「奥様、お待ちください。社長はただいま外出中でございます」 秘書の制止を振り切って、絢瀬若菜(あやせ わかな)は弁当箱を手にして、社長室まで足早に進んだ。 「大丈夫ですよ。お弁当を置いていくだけですから」 しかし、彼女がドアノブに手を掛けようとした瞬間、室内からはっきりと男のうめき声と、女の甘い喘ぎ声が聞こえてきた。 「あなた、すごい……もう、たまらない」 「我慢しなくていいよ。誰にもばれやしないから」 ――女のほうは白鳥千早(しらとり ちはや)の声だ。 差し伸べた手が止まり、震えるように引き戻された。 三年前のあの日。自分の両親が鬼塚ビルで命を落とさなければ、今の鬼塚夫人は白鳥のはずだった。 引き返そうとしたが、その瞬間に白鳥の声が再び耳に飛び込んだ。「三年前、あの夫婦に私たちの関係を知られてしまって、このビルで死なせたんじゃない?」 誇るような、得意げな声だ。 絢瀬の表情が凍りつき、心の傷が一瞬で引き裂かれて、血が滴る感じだった。 弁当箱を握る手に力をこめ、彼女は逃げるようにその場を立ち去った。 鬼塚隼人(おにつか はやと)との結婚を承諾したのも、三年間彼の前で犬のように従順に振る舞い、嘲りを受け続けてきたのも、全てこの日のためだった。 すべて、両親の死の真相を暴くためだった。 今、ついに分かった。 犯人は白鳥と鬼塚だ。 体の震えが止まらない。すでに予想がついたはずだったが、それでも信じたくなかった。 エレベーターから降りた時、その瞳は虚ろなままで、頭には憎しみで満たされていた。正面から歩いてくる鬼塚にさえ気づかなかった。 「奥様!どうなさったのですか?」 「絢瀬!」鬼塚の冷たい声が鼓膜を突き刺す。 顔を上げると、男の怒りと疑いの混じった視線にぶつかった。 彼女はぽかんとした。眉をひそめて鬼塚とその側の社員を見比べ、混乱したように呟いた。「あなた……どうして外から?今、社長室には……」 「何を言ってる?」鬼塚は怪訝そうだ。 絢瀬はハッと気づいた。つまり、さっき社長室で白鳥と情事に耽っていた男は鬼塚ではない? ならば、両親を殺したのも彼ではなかったのか? 胸の奥でふっと力が抜けた感覚があった。 次の瞬間、
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