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All Chapters of ラブパッション: Chapter 21 - Chapter 30

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第21話

途方に暮れていると、再びオフィスのドアが開き、菊乃が出てきた。私に気付いて、「お疲れ~」と声をかけてくれる。「困った顔して、どうかした? そういえば、今、長瀬さんがソワソワした感じで戻ってきたけど」彼女はオフィスを振り返りながら、私の方に歩いてくる。そして、私の手元に目に留め、ピンときたようだ。「もしかして……早速、長瀬さんに誘われた?」ニヤニヤしながら覗き込まれ、私は横に目を逃がした。「映画かあ~。もらっちゃったってことは、夏帆、行くつもり?」「いや、その……」ツッコまれて、私は一瞬返事に窮した。それを、迷いと受け取ったのか、菊乃が意地悪に笑う。「夏帆、彼氏いるって言ってなかった? もしかして、可愛い顔して結構したたかなこと考えてる?」「え?」彼女がなにを言わんとしているかわからず、私は戸惑って聞き返した。「地元の彼氏もキープしておいて、東京でも彼を作る。要は、二股……」「なっ……! そんなこと考えてない! 人聞き悪いこと、言わないでっ」私はギョッとして、慌ててブンブンと首を横に振った。『キープ』なんて、私にはかなりショッキングな言葉。なのに、それを疑われたら堪らない!「長瀬さんには、後でちゃんと……」ムキになって弁解しようとすると。「なに、廊下で盛り上がってるの」ちょっと呆れたような、柔らかい声に遮られた。菊乃と同時に、声がした方向に顔を向ける。これから外出といった様子の周防さんが、こっちに歩いてくるのが見えて、私は勢いよく目を逸らした。「あ、周防さん! 聞いてくださいよ~」私の隣で、菊乃が周防さんに声をかける。「ん?」「夏帆、長瀬さんから映画に誘われたんですって!」「ちょっ……菊乃!?」いきなり周防さんにそんな報告をする菊乃を、私は焦って止めようとした。「長瀬から?」なのに周防さんが、目を丸くして、菊乃に聞き返してしまう。「あ、あのっ……」「夏帆、地元に彼氏いるのに、チケット受け取っちゃうとか。なかなかしたたかな悪女ですよね~」冷や汗を掻きながら言葉を挟んだ私に、彼女が意地悪に横目を流してくる。周防さんが目を丸くして「へえ」と呟くのを聞いて、私は声に詰まってしまった。「なるほど。それは、確かに『したたか』かも」クスッと笑いながら返され、私の胸がズキッと痛む。「あ、あの、ちが……」必死に説明しようとしたものの、上手く弁明できる言葉が見つからない。「まあ、あんまり
last updateLast Updated : 2025-06-23
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第22話

「え? 椎葉さん?」突然駆け込んだ私に驚いて、周防さんがボタンを押してドアを開けてくれた。「危ないな。どうしたの」周防さんが眉根を寄せて、私に注意する。私を乗せて、エレベーターのドアが閉まった。私はバクバクと打ち鳴る胸に手を置き、思い切ってグッと顎を上げた。「ち、違うんです。私、あの……」必死の形相の私に、周防さんが訝し気に眉間の皺を深める。彼の視線を浴びて、私はぎゅっと胸元を握りしめた。「わ、私。本当は、地元に彼なんかいないんです。長瀬さんのことも、とっさに断れなかっただけで……」なにから言っていいかわからないほど、混乱してる。なのに私は、周防さんに誤解されたくなくて、ドアに挟まれそうになってまで、飛び込んだ。泣きそうに顔を歪めながら、弁解しようとしている。どうして、そんなこと。私自身、自分の衝動的な行動に動揺して、上手く説明できない。「私、誰とでも、とか。本当に、そんな女じゃない。私……」もっとちゃんと伝えたいのに、声に詰まってしまう。周防さんは黙ったまま、やや硬い表情で私を見下ろしている。視線が降ってくる中、私はグスッと鼻を鳴らした。周防さんの顔を見るだけで、心拍が上がる。彼の前で平常心を保つのに、私はものすごいエネルギーを使ってる。それでもこんなに必死に訴えかけるのは、やっぱり、あの夜の人は周防さんかもしれないという疑念が、いつまでも消えないせいだ。それならいっそ、はっきりと聞き出してしまった方がいいのかもしれない――。私たち二人を乗せたエレベーターは、高層階と低層階の連結フロアまでノンストップで下降していた。この先、エントランスフロアまで、誰も乗ってこない。私はゴクッと唾を飲んで、カラカラに渇いた喉を少し湿らせてから、思い切って口を開いた。「す、周防さん。あの夜……」「そんな女だなんて思ってないから、安心して。長瀬は強引だし、断る隙もなかったんだろ?」意を決して切り出した途端、遮られた。「っ。周防さん、私」「椎葉さんのことを『悪女』だなんて思わないよ。でも、彼がいるっていうのが嘘なら、長瀬を断る必要もないんじゃないか?」思いも寄らない言葉に絶句して、私は俯いて唇を噛んだ。言いたいことを言わせてもらえない、もどかしさ。でも、夢中で言い募るしかできなかった自分が恥ずかしくて、喉まで出かかってのみ込んだ言葉は、もう口を突いて出てくれない。「……君は純粋だから」重
last updateLast Updated : 2025-06-23
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第23話 気になる人

長瀬さんのお誘いは、その日の終業後、映画の招待券を返して断った。部屋の引っ越し荷物の片付けを理由にして謝ると、長瀬さんはとても残念そうに、やや歪んだ笑みを浮かべた。『落ち着いた頃、また誘うよ』と言われて、私は返事に困って口ごもってしまった。長瀬さんには、『彼がいる』と言っても、断わる理由にならない。だから、なんて言えばいいか考えている間に、『お疲れ様』と肩を叩かれてしまった。なんだか胸がモヤモヤしたまま、迎えた週末。東京暮らしと、慣れない仕事。新しく始まることばかりで、想像以上に疲れていた。上京して初めて、一日のんびりゴロゴロして過ごした土曜日。窮屈に縮こまっていた羽を伸ばせたおかげで、心身ともに少し潤ったような気がした。そうして迎えた翌、日曜日。朝から春らしいいい天気で、部屋にこもって過ごすのがもったいないと思った。お昼ご飯を食べた後、出かけることにした。いつも通勤電車で素通りする駅に、大きなショッピングモールがあることは知っている。仕事帰りに寄り道する余裕はなく、休日を使ってゆっくり行ってみたいな、と思っていた。そういえば、読みたい本があったんだ。ショッピングモールに本屋さんがあったら、探してみようかな。それで、カフェでお茶を飲みながら読書する。日が暮れる前に、ゆっくり夕食の買い物をして帰る。忙しない都会だからこそ、暇を持て余してのんびり過ごす。我ながら悪くないと思うスケジュールに、私の気分も上向いた。駅から五分ほど歩いて、ショッピングモールに着いた。結構広い敷地内は、カップルや家族連れで賑わっている。私は、入ってすぐにインフォメーションでフロアガイドをもらい、本屋の場所をチェックした。フロアマップを見ながら歩いても何度か道を間違え、やっとのことで目的の本屋に辿り着く。地元で一番大きい本屋でも、比較にならないほどの規模に驚く。文庫だけでいくつもの棚があって、ちょっと眺めただけじゃ見つからない。『話題の新刊』という表示を見つけて、そっちの棚に向かってみた。平積みされた本には、賑やかなポップが施されている。なんとなくポップを読んだだけで、どの本にも興味が湧いてくる。いろいろ手に取ってページを捲ったりしながら、私は目当てにしていた本を見つけた。それ以外にも、ポップで気になった本を一冊手に取り、レジに向かおうとした時。「……ふ~ん。こういうの読むんだ?」背後から聞こえた
last updateLast Updated : 2025-06-23
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第24話

「今、話題のミステリーだね。椎葉さんがミステリー読むなんて思わなかった。意外」私の手元を覗き込むように身を屈めたのは、薄手のニットにスラックスという、いつものスーツと比べてだいぶカジュアルな格好の周防さんだった。「す……周防さん!?」名を呼んだ声は、激しくひっくり返った。まったく予期していなかった遭遇で、私の胸はバクバクと騒ぎ出してしまう。「ど、どうしたんですか? こんなとこで」速まる鼓動を意識して胸に手を置き、周防さんを見上げた。サラサラの髪は、特にセットしていないのか、洗いざらしのような自然なスタイル。二十九歳という実年齢より若く見えて、あの時私の隣で眠っていた『彼』の面影と重なってしまう。私は周防さんを正視できず、落ち着かずにソワソワした。「俺の家、この近くでね。仕事の参考にできる本探しに、散歩がてら来たんだ」周防さんの手には、その言葉通り、貿易経済を連想させるタイトルの本が二冊ある。「周防さん、さすがです。日曜日も、仕事のこと考えるなんて」素直に尊敬の眼差しを向ける私に、彼は「はは」と苦笑した。「すごかないよ。このくらい、ビジネスマンとしては普通。椎葉さんは、この辺に住んでるの?」周防さんからの質問には、「二つ先の駅です」と答える。彼は「ふむ」と顎を撫でて頷いた。「いいとこ住んでるね。住宅街にしては、比較的物価も安いし」「そうなんですか?」マンションから一番近いスーパーで買い物をするたびに、野菜やら肉やら、びっくりするほど高いと思ってたのに。まだまだ、東京の感覚には馴染めない。私はそんな自分に、ひょいと肩を竦めた。「……で? 週末に一人で買い物って。長瀬の誘い、本当に断ったの?」周防さんは探るように言って、レジに向かっていく。その質問にドキッとしながら、私も後を追った。「がっかりさせたみたいで、すごく心苦しかったです」断った時の長瀬さんを思い出すと、やっぱり心が痛むけれど。「ははっ。大丈夫。アイツ、よくも悪くもめげない男だから。またすぐに、別のとこに誘ってくるよ」「そ、それも困るんですけど」まさに、次のお誘いを宣言されてしまった。私はそれを思い出して、焦って返した。レジ待ちの列に並んでも、周防さんは肩を揺らして笑っている。「それなら、早いとこ他の誰かと恋をすることだね」軽い口調でからかい、肩越しに見下ろしてくる周防さんにドキッとして、私は慌ててそっぽを向いた
last updateLast Updated : 2025-06-23
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第25話

ショッピングモール内でセルフ形式のカフェを見つけて中に入ると、周防さんはホットのブレンドコーヒー、私はキャラメルマッキアートを注文した。二つのカップを載せたトレーを、周防さんが持ってくれた。二人で席を探して店内に進んでいく。オープンテラスに空いているテーブルを見つけて、私たちは向かい合って座った。周りはカップルばかりだ。なのに、彼氏と一緒の女性が、周防さんを気にしてこちらをチラチラ見ている。その目はどこかポーッとしていて、『カッコいい~……』と見惚れているのがわかる。周防さんと向かい合って座る私は、恋人と思われるのかな。ついそんなことを考えたら、ドキドキしてきた。恋人には見えなくても、私たちがただの上司と部下で、彼が既婚者ということは、誰も見抜けないだろう。だって、相変わらず、周防さんの左手の薬指に結婚指輪はない。結婚してすぐの頃から不仲だって聞いた。なのに今でも結婚生活を続けているのは、どうしてだろう――。周防さんという一人の男の人のことを、知りたいと思う自分を自覚した時から、私はことあるごとに心の中で探ってしまう。私は、彼に気付かれないように溜め息をついて、自分のカップを手に取った。視線を感じて目を上げると、周防さんがコーヒーを飲みながら、私の手元を凝視している。「甘すぎて、かえって喉が渇きそうだな」コーヒーの上の生クリームとキャラメルソース。飲み物というより完全にデザートの私のカップを見て、周防さんは眉根を寄せて苦笑いした。私は彼の言葉は気にせず、プラスチックのスプーンで、キャラメルソースがかかったクリームを掬った。「疲れてる時は甘いものが一番です」「やっぱり疲れてるんだ?」頬杖をついて斜めの角度から見上げられて、不覚にもドキッとしてしまう。そんな心臓の反応を誤魔化そうと目を逸らし、私はスプーンをパクッと咥えた。「そうじゃなくても、甘いもの好きです。周防さんは嫌いですか」いや、と短い声が返ってくる。「そんなに食べないけど、別に嫌いじゃない。でも、それ……。生クリームにキャラメルって、どんだけ甘いの」周防さんはきっと、ジャリジャリするほど砂糖がどっさり入ったコーヒーの味を想像してるんだろう。思考回路が透けて見えるほどわかりやすい彼の表情に、私は思わずふふっと微笑んだ。「でも、このクリーム、甘さ控えめだし。それに、コーヒーがちょっと濃いから、いい感じに中和されて、
last updateLast Updated : 2025-06-23
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第26話

「椎葉さん? 食べないの?」心の中で葛藤して黙る私を、わざわざ覗き込んでくる周防さんは、とても意地悪だと思う。だって、先にやらかしたのは私だけど、周防さんが一瞬怯んだのは、間接キスになることを考えたからのはず。だからこれは、絶対確信犯だ。固まって動けない私を上目遣いに見つめて、反応を探ってる。周防さんが、口元を手で隠してククッと笑った。その時。「見~ちゃった。こんな人目につくとこで、公然と浮気していいのか、優? 玲子(れいこ)に言いつけてやろうか」楽し気にからかう声が、頭上から降ってくる。『ユタカ』。それが周防さんのファーストネームだと気付き、私は慌てて振り返った。周防さんは目線だけ上げて声の主を確認して、眉間に皺を寄せる。「なんでこんなとこにいるんだ、瀬名(せな)」「休日のショッピングモールに俺がいちゃ、おかしいか?」「おかしいね。健全すぎて」わかりやすく刺々しい周防さんに、私は困惑した。言葉を挟めないまま、二人に交互に目を遣ってしまう。すると、『瀬名』と呼ばれた男の人が私の視線に気付き、ニコッと笑いかけてきた。「こんにちは」「こ、こんにちは。あの……」挨拶されたのを機に、私はビシッと背筋を伸ばした。そして、「周防さんの、お友達ですか」恐る恐る訊ねてみる。視界の端っこで、周防さんがピクッと眉尻を上げたのがわかる。「ふふん。そう、オトモダチ。って……うわ~……。よく見たらすごい可愛い子じゃん」周防さんの『オトモダチ』の瀬名さんは、わざわざ腰を屈めて、私を覗き込んでくる。私は、反射的に背を仰け反らせて逃げた。それを見て、周防さんがガタッと音を立てて腰を浮かす。「瀬名、よせ」「いいじゃん、ちょっとくらい。優、どこで捕まえたの」「彼女は職場の部下だよ。買い物中に偶然会ったから、休憩がてら一緒にお茶飲んでただけで」周防さんは、どこか苛立ちを抑えるような調子で答える。「偶然会った職場の部下に、普通の顔して間接キス仕掛けるのか、お前は。……って。あれ?」瀬名さんは周防さんを気にせず私を凝視して、ん?と首を傾げる。「なんか彼女、どこかで……」不躾ともいえる視線で観察されて、私は居心地悪い気分で首を縮めた。「だから、よせって」周防さんがしっかりと立ち上がり、私と瀬名さんの間に割って入ってくれた。「隠すな、って。ねえ、君。本当にただの部下? それなら、俺に見覚えあるはずないんだけど…
last updateLast Updated : 2025-06-23
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第27話

週が明けて、月曜日。新しい一週間が始まった。今日からは、広いオフィスで周防さんの隣のデスクに着いて、実際の取引の進め方をOJTで教わることになっている。海外の取引先や船会社、運送会社との英語のメール対応。互いにオフィスアワーで商談可能な先とは、電話でのやり取りもある。周防さんの英語はネイティブ並みに流暢で、私は隣で聞き惚れてしまった。補佐という業務上、私が一番密に接する銀行担当者にも紹介してもらい、名刺交換と挨拶を済ませた。私が一つの仕事に取り組む横で、周防さんはいくつもの取引を同時進行している。アイテムの選別や価格交渉をして、社内稟議にかける手続きをする。商談成立となったら、輸送時のフレイトコスト、保険負担区分を詰めて、契約書の準備。契約締結後には、銀行とのやり取りが本格化して、そこでやっと私の出番。他の事務仕事も、私は、まだまだ一人ですべてをこなすことはできないけれど、早く役に立てるように頑張らなきゃ、と気を引きしめた。隣で業務を進める周防さんが、まるで神様みたいにすごいから、私の目標も自然と高くなる。そして、その週の金曜日、私は課長のデスクに呼ばれた。予定通り二週間で周防さんからの実務指導を終え、来週から長瀬さんの補佐に就くよう、指示を受ける。課長に頭を下げてから自分のデスクに戻る途中、長瀬さんに、「よろしく」と笑顔で声をかけられた。「あ、はい。よろしくお願いします」とっさにそう答えたものの、周防さんからの指導が終わるのは残念で、彼のデスクに視線を流してしまう。「夏帆ちゃん?」探るように名を呼ばれて、私はハッと我に返った。長瀬さんが眉根を寄せて、どこかじっとりした目で私を見つめている。「来週からは、俺のサポート頼むよ」長瀬さんが口をへの字に曲げて、私の額を指で弾く。「いたっ」思わず顔をしかめると、周りで菊乃や笹谷君が吹き出して笑っていた。他のデスクの先輩たちにも、笑いは伝染していく。明るい声に包まれ、私も「はは」とぎこちない笑みを浮かべた。
last updateLast Updated : 2025-06-23
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第28話

その夜、部長や課長も参加して、第一グループ全体で、私の歓迎会をしてくれた。『主賓』の私は、一次会では部長と課長の間に挟まれた。二次会でも酔って上機嫌の係長に捕まって、菊乃たちとテーブルが離れてしまった。途中、見かねた様子で長瀬さんが声をかけてくれたけど、呂律の怪しい係長に手で追い払われ、顔を引き攣らせながらすごすごと退散していった。そんな状況のせいか、私と係長の周りから徐々に人が離れていく。係長はかなり酔っていて、何度も同じ話をループしている。ひたすら愛想笑いで、相槌を打つしかない。時折グッと顔を近付けて、「なあ、椎葉さん。そう思わないか?」なんて訊ねてこられるから、そのたびに背を仰け反らせて逃げるのが精いっぱい。私は、なんとなく頬杖をついて、菊乃たちがいるテーブルに目を遣った。あっちは若者ばかり。お酒も入って、会話が盛り上がっている様子が伝わってくる。周防さんは、出掛けでトラブルがあったとかで、遅くなるとを聞いていた。もう二次会。今日は来れないかな、と思ったら、隣の係長を気にせず、ついつい溜め息をついてしまった。すると、それを耳聡く拾った係長が、赤ら顔を歪めた。「なんだあ? 椎葉さん。人と話をしていて溜め息とは失礼だな」係長の呂律はすでに崩壊していて、さっきからしゃっくりが止まらない。おかげですごく聞き取り辛いけど、機嫌を損ねてしまったことに焦る。「す、すみません! ちょっと私も飲みすぎたので、深呼吸しただけで」慌ててそう誤魔化すと、係長は、ほ、と口を丸くした。「それはいけない。気分は悪くないか?」心配気に眉をひそめて、私の背中を摩り始める。「ひっ……」一瞬にしてゾッとして、短い悲鳴を漏らしながら、反射的に身を捩った。「あの、大丈夫ですから。本当に」完全に腰を引かせて、その手から逃げようとする。けれど係長は嫌らしくニヤニヤと笑う。「いいからいいから、遠慮するな。可愛い部下のためだ。膝を貸してやるから、少し休みなさい」酔いですっかり赤くなって、むくんだ顔。ハの字に歪んだ眉。オフィスでは気にしたことがなく、普段どんな人か知らないけれど、お酒に酔った係長にはひたすら嫌悪感しかない。肩に腕を回されて全身にゾワッと鳥肌が立ち、身体が強張った時。「西尾係長。向こうで課長が、日本酒を一緒に飲もうって仰ってますよ」柔らかい声が頭上から降ってきた。だけど、口調にまったくそぐなわい強
last updateLast Updated : 2025-06-23
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第29話 恋する覚悟

歓迎会は二次会でお開きになった。金曜日で、明日の心配をしなくていいせいか、若手の先輩たちが、三次会に行こうと元気に言い出した。菊乃と笹谷君も、「今夜はオールだ!」と、意気揚々とカラオケに繰り出していく。「ほら、夏帆、行くよ!」菊乃に手招きされて、私もみんなと一緒の方向に足を向けた。でも、周防さんがみんなから離れて駅の方向に歩いていくのを見つけて、足を止める。一瞬逡巡して、思い切ってその後を追いかけた。先を行く周防さんは、横断歩道を渡って通りの向こう側に辿り着いたところ。歩行者信号が点滅するのを見て、私は一気に走り出した。そして、なんとか信号が変わる前に渡り終え……。「周防、さんっ……!!」人混みに見え隠れする背中を見失ってしまいそうで、私は身体を折って声を振り絞った。私の声に気付き、周防さんは立ち止まった。ゆっくりと、振り返ってくれる。「なんだ……椎葉さん?」他の通行人の邪魔にならないよう、歩道の脇に寄って私を見ている。私はもう一度ダッと駆け出して、彼の前でピタリと足を止めた。「カラオケ、行かなかったのか?」あの後、周防さんは係長に飲まされていた。やっぱり酔っているのか、ほんの少し頬が赤い。優しい笑みを湛えた目元に、いつもより強い大人の男の色気が匂い立っている。私は、ドキッと跳ねる胸元を、無意識にぎゅっと握りしめた。心臓が騒ぎ出すのを必死に抑え、一度唾を飲んでから、勢いよく頭を下げる。「さっき、ありがとうございました」周防さんが、「ああ」と短い相槌を打つ。「西尾係長、普段はあんな人じゃないんだけど……。今日は飲みすぎたのかな。怖かったろ?」ゆっくり顔を上げると、彼は憂いを帯びた瞳を私に向けている。「ごめんな、もっと早く助けてやれなくて」申し訳なさそうに目尻を下げる周防さんに、私は強く首を横に振ってみせた。「大丈夫です。私もお酒入ってるし、もしかしたら明日になったら忘れてるかも。だから、気にしないようにします」ちょっとおどけてぎこちなく笑うと、周防さんは目力を解かずに、私をジッと見つめてくる。「あ、あの……?」「明日になったら、忘れてる?」私が言ったことを、自分の口で繰り返し、訊ねてくる。「大丈夫? 気にしない? 怖くて声も出ないほど、顔、強張らせてたくせに。君はどうして強がるんだ?」私が軽い調子で言ったせいで、気分を害してしまったのか。周防さんは、低い声で早口に言い
last updateLast Updated : 2025-06-23
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第30話

「す、周防さん……?」厳しい口調に気圧されて、私は怯みながら呼びかけた。周防さんはきゅっと唇を噛み、私から顔を背けてしまう。「君は最初から、危なっかしくて放っておけない。……椎葉さん、頼むから」絞り出すような震える声に、胸の鼓動が一瞬狂うのを感じた瞬間――。彼は私の肩をグッと掴んで、力いっぱい引き寄せた。「きゃっ……!」突然の強引な行動に驚き、私はとっさに小さな悲鳴をあげた。けれど、周防さんの胸に顔が埋まり、くぐもってしまう。「っ……」抱きしめられている、とわかった。どうしてこんなことになっているのか、全然頭が働いてくれず、考えられない。周防さんが私の耳元で、「ほら、また」と、掠れた声で呟いた。「もがいて逃げなきゃダメだろ。……それとも君は、上司の俺に抵抗できず、されるがままでいるのか?」小さく動く唇と微かな吐息が、私の耳を掠める。その感触に、寒気にも似たゾクッとした痺れが背筋を駆け抜けた。でも、さっき係長に背を摩られた時とは、全然違う。今のそれは、もっと身体の奥深くでなにかが疼いて、全身から力が抜けてしまうような、甘く危険な官能に近い。今、身体を貫く痺れを自覚して、私の鼓動はドキドキと強く激しく高鳴っていく。「す、周防さ……」胸が苦しくて、私は彼の腕の中でわずかにもがいた。そうして、なんとか顔を上げることに成功する。私を見下ろしていた周防さんと、宙で目が合った。その途端、心臓がドクッと沸き立つような音を立てる。「あ……」いつもの穏やかな周防さんじゃない。ゾクッとくる鋭く厳しい光を秘めた瞳で、私をまっすぐに射貫いている。今の彼は、優しい上司でも、誰かの夫、でもない。一人の男だ。私は、まるで魅入られてしまったように、彼から目を離せない。
last updateLast Updated : 2025-06-23
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