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All Chapters of ラブパッション: Chapter 31 - Chapter 40

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第31話

「まったく……言ってるそばから」周防さんは眉間に皺を刻み、黒い瞳を揺らした。唇の動きはほんのわずか。その低い声はとても不明瞭で。聞き返す間もなく、周防さんが私の顎を掴んだ。そのまま強引に上に向けられ、思わず息をのんだ瞬間。彼が、覆い被さるようにして、顔を近付けてきた。凍りついたように呼吸さえ止める私をジッと見据えたまま、シャープで形のいい顎を傾ける。――ぶつかる。鼻先が掠めたのを感じ、次に唇に来る感触を覚悟して、私はギュッと目を閉じた。予測した事態に備えようとして、胸はまるで早鐘のように打ち鳴る。けれど。「……?」予測して覚悟した温もりは、降ってこない。私は、恐る恐る目を開けた。すぐ目と鼻の先、ものすごい至近距離で、周防さんが私を見つめている。困ったような、怒っているような、それでいてどこか切なげな瞳。物憂げな色っぽい表情に、私の背筋がゾクッと震えた。「無抵抗のまま、俺にキスされていいのか? 言っとくが、もうちょっと酒入ってる時だったら、俺の理性も怪しいぞ」周防さんは咎めるように呟いて、私から腕を離した。呆然としている私の額をコツンと軽く叩き、くるっと背を向けてしまう。「大丈夫、なんて誤魔化さないで。もっと、警戒して。俺だって、いつも助けてやれるわけじゃない」そんな真摯に言われたら、心配をかけたくないのに、笑えなくなる。鼻の奥の方がツンとして、意思に反して涙が込み上げてしまう。「ご、ごめんなさい……」瞳にじわっと滲んだ涙が、そのまま頬を伝った。慌てて手の甲でゴシゴシ拭いながら、私は周防さんから顔を背けた。溢れる涙は正直なもので、周防さんの言葉で私の心が暴かれた証。笑って忘れたかったのに、酷い嫌悪感と共に、怖くて堪らなかったことまで思い出してしまう。「……まったく、君は」気付くと、伏せた視線の先で、周防さんの革靴の爪先がこちらを向いていた。口調は呆れていたけど、その声はとても穏やかで優しい。「怖かったくせに、大丈夫だって強がる。寂しくて心細いくせに、壊れそうに笑う。……だから、放っておけないって思うんだ、男は」溜め息交じりの言葉に、私はそっと顔を上げた。「……周防、さん?」なぜだろう。周防さんは、さっきのことだけを言ってるんじゃないと感じて、私の心臓が騒ぎ出す。心のどこかで変な緊張感を強めながら、私は彼を見上げた。周防さんは唇を引き結んで、そっと私の頬に手を伸ばす。
last updateLast Updated : 2025-06-24
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第32話

どうして――。そんな憂いに満ちた目で、私を見るの。どうして、こんな風に私に触れるの。オフィス街の広い大通りには、車の赤いテールランプが長く連なっている。あちこちで遠慮なく鳴らされる、けたたましいクラクション。歩道を行き交うサラリーマンやOLが、大騒ぎしながら通り過ぎていく。もう夜も更けていくのに、明るくて騒々しい、週末を迎える都会の夜。なのに私と周防さんは、まるで水を打ったような静寂に包まれていた。お互いの心を探り合い、近付かず、離れず、一定の距離を保ったまま。ただ、鼓動だけがジリジリと速度を上げていく。互いに潜めた息遣いが、重なる。バラバラな鼓動が共鳴して、シンクロする。そんな錯覚を覚えた時、周防さんの手が離れていった。「あ……」私の呟きで、静寂は破られた。こんなにドキドキさせておいて、あっさりと離れていく周防さんが、もどかしくて焦れる。「また来週。気をつけて帰って」彼は短い言葉を残して、私に背を向けて歩き出した。今度は、追いかけて呼び止める理由がない。私は、まだ騒がしい胸に、グッと握った拳を押しつけた。いつもいつも、周防さんには鼓動を狂わされてばかり。そう、きっと、最初の出逢いから、ずっと。彼と一緒にいて、冷静でいられたことなんか、一度だってなかった。いつも落ち着かなくて、彼の一挙一動に目を奪われ、そしてのまれていく……。きっと、この気持ちの正体に気付いちゃいけない。気付いてしまっても、認めてはいけない。わかってるのに、どうしよう。思考と感情、理性が、相反する方向に動き出す。身体の奥深いところで、自分でも制御不能な熱情が生まれる。私は。私は――。考えるよりも先に、身体が動いた。昼間は日本の経済を動かす、活気あるオフィス街の一等地。企業という大車輪の歯車となって働くサラリーマンやOLが、仕事からの解放感で、飲んで酔って騒ぐ、週末を迎える金曜日の夜。昼間とは毛色の違う喧騒に、周防さんの背中は紛れ、見え隠れする。追わない方がいいとわかってる。踏み込まない方がいいのも、ちゃんとわかってる。だけど止められない。制御不能な熱情が私を突き動かすから、今は本能のまま――。まだ慣れないヒールで、カツカツとアスファルトを打ち鳴らす。通りを埋め尽くす人々の群れの、隙間を擦り抜けて。私は、今見送ったばかりの広い背中を捜して、目を凝らす。お酒の酔いが、今頃回っているのかもしれない。気が
last updateLast Updated : 2025-06-24
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第33話

信号待ちの人混みの中に、捜し求めた背中を見つけた。「周防さん!!」声を張り上げると、周防さんが驚いたように振り返る。気持ちばかりが急いていた。まだ彼には届かないのに、目測だけで手を伸ばし――。「あっ……」突然目の前を横切ったOLの集団に気を取られ、足がもつれてしまう。一気にバランスを失った身体が、大きく前に傾いた。「危ない!」倒れ込むことを覚悟したのに、身体に衝撃は襲ってこない。その代わり、耳元に感じた安堵するような息遣いに、私はハッと顔を上げた。「無茶するな。こんな人混みで転んだりしたら、結構な大惨事になるぞ」私を片腕で抱き止めてくれた周防さんが、厳しい口調で諫める。その腕にしっかりしがみついて、私はゆっくり顔を上げた。私の熱情は、限界を知らずに昂っていく。衝動に突き動かされるがまま、私は周防さんに縋った。「お願い。教えて下さい」切羽詰まった私に、周防さんが訝し気に眉をひそめる。「どうして、私を抱いたんですか」周りの目を気にする余裕はない。心のままに放つと、周防さんは一瞬息をのんだ。信号が青に変わり、人の群れが動き出す。私たちを追い越して行く人々が、チラチラと好奇の視線を投げかける。「椎葉さん、君はなにを言って」周防さんは低い声で咎めるけれど、私の衝動は止められない。「誤魔化さないで。オフィスで出会う前に、私は周防さんと会ってる。そうでしょ? はぐらかさないで、答えてください」勢いに任せて畳みかける私から、周防さんはふっと目を逸らす。困ったような、穏やかな笑みは浮かばない。周防さんも今、いつもの余裕を失っている。そう確信して、私は彼の腕にかけた手にギュッと力を込めた。
last updateLast Updated : 2025-06-24
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第34話

「……椎葉さん、こっちに」言葉で宥めようとする気はないのか、周防さんは私の腕を引いて、人混みから離れていった。大通りから、ビルの谷間の路地に入る。周りに人気がなくなると、周防さんは私の腕を離した。少し先まで進んで立ち止まり、ビルの壁に凭れかかる。「驚いた。椎葉さんの行動は、俺の予想の斜め上をいく」周防さんは私に目を合わさず、溜め息をついた。素っ気ない声。俯く横顔から表情はわからないけど、きっと、あんなことを口走った私を怒ってる。「……すみません」今さらしゅんとして、私は頭を下げた。周防さんは、自分の靴の爪先辺りに視線を落とし、ひょいと肩を竦める。「でも……こんなこと、オフィスじゃ聞けないし。ずっと気になって仕方なくて」言い訳にしかならないけど、言わずにいられなかった。だけど、周防さんが黙り込んだままだから、私もその先を続けられない。伏せた目を、彼の靴の爪先に彷徨わせた。いっそ、詰ってほしい。その方が、私も激情に煽られて言い返せる。なのに。「……まったく」溜め息混じりの声が返ってきた。「君が思うより、東京は狭い。あの人混みの中に、社内の人間がいたりしたら、どんな言われ方すると思ってるんだ」「ごめんなさい……」「俺は男だから構わない。でも君は嫁入り前の女なんだ。少しは自分の心配をしろ」「……え?」彼の言葉の意味に気付いて、思わず顔を上げた。私を心配して、怒ってくれたの……?周防さんは足元に目線を落としていて、やっぱり私には目もくれない。だけど、私の胸はきゅんと疼いてときめいた。なにかがじんわりと込み上げてきて、泣きそうになってしまう。私は、グスッと洟を啜ってから、グッと顔を上げた。「ご心配には及びません。大丈夫です」『頼もしい』と思わせたくて胸を張ると、周防さんがちらりと横目を流してきた。「君の大丈夫は信用できない」「っ、そんな」「だってそうだろ。さっきも……初めて会った時も」「え?」小さく潜められた声に、反射的に聞き返した。周防さんはわずかに逡巡してから、顎を上げ、「ふうっ」と唇をすぼめて息を吐いた。「どうして、って聞いたね。君が強がって笑ったからだよ」一瞬、彼の言葉の意味を探った。私の心臓は、一拍分の間を置いてドクンと沸き立つ。あの夜、周防さんが私を抱いた理由。彼が初めて語ろうとしているのを察して、全身がドクドクと脈打つような緊張が走る。「東京になんか来たくなかった
last updateLast Updated : 2025-06-24
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第35話

自嘲気味な返事に、強く頭を殴られたような気分になる。目の前で周防さんが言ってるのに、私はまだ、優しい嘘だと信じたい。「で、でも。私は……」出会ってからずっと、周防さんのことばかり考えてる。なにをしていても誰といても、私の脳裏から、周防さんの姿は片時も消えず。ドキドキして身体が火照って。それは、私が、周防さんのことを――。「……じゃあ」カラカラに渇いた喉を震わせて、必死に声を絞った。周防さんの前まで歩いて行って、あの夜の私がしたように、彼の上着の袖をちょんと摘まむ。「今夜も、私が同じように止めたら、周防さんはまた私を抱いてくれますか」そんな返しを予想していなかったんだろう。周防さんは、え?と目を丸くした。困惑したように、私を見据える。「それとも、『部下』じゃ無理ですか」怖いくらい速い鼓動。全身が脈打って震える。そんな中、周防さんを見つめるだけで、私の体温は加速する。この熱は、もう私だけじゃ冷ませない。私はドクンドクンとうるさい心臓を意識して、ギュッと目を閉じた。「なにを言ってるか、わかってる?」周防さんの乾いた声が降ってくる。心を試されてるのを感じて、私はもう一度しっかりと彼を見つめた。「も、もちろん、わかってます」「寂しくてやりたいだけ?」「っ……違うったらっ」呆れ果てた様子の周防さんに、私はムキになって言い返した。彼は眉間の皺を深め、どこか憐れむような目を私に向けている。「だ、って。周防さんが奥様と不仲で、仮面夫婦って噂されてるのは、私も知ってます」さすがに本人を前に言いづらくて、私はつっと視線を横に逃がした。だけど周防さんは、特に表情を変えることなく、ただ無言でいる。私は一度ゴクッと唾を飲み、喉を潤してから、思い切って一歩踏み込んだ。「だったら、いいでしょ? 私、周防さんのことっ……」衝動に駆られ、膨れ上がった熱情が迸った。勢いに任せて、心の赴くままに口走った時。周防さんが、私の肩をグッと掴んだ。乱暴に、力任せに引き寄せ、私に覆い被さってキスをする。「んっ……!」なんの躊躇もなく私の唇に舌を捻じ込み、こじ開ける。「ふ、あ……」乱暴なほど深く熱く絡み合う、繋がるみたいなキス。オフィスの周防さんだけ見ていたら、彼がこんな獰猛なキスをするなんて考えられない。だけど私は知ってる。この人は、『周防優』という一人の男だ。
last updateLast Updated : 2025-06-25
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第36話

あまりに激しいキスに、息ができない。苦しくて周防さんの胸をドンドンと叩くと、唇が離れていった。「これで、満足しろ」息を乱し、肩を上下させる私に、彼はどこか皮肉めいた憂い顔を見せる。「君はなにもわかってない。そういうこと、感情だけで口走ると、自分にも相手にも迷惑になるよ」「っ……」『迷惑』という言葉が、私の胸に容赦なく突き刺さる。唇を噛んでうなだれる私の頭上で、周防さんが深い溜め息をついた。「なんと言われようが、俺には妻がいる。俺を欲しがるなら、誰を傷つけても、なにを失っても、すべてを奪い尽くす。……そういう覚悟もない君に、人のものの俺を、略奪なんてできないよ」自嘲めいた笑みを浮かべる周防さんに、絶句した。私は彼の口を突いた『略奪』という恐ろしい言葉に怯み、鼓動が不穏なリズムを刻み始める。人を好きになって、気持ちを伝える。心が通じ合って、恋人という関係になる。それが、至極普通の恋の始まりだと思っていた。でも、周防さんとの間では、当たり前じゃないことを思い知った。周防さんに恋をするのは、誰かのものを欲しがるということ。彼が言うように、私達だけの問題じゃない。奪うために誰かを傷つけ、私もなにかを失う。それでも気持ちを貫く覚悟――。「っ……」始めるのに、覚悟が必要な恋があるなんて知らなかった。そして言われるまでもなく、そんな恋を、私はできない。打ちのめされた気分で、黙って俯いた。周防さんは私を見下ろして、小さく息を吐く。「きついこと言ってすまなかった」私の頭の上で、大きな手がポンと弾む。「帰ろう。駅まで送る」低い声でそれだけ言って、周防さんは通りに向かって先に歩き出す。私はその後を、茫然自失状態でついて行くだけ。複雑に絡まり合う恋情の向かう先に、光を見つけられずにいた。深夜に近い時間になっても、通りを行き交う人が絶えることはない。私は終始俯いたまま、周防さんの一歩後ろを歩いた。時々、間を縫って横切る人に、歩を阻まれる。その度に、私がついて来ているか振り返って確認する、周防さんの視線を感じながら、私は自分の心の在処をぼんやり探していた。私の胸を昂らせるこの想いが、恋にはならないと釘を刺されてしまった。迸った熱情に冷や水を浴びせられ、一気に消火された炎が、篝火になってプスプスと燻っている。
last updateLast Updated : 2025-06-25
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第37話

思考回路が働かず、目に映るすべての物の輪郭がぼやけて感じた、その時。私の一歩前を歩いていた周防さんが、いきなり立ち止まった。足元ばかり見ていた私は、その背中に激突してしまう。「ぶっ……。す、周防さん?」反射的に手で鼻を押さえ、何事かと見上げると……。「あれ、優。最近よく会うな」周防さんの視線の先から、そんな声が聞こえた。この声、聞き覚えがある。私は声の主を確かめようとして、周防さんの背中からひょこっと顔を出した。そこに、ノーネクタイでスーツを着崩し、ルーズな雰囲気を醸し出す、男の人を見つけた。「瀬名さん……?」「あれ。また君。確か、夏帆ちゃん、だったっけ?」瀬名さんは私に気付いて何度か瞬きをしてから、ニヤニヤと周防さんを見遣る。私は「はい」と返事をしながら、瀬名さんの隣にいる女性を気にした。おそらく、瀬名さんと同年代くらいだろう。大人っぽくて超美人。チャラいけどイケメンの彼と並んでると、すごくお似合い。瀬名さんの恋人だろうか。どことなく大人のムードが匂い立つ二人に、周防さんは無言のまま、厳しい視線を向けている。「久しぶりね、優」彼女が、周防さんに微笑みかけた。前髪を掻き上げる仕草が妖艶で、思わずドキッとしてしまう。名前で呼ばれ、声をかけられたのに、周防さんはなにも言わない。瀬名さんが、呆れたような顔をした。「おいおい。いくらなんでも、旦那相手に『久しぶり』はないだろ。玲子」それを聞いて、私は弾かれたように顔を上げた。「え……」困惑して、周防さんと瀬名さんたちに交互に目を向ける。だけど周防さんは、表情一つ動かさない。彼女の方は、わずかに眉を曇らせた。「……帰ってたんだ?」ようやく周防さんが言葉を発した。彼の抑揚のない声に、彼女は何度か頷いて応える。「ついさっきね。すぐに明彦の会社で打ち合わせがあって、その帰りなの」周防さんにそう返した彼女の目が、私の上で留まる。ほんの少しだけど、その瞳に力がこもる。まるで射竦められたようで、私は身体を強張らせた。彼女の視線の向きに気付き、周防さんが私を振り返る。「夏帆ちゃんだよ。優の部下って言ってたっけ?」瀬名さんが腕組みをして、周防さんより先に、私を彼女に紹介してくれた。そして、どこか意地悪に目を細めて……。「で、こっちは玲子。優の嫁さん」
last updateLast Updated : 2025-06-25
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第38話

途端に、私の心臓がドクンと大きく跳ね、弾かれたように周防さんを見上げた。彼は私には目を向けず、不機嫌そうに唇を結ぶ。彼女……玲子さんは、周防さんを視界の端で捉えたまま、私に小首を傾げてみせる。「よろしく。周防の妻です」「あ……」喉がカラカラに渇いていて、とっさに声が出なかった。ゴクンと唾を飲んでから、玲子さんにまっすぐ視線を返す。「椎葉夏帆です。初めまして」やっとの思いで、なんとか挨拶を返す。そして、さっきからどうにも不穏な周防さんを気にして、そっと上目遣いに窺った。「……あの」恐る恐る呼びかけると、彼がようやく私に視線を落としてくれる。「ここまででいいです。送ってくれて、ありがとうございました」どうにも居心地悪いこの場から逃げ出したい一心で、頭を下げた。目を伏せたまま、周防さんの横を過ぎようとする。なのに。「待って」周防さんが、私の手首を掴んだ。振り返ると、彼が静かに口を開く。「もう遅いから。ちゃんと送らせて」「で、でも」私は周防さんに取られた手を気にして、玲子さんの反応を窺ってしまう。彼女は唇を結んで、周防さんを見守っている。「じゃ、俺が送るよ。優、選手交代だ」瀬名さんが弾むように一歩前に出て、私の肩に腕を回した。そのまま抱き寄せられてギョッとして、私は勢いよく瀬名さんを振り仰いでしまう。「瀬名」周防さんがわずかに気色ばんで、一歩踏み出してきた。そんな彼に、瀬名さんはひょいと肩を竦める。「それが一般的に『普通』だろ。俺は玲子を送る途中で、その旦那の優は別の子を送っていこうとしてる。帰る場所が同じお前に玲子を任せて、俺が夏帆ちゃんを引き受けるのが当然だと思うんだけど」瀬名さんの提案は、確かに誰から見ても至極当然。なのになぜか、玲子さんが眉間に皺を刻んだ。「……明彦」不愉快そうに、瀬名さんを咎める目で見つめる。「玲子、ちゃんと旦那と一緒に帰れよ。……じゃ、おいで。夏帆ちゃん」肩に回った腕に力がこもる。「あ、あの」戸惑って彼を見上げると、周防さんが腕を伸ばして瀬名さんを制した。「待て、瀬名」「……優。俺は、ヒジョ~に常識的な提案をしてるつもりだけど?」溜め息混じりに、でもどこか揶揄するような口調の瀬名さんに、周防さんも声に詰まる。「あの……」今、一番常識的なことを言っているのは、瀬名さんだ。それを認めざるを得ないから、私は言葉を挟んだ。「私、瀬名さんと帰ります。だから
last updateLast Updated : 2025-06-25
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第39話

「優たちが、気になる?」私の二歩前を歩き、鼻歌を歌っていた瀬名さんが、声をかけてきた。思わず、顔を上げる。彼はずっとまっすぐ前を向いていたのに、全部お見通しみたいだった。その言葉を機に足を止め、ようやく振り返ってみたけど、もちろんそこに周防さんたちの姿はない。「あの二人のことなら、気にすることないよ。いつもあんな感じだから」それを聞いて、私は瀬名さんに視線を戻す。彼も私につられたように、立ち止まっていた。「周防さん……。オフィスでは、奥様と不仲だって噂なんです」そんなことを瀬名さんの前で口にしてしまったのは、彼が二人の状況にとても詳しいと思ったからだ。周防さんの口からは聞けないけど、私が知りたくて堪らないことを、きっと、彼なら教えてくれる。知りたいと思っちゃいけない。私は、周防さんに言われた覚悟ができないんだから。確かに育ち始めている彼への想いを、これ以上大きくしてはいけない。だから、二人のことも聞かない方がいいとわかってるのに。「優も否定しないと思うよ。不仲なんて可愛いもんじゃない。紙切れ一枚の問題だから」思った通り、瀬名さんはかなりきわどいことを、さらっと暴露する。ツッコんで聞きたい衝動に駆られるのに、深く踏み出すことにも躊躇する。言い出したくせに口ごもる私に、瀬名さんは薄い笑みを浮かべた。そして、まるで観察するように、わざわざ背を屈めて覗き込んでくる。「夏帆ちゃんさ。あの夜、優が送っていった子だよね?」「あの夜……」彼の言葉を無意識に繰り返して、すぐにハッと声をのむ。私は一気に警戒心を強め、一歩後ずさった。それには瀬名さんが、「はは」と乾いた声を漏らして苦笑する。「そんな警戒しなくても。多分俺、夏帆ちゃんの味方になれるよ。……君が優のこと好きならば、ね」「え……?」軽いウインクが、やけに様になる。正直苦手なタイプだけど、瀬名さんがなにを言おうとしているのか気になって、私はジッと視線を返してしまう。私の心の葛藤を見透かしたのか、彼は吹き出して笑った。そして、再び前に歩き出す。「夏帆ちゃんって、いちいち反応が素直で可愛いなあ。……ね、夏帆ちゃん。あの夜、優とシた?」瀬名さんが肩越しに振り返って、悪戯っぽくニヤッと笑う。「は?」その後に続きながら、短く聞き返すと。「セックス」「……っ! な、なんてこと聞くんですかっ」暗い夜道でも隠せないほど、私の顔は真っ赤になってい
last updateLast Updated : 2025-06-25
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第40話

そんなことされたら、今以上に周防さんの迷惑になる。「あの、瀬名さん、違うんです! 私は周防さんのこと、好き……なんですけど」焦って、口走った。「周防さんが結婚してることはもちろん知ってるし。今以上に好きにならないように、ブレーキかけなきゃいけないのに、そういうこと……」「ブレーキ、かあ」捲し立てる私に、瀬名さんはなぜか優しい瞳を向ける。「優ってね。信じられないくらいストイックなんだよ」「え?」どこかしみじみと言われて、私は思わず聞き返した。「玲子との間に愛情はなく、長いことセックスレスのはず。なのに、他の女に手を出してる様子もなかった」「~~瀬名さんっ」聞いてはいけないことを、聞かされている。他人の夫婦事情を赤裸々に言ってのける瀬名さんを、咎めるつもりで睨みつけた。なのに。「アイツのことだから、余計なこと言って、夏帆ちゃんを怖じ気づかせたんじゃないの?」瀬名さんは楽しげに、足元のアスファルトを蹴り飛ばす。「余計なことじゃない。当然のことだと思います」「優、なんて言ったの?」「……覚悟もないのに、欲しがるな、って」なぜだか素直に白状すると、瀬名さんは「う~ん」と唸った。「まあ、確かに。まだ戸籍上、二人は夫婦だし。夏帆ちゃんとどうこうってなったら、世間的には不倫になるなあ。……だけどね」どこまでも軽い調子で言って、瀬名さんがゆっくり私に視線を戻した。そして、それまでとは一転して、真剣な目をする。「それでも君が踏み込んでくれたら。優はきっと、解放される」「え……?」解放……なにから?踏み込んだら、って。私になにをしろと言ってるんだろう。私は瀬名さんから目を逸らせないまま、ドキドキとうるさい自分の胸に手を当てた。「優が好きなら。アイツから理性を奪い尽くして、溺れさせろ」とんでもない言葉を浴びせられて怯み、私は息をのんだ。「なんで私に、そんなこと言うんですか」玲子さんを気にせず周防さんにぶつかれ、と焚きつけているようにしか聞こえない。私は、その意味を考えて怖気づく。「周防さんのことが好きでも、恋をするのは重みが違うんです。私は、覚悟が必要な恋なんて、知らない」そう、私には無理。今までの数少ない恋とは比較にならないほど、重い恋に踏み込むなんて。私は、そんなに強くない。「夏帆ちゃんが、その覚悟をしてくれたらって思ってたけど。ごめん。踏み込めないって方が、普通の常識だよな」瀬名さん
last updateLast Updated : 2025-06-25
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