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All Chapters of ラブパッション: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

「どう? うちの職場は」「みんないい人そうでよかった」笹谷君に問いかけられ、私が素直な感想を答えると、菊乃が嬉しそうに笑った。「でしょ? うちの第一グループは、海外営業部一、仲いいんだよ」「うん。それはなんとなく感じた」笹谷君は味噌汁を啜りながら、私に同意するように頷いている。「あ、でも。夏帆、ちょっとだけ気をつけてね」「え?」なにやら意味深に声を低める菊乃に、私はやや怯んで箸を止めた。「多分ね。長瀬さん、夏帆のこと気に入ってる」「……は?」まったく予想外の忠告で、キョトンとして瞬きを返しまう。「また……小倉はすぐそういう話」笹谷君が呆れた口調で言葉を挟むと、菊乃は「だって」と胸を張る。「あの人、わかりやすいもん。補佐するようになったら、気をつけた方がいいよ? その気がなければ」菊乃が、唐揚げをパクッと口にしながら、私に横目を流してくる。私は一瞬ドキッとして、でもすぐに何度も首を縦に振って応えた。「でも二週間は周防さんと一緒だし。むしろ、そっちの方が心配なんじゃない?」笹谷君が、大盛りご飯の茶碗を左手に持って、しれっと言った。それを聞いて、朝礼時の女性たちの様子を思い出す。「周防さん、って。人気あるんだね」名前を口するだけで、ドキドキする自分がいる。そんなつもりじゃないのに、二人に周防さんのことを探るような口調になってしまった。「そうだよ。なんせ『結婚したい男、No.1』だから」「は?」ニヤッと笑う菊乃に、私は反射的に聞き返した。「今年七年目の二十九歳。まだ若いのに、落ち着いてて大人っぽくて、部下の面倒見もよく優しい。仕事は完璧で、上司の覚えも目出度いエリート。その上イケメン。生涯の伴侶として申し分ないじゃない」指折り数え上げるうちに勢いづく菊乃に、笹谷君が「はは」と乾いた笑い声をあげた。「まあ、いちいちその通りだけどね」「ほら。男の笹谷もそう言うんだから。『結婚したい男No.1』って評価もわかるでしょ?」菊乃の妙な迫力に押されて、私は「うん」と同意したものの……。「なあに? 夏帆は、そう思えない?」「ま、まだよくわからないけど……」話を合わせようとして言い淀み、首を傾げる。「『恋人』じゃなくて、『結婚』? それって、彼女がいるから、とか……?」窺うように、声が尻すぼみになる。笹谷君が、ちらりと私に目線を上げた。「そこは、ほら。周防さん、結婚してるし」
last updateLast Updated : 2025-06-23
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第12話

「……えっ!?」当たり前のように告げられた言葉に、激しく反応してしまった。二人に目を丸くされて、慌てて俯く。「ご、ごめん。変な声あげて」とっさに言い繕ったけど、心臓が早鐘のように打ち始める。息苦しさすら感じて、私は無意識に胸元に手を当てた。「笹谷が言う通り。そこが、唯一ネックなんだよね」菊乃がボヤくように呟き、頬杖をつく。「けど、噂じゃ、あんまり上手くいってないみたいだよ?」なにか考えるように目線を上に向ける彼女を、私はゴクッと喉を鳴らして見つめてしまった。「奥さん、インテリアデザイナーで、家にいないことが多いんだとか。結婚して三年経つけど、子供もいないしね」自分で納得するように『うんうん』と頷く菊乃に、笹谷君が眉をひそめた。「子供って。それはいろいろ事情もあるんだろ? それを理由に、他人が興味本位で不仲だとか言っちゃいけない」「それはそうだけどさ」常識的に咎める笹谷君に、菊乃がひょいと肩を竦める。そんな二人のやり取りは、私の意識から遠のいていく。――周防さん、結婚してるんだ。なんだかドキドキして、妙に落ち着かない気分になる。午前中、隣の周防さんの左手薬指をチラッと確認して、そこに結婚指輪がないのはすでに知っていた。だからこそ、今の今まで彼が既婚者だと思わず、私は意識してしまっていた。あの時の彼が本当に周防さんかどうか、決定的な証拠はないけれど……。私にとっては、完全なる一夜の過ち。そして、既婚者の彼には、絶対許されない軽はずみな遊びだ。人に知られて困るのは、彼の方。今朝、確かに私に気付いた様子だったのに、その後はおくびにも出さず、『初対面』という態度を貫くのは、私が確認しようとするのを警戒しているからだろう。でも、周防さんの方がそうしてくれるなら、私にも好都合だ。だって、いくらなんでも、酔った勢いであんなことしてしまうなんて。自分でも信じられないし、信じたくないんだから。まさかの『再会』で、正直、彼の顔を見た瞬間は生きた心地もしなかったけど、ただの上司と部下の関係を築いていけばいい。それが正しいし、絶対的に安全。そう思うのに、どうして……。彼が結婚してるのを知って、どうして私はショックを受けているんだろう。
last updateLast Updated : 2025-06-23
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第13話

お昼休みを終え、午後からは会議室で周防さんからご指導を受けた。社会人三年目にして、初めての海外営業事務。貿易について、一から教えてもらう。総務事務では絶対目にすることのない専門用語や英語ばかりで、ちんぷんかんぷん。周防さんが、異国の言語を操ってるように思えてくる。全然頭に入ってこない。途中何度もこんがらがって、「うーん……」と唸ってしまった。それでも周防さんは呆れもせずに、懇切丁寧に説明を繰り返してくれる。私は、資料に落とした視線の先で動く彼の左手を、ぼんやりと見つめた。その薬指に、やっぱり結婚指輪はない。結婚して三年経つけど、子供はいない。本当かどうかわからないけど、不仲だという噂。指輪をしないのはそのせいかもしれないし、男性だし、つけない主義ということもある。そのおかげで、私は菊乃たちから聞くまで、彼が『既婚者』だと全然わからなかった。『結婚したい男No.1』と、女性からの評価も高い周防さん。こうして根気よく仕事を教えてくれる彼だけ見てると、私も激しく同意できる。でも、あの夜の人が本当に周防さんだったとしたら――。私だってあんな失態、忘れてしまいたい。なかったことにしたい。そうするためには、相手のことなんか知らずに過ごす方が、絶対安全。だけど『似すぎている』周防さんを、意識してしまう。奥様を裏切って危険な火遊びをする周防さんの、『裏の顔』。彼に憧れる多くの女性が見たことのないそれを、あの夜私が見てしまったというなら、彼があんなことをした理由を知りたい……。「椎葉さん? どうかした?」周防さんの怪訝そうな声に耳をくすぐられ、私はハッと我に返った。「ちょっと詰め込みすぎたかな。疲れた? 休憩しようか」優しく穏やかな笑顔は、やっぱり昨日のあの人の寝顔を彷彿とさせる。今、二人きりで誰の耳もないのに、相変わらず知らんぷりの彼に、焦らされた気分が強まる。「あ、あの」思わず呼びかけてしまったけれど、「ん?」と聞き返され、結局黙って首を横に振った。こんなに普通にされたら、聞けるわけがない。『一昨日の夜、私と会ってませんか?』なんて。喉の奥まで出かかった質問をグッとのみ込むことはできたけど、確かめたい気持ちはすくすくと育っていて、私は一人、変なジレンマに陥る。その後私は、目が合わないよう、ずっと俯き加減で説明を聞いた。周防さんが不審に思っているのは気配から感じられたけど、彼も最後
last updateLast Updated : 2025-06-23
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第14話

その夜、菊乃と笹谷君が仕切って、海外営業部の有志で歓迎会をしてくれた。急な招集にも関わらず、他のグループも含め、若手を中心に三十人近くが集まった。倉庫勤務の時の、全社員が集まる忘年会と同じくらいの人数。しかも周りはみんな同年代。男性も女性も、みんな普通にお洒落だし、これだけ揃うととても華やかだ。他のグループの人たちは、顔も名前もわからない。私は人見知りして緊張していたけれど、みんな気さくに話しかけてくれる。「椎葉さん、周防さんから教わってるんだって?」隣に来た第二グループの女性が、カクテルグラスを揺らしながら、覗き込んでくる。「は、はい」「いいなあ~。けど、あの誰にでも見せる優しさを勘違いして玉砕する子、多いんだよね」「秘書課のナナちゃんも振られたって噂」「え、うちの会社の美人No.1も?」「ビジュアル的には、周防さんと並んでも、美男美女でお似合いだけどね」周防さんの話題と聞きつけたのか、私の周りに女性が群がってきた。みんなの真ん中にいても、私に口を挟む隙はない。でも、頭上で交わされる会話を聞いていて、私の頭にはてなマークが飛び回った。「あ、あの……」なんとか会話に割り込むことに成功すると、みんなの視線が私に集まる。「周防さん結婚してるのに。彼の優しさを、なんで勘違いするんですか」私の疑問は至極普通だと思うのに、なぜだかみんながキョトンとしている。もしかして、私が田舎者だから、都会の常識と外れてるのかな。「え、っと。その……」疑問そのものを撤回しようと、焦って口を開いた時。「円満で、付け入る隙がないならともかく。みんな、周防さんご夫妻が、仮面夫婦同然だって知ってるから、かな」「え?」さらりと返され、昼に菊乃たちからもそう聞いたことを思い出す。「奥様も仕事持ってるしね。忙しくて、ほとんど家にいないって聞いたことあるよ」「周防さんって入社四年目で、学生時代からの彼女と結婚したんだけど。不仲説が出回ったの、わりとすぐの頃だったんだよね。それが、一年くらい前から、結婚指輪もしなくなって。今までずっと彼に憧れてた子たちにとって、奪うなら今が絶好のチャンスってこと」私の質問に、みんな矢継ぎ早に答えてくれる。奪う、だなんて、どう聞いたって穏やかじゃない言葉に、私は絶句した。「あれだけの『好物件』だもの。別れるの待って仕掛けるんじゃ、先越される可能性が高い」周防さんが奥様と別れるの
last updateLast Updated : 2025-06-23
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第15話 優しさの裏側

東京本社勤務二日目。 今日は幾分スムーズに、通勤電車に乗れた。 昨日は不安定で慣れないヒールが気になって、足元ばかり見ていたけれど、今はなんとか前を向いて歩いていられる。 本社ビルの最寄りの駅から地下道を抜けて地上に上がると、晴れやかな青空が広がる。 人と車が多いオフィス街の空気は、全然澄んでないけど、満員電車に揺られた後だから、新鮮に感じられる。 私は一度大きく深呼吸をしてから、腕時計で現在時刻を確認した。 ここから本社ビルまで、徒歩五分。 エレベーターの行列を加味しても、海外営業部のフロアに、三十分前には到着予定。 昨日は同僚の女子たちのパワーに圧倒されて怯みっ放しだったけど、東京での生活は始まってしまったのだ。 いつまでも及び腰でいてはいけない。 とにかく、いつ戻れるかわからないんだから、ここでやっていけるよう、私もしっかりしなければ。 一人決意を固めて、『よしっ』と顔を上げた時。 「……わっ!!」 おどけた声と同時に後ろから肩を叩かれて、心臓がドクンと震え上がった。 「きゃ、きゃああっ!?」 慌てて振り返ると、大きく目を丸くした長瀬さんが立っていた。 「うわ、びっくりした。ごめん、そんなに驚いた?」 「長瀬さんっ……?」 バクバクと騒ぐ胸を押さえ、私は改めて彼に向き直る。 「すみません、考えごとしてて。あの……おはようございます」 ペコッと頭を下げると、おはよう、とニッコリ挨拶を返された。 「二度寝して、いつもの電車に乗り遅れたんだけど、ラッキーだったな。オフィスまで一緒に行こう、夏帆ちゃん」 「はい。……って、え?」 促されて同じ方向に歩き出しながら、あまりにさらっと名前で呼ばれたことに、思わず反応してしまった。 長瀬さんは隣から「ん?」と見下ろしてきて、私の様子でなにを気にしたか勘付いたらしい。 「あ、名前で呼ばれるの、嫌?」 「い、いえ。そういうわけではないですけど」 倉庫では、みんなに『夏帆ちゃん』と呼ばれていた。 でも、昨日知り合ったばかりで、年も近い男の先輩から呼ばれるのは慣れてないし、ちょっと落ち着かない。 「二週間も経ったら、俺の補佐に就いてもらうんだし。一緒に仕事するなら、仲良く楽しく。モチベーション上がって、営業成績も鰻上り。一石二鳥だと思わない?」 「はあ……」 菊乃に忠
last updateLast Updated : 2025-06-23
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第16話

長瀬さんが話題を振ってくれて、それに相槌を打つ形で会話するうちに、本社ビルに着いた。それぞれセキュリティを通り、一緒にエレベーター待ちの列の最後尾に着く。足を止めると、すぐ頭上から「おはよう」と声が降ってきた。私と長瀬さんは、ほとんど同時に振り返った。すぐ後ろに並んだ人の姿を確認した途端、私の胸はドキッと跳ねてしまう。「あ、おはようございます。周防さん」長瀬さんは、すぐに挨拶を返した。私も続こうとしたものの、声が喉につかえてしまう。「お、はようございます……」「おはよう」結局ワンテンポ遅れてしまい、周防さんはわざわざもう一度繰り返してくれた。一日経っても、私はやっぱり、彼をまっすぐ見ることができない。あの夜の人が周防さんかどうか、そんなこと気にしても仕方がない。どっちにしても、周防さんもそこに触れないんだから、私もこのまま忘れようと思っていたのに、彼を目の前にしたら、私の胸は反応して騒ぎ出す。「……? 椎葉さん、どうかした?」私の反応が不審だったのか、周防さんの笑顔がやや曇った。だけど私は、目線を合わせるどころか、泳がせてしまう。「も~しかして……。周防さん、いつも優しいくせに、夏帆ちゃんにはスパルタで教えたんじゃないですか? それで、ビビられてるとか」長瀬さんがそう言ってからかうと、周防さんは眉尻を下げて苦笑した。「そんなことない……と思うんだけど。もし厳しかったら言って? ほんの少しなら、甘やかしてあげるから」どこまで本気だかわからない言葉。その上、ひょいと顔を覗き込まれて、私は反射的に強張ってしまった。頬が熱くなって、慌てて顔を背ける。「大丈夫です」と素っ気なく返すのが精一杯だった。そんな私に小さく首を傾げると、周防さんは眉をひそめて、長瀬さんに顔を向けた。「そう言えば、昨日有志の歓迎会だったとか。初日から疲れさせたんじゃないのか?」咎められた長瀬さんが、不服そうに唇を尖らせる。「あれ、若手オンリーで。五年目以上は『No, Thank you』。俺は誘われもしませんでしたよ」「なるほど。俺にも声かからなかったな」「周防さんが来たら、女どもが隣の席の争奪戦して、主役の夏帆ちゃんが霞むからじゃないですか?」「はは。なに、それ」長瀬さんの軽口に困ったように、周防さんが笑う。私は少しだけ顔を上げて、その横顔を盗み見た。昨日一日で、みんなからいろいろ聞いたせいか、昨日よ
last updateLast Updated : 2025-06-23
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第17話

始業時間を過ぎ、私は周防さんと二人で、昨日と同じ小会議室に入った。広い机の角で九十度に椅子を並べ、昨日に引き続き、周防さんから貿易実務を教わる。海外企業とのコレポン手順、銀行への提出書類に、為替動向の読み方……。早く知識を吸収しないと、と思うのに、資料を捲る周防さんの左手や、すぐ近くから聞こえる声に意識が向いてしまい、なかなか集中できない。「椎葉さん。もう疲れた?」上の空になったのを気付かれたのか、少し厳しい声が降ってくる。慌てて顔を上げると、周防さんが斜めの角度から私を覗き込んでいた。咎めるような瞳を見て、私はビクッとして背筋を伸ばす。「す、すみません」「今日は集中力が欠けてるな。昨日の飲み会で寝不足か?」「申し訳ありません。大丈夫です」気を引き締め直して、しっかりとペンを持ち直す。だけど周防さんは、溜め息をついて首を振った。「いい。ちょっと早いけど、十分休憩。再開後は集中して」私とは逆に、ペンをテーブルに置いてしまう。「……すみません」コロンと転がる彼のペンを見つめて、肩に力を込めて謝った。周防さんはテーブルに頬杖をついて、私をジッと見据えていたけど。「そうだな……罰ゲームでもしようか」「ば、罰ゲーム?」聞き返す私に、周防さんが悪戯っぽく目を細めた。「上の空になってるな、って俺が感じるごとに、一回」「え? な、なんですか」「個人情報を一つ暴露。できるだけ、他のヤツらには話せない、シークレットなヤツ」「ええっ……!?」なにを言わされるんだ、と本気でドキッとして、私は上擦った声をあげた。「言いたくなきゃ、集中すればいいんだよ」なのに、もっともなことを言われて、言葉に詰まる。周防さんはそんな私にクスクス笑いながら、立ち上がった。私の後ろを回って、会議室のドアに向かう。「椎葉さん、トイレ休憩、平気?」ドアを開けながら、私にそう確認してくる。「は、はい」「じゃ、ちょっとコーヒーでも飲もう」そう言って、彼は会議室を出た。それを見て、私も慌てて腰を浮かせて後を追う。
last updateLast Updated : 2025-06-23
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第18話

フロアの隅に、自動販売機がいくつか並んだ、ちょっとした談話スペースがある。周防さんはドリップ式コーヒーの自動販売機の前に立ち、スラックスのポケットに手を突っ込みながら、私に「なにがいい?」と訊ねてくれた。「え。あ、あの。私、自分で……」「コーヒーくらい、奢るよ。ほら、早く」ポケットから取り出した革のコインケースを開け、私の返事を待たずにコインを投入する。それを見て、ほとんど反射的に答えていた。「じゃ、じゃあ、カフェラテ……」「砂糖入りにしとくよ。頭に糖分補ってほしいから」地味な皮肉を感じて、私は黙って首を縮める。横に並んで恐縮しきる私をちらりと見遣り、周防さんは「くくっ」とくぐもった声で笑った。「そんな、ますます小さくならなくても」口元に手を当て、肩を揺すって笑いながら、抽出を終えたカフェラテの紙コップを私に差し出してくれる。「あ、ありがとうございます……」私が両手で押し頂くように受け取ると、彼は続けて自分の分のブラックコーヒーを購入した。紙コップを手に、窓際のソファに私を誘う。ドカッと腰を下ろし、長い足を組み上げる周防さんの隣……一人分の間隔を開けて、私もちょこんと座った。彼はそんな私を横目で見ながら、コーヒーを口に運び、ふうっと息を吐く。「ごめん。そりゃ、飲み会じゃなくても疲れるよな。実家を出て、初めての一人暮らし。環境もガラッと変わって、戸惑ってるだろ?」厳しく言いすぎたと、私を気にして周防さんが呟く。それには、焦って首を横に振った。「いえ、すみません。仕事なのに、環境の変化を理由にしちゃ、いけません」「いただきます」と言ってから、両手で持った紙コップに「ふーっ」と息を吹きかけた。彼は小首を傾げて、斜めの角度から私を見つめ……。「椎葉さんってさ。一人っ子だろ?」「え?」突然の話題の変化に、私は何度か瞬きをした。誤魔化す必要がないから、「はい」と頷く。すると、「やっぱり」と納得した様子の相槌が返された。「いい環境で、大らかに大事に育てられたんだろうな、って気がする」「あの、それって」「決して褒めてるだけじゃないよ。悪く言えば、世間知らずってこと」「……そう、ですよね」私自身、初めて生まれ育った街を出て、自覚していたこと。それでも、ズバリ指摘されてしまうと、ちょっとしゅんとしてしまう。「でも……」沈む私をフォローするように、周防さんがポツリと口を開いた。その先にな
last updateLast Updated : 2025-06-23
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第19話

周防さんは私から視線を外し、背後の窓に目を遣った。窓の外に広がる都会のビル群。私の視界で捉えるのと、彼の深く澄んだ黒い瞳に映るのとでは、同じ風景でも、きっとまったくの別物だろう。殺伐とした都会を知り尽くしている周防さんが、その瞳で捉える風景を、私も知りたい――。彼の端整な横顔をぼんやりと見つめるうちに、そんなことを考えた自分にハッとして、私は慌てて顔を背けた。私のバタバタした気配に気付いたのか、周防さんが「ん?」とこちらに視線を戻すのがわかる。少しでも目を合わせたら、今、心の中で思ったことをすべて見透かされそうな気がして、私は自分の膝元に顔を伏せた。「だ、ダメですよ」沈黙のままではいられず、口を開いた。「え?」「ほ、放っておけない、なんて。ただの部下に言っちゃいけません。そんな、気を持たせるようなこと」唇の端がひくっと痙攣するのを感じながら、なんとかおどけてみせた。「え、と……」周防さんの声からは、やや戸惑った様子が伝わってくる。自分でも、なにを言ってるんだろうと思ったけど、今さら話題を引き取るのも不自然だ。だから私は勢いよく顔を上げて、周防さんにややぎこちない笑顔を向けた。「昨夜、みんなから聞きましたよ! す、周防さん結婚してるのに優しいから、みんな勘違いするって」「っ……」「だから、ほんのちょっとでも、みんなの勘違いを招くようなこと、言っちゃダメです」周防さんが、丸くした目で私をジッと見つめている。彼の視界の真ん中に晒されているのを感じるだけで、私はソワソワと落ち着かない気分になり、言葉のテンポを速めてしまう。「……うん。気をつけます」周防さんが、わりと殊勝な様子で返事をした。その声色にドキッとして、私はようやく口を噤んだ。そんな私に、彼はフッと目を細める。「でも、一つ訂正。『みんな』じゃない。放っておけないっていうのは、君だけ」「っ……!」彼の言う訂正は、さっき以上に意味深に、私の耳に響いた。けれど、それ以上深読みしそうになるのを、私はなんとか堪える。深い意味なんかない。私は他の女子社員たちと比べても、世間知らずだから。上司が目の離せない部下にハラハラしている、『放っておけない』というのは、そういう意味に決まってる。「す、周防さんって」この胸のドキドキをどうにか抑えようとして、私は大きく息を吸いながら呟いた。「ん?」彼の方は、惚けた調子で聞き返してくるけど。「
last updateLast Updated : 2025-06-23
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第20話

お昼休みは菊乃たちとも時間が合わず、ランチは一人でとった。相変わらず混雑した社食。一人では身の置き場がなく、私は早々に退散してきた。デスクに戻る前にメイクを直そうと、オフィスを通り過ぎて化粧室に足を向けた時。「あ、夏帆ちゃん!」ちょうどオフィスから出てきた長瀬さんが、私を呼び止めた。「はい……?」肩越しに振り返ると、彼が弾むように駆けてくる。「周防さんから伝言。急な外出予定が入ったから、今までの復習しておいて、って。一時間くらいで戻るから、その後OJT始めよう……ってさ」「あ、はい。ありがとうございます」午後も、会議室で周防さんと二人きり。またドキドキさせられるのかな、とちょっと身構えていたから、思わずホッとしてしまった。伝えてくれた長瀬さんに笑顔を返すと、彼が「それから」と続ける。「夏帆ちゃん、さ。その……今週末、予定ある?」「え?」辺りを憚るように、こそっと訊ねられ、瞬きしながら聞き返した。「映画の配給会社に勤めてる友人がいて。招待券もらったんだ。よかったら一緒に行かない?」「映画……ですか」週末の、プライベートタイム。オフィスの先輩から、仕事とは関係のないお誘い。これって、デートってことなんじゃ……。反射的に怯んだものの、昨夜の飲み会で『地元に彼がいる』なんて大嘘ついたことを思い出し、ハッとする。よかった。それを理由に、長瀬さんのお誘いを不自然にならずに断れる。「あの、ごめんなさい。私……」「あ、知ってる。夏帆ちゃん、彼氏いるんだよね。昨日の歓迎会に行った連中から、聞いた」なのに、大したことじゃないようにさらっと遮られ、私は出鼻を挫かれて口ごもった。「え、っと……」「でも、地元の人でしょ。遠恋で頻繁には会えないよね? 一人で寂しく休日を過ごすくらいなら、一緒に出かけようよ。夏帆ちゃんが行きたいとこ、どこにでも連れて行ってあげるから」早口でグイグイと畳みかけられ、声を挟む隙もない。結局、あわあわと言い淀んでいるうちに、招待券を手に押しつけられてしまった。「一枚、渡しておく。週末までに返事くれればいいから」「えっ、ちょっ……」長瀬さんは呼び止める私にくるっと背を向け、オフィスに戻っていってしまった。私はその場に立ち尽くし、招待券を呆然と見下ろす。『彼がいるから』が、断る理由にならないなんて。オフィスの先輩と休日に映画に行くくらい、東京では『デート』とは言わないのか
last updateLast Updated : 2025-06-23
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