Home / 恋愛 / ラブパッション / Chapter 51 - Chapter 60

All Chapters of ラブパッション: Chapter 51 - Chapter 60

94 Chapters

第51話 歪な関係

一週間も後半に差しかかった木曜日。 銀行の担当者と電話でやり取りを終えて一息つくと、私はパソコンに向かった。 社内の別部署から届いていたメールの返信をしようとして、そわそわと落ち着かない、どこか浮足立ったオフィスの空気が気になり、そっと辺りを窺う。 今日は、朝からオフィスが慌ただしい。 菊乃が教えてくれたけど、成功すれば社の業績を左右するほどの、大口取引の商談が行われるそうだ。 部長と担当者の優さんだけじゃなく、普段はこのフロアで姿を見ることもない、営業部門の執行取締役常務が役員応接室に入ってから、もう二時間が経過している。 商談は難航しているのか、それとも細部まで詰めて白熱しているのか。 少し前に内線電話が入って、前年度のマーケティング資料と業績推移表を持ってくるよう、依頼があった。 課長に指示された先輩が、お茶を淹れ直しに行ったりして、フロアに残っている人たちも、どこか忙しない。 自分の仕事を進めながらも、みんなが役員応接室の商談の動向を気にしてる。 「この商談、無事成約ってことになると、海外営業部の業績に、年間で三十億上積みが見込めるんだって」 隣の席で頬杖をついていた長瀬さんが、私に目を向けないまま、そう言った。 「え……。三十億」 海外営業部だけで、年間三十億。 凄いのはわかるけど、凄すぎていまいちピンとこない。 「二年前から、周防さんが新規取引仕掛けてた先なんだ。まだ日本で取り扱いがないメーカーだけど、海外じゃ評判いいから」 長瀬さんは無意味にカチカチとマウスをクリックしながら、まるで独り言のように続ける。 「うちとしては、国内単独取引を狙って交渉してたんだけど、相手がなかなか頷かなくてね。それがここにきて一気に進展。……周防さん、最近特に忙しそうだったのに、いつ営業かけてたんだろ」 長瀬さんが、どこかぼんやりと溜め息をついた。 「さすがですね……」 他にどう答えていいかわからずに、私は感嘆して吐息を漏らした。 すごいな、優さん。 やっぱりすごくカッコいい。 なぜだか誇らしい気分になって、私の頬の筋肉は緩んでしまう。 無意識に「ふふっ」と笑っていた自分に気付き、慌てて仕事に戻ろうとする。 メールの続きを綴ろうとしてキーボードに指を走らせたものの、横顔に刺さるような視線を感じる。 「……あの?」 憚
last updateLast Updated : 2025-06-26
Read more

第52話

その翌朝、海外営業部の臨時朝礼が行われ、昨日の優さんの商談が、無事成約に至ったことが正式に発表された。たくさんの部員たちが一瞬どよめき、そして「わあっ!」と割れるような拍手が湧き起こる。私も力いっぱい手を叩きながら、部長の隣に並ぶ優さんの姿を目に焼きつけた。彼は相変わらず落ち着き払っていて、穏やかな笑みを浮かべているけど、達成感に満ち溢れている様子が、私には手に取るようにわかった。朝礼が終わり、みんながそれぞれのデスクに戻っていく。長瀬さんは、いくつもの取引先に電話でアポイントを入れ、午前中早い時間から外出した。どうやら、新規取引を仕掛けるつもりらしい。『行ってらっしゃい』と見送った時の彼が、どこか緊張感を漂わせ、いつになく引きしまった表情をしていたから、優さんの商談成立に触発されたんだと思う。それは、長瀬さんだけじゃない。第一グループのみんなから、いつも以上の熱気が感じられる。優さんは朝礼が終わった後、上層部を交えた会議に出ている。グループ全員に共有されているスケジュールを見る限り、今日は分刻みで予定が入っていて、どうやらデスクで仕事をする姿を見る時間はなさそうだ。だけど……。私は、『非公開』になっている午後八時以降のスケジュールを見て、顔を綻ばせてしまう。今朝、出勤途中に、私は優さんからLINEをもらっていた。『今夜、会おう』短く素っ気ないお誘いだけど、一緒にいられると考えるだけで、私の胸は躍る。本当は、長きに亘り仕掛けてきたという、商談成立のお祝いがしたい。でもそれは、ただの部下でしかない私の役目ではない……。浮かれたせいで、自分の立場を再確認してしまう。私はわずかにしゅんと肩を落とし、すぐに気を取り直してネットを起動させた。長瀬さんが外出する前に、頼まれた調べ物がある。検索エンジンにいくつかのキーワードを入力すると、すぐに結果が表示された。それを上から順にクリックして、使えそうなページをプリントアウトしながら、情報収集を進める。とりあえず、これで十分だろうと判断できたところで、ネットを閉じようとした。だけど、マウスをクリックしかけて、指を止める。私はわずかに逡巡してから、検索バーに『周防玲子』と入力した。有名なインテリアデザイナーだというから、ネットでも情報を知ることができるかもしれない。今まで私は、玲子さんがどんな人なのか、知ろうとせずにいた。どんなに不仲
last updateLast Updated : 2025-06-26
Read more

第53話

私はコクッと喉を鳴らし、思い切ってマウスをクリックした。すると、予想以上に多くの検索結果がヒットした。リンクはどれも、インテリア雑誌の記事や、関わった仕事の紹介のようだ。人が寛ぐ安らぎの空間を、どんな風に創り出す人なんだろう。私は心を決めて、検索トップのサイトを開いてみた。どうやら玲子さんの個人ホームページのようで、これまでの仕事経歴も掲載されている。意を決して、先を読み進めてみた。大学卒業後、小さなデザイン会社に就職した玲子さんは、そこで初めてインテリアデザインの職に就いたそうだ。社内で、数々の案件を成功させた。その会社を退社して、現在はフリーのインテリアデザイナーとして活動している。独立当初は、雇われ時代に築いた人脈のつてで、個人住宅のインテリアに携わることが多かった。この二年ほどは、大手建築会社のプロジェクトに参画していて、高級コンセプトマンションなどを手掛けている。多分その建築会社が、瀬名さんの勤務先なんだろう。プライベートでは、二十六歳で結婚。都内のマンションで、商社マンの夫と二人暮らし。そこまで読んで、彼女がこれまでに手掛けた実績のページに移った。そして私は、一瞬にして目を奪われた。パソコンのモニターいっぱいに映し出される、素敵な部屋の画像。リビングにキッチン、ベッドルームを彩る、洗練された家具に壁紙。『アーバンライフ』という言葉がしっくりくる、スタイリッシュでお洒落なインテリアなのに、そのどれも、とても暖かく柔らかい。二人の家も玲子さんがデザインしたのかな。夫婦という関係は冷めきっていても、二人を包む空間は、今もとても暖かいのかもしれない――。正直、一度会った玲子さんの印象とかけ離れていて、戸惑った。彼女が優さんに向けた視線に柔らかさはどこにもなくて、彼との間にも暖かみは感じられなかった。こんな空間を生み出す人だとは、思えなかった。彼女のこれまでの仕事の実績を見ながら、動揺する自分に気付く。「っ……」見なきゃよかった。知ろうとしなきゃよかった。優さんが、どんな恋愛をして玲子さんと結婚したか。今がどうあれ、そこには確かな恋心があっただろうと思うと、切なくて胸が締めつけられた。息苦しさのあまり、思わずデスクに肘をつき、身体を前に屈めた時。「夏帆。予定なければ、一緒にランチ行かない?」背後から近付く声に、ギクッとした。慌てて顔を上げると、菊乃が笑顔で、私の肩
last updateLast Updated : 2025-06-26
Read more

第54話

エレベーターの中でどこに行こうかと話し合い、最近オープンしたという洋食屋に向かうことにした。菊乃の情報では、昔ながらのナポリタンと卵に包むタイプのオムライスが、レトロな感覚で人気らしい。「ねえ、夏帆。最近、なにかあった?」エレベーターから降りてエントランスに出ると、菊乃が身を寄せながらコソッと訊ねてきた。「え?」「長瀬さんとも、結構上手くやってるみたいだなあって思ってたんだけど。なんていうか……最近は夏帆も長瀬さんも、ちょっと様子がおかしいかなって」菊乃は唇を人差し指で押さえながら、目線を上に向けて言葉を探している。「あ、えっと……」私は一瞬ギクッとして、足元に目を伏せた。長瀬さんに告白されて断った後、仕事中もなんだかぎくしゃくしてしまったのを見抜かれてしまい、菊乃にはその話をしておいた。あの時は彼女も、『さすがに長瀬さんも気まずいか~』と納得して、以降静かに見守ってくれていた。事情を知っている菊乃が、今、また不審に思うなら、それは間違いなく私の変化のせいだ。私だけじゃなく長瀬さんも、というのが気になるけど、どちらにしても菊乃にも言えない。「んー。なんだろ。GW明け特有の、五月病ってやつかな……」ぎこちなく「はは」と笑って誤魔化すと、菊乃は納得いかなそうに口をへの字に曲げた。「五月病って。もうすぐ五月も終わるわよ」「うん。そうだね。夏に向けて気合入れないとな~」白々しく右の二の腕に力こぶを作る仕草を見せると、菊乃は眉を曇らせたままひょいと肩を竦めた。心配してくれているのに申し訳ないと思うけど、優さんとのことは口が裂けても言えない。私と優さんがしていることは、世間的に誰から見ても不道徳で、私が強引に押しかけたせいなのに、既婚者の彼の方は『浮気』と受け取られてしまう。理性では、彼への想いは断ち切らなきゃ、とわかっているのに、今夜も会えると思うだけで胸が弾む。私以上に、優さんにとって相当リスキーな関係。私はこの泥沼の深みに嵌ってしまっている。そんな自分に激しい自己嫌悪に陥るたび、私の脳裏には瀬名さんの言葉が幾度となく過る。私が、溺れさせることができたら。『優はきっと、解放される』。なにから?と問いかけた時、優さんは私にできることはない、と教えてくれなかったけれど、今となっては私の方が溺れてしまい、私自身が彼を解放してあげられずにいる。白昼のオフィスビル。昼時のエントランス
last updateLast Updated : 2025-06-26
Read more

第55話

「っ……」身体の芯でなにかがきゅっと疼くのを覚え、私は慌てて妄想を払おうとした。一度ブンッと頭を振り、気を取り直して顔をまっすぐ前に向ける。それと同時に、総合受付のカウンターが視界を掠めた。少し長めのボブヘアがよく似合う、スタイル抜群の美人が映り込み、ギクッとして足を止める。私の隣を歩いていた菊乃が、数歩先まで行って立ち止まり、「夏帆ー?」と振り返っている。このざわめきの中、その声が聞こえたとは思えない。彼女はきっと、私が不躾に向けた視線に気付いたのだろう。『あ』という形に口を開け、カツカツと高いヒールを打ち鳴らし、躊躇うことなく私の方に歩いてきた。「あなた、この間会ったわね。椎葉さん……だったかしら。優の部下の」行き交う人をものともせず、まっすぐこっちに向かってくる。私と彼女の距離が狭まり、視界の真ん中でその輪郭が大きくなるごとに、私の心拍は速度を速めていく。「覚えてる?」私の目の前で両足を揃えて止まると、玲子さんはサッと髪を掻き上げた。「……玲子さん」短い問いかけに硬い呼びかけで返し、私は深々と頭を下げた。無言で顔を上げると、菊乃がきょとんとして、私と玲子さんを交互に見遣っている。「夏帆。知り合い?」彼女が私にコソッと耳打ちするのを拾ったのか、玲子さんは唇に薄い笑みを浮かべた。「あなたも、椎葉さんと同じグループの人? 私、周防優の妻です」「えっ!? 周防さんの!?」菊乃は、ギョッとしたように、素っ頓狂な声をあげた。「は、初めまして! 小倉です」勢いよく頭を下げてから、再び私に探るような目を向けてくる。きっと、『どうして夏帆が周防さんの奥様と知り合いなの?』と、興味津々なんだろう。でも、この場で上手く説明できる自信がなく、私は菊乃の視線から逃げ、思い切って玲子さんに顔を向けた。「あの……周防さんに、ご用ですか?」微妙に伏し目がちに訊ねる。「そうなんだけど」と、玲子さんが肘を抱えて溜め息をつく。「会議中とかで。いつまでかかるかしら」その言葉から、彼女が待つつもりだと察したのだろう。菊乃が、私の肩をポンと叩いた。「夏帆。私一人で行くから、お相手して差し上げなよ」コソッと言われて、私は焦って彼女を振り返った。「え、菊乃。そんな……」呼び止めようとする私には目もくれず、彼女は玲子さんに軽く会釈をした。そして、正面玄関の方に、小走りで行ってしまう。「あ……ちょっ……!」「置
last updateLast Updated : 2025-06-26
Read more

第56話

途中、『この辺のレストラン、全然詳しくないんです』と、それだけは伝えることができた。玲子さんは『あら、そうなの?』と目を丸くしたけど、特に気にした様子もなく、手近なカフェで即決して店内に入った。通りに面したオープンテラス、庇の下のテーブル席に案内される。二人揃ってランチのパスタセットをオーダーすると、玲子さんの方から、世間話を振ってくれた。彼女は、第一印象が覆ってしまうほど、朗らかに会話を進める。でも、彼女に対して後ろ暗いことばかりの私は、こうして向かい合って座ってること自体、気が気じゃない。ミニサラダの後で、パスタが運ばれてきて、お互いフォークを持つ。ホカホカの湯気が立つパスタを食べ始めると、なんとなく会話がやんだ。このまま食事に集中すればいいのかもしれないけど、玲子さんと二人、この沈黙は息が詰まりそうだ。「あ、あの」気が急いたまま、話題を見つける前に呼びかけてしまい、玲子さんが目線を上げるのを見て焦った。私と彼女に共通の話題といったら、優さん以外に浮かんでこない。でも、運のいいことに、ついさっき見た、玲子さんが仕事で手がけたインテリアの写真を思い出せた。「あの。玲子さんのお仕事……インテリアの写真、拝見しました」思い切って切り出すと、玲子さんはピクリと眉を動かして反応する。「すごく暖かくて素敵で。憧れました」素直に告げると、彼女が嬉しそうに微笑む。「そう? ありがとう。私はこれまでの仕事に自信持ってるから、嬉しいわ」
last updateLast Updated : 2025-06-26
Read more

第57話

仕事の話題は、成功だったのかもしれない。玲子さんが機嫌よく返してくれたから、私はこの話題に縋って、その先を続けてしまった。「ご自宅のマンションも、玲子さんのデザインなんですか?」「……え?」玲子さんが、一瞬表情を曇らせた。それを見て、私はハッとして口を噤む。「あ……えっと。すみません。出過ぎた質問を……」ただの部下なのに、立ち入り過ぎた。でも、今さら撤回するのも不自然な気がして、恐縮しきって縮こまる。「ああ、いいのよ。自宅……そうなんだけどね」玲子さんはフォークを動かす手を止め、左手でぼんやりと頬杖をついた。「あれは、今までで最高の失敗作」私から目線を外して、どこか自嘲気味に呟く玲子さんに戸惑う。「失敗作、って……」彼女の言葉の意味を図って、私は声を尻すぼみにした。玲子さんは私から目を逸らしたまま、答えるか答えないかを逡巡している様子だったけれど。「ねえ、椎葉さん」目線をパスタのお皿に落とし、フォークを弄ぶように動かしながら、私に呼びかけた。「はい」「あなた、この辺のお店は詳しくないって言ってたわね。本社勤務は最近になってから?」さっき、私がお勧めのレストランに案内できなかったからこその質問だろう。「はい。四月に異動になりました。それまでは、地元の倉庫勤務で……」「優の部下になって間もないってことね。それじゃあ……あなたは知らないかしら」「……? なにを、ですか?」首を傾げて訊ねると、玲子さんがやっと私の方を向いた。やけにゆっくりフォークを置いてテーブルに肘をのせると、もったいぶるように、顔の前で両手の指を組み合わせる。「優が、結婚指輪をしていなかったこと」「っ……!」まったく予期していなかった質問に不意を衝かれ、私の手はビクッと震えてしまった。手から落ちたフォークがお皿にぶつかり、ガチャンと硬質な音を立てる。組んだ手の向こうから、私をジッと見据えている玲子さんの前で、動揺が隠しきれない。「で、でも。今は、周防さん……」「私と優はね」なにを言っていいかわからないまま、とっさに口を開いた私を、玲子さんは指を解きながら遮った。「家でもほとんど会話をしない。一緒の空間にいることも少ない。いわゆる『仮面夫婦』というヤツ」素っ気なく言い捨て、唇の端を歪ませるのを見て、私は無意識にゴクッと喉を鳴らした。「あの……知ってます。周防さんが、指輪を嵌めていなかったこと」背筋を伸ばし、
last updateLast Updated : 2025-06-26
Read more

第58話

黙る私に失望したように、玲子さんは短い息を吐く。「あの夜、不自然だな、と思ったのは、椎葉さん、あなただけじゃないわ。優があなたと一緒にいるところに出くわして、私も同じように感じた」「っ……」ドクン、と、心臓が沸き立つのがわかった。あの時……玲子さんと一緒にいた瀬名さんが、私と優さんの間にあったことを見抜いていたことを思い出す。『玲子に、教えてやろうかな』なんて意地悪なことを言われたけど、瀬名さんが教えたわけじゃなく、玲子さんは……。「聞いてもいいかしら」わざわざ、といった感じで前置きをする低い声に、私はビクッと身を震わせる。「椎葉さんって、本当に、優のただの部下?」私を見据える鋭い視線に、一気に追い詰められた気がした。玲子さんが、今私になにを告げようとしているか、その輪郭がくっきりと見えてきて、鼓動が嫌な速度で加速していく。息をのんだ後、一瞬呼吸のし方を忘れた。頭の中でも、血管が脈打つ音がする。激しい拍動を続ける心臓のおかげで、全身に血液が巡り、どこもかしこも熱くなる。「あ、当たり前です」なんとか返事をしたものの、第一声は喉に引っかかってしまった。それだけじゃなく、即答できなかったせいで、彼女が不信感を強めた気配が、空気の震動で伝わってくる。「……そう」玲子さんは、私を視線から解放して、フォークを手に取った。優雅な仕草で、くるくるとパスタを巻き取る。私は黙って彼女の手に目を伏せる。一点ばかりを見つめるうちに、視界の焦点がぼやけていくのを感じた。玲子さんはそれ以上ツッコんでは来ないけど、絶対に返事が失敗だったのはわかっている。彼女の質問に滲み出る強い疑惑に囚われ、私は凍りついたように動けない。湧き上がるマグマのように、心臓がドッドッと嫌な鼓動を刻む。どうしよう。私から、なにか言った方がいいんだろうか。
last updateLast Updated : 2025-06-26
Read more

第59話

でも、なにを言っても手遅れのような、さらに失敗を重ねそうな恐怖で、変な汗が背筋を伝った、その時。バタバタと急いたような足音が近付いてきて、玲子さんがフッと目を上げた。「玲子!」鋭く険しい声が耳に届き、ギクッと肩を強張らせる私の横で、足音が止まる。ハッとして大きく振り仰ぐと、優さんが玲子さんを厳しい表情で見下ろしていた。「あら、優。思ったより早かったわね」玲子さんは彼の剣幕に動じもせず、平然と言ってのけた。優さんは苛立ちを抑えるように、前髪を掻き上げる。「なに考えてるんだ。突然オフィスに訪ねてきて、椎葉さんを連れ出すなんて。非常識だと思わないのか」怒りを抑えきれない早口な声に、私は身を竦ませる。向かい側の玲子さんは、まったく真逆に落ち着き払った様子で、眉根を寄せて溜め息をついた。「ランチくらいいいじゃない。それに、あなたにもちゃんと伝言したでしょ? 『椎葉さんを借りていくから、会議が終わったら、通りのカフェに急いで来てね』って」「え? あの……?」私は、彼女の言葉に戸惑い、二人に交互に視線を向けた。だって、玲子さんが総合受付に伝言を残した時、このカフェに入ることは決まってなかったのに。視線で疑問をぶつけた私に、彼女がフッと目を細めた。「もしかして、最初から……」瞬時に胸を過った疑惑が、口を突いて出ていた。私をここに連れ出して、優さんを呼び出すのが目的だった……とか?瞳が揺れてしまったせいで、玲子さんは私がなにを疑ったか見透かしたんだろう。彼女は、綺麗な形の唇の端をわずかに上げて微笑んだ。「……っ」もう、全身が心臓になったみたいに、身体中至るところから脈動が聞こえてくる。だって、玲子さんが私を連れ出す理由、考えられるのはただ一つ。彼女は、私と優さんの『ただの上司と部下』とは言えない背徳の関係に、気付いてる。そして、それを白昼堂々暴きに来たんだ……。バクバクと激しい音を立てる心臓が苦しくて、私は胸元をぎゅっと握りしめた。どうしよう、と、隣に立つ優さんの横顔を、縋るように見つめてしまう。きっと優さんも、玲子さんの思惑は察しているはず。でも、表情こそ険しいものの、私のように焦った様子はない。「優にも、用はちゃんとあるのよ。急だけど、今夜から大阪出張が決まったの。一週間ほど留守にするから」取ってつけた言い方に、優さんも眉根を寄せる。「君らしくもない。そんなことを言うためだけに、
last updateLast Updated : 2025-06-26
Read more

第60話 制御不能な恋心

本社ビルまで、大通りを並んで歩く。玲子さんがなぜ突然私を訪ねてきたか。その理由が察せたから、さっきから嫌な鼓動が治まらない。背後から優さんの険しい横顔を窺いながら、竦み上がりそうだった。謝らなきゃ、と思うのに、謝ってしまったら、『玲子さんに知られてしまった』事実を、彼との間で確認し合うことになる。そうしたら、優さんはどんな決断を下すか……。私は、『もう終わりにしよう』と言われることを恐れていた。優さんに心を求めないと言ったのは私なのに、今、崖っぷちに追い込まれても、まだ彼への恋心に縋っている。結局私は、優さんに声をかけることもできずに、足元ばかり見ていた。「……夏帆」一歩前を歩いていた優さんが、まっすぐ前を向いたままポツリと私を呼んだ。「ごめんな」少し硬い謝罪にドキッとしてから、私はおずおずと顔を上げる。「どうして、優さんが謝るんですか?」怖々と訊ねる私の前で、彼は両足を揃えて立ち止まった。「玲子が、迷惑かけたろ?」「なんで。そうじゃなくて、私がっ……!」謝らなきゃいけないのは私の方なのに。逆に謝られて思わず声を荒らげてしまい、私はハッとして言葉をのみ込んだ。こんな事態になっても落ち着き払っている優さんとの間に、掴みどころのない温度差を感じる。「ご、ごめん、なさい。私……」動揺のあまり、つっかえながら謝った。「私、うまく誤魔化せなくて。もしかしたら……ううん、きっと、玲子さん……」はっきり言うのが怖くて声を尻すぼみにして、ぎゅっと唇を噛みしめる。私の頭上で、優さんが小さな吐息を漏らした。「君がどんなにうまく誤魔化せたとしても、結果に変わりはないよ」「え?」私は優さんを呆然と見上げた。彼は、大きく目を見開く私に、どこか困ったように微笑む。「玲子は勘付いたからこそ、君を探りに来たんだろうから」「そ、そんな……!」どうして?なんで?私は大混乱に陥り、半泣きになって顔を歪ませた。なのに。「構わない。お互い様だから」さらに続く彼の言葉に、ガツンと頭を殴られたような衝撃を受ける。「どういうこと……?」優さんが言う意味がわからない。私はパニック寸前になって、彼の方に一歩踏み込んだ。優さんのスーツの裾を、ギュッと握りしめてしまう。そんな私に、彼は表情を変えずに、小首を傾げた。「玲子には『恋人』がいる」「えっ……?」優さんの言葉がすっきり頭に入ってこなくて、私は戸惑いを隠せずに聞き返
last updateLast Updated : 2025-06-26
Read more
PREV
1
...
45678
...
10
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status