All Chapters of 年下王子の重すぎる溺愛: Chapter 21 - Chapter 30

54 Chapters

9-1 小さな獣

 お茶のおかげか、緊張が解れてきたとき、ノックの音が部屋に響いた。ゆっくりと三回鳴って、ヒメリア様が扉を開ける。 そこにいたのは殿下、ではなくネフィだった。カーテシーでヒメリア様と挨拶を交わし、入室してくる。その後ろには数人の侍従が続き、大きな鞄をいくつも抱えていた。「リージュ様、お待たせ致しました。すぐに必要な物は一通り揃えております。それから、カーナ様よりこちらをお預かりしました」 ――お母様から? ネフィが持つ箱を受け取り開けてみると、そこには一組の装飾品が収まっていた。ダイヤが散りばめられた首飾り。その中心にはぽっかりと穴が開いて、銀色の台座だけが鈍い光を放っていた。並んだ耳飾りも同様だ。 これ、見た事ある。 確か、お母様が嫁いできた時に、お祖母様から受け継いだ物のはず。母方のお祖母様は厳格な方で、身なりも質素に整えていた。舞踏会に参加する時も、派手にならないよう気を付けていたと。 それでも、お爺様に恥をかかせる失態は犯さなかったそうだ。質素なドレスでも、生地は流行りの物だったり、華美ではないけれど、上等な装飾品を選ぶ目は確かだったらしい。 そして今、私の手の中にある物。 結婚する時にお爺様が贈った、一揃え。 お祖母様が身に付けたのは、挙式の日だけ。その後は大事に保管して、娘である私の母、カーナに譲られた。お母様も、身に付けたのはただ一度きり。 首飾りの中心には、嫁ぎ先を象徴する宝石が嵌め込めるようになっていて、お祖母様の時はエメラルド。お母様の時はトパーズが輝いていたという。 じっと見つめる私に、ネフィが微笑む。「やっと渡せると、カーナ様は仰っていました。本当なら、二年前にはリージュ様の手元にあったはずなのにって」 その言葉に苦笑いを浮かべ、そっと箱を閉じた。「そうね……でも、殿下との挙式が実現したら、これは使われないかもしれないわ。婚約のお話し自体、破棄される可能性があるもの」 光沢のある布張りの箱を撫でながら、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。私の|我儘《わがまま》で無理を言う
last updateLast Updated : 2025-08-18
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9-2 小さな獣

 何度もため息を吐き、扉に目をやる私に、ヒメリア様は根気強く付き合ってくれて、ありがたいと思う。ネフィの不在も大きかったのだろう。全くの見知らぬ離宮で、たったひとり待つのは不安で仕方ない。メイド達も優しくしてくれた。ぽっと出の伯爵令嬢に仕えるなんて、王城のメイドには酷かもしれない。 そしてまた、ため息が零れる。    すると、それを待っていたかのように再度ノックが響いた。ネフィがさっと立ち上がり対応する。来訪を告げるのは侍従。その相手に、ネフィは最敬礼を持って招き入れた。「リージュ! 遅くなってごめん。ユシアンの邪魔が入って、仕事が長引いてしまって……本当は、夕食も一緒に食べたかったのに」 その来訪者は、部屋に入るなり駆け寄ってきて、私の膝の上に乗った。いきなり間近に迫った殿下のお顔は、輝かんばかりの笑顔だ。心の準備ができていなかった私は、思わず息を止め固まる。殿下はそんな私を面白そうに見つめ、ちゅっと口づけた。「……!! で、殿下!」 慌てふためく私を他所に、殿下は首に腕を回し、更に近付いてくる。「実はね、向かいの部屋からしばらく様子を見てたんだ。リージュったら、ため息吐いてばかりで……そんなに寂しかった?」 その言葉に、私は勢いよく首を振り、窓の外に注目した。よく見ると、確かに向かいにも窓がある。カーテンが閉め切られたその部屋から、見ていた? その事実に、私の顔は一気に熱くなる。「そ、そんな、あの、ずるいです……」 私は両手で顔を覆い、殿下の視線から逃げた。 しかし、それも無駄な抵抗。殿下は私の手に、自分の手を重ね、額を合わせる。しばらくの間、そのままでいるかと思えば、不意に髪へと手を差し入れられた。感じたことのない感覚に、声が漏れ出る。今までだって、ネフィに何度も髪を触られてきた。でも、それとは全然違う。ネフィと何が違うのかは、言い表せない。でも、殿下の手は、魔法でも使ったかのように甘い痺れを伴った。「で、殿下、や……ぁ」 ゆるゆると攻められ、降参しようと顔を上げると、今度は口を塞がれた。これもさっきとは違う、深い口づけ。隙を逃さ
last updateLast Updated : 2025-08-19
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10 鼓動

 私を見つめたまま、殿下が手を振るとメイド達が一礼して静かに部屋を出ていく。最後尾はネフィだ。私は縋るように視線で助けを求めるけれど、微笑みだけを残し、扉は無情にも閉じられた。 しんとなる室内には、私と殿下だけ。しかも密着していて、どこに視線を向ければいいのか分からない。忙しく目を泳がせる私に、殿下はくすりと笑う。「ふふ、リージュってばドキドキしてる。ちゃんと伝わってるよ。ほら、リージュも感じて?」 図星を突かれて動けずにいる私の手を、殿下がそっと取った。そのまま自分の左胸に誘導すると、服越しにドクドクと早い鼓動が伝わってくる。「僕が君に惹かれた理由だったね」 胸に当てられた手の甲を撫でながら、殿下はぽつりと呟いた。「僕はね、視えるんだ。人の過去が。これが母から継いだ、僕の力。知っての通り、僕の母は魔力を持っている。先視の力だ。それで国を導いている。父も祖母から受け継いだ力があって、感情が色で視えるって言ってた」 殿下の声は、決して大きくはない。それでも沁み込むような力がある。「だから君の過去を知ってる。どれだけ勉強したのか。男社会のこの国で、男に負けないよう、どれだけ頑張っていたか」 そうか、初めて会ったあの日。殿下は私の過去も知ったのか。「ただ、負けず嫌いなだけです。過大評価ですわ」 私が自嘲気味に笑うと、殿下の眼差しが鋭くなる。「何言ってるの。言ったよね、視えるって。今だって、先の事を絶えず考えてる。僕との婚約がなくなったら……絶対ありえないけど、もしそうなったらって」 睨みつけるようにして言葉を紡ぐ殿下は、本当に十三歳なのかと思うほどに大人びていた。私の本心も、正しく理解している。「フェリット伯爵邸にある蔵書は、ほとんど君が集めた物だよね。これは伯爵にも確認を取ってる。フェリット伯爵家は陞爵で大きくなった家系だ。領地の経営状態も把握してる。伯爵を継ぐのは従兄弟だ。それらを鑑みれば、君が使える金銭はそれほど多くないと予想がつく。そ
last updateLast Updated : 2025-08-20
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11 伝承

 間近で見上げてくる紫の瞳が、すっと細められる。まるで獲物を狙うように私の喉元に口付けて、そのまま耳元に唇を寄せ、うっそりと囁いた。「条件はね、運命の番と出会う事だよ。これは王族直系だけの秘密」 つがい……? 王族直系のみに伝わる秘密って、何それ。「つ、番だなんて、そんな……私達は野生の動物ではないのですよ? ︎︎それだけで私を王妃に据えるなど、愚かではないでしょうか」 私が反論しても、殿下は逆に喜んでいるようだった。頬を染め、なおも言う。「始祖王ギンディユーズは知ってるよね? ︎︎太古の時代、小さな部族が犇めきあっていたこの土地を統一した偉大なる王だ」 殿下は何を言いたいの? ギンディユーズの英雄譚は、この国の者なら知らない者はいない。子供達はもちろん、大人だって憧れる存在なのだから。意味も分からず頷く私に、殿下が問いかける。「じゃあ、その妃は?」 そんなの決まってる。「ユイリエ・ファティ・ルニマです」 私の答えに、殿下は満足そうに微笑んだ。「そう、建国の英雄なのに娶った妃はユイリエ、ただひとり。何故だと思う?」 問いを重ねる殿下に、私は訝しむ視線を送る。「何を、仰りたいのでしょうか……?」 殿下は気を悪くする素振りも見せず、答えてくれた。「ユイリエはね、精霊王の娘だったんだよ。これは伝承の類じゃないよ。紛れもない事実なんだ。そのユイリエを娶る時に、精霊王と交わした契約がある。それは精霊の血を血統に残す事、そして妃はユイリエただ一人とする事。その対価が力の解放だよ。千年前、精霊は既に希少な存在だった。だから精霊王は血を残したがったんだ。そして精霊の血を継ぐ者、つまり番との接触を、解放の条件に設定した。そのおかげなのかな。この国は長い歴史を生き延びてこれたんだよ」 確かに、魔法が衰退していったのは、魔力の供給源である精霊の減少が引
last updateLast Updated : 2025-08-21
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12 鬼の居ぬ間に

 窓の外は晴天。 心地よい風が、カーテンを揺らしている。 けれど、私の口から漏れるのは溜息ばかり。 昨夜、殿下からお聞きした始祖王の話は、今でも信じきれてはいない。それでも、殿下が寄せてくれる好意はとても嬉しくて、心を満たしてくれる。 あの後、何度も口付けを交わし、愛を囁いてくれたのに、それでも足りないと殿下は仰っていた。私なんかよりずっと大人びていて、どうすれば殿下を満たせるのか。貰うばかりで、申し訳ない気持ちが焦りを募らせる。 そしてまた、溜息が零れた。「どうなさいました? ︎︎リージュ様」 そう言って、お茶を出してくれたのはヒメリア様だ。少し気まずくて、頬が熱くなってしまう。「ありがとうございます」 白いティーカップを手に取ると、花の香りが漂う。ほうっと息を吐くと、ヒメリア様が笑った。「ふふ、殿下の事で胸がいっぱいみたいですわね。あれほど熱烈に求愛されて、羨ましい限りです」 少しだけ、揶揄う色を含んでいるけれど、悪意は感じない。こういう所は流石だ。感情を素直に出す事は、上流階級では忌避される。貴婦人のお茶会では必須の技術。私も見習わなければ。 背筋を伸ばして、緩んだ頬を引き締める。 あれ? でも、この時間はいつもネフィが担当じゃなかったかしら。そう思って部屋を見渡すけれど、どこにも姿が見えない。「ヒメリア様、ネフィはどうしたのでしょう? ︎︎他に仕事でも?」 問いかけた私に、ヒメリア様は茶器を片付けながら教えてくれた。「はい。リージュ様の馴染みの農家に行くと言っていました。そちらのチーズがお気に入りだそうですね。商人を通さず、直に仕入れていたとか。フェリット伯爵邸への配達から、こちらにも回すように手配するそうです。なにぶん王城への配達ですから、少々手続きに手間取ったみたいで……殿下のお口添えもあって、無事に許可が下りたそうですわ」 そうか、クベールさんの所に行ったのね。クベールさんは酪農農家で、城壁外に牧場を持っ
last updateLast Updated : 2025-08-22
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13-1 獅子身中の虫

 陽が暮れた薄暗い離宮は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。城壁外へ出かけていたネフィが戻ると、リージュの部屋にいたのはヒメリアだけ。しかも、床に倒れた状態で発見された。 ネフィはすぐさま番兵を呼び、ヒメリアを起こして状況を聞いているという。 そこへ向かい、走るのは王太子アイフェルト。その表情は、静かな怒りに満ちていた。 離宮に着くと、番兵が先導し状況説明を始める。そちらに耳を傾けながらも、足を止める事はない。 番兵が言うには、リージュが拐われたらしい。ヒメリアと二人きりの時に、賊が押し入ったと。ヒメリアの供述によれば、賊は二人。瞬く間に制圧され、声を上げる間もなく眠らされた。ネフィが戻るまでヒメリアの意識はなく、リージュが拐われた事に気付いたのはつい先程。すぐにアイフェルトに報告し、今に至る。 真っ直ぐにリージュの部屋へ走るアイフェルトは、報告を聞くにつれ、脳が沸騰しそうな程の怒りを覚えていた。離宮ならば安全だと思い込んでいた、他ならぬ自分が許せない。 リージュには、今まで辛い思いをさせてきた。本来なら、最初の婚約者と結婚して、幸せな家庭を築いていたはずなのに。自分のわがままでそれを奪っていたのだ。そのせいでリージュは劣等感を抱いていた。誰にも必要とされない、行き遅れの伯爵令嬢だと。 だからこそ、絶対に幸せにすると誓ったのに。 やっと辿り着いた扉を勢いよく開く。部屋にいた者の視線が集中する中、アイフェルトは一同の顔をひとりひとり確認していった。 そして、ある人物で止まる。「この女を捕らえろ」 そう言って指さしたのは、ヒメリアだった。 当の本人は驚愕に目を見開いている。「な、何故にございますか!? ︎︎私はリージュ様と共に眠らされたのですよ!? ︎︎賊は二人! ︎︎男です! ︎︎その窓から逃げました!」 喚くヒメリアをじっと見る紫の瞳には、情けは一切無い。ただ、静かに口を開く。「お前は眠らされたのに、何故男達が窓から逃げたと知っている?」 問われたヒ
last updateLast Updated : 2025-08-23
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13-2 獅子身中の虫

「いくら能無しのお前でも、王族が特殊な力を持っている事は知っているな? 僕の力は過去視。お前がやった事は、全て視えているんだよ。窓から侵入した賊にリージュが気を取られている隙に、背後から薬を嗅がせ眠らせた。使った薬は、メディアントの水薬……ご禁制の劇薬だな。これだけでも重罪だ。外に捨てたか。窓の下の植木を調べろ」 ヒメリアはひっと声を漏らすと、見る間に顔色が青くなっていく。目の前にいる幼い少年を、まるで化け物でも見るかのように後ずさった。だが、そこには既に番兵が立ち塞がっている。腕を捕まれたヒメリアは、最後の足掻きを見せた。「あんな……あんな格下の女に仕えるなんて、どれだけ惨めだったか貴方に分かりますか……? ︎︎家格で言えば私の方が王太子妃に相応しいのに! ︎︎宰相様は分かってくださいました! ︎︎あの女の代わりに、私を王太子妃にすると約束してくださいました!」 そんなヒメリアを、アイフェルトは冷めた目で見やる。「ああ、知っているよ。王太子もすげ代える気だったみたいだな。僕の代わりは宰相の甥、ピエっト。王家の血など一滴も流れていない男だ。そんな奴が王になれると、本気で思ったのか? ︎︎宰相は、初めから貴様を王太子妃にするつもりなど無い。宰相の狙いは玉座の簒奪。自分が王になるつもりだ。そして王太子にピエットを据え、王太子妃はユシアン。貴様はただの捨て駒だ」 確たる自信を持って言い放つアイフェルトに、ヒメリアは震える事しかできずにいる。そして、更に追い打ちをかけた。「お前は確かマティウス侯爵家の者だったな。通達せよ。次女であるヒメリアの謀反の責により当主、カディスを廃し、実弟マーシュを侯爵に叙す。反逆者ヒメリアは投獄、終身刑とする」 絶望を張り付かせた顔で泣くヒメリアに、アイフェルトはずいと近付く。そして、そっと囁いた。「陽の届かない牢獄で死んでいくがいい」 それはそれは、美しい笑顔で。
last updateLast Updated : 2025-08-24
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14 ︎︎反撃の狼煙

 遠くから響くヒメリアの悲鳴を聞きながら、アイフェルトは番兵達に指示を出していく。過去視ができるとはいっても、万能ではない。視る事ができるのは相対しているもののみ。離れている者や、場所の過去を視る事はできないのだ。 この事からも、アイフェルトの力は機密として扱われていた。情報規制を敷き、宰相に情報が漏れないよう慎重に行動している。もし知られてしまえば、宰相一派に直接会う事は難しくなるだろう。会うだけで、計画が筒抜けになるのだから。ヒメリアを投獄したのは、口封じの意味もあった。 実際のところ、宰相と相まみえる機会はそう多くない。次期国王と言っても、まだ王太子の身。しかも十三歳の幼い少年なのだ。積極的に政に関わっていたとしても、さすがに大きな仕事は任されない。本来であれば、今まで学んできた事を実践で覚え始める時期だ。他国の王太子ならば、陳情書などの書類を閲覧する許可が出る程度でしかない。 だがアイフェルトはその力ゆえに、父王の許可を得て議会にも既に参加している。父王もアイフェルトの力の重要性を認識しているのだ。 議会には宰相一派を筆頭に、様々な思想を持つ者達が集まる。中にはアイフェルトを廃し、妹を女王に据えて、子息をその王配にあてがおうとする輩もいた。それらは全て、アイフェルトによって父王に伝えられている。不穏分子を事前に知るには、おあつらえ向きの能力と言えるだろう。 王家の力は代々受け継がれてきた。そのどれもが執政に深く関わり、ザーカイトを豊かな国へと導いている。父王の力も、国交では大いに役立つ。相手の感情が分かるのだから主導権を握り安く、有利な交渉へと誘導できた。 母である王妃の力も、父王と相性がいい。先視は便利そうだが、可能性を垣間見る事しかできない。未来とは、選択を違えれば途端に変わるものだからだ。しかし、それも父王の力と合わされば、格段に精度の高いものへと変わる。 歴代をかんがみれば、おそらくリージュもアイフェルトと相性のいい魔力であるともくされていた。 それを踏まえて、リージュに関してはすべての権限を行使できるよう、アイフェルトに一任されている。当然、両親も番だ。どれほど大事な存在なのかを十分に知っている。そこに邪な企てが横や
last updateLast Updated : 2025-08-25
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15-1 覚醒

 うっすらと目を開けると、そこはがらんとした部屋だった。内装は上質だけれど、家具が何も無い。手入れはされているようで、床に敷かれた絨毯は鮮やかな色を保っている。私はその上に無造作に寝かされていた。布団も何もかけられていないから、少しだけ寒い。 この状態を鑑みれば、拐われてきたであろう事は容易に知れた。殿下の婚約を受け入れてから、こうなる事も覚悟の上だ。王太子である殿下は為人や政への姿勢から、まだお披露目前だというのに国民にとても人気がある。 でも、それ故に敵も多かった。玉座を狙う宰相は勿論、王女殿下を支持する一派や民主主義などの反王権派、神を民の中心に置こうとする神権派、更には自分こそが正当な王家の血筋だと主張する者もいる。 殿下の婚約者となれば、そういう人達の格好の餌食だ。警戒していたつもりなのに不甲斐ない。ネフィも、もう帰っている頃だろうし、殿下のお耳に入っているかも。心配、しているだろうな。 ともすれば、零れそうになる涙をぐっと堪える。 泣くな。泣いても何も好転しない。まだ頭はぼーっとするけれど、何かひとつでもいい。犯人に繋がる物が見つかれば、優位に立てるかもしれない。 よし、と気合を入れて体に力を入れる。手と足を縄で結ばれ、床に寝転がったまま、なんとか周囲を確認した。身を捩り頭を後ろに回すと、かろうじて見えた窓の外は薄暗い。私が拐われたのは昼間だったから、かなり時間が経っているだろう。 確か……お茶を飲んでいて、賊が侵入してきたのよね。そして背後から羽交い締めにされて、薬を嗅がされた。 ……背後。 それが意味するのはひとつの真実。後ろにいたのはヒメリア様だけだ。私は重い息を吐き出す。やっぱり、格下の私に奉仕するのは耐え難かったのだろう。家格で言えば、侯爵令嬢であるヒメリア様の方が殿下の婚約者には相応しい。 それなのに、子爵家上がりの伯爵令嬢がその座に収まっているのだから、気に食わないのも頷ける。その子爵家だって、騎士爵が順当だったのに、当時の国王陛下が強引に与えたものだもの。それだけご先祖の働きがよかったって事なのだけれど、今の状況では逆恨
last updateLast Updated : 2025-08-26
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15-2 覚醒

 そこに見えたのは、まるであたかもすぐ傍にいるような光景。けれどここではないと何故か分かる。言葉もはっきり聞こえてきて、その内容に背筋が粟立った。「いい? まずは髪を切ってやりなさい。貴婦人にとって、髪は命の次に大事なものだものね。泣き叫ぶのが目に浮かぶわ。それからドレスを切り裂いて、犯してやりなさい。なんでもいいわ、できるだけ屈辱的にね。顔も気に入らないの。口でも裂いてやったら、少しは可愛くなるかしら?」 きつい紫のドレスをまとった、ふくよかな赤髪の少女が顔を歪めて嗤っている。その足取りは軽く、楽しげで迷いはない。その姿は一度見たら忘れられない程に強烈なもの。間違いなくユシアン様だ。その後ろには複数のメイド。それぞれ手には短剣が握られていて、何をしようとしているのか、聞かずとも分かった。後ろに控えたメイド達に表情は無い。ただ無言でユシアン様に続いている。 これは、どこだろう。豪奢な壁紙の廊下は広く、華美な美術品が飾られている。雰囲気からここではない気がした。 すると、浮いたような感覚と共に光景が変わる。 扉の前に座り込む粗雑な男が一人。視点が動いて、廊下から階段を降り、門扉から前庭へ。そこまでに十人に満たない男達が点在している。やっぱり、ユシアン様がいるのはここじゃない。おそらく公爵邸だろう。 そして次に浮かんだ光景に、私は胸が高鳴った。馬に跨り、凛々しくも雄々しいその姿は、まさに白馬の王子様。高鳴る鼓動は、どんどん体を熱くしていった。自然と、頬を涙が伝う。 ああ、助けに来てくださる。 殿下は、もうすぐそこに。 目を閉じて、その姿を瞼の裏に焼きつける。それだけで、勇気をもらえた。 これは、たぶん殿下が言っていた私の魔力。だから分かる。先に到着するのはユシアン様だ。魔力で意識を空に飛ばすと、ここは公爵邸からそう離れていないのが見て取れた。  ならば。 私がやるべきは、ユシアン様の気を引き、時間を稼ぐ事。 できるだけ傷を負いたくはないけれど……そうも言っていられない。この程度、乗り切れなければ殿下の足手まといになってしま
last updateLast Updated : 2025-08-27
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