「顔を上げて、中松」 そんなふうに深々と頭を下げる姿を見ていると、胸が痛む。「確かに怖かったけれど、中松が来てくれたから大丈夫」 いつもの憎たらしい中松でいてほしい。こんなふうに本気で土下座されることなんて、私は望んでいない。たしかに土下座して欲しいと思ったこともあるけれど…今回のことは彼に非は無いし、違うもの。「本当に助けてくれてありがとう。だからもう、平気だから……」 そう言っているうちに、押し込めていた感情が溢れてしまい、涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。これが一矢の生きている世界なのだと思い知らされた。こんなにも醜くて黒くて、恐ろしい世界だったなんて。 私のような普通の人間が、軽々しく足を踏み入れることなんてできるはずがなかった。「伊織様、失礼いたします」 中松は静かに近づいてきて、ジャケット越しに私の震える肩を優しく撫でてくれた。彼もまた男ではあるけれど、さっき私を襲おうとした男たちとは全然違う。中松には狂気を感じないし、何より私自身が彼を信頼している。「中松って、本当に強いよね」 怖さを紛らわせようと、わざと明るい口調で話しかけた。「まるで鬼みたい。どうしてそんなに強いの?」「昔、いろいろございましたので」「言葉遣いもかなり乱暴だったし」「普段は決して見せませんから」「でも、見ちゃったし。それに録画だってしてあるから、もう証拠はバッチリだからね」 少しムキになって言ってみせると、いつもなら冷たくあしらう中松が、珍しく優しい表情を浮かべて語り出した。「一矢様は、私が元々反社会的勢力の一員だったことをご存知でいらっしゃる。身辺調査は済ませておられたから。元いた組織を追われて抗争に巻き込まれていたことも、一矢様からお聞きになっているはずです。だから今更それがバレたところで困ることはございません。知らなかったのは伊織様だけですよ」 反社会的勢力――その言葉が重く胸に響く。 ピシャーン、と頭の中で稲妻が落ちたような衝撃を受けた。 中松が鬼ヶ島出身の鬼ではなく、組事務所――いわゆる『シマ』の出身だったということを今、ようやく理解したのだ。 完全にシマ違いじゃない! だったらきっとその組事務所の名前は『鬼組』か、『鬼怒(きど)組』に違いない。絶対に『鬼』の文字は入るはず。だってそれくらい怖いのだもの。本当に鬼そのものなんだから。
Last Updated : 2025-07-08 Read more