元に置こうとされておる。空我当主の座が樹太朗の元にあるうちに殺したかったというのに……ああ憎らしい、篁の息子め」 くい、と赤葡萄酒を口に含み、喉を潤してから冴利は呟く。  鬼造の連絡はすでに冴利のもとに届いている。帝位を継承する前の名治が若い頃に子を産ませた北海大陸の先住民、篁八重の息子、湾が冠理女学校へ天神の娘と思しき少女を連れてきたという情報に嘘はないだろう。「種光もそうは思わぬかえ? あの男が将来、川津はもとよりぬしの財産をも喰らう悪鬼になるのは目に見えておる。皇一族の面汚したるあの男も、伝説に翻弄される前妻の息子もうさんくさい天神の娘ともども抹殺してしまえばよいのじゃ!」 そうすれば、名治さまも気が変わるはずだ。至高神などいなくても皇一族はいままでのようにやっていけるのだと痛感し、惑わされることのなかった自分たちを高く評価するに違いない。そうすれば、天女騒動に巻き込まれて命を落とした皇子のこともすぐに忘れ、冴利が生んだ青竹(きよたけ)たったひとりだけに愛情が注がれる。そして次期神皇帝の玉座を冴利が支配し、この国を更なる繁栄へと導くのだ。「そのために、疑わしき芽は摘んでいか
last updateLast Updated : 2025-05-25
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第三章 天女、邂逅 + 2 +

    * * * 「遅い」  桜桃と湾が鬼造に案内された上階の部屋に到達したとき、先客は不機嫌そうな表情でふたりを見下ろしていた。真新しい濃紺のボレロを着ている。  この女学校には制服ではなく標準服と呼ばれるものがあり、桜桃にも支給されることになっている。たぶん少女が着ているボレロがそうなのだろう。相変わらず寒そうな白いワンピースを着ている桜桃はあたたかそうだなぁと場違いな感想を抱きながらまっすぐに少女を見据える。そして黙り込む。  黒髪を真っ赤な組紐でひとつに高く結いあげた背の高い少女は、凛とした面持ちをしている。気品も兼ね備えた知的な容貌は異性だけでなく同性をも魅了させるであろう美しさを称えている。すべてを飲み込むことが可能な漆黒の瞳を猛禽のように煌めかせる少女に、桜桃は何も言えなくなる。  その横で、湾は予想以上の人物が自分たちを取り巻いていると知り、溜め息をつく。「……よりによって」 「いくら信頼する人間がいないからってお前ひとりで連れてくる莫迦があるか! 逃走中に何かあったらどうしたんだ、軍部に連絡しろと言っただろ」 「時間がなかったんだよ! それに帝都内で諜報されたらそれこそ嬢ちゃんの身柄をこちらへ連れていくことができねーだろ」 「時間がないと言っておきながら宿をとって一晩ゆっくりしたのはどこのどいつだ。言い訳無用。そのうえ港に呼んでおいた箱馬車を勝手に使うとはいい度胸じゃねーか。こっちは誰かさんのせいでひとり騾馬に乗って丸一日駆けどおしする羽目になったんだぞ」 富若内から潤蕊市内の陸軍駐屯地まで馬で走ってからこの冠理女学校へ潜入した旨を愚痴ると、湾が「あぁ」と今更のように頷く。「それで富若内に竜胆の箱馬車が置いてあったのか……」 桜桃は湾の呟きを耳にしてぎょっとする。あの箱馬車は自分たちのために準備されていたものではなかったのか……「まったく。誰も彼も命令なんぞききやしない。逃走するならそれなりの準備をしていけ。言ってくれれば帝国海軍の船に乗せてやることもできたんだぞ」 「そんなことしたら皇一族がこの件にかかわってるって
last updateLast Updated : 2025-05-25
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第三章 天女、邂逅 + 3 +

 「こっちだってな、迷惑被ってるんだよ。お前が死ぬまで外の世界に出ないことで均衡は保たれていたってのにどっかの阿呆が得体の知れない天女伝説にかまかけて殺そうとするから……いっそのこと殺してもらった方がよかったかもな、こんな幼稚な女が天神の娘だなんて……」 「い、いま幼稚って……初対面の人間にそういうこと言う?」 「事実を口にして何が悪い? 何も知らずに鳥籠の中で安穏と暮らしていた小鳥ちゃん?」 たしかに、事実だ。思わず口ごもる桜桃。「……で、でも、すきでそういう状況にいたわけじゃないわ!」 「でも、知ろうとは思わなかった。お前の周りの人間は知っていたのに。愛妾の娘だからなどという下卑た理由で本来の真意を隠されて、汚されていることにも気づかないで。お前が北海大陸に古代よりつづくカイムのなかの一部族、至高神との契約を交わしたカシケキクの末裔であることも、母がふたつ名を持つ天神の娘であり結婚する前まで夢の世界を行き来する巫女姫であったことも何も」 「そこまでにしておけ、小環」 ひたすら責めるような口調の少女に湾から制止の声がかかる。小環、と呼ばれた少女は自分がいま置かれている状況に気づき、顔色を変える。「……っ」 桜桃は泣いていた。言い返そうとして、何も言えなくて、泣いていた。殺されかかったときに泣くこともできなくて、逃げているあいだも泣いたりなんかしていなかったのに、こんなところで、こんな辛辣なことを口にするひとの前で、自分が泣くなんてと悔しがりながら、桜桃はぽろぽろ、ぽろぽろ涙を零す。声を押し殺して、必死に堪えながら、けれど顔をあげて相手を睨みつけることができなくて、重力に従って転がる水滴が床でちいさな池を作っていく。 何も知らない。知らなくてもよかった時期は終焉を迎えた。自分はこれからひとりで知らされなかった、知ろうとしなかった現実と向き合わねばならないのだとわかっていたはずなのに……「顔をあげろ」 やがて、小環が桜桃の肩をぽんぽんと叩く。だが、その命令口調に桜桃は素直に従えない。「……いやよ。あんたに命令される筋合いなんかないもの」 泣
last updateLast Updated : 2025-05-26
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